憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由

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(3)日本国憲法は国際協調主義に立脚して積極的な外交努力を行うことを要請している

このように、日本国憲法は国際協調主義に立脚し諸外国と信頼関係を築くことで紛争解決を図り日本の安全保障を実現することを宣言していますが、その国際協調主義に立脚して具体的にどのように国民の安全保障を確保していくのかという点についても前文で述べられています。

具体的には、憲法前文の中段、先ほど説明した「平和を愛する諸国民を信頼して…(中略)…安全と生存を保持しようと決意した」の後に続く部分です。

憲法前文の中段から後半部分にかけては、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と、また「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と述べていますので、日本国憲法が世界から紛争や貧困を除去し世界の平和を実現していく過程のなかに日本の平和が実現できるという確信を抱いていることが分かります。

ではなぜ、日本の憲法が世界の他の国の紛争や貧困などの解消までをも要請しているかというと、それはそうすることが日本の安全保障に最大の効果を及ぼすと日本国憲法が考えているからに他なりません。

戦争は、おしなべて自国の経済的利益や他国からの干渉を排除することを目的として利用されますから、その根本原因となる紛争や貧困を世界からなくすことができれば、そもそも「日本を攻撃しよう」「日本を侵略しよう」と考える国自体がなくなります。だからこそ日本国憲法は自国のことのみに専念するのではなく、他国の紛争や貧困解消をも求めているわけです。

つまり日本国憲法は、ただ平和主義や非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えるだけで自国の平和を実現できると考えているわけではなく、国際協調主義に立脚して諸外国と信頼関係を築いたうえで、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示を行ったり、紛争解決のための助言や提言であったり、貧困解消のための援助など外交努力を積極的に行い、世界の平和実現に向けた努力を行い続けることの中に日本国民の平和と安全保障の確立が実現できると考えているわけです(※参考→憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由)。

日本国憲法は、日本の安全保障について、前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べ、国際的に中立の立場からの平和外交、および国際連合による安全保障を考えていると解される。このような構想に対しては、しばしば、それが他力本願の考えであるという批判がなされるが、日本国憲法の平和主義は、単に自国の安全を他国に守ってもらうという消極的なものではない。それは、平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している。すなわち、そういう積極的な行動をとることの中に日本国民の平和と安全の保障がある、という確信を基礎にしている。

※出典:芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店56頁より引用
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憲法の平和主義と9条は「原因療法的」な思考で、9条改正論者は「対処療法的」な思考で安全保障を考えている

このように、日本国憲法の平和主義は、国際協調主義に立脚し諸外国と信頼関係を構築しそれを維持したうえで、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示を行ったり、紛争解決のための助言や提言であったり、貧困解消のための援助など外交努力を積極的に行い、世界平和の実現に向けた努力を行い続けることの中に日本国民の平和と安全保障の確立が実現できると考えているわけですから、これは言い換えれば日本を「他国が攻めてこないようにする国」に、「他国が攻めようと思わないような国」にすることに尽力することを求めていると言えます。

明治憲法(大日本帝国憲法)では国の安全保障は軍事力に委ねられていましたが、先の戦争で日本は300万人を超える強大な陸軍とアメリカに次ぐ世界第二位の協力な海軍、そして当時の世界最高峰戦闘機(ゼロ戦)と実践経験豊富で優秀なパイロットを豊富にそろえながら戦争に負け国を守ることができませんでしたので、いくら強大な武力(軍事力)を備えていたとしても、総力戦になれば武力(軍事力)による抑止力や防衛力など何の役にも立たないことが立証されました。

つまり先の戦争は、いったん戦争になって「他国から攻められて」しまえば、強大な軍事力をもってしても国民の安全保障を確保することはできないことを教えてくれたわけです。

そのため戦後の日本では、「他国から攻められて」しまった場合にどのように国を守るかという明治憲法とは違ったアプローチで国民の安全保障を確保することが求められました。

だからこそ戦後に制定された新憲法(現行憲法)では、国際協調主義に立脚し諸外国と信頼関係を築いて外交努力を積極的におこなうことで、日本を「他国から攻められない国に」「他国が攻めてこないようにする国に」することで戦争の元になる「原因」を排除しようとしたのです。

