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憲法9条の「戦争放棄」解釈における3つの学説の違いとは?

憲法9条は「戦争放棄」を規定した条文と理解されていますが、その「戦争放棄」が具体的にどのレベルで戦争を「放棄」しているのか、という点は条文上明らかとは言えません。

つまり、9条が「侵略戦争だけ」を放棄したものなのか、それとも「自衛戦争まで」も放棄したものなのか、という問題です。

一般的に「戦争」は「侵略戦争」と「自衛戦争」の2つに分けることができますが、9条が「自衛戦争」までも放棄したものなのか、それとも放棄したのは「侵略戦争だけ」で「自衛戦争」は放棄していないのか、という点が9条の条文を読むだけでは判然としないので解釈に違いが生じるわけです。

この点、この9条の解釈の違いについては以下の3つの学説に分かれます。

  1. 「9条の1項で自衛戦争も含めた全ての戦争が放棄されている」と解釈する考え方
  2. 「9条の1項では自衛戦争は放棄されていないけれども2項で戦力不保持と交戦権が否定されてるので結局は2項で自衛戦争も放棄されている」と解釈する考え方
  3. 「9条の1項では自衛戦争は放棄されておらず、かつ、9条の2項でも自衛戦争は放棄されていない」と解釈する考え方

そこでここでは、憲法9条における「戦争放棄」が「侵略戦争」だけを放棄するものなのか、それとも「自衛戦争」までも放棄するものなのか、という点の考え方の基礎となる3つの学説の違いについて、それぞれ簡単に説明してみることにいたしましょう。

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【1】9条の「1項で自衛戦争も含めた全ての戦争が放棄されている」と考える学説(有力説)

憲法9条における「戦争放棄」の解釈でまず最初に挙げられのが、憲法9条の「1項で”侵略戦争”だけでなく”自衛戦争”も放棄されている」と考える立場です(※便宜上、このページではこの説を「1項で全面放棄説」と呼ぶことにします)。

【1項で全面放棄説】

「憲法9条1項で全ての戦争が(侵略戦争だけでなく自衛戦争も)放棄されている」と考える説。

なぜこのように解釈されるかというと、憲法の9条1項で「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」が「国際紛争を解決する手段」として「永久に放棄」されているからです。

【日本国憲法9条1項】

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

9条1項に書かれている「国権の発動たる戦争」は「宣戦布告や最後通牒を行う戦時国際法規の適用を受ける戦争」のことを、「武力による威嚇」は「武力を背景にして自国の主張を強要すること」を、「武力の行使」は「宣戦布告によらない事実上の戦争等」のことを意味するものと解釈されていますから(※芦部信喜「憲法(第六版)」56,57頁参照)、そこで放棄された「戦争」は「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」も含むと考えるのが自然です。

憲法9条1項を素直に読む限り、日本では憲法9条1項によって「全ての戦争」が放棄されていると理解できますから、この立場では憲法9条の2項の文言や存在の有無の関わらず、9条1項の規定によって「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」を含めた「全ての戦争」が放棄されていると解釈されることになります。

ちなみに、この説は憲法学的な通説ではありませんが、学者の間では有力説として支持されています(※ちなみに、私(このサイトの管理人)もこの説が一番素直に理解できるので個人的にはこの説を支持しています)。

【2】9条の「1項では自衛戦争は放棄されていない」が、2項で”戦力の保持”と”交戦権”が認められていないので「結局は2項で自衛戦争も放棄されている」とする説(通説・政府解釈)

(1)で説明した「1項で全面放棄説」の次に挙げられるのが、9条の1項で放棄されているのは「侵略戦争」に限られるけれども、9条の2項で「戦力」の保持が禁止され「交戦権」も否定されていることから「結局は2項で自衛戦争も放棄されている」と考える立場です(※便宜上、このページではこの説を「結局2項で全面放棄説」と呼ぶことにします)。

【結局2項で全面放棄説】

「憲法9条1項では『侵略戦争』だけが放棄されており『自衛戦争』は放棄されていないが、2項で『戦力』と『交戦権』が認められていないので、結局は2項によって『自衛戦争』も放棄されている」と考える説。

なぜ、9条の1項で放棄されたのが「侵略戦争」だけに限られると考えるかというと、9条1項を読む限り「国際紛争を解決する手段としては」という条件付きで戦争を「放棄」しているとも解釈できるからです。

【日本国憲法9条1項】

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

この点、この「国際紛争を解決する手段としては」とは従来の国際法上の通常の用語例(不戦条約1条など)との関係で「侵略戦争」を意味するものと一般に解釈されていますから、従来の国際法上の解釈にとらわれて9条1項を読めば、「侵略戦争は、永久にこれを放棄する」と読み解く考え方も成立してしまいます。

