憲法改正を積極的に推し進めている人たちが憲法9条の改正を正当化させる際に好んで用いる主張の中に「平和を愛する諸国民を信頼して平和を実現できるわけないだろ!」というフレーズがあります。
日本国憲法は基本原理として平和主義を採用し、憲法9条で「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つを規定して武力(軍事力)の一切を否定していますから、武力(軍事力)を用いて国民の生命と財産を守ることはできません。
この点、日本国憲法では国の安全保障に関する手段を前文で宣言していますが、そこでは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べられていますので、この一文だけを読む限り、日本国憲法は「平和を愛する諸国民を信頼しておきさえすれば国の安全は確保できる」と短絡的に考えているように思えてしまいます。
【日本国憲法:前文】
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。
しかし、強権的な独裁国家では、いくらその国の国民が平和を愛していたとしても権力者が「戦争しろ」と命じれば国民に抗うすべはありませんから、日本が「諸国民を信頼」したからといって日本の平和が実現できるとは限りません。
そのため、この部分だけを読んだ人たちの中に、この憲法前文の「平和を愛する諸国民を信頼して…」という部分を「お花畑的発想」だとか「ユートピア的発想」だなどという短絡的な期待を意味したものと認識してしまい、憲法9条の改正に反対する人たちに対して「平和を愛する諸国民を信頼すれば平和を実現できると無批判的に思い込んでいる自称平和主義者だ」と非難する人が現れてしまうわけです。
しかし、憲法前文の「平和を愛する諸国民を信頼して…」の部分を、「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を維持できる」と短絡的に理解してしまうこの解釈は、正しい解釈とは言えません。
なぜなら、この憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分は、国の安全保障を「平和を愛する諸国民を信頼しておきさえすれば国の安全は確保できる」などというユートピア的発想から述べたものではなく、諸外国と信頼関係を築き、中立的な立場から紛争解決のための平和構想の提示や貧困解消のための提言などを積極的に行うことで世界平和に尽力し、その積極的・能動的な働きかけを行うことの中に日本の安全保障を確保することができるという確信を述べたものに他ならないからです。
憲法9条は憲法前文で宣言された平和主義を具現化する規定
憲法の基本原理である平和主義については日本人の多くが「憲法9条」がその根拠条文になっていると理解している節がありますが、実際はそうではありません。憲法9条は「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つを規定して一切の武力(軍事力)の行使を否定していますが、この9条自体が憲法の平和主義の根拠になっているわけではないのです。
では、憲法の基本原理である平和主義を根拠づけているのはどの部分かと言うと、それは憲法の前文です。
憲法前文の前半部分では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」と、また中段部分で「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べることで憲法の基本原理が平和主義にあることを宣言しているのです。
もちろんこれは、先の戦争で日本国民だけでなく周辺の諸国民にも多大な犠牲を強いてしまった反省があるからに他なりません。
朝鮮半島の併合から満州事変、対中、対米戦争へと侵略の戦果を拡大させた先の戦争では日本国内だけでなく周辺諸国の国民に多大な犠牲と損害を強いてしまった反省がありましたから、戦後に制定された現行憲法ではその戦争の過ちを繰り返さないようにするために、この憲法前文の冒頭部分で一切の戦争を放棄することを宣言したわけです。
そして、その平和主義を具現化するための手段として国家権力に対し「戦争をするな(戦争放棄)」「軍事力を持つな(戦力の不保持)」「交戦権を行使するな(交戦権の否認)」と規定して歯止めをかけたのが憲法9条なのです。
ですから、憲法の基本原理である平和主義は憲法9条の規定から導かれるわけではなく、憲法前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」に続く前文から導かれるものであり、それを具現化するのが憲法9条の規定ということになるのです。
日本国憲法は、第二次世界大戦の反省に立ち、前文において、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」し、そのために人類普遍の原理としての立憲主義にコミットすると同時に、さらに平和主義の理想を掲げ「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに存在する権利を有することを確認」し、国際社会と協調してかかる理想の実現に向かうことを宣言した。この平和主義と国際協調主義の理念は、憲法本文においては、九条の戦争放棄と九八条二項の国際法規遵守義務の規定に具現化されている。
