なぜ平和主義が日本国憲法の基本原理と言えるのか

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日本国憲法が「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つをその基本原理(憲法の三原則)にしていることは義務教育等でも習うと思います。

この点、「国民主権」と「基本的人権の尊重」については、「国民主権」が主権をはっきりと国民に置くことで民主主義を徹底させること、また「基本的人権の尊重」が国民の人権保障を確立して自由と民主主義を実現させることに不可欠であることがその理由になっていることは容易に想像できますが、「平和主義」がなぜ憲法の基本原理とされているのかという点は判然としません。

ではなぜ、日本国憲法では「平和主義」が憲法の基本原理の一つとされているのでしょうか。

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「平和主義」は自由と民主主義の実現にとって不可欠なもの

このようになぜ「平和主義」が憲法の基本原理にされているのかという点に疑問が生じるわけですが、結論から言えば、「平和主義」が日本国憲法の基本原理とされているのは、自由と民主主義の実現にとってそれが不可欠だからです。

日本国憲法は前文で「主権が国民に存すること」と述べた部分で国民主権主義を、また「自由のもたらす恵沢を確保し」と述べた部分で人権尊重主義を、さらに「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と述べた部分で平和主義に徹することを宣言したうえで、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と述べることで、国民主権原理に基づく代表民主制によって国を統治することを示しています。

これはもちろん、国民主権原理に基づいて代表民主制の政治体制をとることが、自由と民主主義の実現に不可欠だからなわけですが、それはもちろん「平和主義」も同じです。

「平和主義」が実現されてこそ、自由と民主主義の実現は可能となるからです。

(1)国民に「主権」があってこそ民主主義は実現できる

そもそもなぜ、「国民主権」が実現されなければならないかというと、それは主権を国民に置くことが、人権(自由)と民主主義の実現のために不可欠だからに他なりません。

仮にその国の主権が君主や資産家等の一部の者に置かれるとなれば、国民は国政に参加することが出来なくなりますので、国民の意見を国政に反映させることは困難になり、その主権者たる君主や一部の者によっ国の政治体制は定められることになってしまいます。

それはすなわち、専制政治に陥ってしまうことを意味しますが、専制政治の下では国民の人権(自由)保障が確立されることは期待できません。専制政治の下では為政者によって人権(自由)を制限することが容易となるからです。

専制政治の下では人権(自由)は保障されませんから、人権(自由)保障を確立させるためには、憲法に主権がはっきりと国民にあることを明示したうえで、国民主権原理に基づいて国民が積極的に政治に関与することが必要となります。

そのため日本国憲法は、その基本原理として「国民主権」原理を採用しているのです。

(2)国民の「人権(自由)」が保障されてこそ民主主義は実現できる

この理屈は「基本的人権の尊重」においても同じです。国民の「人権(自由)」が保障されなけば、国民が主権を行使して積極的に国政に関与することもできなくなるからです。

基本的人権には「法の下の平等(憲法14条)」や「思想良心の自由(憲法19条)」、「表現の自由(憲法21条)」や「居住移転の自由(憲法22条)」、「生存権(憲法25条)」や「教育を受ける権利(憲法26条)」など様々なものがありますが、それらの人権が制限された状態では国民は主権を有効に行使する事すらできなくなってしまいます。

たとえばある国民は教育を受ける権利が保障される一方である国民はそれが保障されないなど、法の下の平等が不十分な社会では、生活のための資産形成や主権を行使するために必要となる教養に差が生じることになる結果、国民は有効に主権すら行使できなくなってしまうでしょう。

また、言論や表現、移動や集会の自由などが制限される社会では、国民は自由な議論や見聞を広めることが出来なる結果、主権を有効に行使できなくなってしまいますし、健康で文化的な最低限度の生活すら脅かされる生存権の確保されない社会では、国民は生きることすら困難な状況に置かれることで主権の行使すら容易ではなくなってしまいます。

このように、基本的人権の保障を確立させることは主権の行使に不可欠であって、国民主権原理をの下で代表民主制の政治体制を実現させるために不可欠な要素にほかなりません。

だからこそ日本国憲法は「基本的人権の尊重」を憲法の基本原理として採用しているのです。

(3)国民の「平和」が実現されてこそ民主主義は実現できる

以上の理屈は「平和主義」についても当てはまります。国民の平和が実現できなければ、国民の人権(自由)はあらゆる側面で制約を受け、また主権を有効に行使する事すら叶わないからです。

国家権力によって戦争や紛争が始められ国民が巻き込まれるようなことになれば、言論や教育や移動や職業の選択などさまざまな自由は制限され、攻撃や貧困にさらされることで生存の権利すら危ぶまれてしまいます。

そうなれば当然、国民が主権を有効に行使する事すらできなくなってしまいますから、代表民主制も機能不全に陥ってしまうでしょう。

つまり「平和」は国民が人権(自由)が保障された社会で有効に主権を行使し、民主主義を実現させるために不可欠な要素であって、「平和」が実現できてこそ、「人権(自由)」や「主権」の保障は確保されることになるわけです。

「平和」が実現できない社会では、国民は人権と主権を行使し代表民主制の政治体制の下で自由と民主主義を実現させることができません。

そのため日本国憲法は「平和主義」を基本原理として採用しているのです。

「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は別々のものではなく自由と民主主義の実現にとって密接不可分なもの

以上で説明したように、「平和主義」は「国民主権」や「基本的人権の尊重」という他の基本原理と全く別のものなのではなく密接不可分なものであって切り離して考えることのできない原理といえます。

これはもちろん、その一つが欠けてしまえば他の基本原理も容易に破壊されてしまうことに他なりません。

代表民主制の政治体制の下で国政を委ねられた政権が、国民の人権を制限する方向で国政を運営するときには、国民は主権を有効に行使できなくなる結果、民主主義は容易に機能不全に陥り、専制や抑圧を招きます。

そしてそれは、いずれまた戦争の惨禍を招くことになるでしょう。

その逆もしかりです。時の権力者が「平和主義」を後退させる方向で国政を運営しようとするときには、当然それは人権(自由)の制限となって国民の主権行使に影響を及ぼします。

つまり「平和主義」が損なわれる政治体制を放置すれば、いずれ80年前のような抑圧体制、全体主義的な統治体制を招くことになりかねないのです。

ですから国民は、「国民主権」や「基本的人権の尊重」だけでなく「平和主義」が時の権力者によって破壊(後退または制限)されないように監視することが必要です。

仮に政権の口車に乗せられて「平和主義」を破壊する行動に同意を与えてしまった場合には、将来の国民に80年前のこの国の国民と同じ苦しみと犠牲を強いてしまうことを忘れてはならないのです。