なぜ平和主義が日本国憲法の基本原理と言えるのか

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一般に、日本国憲法は「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という3つの基本原則(基本原理)があると言われています。

いわゆる社会科の授業で習う「憲法の三原則」のあれです。

ところで、この憲法の三原則のうち「平和主義」と言われて真っ先に思い浮かぶのは憲法9条だと思いますが、憲法9条の条文を見ても、それが「基本原則(基本原理)」であるとはどこにも書かれていません。

【日本国憲法9条】

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

ではなぜ、日本国憲法の「平和主義」は憲法の基本原理(基本原則)と言われているのでしょうか。

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憲法9条は「平和主義」の規定ではない

先ほど挙げた憲法9条の条文を見ても分かるように、憲法9条の規定にはどこにも「これが憲法の基本原理(基本原則)だぞ!」とは書かれていません。

なぜかというと、端的に言って憲法9条は「平和主義」を表す条文ではないからです。

憲法の「平和主義」と言われればほとんどの人が「9条」を思い浮かべると思いますが、憲法9条は「平和主義」の条文ではありません。

憲法9条は「憲法の平和主義を具現化する規定」だからです。

「憲法の平和主義を具現化する規定」とは

「具現化」とは、簡単にいうと、ある絶対的普遍的な命題(理念)を現実の社会で実現することと言い換えると分かりやすいかもしれません。

たとえば、「人を殺してはいけない」という命題は絶対的普遍的な命題として一般の社会に共有されていると思いますが、それは「人を殺してはいけない」という命題が絶対的普遍的な命題であることに人間が気付いているからです。

しかし、「人を殺してはいけない」という命題に背くことがいけないことだと分かっていても、すべての人がその絶対的普遍的な命題に従うわけではありません。中には様々な理由で「人を殺してしまう」人がいるのが現実の社会です。

そのような現実の社会でどのようにその「人を殺してはいけない」という絶対的普遍的な命題を実現させるかというと、国民国家では「法律」で「殺人罪」を制定し刑罰をもってそれを禁止するわけです。

法律で殺人罪として刑罰をもって「人を殺してはいけない」という命題を強制すれば、刑罰で罰せられることを嫌う人が「人を殺してはいけない」という命題を守るようになります。

これが「具現化」です。つまり絶対的普遍的な価値を探究する哲学などの形而上学によって導き出される命題を現実社会で実現させることが「具現化」といえます。

話を日本国憲法の「平和主義」に戻すと、憲法9条が「憲法の平和主義を具現化する規定」なのですから、その日本国憲法に規定された「平和主義」が絶対的普遍的な命題と言えます。

そして、その絶対的普遍的な命題である「平和主義」を、現実の国家運営で実現させるための手段となるのが「憲法9条」ということになります。

日本国憲法の「平和主義」は憲法前文に規定されている

このように、憲法9条の規定は日本国憲法の「平和主義」そのものを表しているのではなく、絶対的普遍的な命題となる日本国憲法の「平和主義」の理念(思想)を、現実の国家運営の場で実現させるため(具現化させるため)に用いられる道具といえます。

つまり、日本国憲法は「平和主義」が絶対的普遍的な理念(思想)であるという確信していて、その「平和主義」を実現するために、日本国という国家に対して「戦争の放棄」と「戦力の不保持」と「交戦権の否認」の三つを徹底して実行するように命令しているのが「憲法9条」ということが言えるのです。

では、憲法9条が憲法の平和主義を具現化する規定であるとして、そもそもその日本国憲法の「平和主義」は具体的に日本国憲法のどこに規定されているのでしょうか。

この点、憲法の条文は第1条から第103条までありますが、隅から隅まで確認しても憲法の原則が「平和主義」にあるなどとはどこにも規定されていません。

ではどこにそれがあるかと言うと、それは憲法の「前文」です。

憲法の前文は少々長いですが、読んだことのない人もいるかもしれませんので、念のため前半部分だけ抜粋しておきましょう。

【日本国憲法:前文※前半部分のみ抜粋】

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。(※以下省略)

憲法の前半部分では、まず

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」

と述べられていますが、ここで言う「戦争」とはもちろん、20世紀初頭に満州から対中、対米戦争へと戦火を拡大した、いわゆる太平洋戦争(第二次世界大戦とか大東亜戦争などと呼ぶこともあります)のことを言います。

先の戦争では、日本の戦没者(戦争・戦闘で死亡した死者)だけでも300万人を超えており、死亡者以外の傷病者や他国の死傷者数を加えれば膨大な数の犠牲者を出していますが、その発端となったのが日本の起こした戦争でしたから、その愚かな戦争を繰り返さないことを誓ったのが、この「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」の一文となるでしょう。

そしてそこでは「戦争をしない」と誓っているのですから、当然その放棄された「戦争」は侵略戦争だけではなく自衛戦争も含まれることになります。

戦争は、いったん始まってしまえば「侵略」のための戦争か「自衛」のための戦争か客観的に区別することはできないからです。

つまりこれが日本国憲法の「平和主義」です。

侵略戦争だけでなく自衛戦争も含めたすべての戦争を放棄することで平和を実践する思想こそが日本国憲法の「平和主義」の神髄と言えるのです。

「平和主義」が日本国憲法の基本原理と言える理由

このように、憲法前文の前半部分の文章から、日本国憲法が侵略戦争だけでなく自衛戦争をも放棄した「平和主義」の思想が理解できますが、その「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」の後には、

