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「自衛権(個別的・集団的自衛権)」とはそもそも何なのか

憲法改正を積極的にアナウンスし続ける自民党のせいで、平和主義の基本原理や憲法9条を批判的に論じる人が絶えません。

憲法9条は「自衛」のための戦力の保持やその行使、「自衛のための戦争」すらも否定した規定ですが、「軍事力でしか国を守れない」と固く信じている人たちにはそれが「平和ボケ」した「お花畑的発想」に基づく条文のように見えるらしく、「自衛のための軍事力は必要だ!」とか「自衛のための戦争も悪だというのか!」などと批判しているわけです。

しかし、そもそも「自衛権」なるものがいったい何なのか、という根本的なところを理解していない人も多いような気がします。

では、そもそも「自衛権」とは何なのか。「自衛権」なる概念の目的はどこにあるのか、その根源的な部分について検討してみることにいたしましょう。

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「自衛権」とは

この点、自衛権は一般的に「外国からの窮迫または現実の違法な侵害に対して、自国を防衛するために必要な一定の実力を行使する権利」などと説明されますが(※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法」岩波書店59頁)、その自衛権は個別的自衛権と集団的自衛権の二つがあると理解されています。

個別的自衛権とは、「急迫不正の侵害を受けたときに、自衛の行動をとる権利」などと説明される権利で、独立国であれば国家として当然に認められる権利として理解されているもの。

一方、集団的自衛権は「他国との取り決めで、他国への攻撃も自国への攻撃とみなして協同して防衛行動をとる権利(高橋和之著「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材308頁)」とか「他国に対する武力攻撃を、自国の実態的権利が侵されてなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利(前掲芦部書60頁)」などと説明されますが、平たく言えば自国が直接侵害を受けていない場合に他国を「他衛」することを目的とした権利のことを言います。

こうした個別的自衛権や集団的自衛権を含む概念が「自衛権」なのですが、ではその「自衛権」とはそもそも何なのでしょうか。

「国家の自衛権」の基礎にあるのは「個人の正当防衛権」

この点、結論から言えば「自衛権」とは、「個人の正当防衛権」を基礎にした、国家に国民の命を守らせるための権利と言えます。

なぜなら、人は自分が本来的に有している権限を社会契約によって移譲することで国家を形成しますが、その委譲する権限の中に国民の命を守らせるための「個人の正当防衛権」も含まれると考えられるからです。

人は複数が寄り集まって社会を形成して生きていきますが、その社会を形成する際に互いに交わす契約がいわゆる「社会契約」であり、その社会契約によって人々が本来的に持っている権力を委譲することで形成されるのが国民国家と呼ばれる国家概念です。

こうして形成される国民国家は、社会契約が結ばれる際に移譲を受けた権力を使って立法府・行政府・司法府を組織することで、その移譲を受けた権力(いわゆる三権)を国民に代わって行使しますから、その移譲を受けた権力を行使する目的は、社会契約を結んだ国民の生命を守るところにあります。

つまり人は、自分の生命を国家に守らせるために、互いが社会契約を結んで国家を形成するわけです。

ところで、国家の概念をこのように社会契約まで遡って考えた場合、その社会契約によって形成される国民国家が国民の命を守るための「正当防衛権」を持っていることが分かります。

なぜなら、今述べたように、国家は国民の命を守るために形成されるものだからです。

人が他者から危害を加えられるような危険に遭遇した場合、その危害を加えられようとしている人は自分の命を守るために「自衛」しようとします。いわゆる「正当防衛」と呼ばれる行為です。

たとえば、誰かがナイフを振りかざして襲ってきたなら、その襲ってくる誰かに対して素手なり木の棒なり刃物なりを使って自分の身を護ろうとするでしょう。これが「個人の正当防衛権」です。

「個人の正当防衛権」は武力を用いることもありますが、その武力はもちろん否定されません。自己の命を守るための「正当防衛」にあたるからです。

そうであれば、社会契約によって形成される国家においても、その国民の命を守るために「正当防衛」することが認められなければなりません。国家が「正当防衛」によって国民の命を守ることができないというのであれば、国民が社会契約によって国家を形成した意味が失われてしまうからです。

