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菅首相は憲法15条1項を振りかざして関東軍になろうとしている説

また、先ほど説明したように、憲法第15条1項は国の政治(統治)の在り方を終局的に決定する力が国民に帰属するという国民主権の思想から、その国を統治する力を国民に代わって行使する公務員は主権者である国民が選任し罷免すべきだという思想に基づくものであり、その「公務員」とは「広く立法・行政・司法に関する国および地方公共団体の事務を担当する職員」を言いますから(※芦部信喜著「憲法」岩波書店:252頁高橋和之補訂部分参照)、菅首相のロジックに立つのであれば、内閣総理大臣が国を統治する力を行使するすべての公務員を自由に選び又は選ばないことができるということになってしまいます。

これは、冒頭で紹介した立命館大学の松宮教授が言われるように、本当に恐ろしい話です。

内閣総理大臣という一人の人間が、国を統治する権能を国民に代わって行使する立法・行政・司法その他すべてのあらゆる公務員を自由に選び又は選ばないことができるようになり、日本国の統治は完全に内閣総理大臣という一人の自由意思に牛耳られてしまうことになるからです。

それは松宮教授が「ヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」と言われたように、国家の全権を掌握してナチズムを完遂させたヒトラーの政治と同じであって民主主義・自由主義・法治主義の完全な否定でしょう。

この点、冒頭で紹介したH氏は「今は選挙で首相を替えることができる」などと言いますが、衆議院議員の任期は4年(仮に参議院から選んでも6年)ですから、その最長で4年の任期中に内閣総理大臣によって立法・行政・司法その他すべてのあらゆる公務員を自分に都合の良い人事で固められてしまえば、国民の自由や権利にあらゆる面で制限が加えられる危険性があります。

そうなれば、国民の政治的意思決定は歪められ民主主義は機能不全に陥ってしまいますから、たとえ任期が終わっても次の選挙で独裁制を止めさせて元に戻すのは不可能になってしまいます。その「4年間の独裁制」が延々と繰り返されることになるわけです。

H氏の理屈は「4年間の任期中は独裁制を認める」という理屈ですから、独裁制を認めている時点でありえない理屈なのです。

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菅首相がなろうとしているのは「ヒトラー」ではなく「関東軍」や「軍部」ではないか

もっとも、松宮教授は菅首相がこうしたロジックを使う姿勢を「自分がヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」と表現しましたが、私の認識は少し違います。

なぜなら、独裁制は「国家権力を1人の人間又は少数の集団が掌握すること(※法律学小辞典〔第3版〕有斐閣)」を言いますが、菅首相のロジックの下では権力自体は主権者である国民にあるからです。

先ほど説明したように、菅首相のロジックは、憲法の基本原理である国民主権原理の要請から規定された憲法第15条1項の公務員選定罷免権を根拠に「内閣総理大臣は主権者である国民を代表しているから内閣総理大臣がすべての公務員を選び又は選ばないことができる」というものです。

このロジックにおいては、菅首相が利用している国家権力の源は「主権」ですが、その「主権」は菅首相という1人の個人または菅内閣や自民党という集団に帰属しているわけではなく、あくまでも国民に帰属しています。

菅首相は、国民の主権を停止させたり国民から主権を奪い取って自分のものにしてすべての公務員の人事権を掌握しようとしているわけではなく、あくまでも主権は国民の下に置いたまま、憲法第15条1項を根拠にしてあたかもその国民の主権(公務員の選定罷免権)が内閣総理大臣に帰属しているかのように装うことですべての公務員の人事権を掌握しようとしているわけです。

菅首相は、かつて関東軍や軍部が「天皇に帰属する統帥権」を”統帥権の独立”を根拠にあたかもそれが軍部に帰属しているかのように勝手に使って軍を動かしたように、「国民に帰属する主権」を”憲法第15条1項”を根拠にあたかも内閣総理大臣に帰属しているかのように勝手に使って公務員を選び又は選ばないことを正当化しているので、国家権力のすべてを掌握することで「自分に帰属させた権力」を思いのままに振るって独裁したヒトラーとは少し違うような気がするのです。

※もっとも松宮教授と私では学識も教養もGodivaのチョコレートと砂場のウンコぐらいの差がありますのでこの部分はファンタジーとしてお読みください。

松宮教授は「菅総理大臣は現行憲法を読み替えて自分がヒトラーのような独裁者になろうとしているのか」と述べましたが、私がもしあの席に座っていたとしたら「菅総理大臣は現行憲法を読み替えて自分が”統帥権干犯”や”統帥権の独立”の論理を振りかざして軍を勝手に動かした関東軍や先の戦争の軍部のようになろうとしているのか」と述べていたかもしれません(…が、「統帥権干犯」や「統帥権の独立」の話を持ち出してもわからない人の方が多いと思うので、やっぱりヒトラーを例えとして持ち出していたかもしれません)。