つまり「9条の1項で放棄されているのは侵略戦争だけ」で「自衛戦争は放棄されていないんじゃないか?」、と考えることもできるわけです。

しかし、9条の1項をこのように解釈した場合であっても、9条の2項では「陸海空軍その他の戦力」の保持が禁止され「交戦権」も認められないとされており、「戦力」も「交戦権」もなければ「戦争」をすることができませんから、たとえ9条の1項で「自衛戦争は放棄されていない」と考えるこの立場に立った場合であっても、9条2項の規定によって結局は「自衛のための戦争」もすることができなくなってしまうでしょう。

【日本国憲法9条2項】

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

したがって、「9条1項では自衛戦争は放棄されていない」と解釈するこの見解に立ったとしても、結局は9条2項によって「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」も放棄されているという結論に至ります。

これがこの「結局2項で全面放棄説」の考え方になります。

ちなみに、これが憲法学上の通説であり、政府も従来からこの立場をとって憲法9条の戦争放棄規定を解釈し自衛隊を運用しています。

「甲説をとっても、二項について、「前項の目的を達するため」に言う「前項の目的」とは、戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すにとどまると解し、二項では、一切の戦力の保持が禁止され、交戦権も否認されていると解釈すれば、自衛のための戦争を行うことはできず、結局すべての戦争が禁止されているということになるので、乙説と結論は異ならなくなる。これが通説であり、従来、政府もほぼこの立場をとってきた。」

※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第6版)」岩波書店 57~58頁より引用

なお、吉田茂首相も帝国議会の衆議院本会議でこの解釈に基づいた説明をしています(→憲法9条の戦争放棄を吉田茂首相はどう帝国議会に説明したのか)ので、憲法制定当初から政府はこの「結局2項で全面放棄説」の立場に立って憲法9条を解釈してきたということが分かるでしょう。

【昭和21年6月26日衆議院本会議における吉田茂首相の答弁より引用】

「次に自衛権に付ての御尋ねであります、戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります、従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります、満洲事変然り、大東亜戦争亦然りであります、今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分らないと云うことが、日本に対する大なる疑惑であり、又誤解であります、先ず此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思うのであります、又此の疑惑は誤解であるとは申しながら、全然根底のない疑惑とも言われない節が、既往の歴史を考えて見ますると、多々あるのであります、故に我が国に於ては如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依って全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意を先ず此の憲法に於て表明したいと思うのであります(拍手)」

(※出典:衆議院本会議 昭和21年6月26日(第6号)|衆議院憲法審査会(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/s210626-h06.htm)を基に作成)※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています。)


※上記の引用部分は上記のURLで衆議院憲法審査会のサイトにアクセスし、該当ページで「Ctrl」+「f」を押して「戦争抛棄ニ関スル本案ノ規定ハ」をコピペして検索を掛ければ簡単に検出することができます。 

なお、この「結局2項で全面放棄説」では、9条2項の「前項の目的を達するため」という文章における「前項の目的」の部分は、9条1項における「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する目的」と解釈します(※この点が次の【3】に挙げる「限定放棄説(いわゆる芦田修正を基にした説)」と異なる点ですが詳細は次の【3】で説明します)。

【3】9条の「1項で自衛戦争は放棄されておらず」、9条「2項でも自衛戦争は放棄されていない」と考える説(※いわゆる芦田修正を基にした議論)

憲法9条の解釈の3つ目は、9条1項では「自衛戦争」は放棄されておらず、9条2項でも「自衛戦争」は放棄されていない、と考える立場で、これが「限定放棄説(いわゆる芦田修正を基にした議論(※いわゆる「芦田理論」)」となります。

【限定放棄説(いわゆる芦田修正を基にした議論)】

「憲法9条1項では『侵略戦争』だけが放棄されており、2項でも『自衛戦争』は放棄されていない」と考える説。

「1項で放棄されたのは侵略戦争だけで自衛戦争は放棄されていない」と考えるところまでは【2】で説明した「結局2項で全面放棄説」と同じですが、「9条2項でも自衛戦争は放棄されていない」と解釈する点が「結局2項で全面放棄説」と異なります。

なぜこのような帰結に至るかというと、この立場では9条2項にある「前項の目的」を「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する目的」ではなく「侵略戦争を放棄する目的」と解釈するからです。

先ほどの【2】で説明した「結局2項で全面放棄説」では9条2項の「前項の目的」を9条1項における「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する目的」と解釈していましたので、9条2項で「陸海空軍その他の戦力」と「交戦権」が認められていない以上、9条の1項で「自衛戦争は放棄されていない」と解釈した場合であっても、「結局は2項で自衛戦争も放棄されている」という解釈が導かれました。