つまり、人が社会契約を結ぶ際に委譲する権力の中に、必然的に「個人の正当防衛権」なる権利含まれていて、その「個人の正当防衛権」が国家に移譲されることで「国家の正当防衛権」となり、その「国家の正当防衛権」によって国家が国民の命を守るために行使する権利が「国家の自衛権」となるわけです。

国家は、国民が社会契約を結ぶ際に国民から「個人の正当防衛権」の委譲を受けることによって「国会の正当防衛権」を持つことになりますから、その「国家の正当防衛権」を「自衛権」として行使することによって国民の命を国外勢力の攻撃から守らなければなりません。それが「社会契約」の中の「契約」に必然的に内在されると考えられるからです。

ですから、国家の「自衛権」なるものの根源には、人が本来的に持っている「個人の正当防衛権」があると考えられるわけです。

すなわち、「自衛権」をその本質的な部分までさかのぼって考えれば、それは「個人の正当防衛権」を基礎にしていると言えるので、「国家の自衛権」の目的は、国民の生命を国家に守らせるための権利と言い換えることができるのです。

国連憲章がすべての加盟国に「自衛権」を認めているのは、国際的な合意が「人が自由を守るための権能」を否定することができないから

このように、国家の「自衛権」なるものは、その本質的な部分を突き詰めて考えれば、国民個人が本来的に持っている「個人の正当防衛権」にその根源を見出すことができます。

そうすると、社会契約によって国民国家が誕生すれば、その時点ですでにその国家は”外形的”には「自衛権」を当然に備えていると理解することが可能です。

国民国家は、根源的にはその国家に帰属する国民の命を守らせるために形成されますので、国家がその帰属する国民が持つ「正当防衛権」に基づいて国家を守るために「自衛」する「権利」を行使することも当然に認められる必要があるからです。

このように考えれば、国民国家を形成するという社会契約自体に「自衛権」も(一応は)含まれていると考えることも可能なので、独立国家であれば当然に「自衛権」を備えているとの帰結も導かれることになるでしょう。

こうした考え方は、国連憲章にも反映されています。具体的には国連憲章の第51条がそれです。

国連憲章第51条

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

※出典:国連憲章テキスト | 国連広報センターを基に作成

国連憲章の第51条はこのように国連加盟国のすべての国に個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も含めた「自衛権」の行使を認めていますが、こうした規定があるのも、独立国であれば当然に「自衛権」が備えられていると考えられているからです。

先ほど説明したように、国家の「自衛権」なるものは、根源的にはその国家を社会契約によって形成する国民が本来的に持っている「個人の正当防衛権」に由来しますので、国家の「自衛権」を国連憲章が否定すれば、国連憲章が人が本来的に有している「個人の正当防衛権」を否定することになってしまいます。

そのため国連憲章は、この第51条ですべての国連加盟国に個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も含めたすべての「自衛権」の行使を「害するものではない」として認めているわけです。

人が自分の生命を守ることは人類普遍の原理であって、それを国際的な国家間の合意で否定することはできないので、この国連憲章第51条に「害するものではない」と規定することで「自衛権」を確認する規定を置いているのです。

もっとも、ここで誤解してならないのは、国連憲章が加盟国に「自衛権を与えた」わけではないという点です。

国連加盟国に「自衛権」の行使が許されるのは、この国連憲章第51条が法的根拠になりますが、それはその「自衛権」が国連憲章第51条によってはじめて創造されるからではありません。

先ほどから説明しているように、国家の「自衛権」は人間が本来的に持っている「個人の正当防衛権」にその根源が求められるので、独立国であれば当然に「自衛権」は備えられていると理解できます。

その独立国であれば当然に持っている「自衛権」を国連憲章が否定することはできないので、国連憲章第51条は「害するものではない」と規定することで「自衛権」を認める条文を置いているだけなのです。

自国を守るための「自衛権」なる概念は、その根源は「個人の正当防衛権」に求められるのですから、国連に加盟していようといまいと、すべての独立国に本来的に備わっていると理解できるのであって、国連憲章が51条の規定が加盟国に「自衛権」を与えているわけではないのです。