この記事の冒頭で紹介したH氏は、「学術会議に最終決定権を与えれば民主的統制が全く及ばず関東軍になってしまう」とツイートしましたが、何のことはない、関東軍の使ったロジックを真似しているのは学術会議ではなく内閣総理大臣である菅首相なのであって、学術会議の会員任命に関する最終決定権を与えることで民主的統制が及ばず関東軍になってしまうのは、むしろ菅首相の方なのです。

石原莞爾や北一輝の手法をパクっているのは誰なのか

ところで、一つ疑問に思うのが、菅首相がなぜ「統帥権の独立」のロジックを真似た論法を思いつくことが出来たのか、という点です。

菅首相は日本学術会議法に違反しておきながら、その違法性に気づくこともなく、いまだに「説明できることとできないことがある」などと意味不明な言い訳を繰り返しているのですから、残念ながら彼にリーガルマインドはありません。

菅首相にそれがあると言うのなら、彼は違法性を認識しながら「違法ではない」と言っていることになるので嘘をついていることになりますが、法治国家の総理大臣が嘘をつくはずがありませんので、菅首相が「違法ではない」と言い続ける限り、それが決定的に欠落した結果だと言わざるを得ないのです。

しかし、リーガルマインドのない人が、軍部が「統帥権干犯」や「統帥権の独立」の名の下に天皇の統帥権を意のままに振るったように、国民主権の要請から規定された憲法第15条1項を根拠に国民主権の名の下に学術会議の会員を違法に任命しない措置をとるロジックを思いつくはずがありませんから、いったい誰が菅首相にそのロジックを教えたのかという点に疑問が生じるわけです。

では、それは誰なのか。わかりません。

分かりませんが、おそらくその人は「日本をこうしたい」という思想を持っていて、かつて石原莞爾が満州事変によって満州国を一つの独立国として自立させ、その独立し自立した満州国の影響力をもって日本の政治を変えようとしたように、もしかしたら過去にどこかの自治体で国への依存から脱却させるために改革を行い、疑似的に独立させてその自治体から日本を変えようとしていたのかもしれません。

しかし、それがあまりうまくいかなかったので、今度は手法を変えて、かつて北一輝が一市民の立場から軍部の若手将校らに強硬的な思想を教示して軍人を思想の面から動かそうとしたように、政治から一線を引いた市民の立場でメディアやSNSなどを使って自分の思想を一般市民や政党政治家に教示し、それを選挙で反映させることで国政政党の政策決定を自分の思想に沿うように誘導してきたような気がします。

そうした流れの中で、その人物が「天皇の統帥権を”統帥権の独立”の名の下に使って軍を動かすロジック」をヒントに思いついた「憲法第15条1項を”国民主権”の名の下に使って公務員を自由に選任罷免できるロジック」が、おそらく人を介して前政権に伝わっていき、それが平成30年の政府内協議の内容になって今回それが菅首相に伝えられ、ロンドン海軍軍縮会議の際に「統帥権干犯」の論法に飛びついた犬養毅や鳩山一郎のように、菅首相がそのロジックに飛びついて、今回の問題につながったように思えます。

その人物は、もしかしたら自分を石原莞爾や北一輝に重ね合わせているのかもしれません。

おそらくその人物は今、必死になって菅首相を擁護しているはずです。擁護しないと、これ以降もう誰からも自分の意見を受け入れてもらえなくなり、自分の思想を国政に反映させることが出来なくなってしまうからです。

以上は私の妄想であって単なるファンタジーにすぎませんが、このように考えていくと、大規模な改革が行われようとしている某自治体の問題と、この菅首相の学術会議の問題との二つの点と点が線でつながるような気もするので、あながち間違っていないような気はします。

昭和天皇の聖断に続くことができるのか

以上で説明したように、菅首相は学術会議から推薦を受けた6名を任命しなかった問題で「憲法第15条1項は公務員の選定罷免権を主権者である国民に置いているから国民を代表する内閣総理大臣が学術会議の会員を自由に選び又は選ばないことができるのだ」というロジックを持ち出してその違法性を否定していますが、その理屈は日本国憲法と日本学術会議法の誤った解釈に基づきますので今回の菅首相の措置は明らかに法律に違反し憲法にも違反しています。