しかし、この「限定放棄説(いわゆる芦田修正に基づいた説)」では、9条2項の「前項の目的」の部分は「国際紛争を解決する手段としては」の部分に係るものと理解しますので、「国際紛争を解決する手段としてのみ陸海空軍その他の戦力と交戦権を放棄する」つまり「侵略戦争を放棄する目的としてのみ、陸海空軍その他の戦力と交戦権は放棄する」と解釈するわけです(※先ほどの【2】で説明したように「国際紛争を解決する手段」は従来の国際法上の用法では「侵略戦争」を意味するものと一般に解釈されるからです)。

このような考え方に立てば、「侵略戦争」でなければ「陸海空軍その他の戦力」と「交戦権」も認められることになりますから、この「限定放棄説(いわゆる芦田修正に基づいた説)」の立場に立つ限り、9条の規定が存在していても「自衛戦争」をすることが認められますし、「自衛戦争」を行うための「軍隊(陸海空軍その他の戦力)」や「交戦権」も当然に認められるということになります。

これが「いわゆる芦田修正を基にした議論」となる「限定放棄説」の考え方となります。

ちなみに、この「限定放棄説」は、帝国議会における憲法草案の修正決議案の作成に関与した芦田均が、昭和32年の12月5日に行われた憲法調査会(第9回)で「2項に『前項の目的を達するため』という文章を挿入した理由」を聞かれた際に、

  • 「『前項の目的を達するため』という文章を挿入することによって無条件に戦力を保持しないのではなく一定の条件の下においてのみ戦力を持たないことになる」
  • 「日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白」

という趣旨の回答をしたことが根拠となっていますが(西修「日本国憲法の誕生」河出書房新社103頁参照)、当の芦田均は帝国議会の衆議院本会議では一切そのような趣旨の答弁はしておらず、むしろ【2】で説明した「結局2項で全面放棄説」と同じ解釈に立って修正決議案の作成理由(9条2項に”前項の目的を達するため”と挿入した理由)を説明していますから、この「芦田修正」を重視した憲法解釈は説得力に欠けるものと思われます。

限定放棄説(いわゆる芦田修正を基にした議論)に対する批判

なお、【3】で説明した限定放棄説(いわゆる芦田修正を基にした議論)は【1】で述べた「1項で全面放棄」や【2】で述べた「結局2項で全面放棄説」から、以下のような批判を受けることになります(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店58頁、高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材306頁参照)。

  • 66条2項の文民条項以外、憲法には軍隊や戦争を予定した規定が全くない。
  • 自衛戦争を放棄していないとすれば憲法前文の”平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…”とする崇高な平和主義理念と適合しなくなる。
  • 自衛戦争と侵略戦争を区別することはできない。
  • 自衛のための戦力と侵略のための戦力を区別することは不可能だから2項で戦力の不保持を規定した意味がなくなる。
  • 自衛戦争を放棄していないならなぜ2項で”交戦権”を放棄したのか合理的に説明できない。
  • 芦田修正が行われた小委員会で、芦田均本人が「前項の目的を達するため」という文言は「正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求する目的」と同義だという趣旨の説明をし、それを前提として修正決議が受け入れられた事実と矛盾する。

しかし、これらの指摘に対し、この「限定放棄説」は説得力のある回答を行うことができませんので、この「限定放棄説(いわゆる芦田修正に基づいた説)」は憲法学の世界ではほとんどの学者から支持されていないのが実情です。

もちろん、先ほども述べたように、政府も従来から先ほどの【2】で説明した「結局2項で全面放棄説」を基にした解釈を取っていますから、政府でさえこの「限定放棄説(いわゆる芦田修正に基づいた説)」は採用していません(※学説や政府がなぜ芦田修正を基にした9条解釈を採用しないかについては→芦田修正に基づく憲法9条の解釈はなぜ採用されないのか)。

ただ、最近の自民党の議員は限りなくこの「芦田修正」を重視する「限定放棄説」に近い解釈で憲法解釈を行っていますし、現政権を支持して憲法の改正に賛成する「(自称)知識人」や「(知識人っぽい雰囲気を醸し出すことに成功した)タレント」など、このサイトでいうところの「憲法道程」もしきりにこの「限定放棄説」に基づいた憲法議論を展開し「芦田修正を重視する9条の解釈論」がさも憲法学上の正当な解釈論であるかのような印象操作を行っています。

もちろん、これら3つの説のうち、どのような説をとって憲法を解釈するかは個人の「思想の自由(憲法19条)」ですから、どの説に立脚して憲法を解釈しても差し支えないわけですが、このような憲法学上の考え方を一切無視した恣意的な議論には問題があるといえます。

ですから、そのような印象操作に惑わされないようにするためにも、各自が憲法の専門書を読むなどして憲法を学び、正確な知識に基づいた議論をすることが重要であるといえます。