「自衛権」や「国連憲章第51条(の規定)」を考える場合は、この点を誤解しないようにする必要がありますので注意してください。

日本国憲法の解釈論で「集団的自衛権はあるが行使できない」と説明されている理由

ところで、安倍政権が2014年にそれまでの憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を容認したのは記憶に新しいところですが、この憲法解釈の変更は自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」であると説明してきたこれまでの政府のロジックと矛盾しますので、憲法論的には明らかに違法です(※詳細は→集団的自衛権が日本国憲法で違憲と解釈されている理由)。

ですから、現在の自民党政権が集団的自衛権の行使を容認しようと、日本国憲法の下で集団的自衛権を行使することは「違法(違憲)」と考えられるわけですが、歴代の政府は集団的自衛権の行使について、細かな変遷はあるものの概ね次のような答弁を基本として説明してきました。

政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであつて許されないとの立場にたつているが、これは次のような考え方に基づくものである。 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が…平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、 また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、…国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい 解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、 わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。

※出典:参議院決算委員会提出資料 内閣法制局 昭和47年10月14日 集団的自衛権と憲法との関係 参・決委(昭47・9・14)における水口議員要求の資料|【資 料】衆議院及び参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」に提出された政府統一見解等63頁より引用※参考→https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000197290

長いので分かりづらいかもしれませんが、要約すれば歴代の政府は集団的自衛権について「集団的自衛権は国際法上では日本も有していると解釈されるが、日本国においては憲法のレベルではそれを実際に行使することはできない」と説明してきたわけです(※参考→鈴木尊紘著「憲法第 9 条と集団的自衛権―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る―」)。

こうした回りくどい政府の言いまわしが集団的自衛権の理解を分かりにくくしているのですが、政府がこうした回りくどい説明をするのには理由があります。

それは、前述したように、「自衛権」は本来的にすべての独立国に備えられていると考えられているからです。

先ほど説明したように、国際法的には国家の「自衛権」なる概念は独立国であれば当然に備えられていると理解されていますので、日本も独立国として存在している以上、その「自衛権」は当然に備えられていると考えることが可能です。

そのため、原理的には日本も個別的自衛権だけではなく集団的自衛権も含めた「自衛権」を有していると考えることができるわけですが、だからと言って必ずしも日本という国家がその「自衛権」を行使できるとは限りません。

なぜなら、国家権力の権能は主権者である国民が制定する憲法によって「歯止めを掛ける」ことができるからです。

(1)憲法は国家権力の権力行使に歯止めを掛けるためのもの

そもそも憲法は「国家権力の権力行使に歯止めを掛けるためのもの」です。

なぜそう言えるか。それは社会契約によって形成される国民国家の権力が国民から移譲を受けた権限を濫用して国民の自由や権利を制限する方向に作用する危険があるからです。

先ほど説明したように、人は自分の生命を守らせるために複数の人が集まって社会を形成しますが、その社会を形成する社会契約を結ぶ際に、国家に対して個人が本来的に持っている権限を委譲します。

そしてその権限の委譲を受けた国家権力は、立法府の権限によって法律を制定し、その法律の支配力によって国民の権利を奪い、また国民に義務を課すことができますが、ひとたび国家権力が暴走すれば法律を制定することでいくらでも国民の自由や権利を侵すことができてしまいます。

そのため、社会契約によって国家に権限を委譲しようとする個人は、その社会契約を結ぶ際に、国家権力の暴走を防ぐため、あらかじめ国家権力に「歯止め」をかけておこうと考えます。その手段が「憲法」です。

国民が国家権力に権限を移譲する際に「この規定に反する法律は作っちゃだめですよ」「この規定に違反しない範囲でだけ法律を作る権限を移譲しますよ」という決まりを憲法という法典に記録し、その憲法に記録(規定)された制限の範囲内に限って、国民が保有する権限を国家権力に移譲するわけです。

このような思想が憲法の根底にあるからこそ、憲法は「国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのもの」と言えるわけです。

(2)国家に「自衛する権能」を委譲するかしないか決めるのは国民

このように、国家を形成する国民は社会契約を結ぶ際に「憲法」に規定した範囲でだけその本来的に持つ権限を委譲しますから、国家に「自衛する権能」を委譲するか否か、あるいは「自衛する権能を行使する権限」を委譲するか否かも国民が社会契約で決定することになります。