「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」

と述べられていますから、日本国憲法がその「侵略戦争だけでなく自衛戦争も含めたすべての戦争を放棄」することで平和を実現するという「平和主義」の理念自体を「人類普遍の原理」であると考えていることが分かります。

つまり、これが日本国憲法の「平和主義」が憲法の基本原理(基本原則)と理解される所以です。

日本国憲法は、「侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄する」ことで平和を実践することに「平和主義」の神髄があると理解し、その理念(思想)そのものに「人類普遍の原理」があると確信していますから、その「侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄」して平和を実現するという理念(思想)は絶対的普遍的な価値観となります。

「侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄することで平和を実現する」という理念(思想)が絶対的普遍的な価値があるというのであれば当然、その理念(思想)に反するすべての理念や思想や命題は否定されます。

絶対的普遍的な命題と矛盾する理念や思想は物事の「真理」から外れることになり「人類普遍の原理」とも矛盾してしまうことになるからです。

つまり、日本国憲法は「自衛戦争も放棄する平和主義」という理念(思想)思想と矛盾する憲法の条文をすべて排除することでその平和主義の理念を実現しようとしますので、その日本国憲法の(自衛戦争も放棄する)「平和主義」自体が「憲法の基本原理(基本原則)」であると理解されることになるのです。

日本国憲法はなぜ「平和主義」を「人類普遍の原理」であると確信しているのか

このように、日本国憲法は「侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄する」ことでのみ世界の平和が実現できると考える「平和主義」に立脚しており、その「平和主義」の理念そのものが「人類普遍の原理」であるということに確信を置いています。

では、そもそもなぜ、日本国憲法は「侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄する」ことでしか平和が実現できないという「平和主義」の理念に「人類普遍の原理」であると確信を持つことができたのでしょうか。

なぜ日本国憲法は「自衛戦争をも放棄」しなければ平和が実現できないと確信するに至ったのでしょうか。

この点は憲法の条文から明らかではありませんが、それはもちろん、過去の歴史がそれを証明しているからに他なりません。

人類は史実として記録されているだけでも古代文明のころから数千年にわたって、史実に記録されていないものも含めれば、おそらく人がアウストラロピテクスと呼ばれていた数百万年前の時代から膨大な回数の戦争を重ねてきましたが、この現在に至っても未だ戦争や紛争を止めることができていません

それはひとえに、人類が「自衛戦争」の名のもとに「侵略戦争」を繰り返してきた歴史があるからです。

人間はこれまで「自衛のための戦争」を許容して歴史を歩んできましたが、戦争はひとたび生じればそれが「自衛」のためのものなのか「侵略」のためのものなのか客観的に区別することはできません。時の権力者が「これは自衛戦争だ」と説明すれば、たとえ侵略を目的とした戦争であっても自衛戦争になってしまうからです (※詳細は→「侵略戦争しないから9条は改正してもよい」が間違っている理由)。

自衛戦争を認めるのであれば、その前提として侵略戦争が存在することをも認めなければなりませんから、自衛戦争を認めること自体が侵略戦争を許容することになります。そうであれば、戦争をなくすために、侵略戦争だけでなく自衛戦争も放棄することが必要になるのは明らかと言えるでしょう。

だからこそ、「自衛戦争をも放棄」する平和主義こそが「人類普遍の原理」であると確信することができたのです。

真理を超える真理は存在しない

このように、日本国憲法の「平和主義」は「自衛戦争をも放棄」するところにその神髄があり、それは人類が重ねてきた膨大な数の戦争によって失われた命の犠牲の上にようやく到達できた「人類普遍の原理」であると言えます。

この「自衛戦争をも放棄する平和主義」に「人類普遍の原理」性があることは、なにも日本人だけが気付いていたわけではありません。『憲法9条が戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否認を取り入れた理由』のページでも論じたように、かつてはチャーチル首相やルーズベルト大統領など世界の指導者もそれに気づいていた事実が存在します。

しかし今では、ほとんどすべての国が「自衛戦争」を許容する思想に立って強大な軍事力をもって国の安全保障を確保しているわけですから、世界はすでに「自衛戦争をも放棄する平和主義」が「人類普遍の原理」であることを忘れてしまっているのかもしれません。

その「人類普遍の原理」が忘れ去られた世界にあって、唯一それが「人類普遍の原理」であることを確信しているのが日本国憲法の「平和主義」です。

つまり、日本国憲法の「平和主義」は世界を平和に導く最後の砦であって、唯一の希望なのです。

「人類普遍の原理」とは絶対的普遍的な命題を指しますから、それは物事の真理、宇宙の真理と言えます。

この宇宙は、絶対的普遍的な「真理」によって形作られていますから、真理を超える真理はこの宇宙に存在しません。

ですから、「自衛戦争をも放棄する平和主義」が「人類普遍の原理」であると確信できる以上、それ以上の「平和主義」はこの宇宙に存在しないのです。

日本国憲法における平和主義の尊さはそこにあります。

日本国憲法の「平和主義」が憲法の基本原理(基本原則)と言えるのは、それが「人類普遍の原理」であり宇宙の「真理」であると確信することができるからに他ならないのです。