※出典:高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材304~305頁より引用
「平和を愛する諸国民を信頼して…」の部分は国際協調主義に立脚して安全保障を確保することを宣言したもの
このように、日本国憲法はその前文で平和主義の基本原理を宣言し、それを具現化するために憲法9条を規定して武力(軍事力)の一切を否定しています。
そうすると、国の安全保障はどのようにして確保しようと考えているのかという点に疑問が生じますが、この点について述べているのが「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分です。
戦前に施行されていた明治憲法(大日本帝国憲法)では「軍」の規定が置かれていましたから、明治憲法では国家間の紛争解決が外交努力で図れない場合には、最終的に軍事力の行使による解決に委ねられていました。
しかし、先の戦争で日本は、300万人を超える強大な陸軍とアメリカに次ぐ世界第二位の強力な海軍を持ち、満州や青島・上海などの権益や、自国に組み入れた朝鮮半島や台湾、南樺太などからも莫大な人的・経済的資源を搾取出来た状況にありながら、日本だけでなく周辺諸国の国土を焦土と化したあげく国を守ることができませんでした。
結局、その戦争は図らずも総力戦になれば武力(軍事力)による抑止力や防衛力など何の役にも立たないことを証明することになったわけです。
そのため戦後の日本では、軍事力とは違うアプローチで国民の安全を確保することが求められました。そうしたなかで選択されたのが国際協調主義に立脚して国民の安全保障を確保しようとする日本国憲法の平和主義です。
先ほど述べたように、前文では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べていますので、日本国憲法は、国の安全保障の手段として、諸外国と信頼関係を築き、国際社会と協調して紛争の解決を図る国際協調主義に立脚することを宣言していることが分かります。
ですから、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、「平和を愛する諸国民を信頼していれば平和を維持できる」などと短絡的な期待を述べたものではなく、国際協調主義に立脚して国民の安全保障を確保することを宣言したものという解釈が導かれることになるのです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」安全保障を確保するためには何が必要か
この点、このページの冒頭でも述べたように、この部分については「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を実現できる…ということを言っている」と理解している人が多くいるわけですが、そうではありません。
憲法前文ではそのあとに続く憲法前文の後段で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と、また「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と述べています。
この部分は、国際協調主義に立脚してどのように平和主義を実現していくのかという手段を述べたものですから、日本国憲法が世界から紛争や貧困を除去し世界の平和を実現していく過程のなかに日本の平和を実現していくことを要請していて、それによって平和が実現できることに確信を抱いていることが分かります。
つまり日本国憲法は、ただ平和主義や非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えるだけで自国の平和を実現できると考えているわけではなく、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示を行ったり、紛争解決のための提言や貧困解消のための援助など外交努力を積極的に行うことを要請していて、そうした能動的な働きかけを行い続けることの延長線上に日本国の平和と安全保障の確立が実現できると考えているわけです(※参考→憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由)。
日本国憲法は、日本の安全保障について、前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べ、国際的に中立の立場からの平和外交、および国際連合による安全保障を考えていると解される。このような構想に対しては、しばしば、それが他力本願の考えであるという批判がなされるが、日本国憲法の平和主義は、単に自国の安全を他国に守ってもらうという消極的なものではない。それは、平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している。すなわち、そういう積極的な行動をとることの中に日本国民の平和と安全の保障がある、という確信を基礎にしている。