先ほど説明したように、国際法的にはすべての独立国に「自衛権」は認められると解されますが、国民が社会契約を結ぶ際に「自衛する権能は委譲しない」とか「自衛する権能は委譲してもその行使は許さない」と判断すれば、その社会契約によって形成する国家が「自衛権を行使」することを制限できるのです。

先ほど説明したように、「憲法」は国家権力の権力行使に歯止めを掛けるためのものに他なりませんので、社会契約によって日本国が形成される際に国民が「自衛権は委譲しない」とか「自衛権を行使する権能までは委譲しない」と判断することで、独立国に当然に認められる「自衛権」に歯止めを掛けていたなら、日本国という国家は「自衛権」を行使できないことになるでしょう。

では、日本国憲法にはどのように規定されているのでしょうか。

この点、日本国憲法では「自衛権」の移譲を受けていないとして憲法上の「自衛権そのもの」を否定する解釈もできないわけではありませんが、憲法学の通説的な見解は憲法9条について個別的自衛権まで放棄したものではないという立場をとっていて、歴代の政府も「自衛権」を肯定して自衛隊を運用していますし、憲法草案を議論した帝国議会で吉田首相も「直接には自衛権を否定はして居りませぬ」と答弁していますので(※参考→憲法9条の戦争放棄を吉田茂首相はどう帝国議会に説明したのか)、日本国憲法の下では「自衛権」自体は社会契約によって国家に移譲されたと考えるのが妥当と言えます。

もっとも、「自衛権」の移譲があったとしても、その移譲された「自衛権」の中に「集団的自衛権」も含まれるか否かは別の話です。

社会契約によって国民からその移譲された自衛権は「個別的自衛権だけ」との解釈も成り立ちますし、仮に「集団的自衛権も委譲された」と解釈するとしても、その移譲された集団的自衛権の「行使」に憲法で歯止めを掛けたのであれば、「集団的自衛権はあるけど行使はできない」という解釈も成り立つからです。

この点、先ほど紹介した政府の見解(昭和47年10月14日の国会答弁資料)は、「集団的自衛権は国際法上では日本も有していると解釈されるが、日本国においては憲法のレベルではそれを実際に行使することはできない」と説明していますので、後者の解釈を採っているのがわかります。

つまり、歴代の政府は少なくとも2014年に憲法解釈を変更するまでは、国民から「集団的自衛権」の移譲は受けていて憲法上「集団的自衛権は持っている」けれども「憲法の前文と憲法9条で歯止めが掛けられている」のでその「行使はできない」と説明してきたわけです。

このように、「自衛権」の根源までさかのぼって考えると、こうした政府の回りくどい説明も理解できると思います。

「自衛権」は先ほど説明したように、そもそも人が自分の命を守るために必要な「個人の正当防衛権」から発せられるものであり、その権能が社会契約によって国家に移譲されることで国家の「自衛権」となるので、社会契約によって国家に「集団的自衛権も含めた自衛権が移譲されたのか」という点を憲法の趣旨や目的にまで立ち返って考えなければなりません。

そのため、平和主義を採用し憲法9条の下で一切の戦力と戦争を否定した日本国憲法で集団的自衛権を説明する際には、こうした回りくどい説明になってしまうわけです。

自衛権が何かを理解できないと憲法9条や自衛権を捻じ曲げて理解してしまう

ところで、なぜこのページでこうした長い説明を書き連ねてきたかというと、「自衛権が何か」という根源的な部分を理解していないと、憲法の平和主義や9条あるいは自衛権などの解釈を誤って理解してしまうことがあるからです。

A)「国際法が優先するから集団的自衛権の行使は合憲だ」の間違い

たとえば、集団的自衛権の行使に関してやや広がりを見せている「憲法よりも国際法が優先するから集団的自衛権の行使は合憲だ」などという言説です。

ある外国語大学の教授(この教授の専攻は憲法学ではありません)で、先ほど挙げた国連憲章の第51条やサンフランシスコ講和条約の第3章第5条(c)、また日米安保条約の前文などに「個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること」が明記されていることを根拠にして、「集団的自衛権は日本国憲法上合憲だ」などとネットメディア等で盛んに主張されている人がいます。