また、菅首相がその違法な行為を正当化させるために憲法第15条1項を持ち出して「内閣総理大臣は主権者である国民を代表しているから内閣総理大臣がすべての公務員を選任し又は選任しないことができるのだ」とした論法は、松宮教授の談では日本を「ヒトラーのような独裁者」の統治を認める国にしようとするものであり、私の個人的な妄想では先の戦争で関東軍や軍部が「統帥権干犯」や「統帥権の独立」のロジックを持ち出して軍を思うがままに動かしたように、菅首相やそれを支える自民党が憲法第15条1項を根拠にして国民主権の名の下に国民の自由や権利を思いのままに制限できる国に変えてしまうものであり、大変危険な思考だと思います。

作家の司馬遼太郎さんは、この「統帥権干犯」や「統帥権の独立」のロジックを”魔法の杖”と言い現わしたそうですが、菅首相は「憲法第15条1項」を”魔法の杖”にして振りかざし、内閣総理大臣が立法・行政・司法その他すべてのあらゆる公務員を自由に選び又は選ばないことができるとして、国の統治の全てを掌握しようとしているのでしょう。

こうした”魔法の杖”を振りかざした80年前の日本は、国内だけでなく周辺諸国の国民をも巻き込んでその国土を焦土に変えた挙句、敗戦を招きました。

もっとも、軍部のそうした”魔法の杖”に最後の最後で引導を渡したのは、米軍でもポツダム宣言でもマッカーサーでもGHQでもなく昭和天皇です。

ポツダム宣言を受諾するか否かが議論された御前会議では軍部の反対があって結論が出せませんでしたが、それまで立憲君主制を尊重し政府の閣議決定には基本的に沈黙を保っていた昭和天皇が賛意を表明してポツダム宣言の受諾が決定しました。いわゆる御前会議における天皇の聖断です。

昭和天皇の戦争責任については様々な意見があると思いますが、もしあの聖断がなかったら日本は本土決戦に突入し、膨大な数の民間人が犠牲にされていたはずで、もしかしたらソ連とアメリカに二分されていたかもしれません。そうしたことを考えれば、あの聖断に限ってはそれを評価しない人はたぶんいないでしょう。

軍部の抵抗を考えれば、おそらくあれは命懸けだったと思います。

今回、菅首相は憲法第15条1項という”魔法の杖”を振りかざして「内閣総理大臣は主権者である国民を代表しているから内閣総理大臣があらゆる公務員を選び又は選ばないことができるのだ」という論法で憲法と法律の解釈を捻じ曲げ、自身の違法行為を隠蔽しただけでなく、その”魔法の杖”の論法で立法・行政・司法その他すべての公務員の人事権を掌握し、国民の自由や権利を内閣総理大臣の一存で思いのままに制限できる国家に変えようとしています。

この”魔法の杖”を取り上げるためには、言論で批判し続けることで菅首相に翻意を促す必要がありますが、今のメディアはそのほとんどが政権に取り込まれてしまっていますので、H氏が言うように、もはや残された道は選挙しかありません。

次の衆議院議員選挙で昭和天皇と同じような英断を下せるのか、国民の懸命な判断が望まれます。

石原莞爾と北一輝のその後

なお、最後に石原莞爾と北一輝のその後について簡単にお伝えしてこの記事を終わりにします。

満州国独立の青写真を描き満州事変を計画して実行に移した石原莞爾は戦争終結まで生き残り、昭和20年(1945年)8月28日付発行の読売報知新聞のインタビューで次のように答えたそうです。

戦に負けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に、吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい。将来、国軍に向けた熱意に劣らぬものを、科学、文化、産業の向上に傾けて、祖国の再建に勇往邁進したならば、必ずや十年を出ずしてこの狭い国土に、この膨大な人口を抱きながら、世界の最優秀国に伍して絶対に劣らぬ文明国になり得ると確信する。

出典:読売報知新聞昭和20年8月28日付|半藤一利著「昭和史 戦後編」平凡社ライブラリー24頁より引用

昭和20年の8月28日(インタビューを受けたのはおそらくそれより数日前)といえば憲法9条どころかGHQ草案すら存在しない頃ですが、敗戦直後のこの時期に、しかも軍中枢で参謀として指揮していた軍人の中に戦争放棄や戦力不保持の重要性を認識し、学問や科学の大切さを理解していた人がいたことに驚かされます。

憲法9条に国防軍を明記する憲法改正案を公開したのに飽き足らず、違法な憲法解釈変更で戦争できる国にしたうえ、学術会議の任命問題では学問の自由を侵害し科学に政治介入しようと企むどこかの政党とは大違いです。Godivaのチョコレートと尻穴のウンコぐらいの差があります。

一方、「統帥権干犯」など強硬派将校に思想的な影響を与えていた北一輝は、直接的には関与していなかったものの二・二六事件に関する軍法会議で死刑判決を受け昭和12年8月14日に銃殺されています。