※出典:芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店56頁より引用
もちろんその努力は、武力(軍事力)を用いてはなりません。先の戦争で日本はソ連の脅威に対抗するためとの大義名分をもって「自衛」の名の下に朝鮮半島を併合して満州に出兵し中国と不毛な戦争を繰り返しただけでなく、アジア諸国を欧米列強の植民地支配から解放するという「自衛戦争(大東亜共栄圏構想)」の名の下にアジアと太平洋に侵略の戦火を拡大させてしまった”前科”があり、武力(軍事力)を背景にして国際社会の信頼を得ることはできないからです。
だからこそ現行憲法は9条を規定して国家権力に対して武力(軍事力)の一切を放棄させたのです。
ですから、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」という部分は、決して「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を謳歌できるんだ」というようなお花畑的発想・ユートピア的発想に基づくものではありません。
「他国が攻めてきたときにはどうやって反撃して国を守るか」という「対症療法的」な明治憲法における安全保障施策が全く機能しなかったことに気付いた戦後の日本国民が、それとは違ったアプローチで安全保障施策を思考し、「原因療法的」な視点から日本を「他国から攻められない国」に「他国が武力による紛争解決を求めてこないような国」にすることで武力による紛争を未然に防ごうという思想から導いたのが現行憲法の平和主義であって9条の思想です。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」という部分は、諸外国と信頼関係を築き、国際社会と協調して紛争解決に努力することを求める「国際協調主義」に立脚することを要請したものであって、その国際協調主義に立脚して、武力(軍事力)を用いずに、平和構想の提示や国際的な紛争・対立の緩和に向けた提言など平和実現のための積極的な行動をとるべきことを要請しているのが憲法の基本原理である平和主義であり憲法9条の規定ということになるのです。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」の部分を「平和を愛する諸国民を信頼していれば平和を維持できる」と解釈して批判する言論は明らかなデマゴギー
以上で説明したように、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、「平和を愛する諸国民を信頼していれば平和を維持できる」などと短絡的な期待を込めたものではなく、国際協調主義に立脚して国の安全保障を確保することを宣言したものと解釈するのが憲法学の定説です。
ではなぜ、この部分を「平和を愛する諸国民を信頼していれば平和を維持できる」などと間違って解釈する人が出てきてしまうかというと、それは憲法9条を改正して軍隊を持つことができる国に日本を変えてしまいたいと考えている勢力が、そういうデマを流し続けているからです。
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」の部分を、「平和を愛する諸国民を信頼さえしておけば平和を維持できる」という考えを述べているものという解釈を吹聴すれば、日本の安全保障に危機感を抱いている一部の国民の世論を、憲法9条の改正に賛成する方向に誘導させることができます。
日本の周辺には、拉致事件を起こした北朝鮮や、尖閣諸島周辺で軍船を航行させている中国や、爆撃機を飛ばして頻繁に自衛隊にスクランブルを掛けさせているロシアなどがありますので、その現状に危機感を抱いている一部の国民の「平和を愛する諸国民が拉致事件を起こしたり軍事力で威嚇したりするわけないだろう!」とか「独裁的な国では国民が平和を愛してても権力者が戦争しろと言えば国民は拒否できないから侵略してくる可能性はあるだろ!」というような危機感情を刺激して現行憲法への不安を煽ることができるからです。
だからこそ憲法9条の改正に躍起になっている政治家や(自称)知識人やタレントなどは、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」の部分をあえて捻じ曲げて解釈し、「憲法の前文は平和を愛する諸国民を信頼すれば平和を実現できるって言ってるけどそんなことできるわけないだろ!」と憲法学の定説とはかけ離れた論で日本国憲法の平和主義の基本原理と憲法9条を批判し続けているのです。
そうして捻じ曲げられた解釈が長年にわたってテレビの討論番組や首相とタレントの対談番組、あるいはヤフーニュースのコメント欄やネット掲示板などに垂れ流されてきたことで、多くの国民に憲法の平和主義の基本原理と9条の捻じ曲げられた解釈が浸透してしまったのが今の日本の現状と言えます。
このようなデマゴギーに少なからぬ国民が惑わされ、憲法の基本原理である平和主義と憲法9条の正確な理解もないままのこの現状において憲法9条を改正してしまうことが本当に日本の平和に寄与するのか、すべての国民が改めて考える必要があります。