サンフランシスコ講和条約第5条

(c) 連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。

※出典:https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1203A_U2A211C1000000/?df=3

日米安全保障条約:前文

(中略)両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、(後略)

※出典:https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/jyoyaku.html

この人などもおそらく「自衛権」が社会契約によって国民から国家に移譲される「個人の正当防衛権」が基になっていて、それが国家の「自衛権」となり、国民が憲法でその「自衛権」に歯止めを掛けていることを理解できないのでしょう。

もしかしたらこの人は、「自衛権」が国連憲章などの国際合意によってはじめて創造され、その国際合意が作り出した「自衛権」なる概念が国際合意を批准した国に新たに与えられるものだと考えているのかもしれません。

だから「国際的な条約で集団的自衛権を確認したんだから日本は集団的自衛権は行使できるんだ」などと訳の分からない理屈にたどり着いてしまうのです。

しかし先ほども説明したように、国連憲章やサンフランシスコ講和条約、日米安保条約などが「集団的自衛の固有の権利を有していること」を確認する規定を置いているのは、集団的自衛権も含めた自衛権は独立国家であれば当然に備えられていると理解されていて、その自衛権なる概念は「個人の正当防衛権に由来するので、国際的な取り決め(条約等)でそれ(自衛権※人が自分の命を守る権能)を否定することができないからに他なりません。

一方、その国家が本来的に持っている(と考えられる)「自衛権」なる概念を国家に帰属させるかしないのか、あるいはそれを行使させるか否かは、その国に所属し社会契約を結ぶ国民が判断するものなのですから、国家権力の権力行使に歯止めを掛ける「憲法」がそれに歯止めを掛けたのであれば、それは制限され得るのです。

そこを分かっていないから、「条約で集団的自衛権は認められてるから日本で集団的自衛権は憲法上で合憲なんだ」などというトンデモ理論に行き着いてしまうのです。

B)「国連憲章で自衛戦争が認められているから日本も自衛戦争できる」の間違い

これは日本国憲法が否定した戦争や戦力保持についても同様です。

「軍隊を持ちたい」という思想を持つ人たちの中には、憲法9条が戦争を放棄し軍備の保持一切を否定していることを無視して「国連憲章で自衛のための戦争が認められている。だから国連に加盟した日本は自衛戦争できるし自衛のための軍隊を持つことができるのも当然だ」などという理屈を展開する人が少なからずいます。

こうした人は、おそらく「A」で挙げた大学教授などのネット記事を見て、そういう発想になってしまったのでしょう。

しかし先ほどから繰り返し述べているように、国連憲章や国際的な取り決め等が集団的自衛権も含めた自衛権を国家固有の権利としてすべての締結・批准国に認めているのは、自衛権なる概念が独立国であれば当然に備えられていると理解されているからであって、自衛権の源が「個人の正当防衛権」を基礎にあり、それを国際的な取り決めが否定することはできないからに他なりません。

一方、その自衛権なる概念が独立国に当然に備えられていると理解しても、その自衛権を国家に帰属させるか否か、またその自衛権を国家に帰属させるとしても、その自衛権のどの範囲の権能を国家に移譲するか決めるのはその国家形成のために社会契約を結ぶ国民なのですから、憲法がそれに「歯止め」を掛けているなら、その自衛権は当然に歯止めが掛けられるものなのです。

そうした自衛権の本質的な部分を理解していないから、「国連憲章が自衛権を認めてるから憲法9条があっても戦争できるんだ」などと訳の分からない理屈を信じてしまうわけです。

最後に

以上で説明したように、「自衛権」を考える場合は、自衛権とは何か、憲法とは何か、国家とは何か、社会契約とは何か、人類の目的とは何なのか、という本質な部分を十分に理解することが不可欠となります。

それを忘れてしまうと、先ほど挙げた大学教授が提唱するような訳の分からない理論を信じてしまうことで自衛権や憲法9条の理解を間違った方向に誘導されてしまい、する必要のない憲法改正に同意して将来世代の国民に多大な苦悩を残してしてしまう危険性がありますので、十分に注意が必要です。