ア)日本国憲法の平和主義と9条は「原因療法的」な思考から安全保障を確保しようとするもの

ですからこれは、「原因療法的」な思考で国の安全保障を確保することを要請しているといえます。

明治憲法では、他国が「攻めてきたときにどうするのか」という「対処療法的」な安全保障施策に重点を置いていましたが、結果的に国を守ることができませんでした。

そのため戦後の日本では、「他国から攻められない国にするにはどうすればよいか」「他国が攻めてこようと思わないような国にするためにはどうすればよいか」という戦争の元になっている「原因」を徹底的に排除することで戦争の危険を回避し、日本の安全保障を確立する道が選択されたわけです。

イ)憲法9条の改正に賛成する人は「対処療法的」な思考から安全保障を確保しようとするもの

これに対して、憲法9条の改正に賛成している人たちの主張は、「対処療法的」な安全保障を求めているということが言えます。

憲法9条の改正に賛成している人たちは、憲法9条に自衛隊や国防軍を明記して、自衛のためなら戦争ができるような国にしたいと考えているのですから、これは「他国が攻めてきたらどうするのか」という視点に立って国の安全保障の確立を目指していると言えます。

つまり憲法9条の改正を積極的に推し進めている人たちは、明治憲法(大日本帝国憲法)で失敗した「対処療法的」な安全保障施策の実現を目指して憲法改正を求めていると言えるのです。

「攻めてきたらどうするんだ」という批判が成り立たない理由

このように、日本国憲法は「原因療法的」な思考から日本を「他国から攻められない国」「他国が攻めてこようと思わないような国」にすることで国民の安全保障を確保しようとする考えに基礎づけられています。

では、このように「原因療法的」な思考で国の安全保障を確保しようとする日本国憲法の平和主義や憲法9条に対して「攻めてきたらどうするんだ?」という批判を行うことができるでしょうか。

「攻めてきたらどうするんだ?」との問いは「安全保障施策が破綻した場合の対処法」を問うもの

この点、日本国憲法の平和主義や憲法9条のように「原因療法的」な思考から「他国から攻められない国」「他国が攻めてこようと思わないような国」にすることを希求する立場においては、国際協調主義に立脚し諸外国と信頼関係を築いたうえで積極的な外交努力を行うことの中に日本の安全保障が確保できると考えていますから、この立場では「他国から攻められていない状態」を維持することが安全保障上の最大の目的となります。

つまり、日本国憲法の平和主義や憲法9条は、国家予算のうち安全保障のための予算を武力(軍事力)による抑止力のためではなく、諸外国との信頼関係を築くため、世界の紛争解決や貧困解消のために使うことで「他国から攻められていない状態」を維持しようと考えるわけです。

たとえば、2019年度の国の防衛費はおおよそ5兆円と言われていますから、この5兆円で戦闘機や戦車を買うのではなく、世界における紛争解決のための提言や平和構想の提示、貧困解消や国際協力などの費用に充てて、国際社会と協調して世界平和の実現に尽力することで日本を「他国が攻めてこようと思わないような国」にしていくよう努力するのが日本国憲法の平和主義と憲法9条の思想です。

そうすると、その「攻めてきたらどうするんだ?」という問いは、「他国から攻められていない状態」が破綻したときには「どうするんだ?」ということを問うていることになりますので、結局はその問いは「国の安全保障施策が破綻したときにはどうするんだ?」ということを問うているということになります。

つまり、日本国憲法の平和主義や憲法9条に対して、「(軍事力も持たずに)攻めてきたらどうするんだ?」と批判している人たちは、「毎年5兆円もの安全保障予算を平和外交に使いながら他国が攻めてきたらどうするんだ?」と問うていることになるので、その批判の本質は「国の安全保障施策が破綻した場合にはどう対処するんだ?」と問うていることになるわけです。

「国の安全保障施策が破綻した場合の対処法」はどの立場からも答えられない

しかし、このような「国の安全保障施策が破綻した場合の対処法」を問うような批判には答えを出すことは不可能です。

なぜなら、国の安全保障施策が破綻した場合は、最早「国」を守るすべはありませんので、降伏するか、それとも国家権力が失われた国土で国民が個人で銃を取り武装蜂起を繰り広げるしかないからです(※個人による武装蜂起と国家の戦争は全く本質が異なるので、憲法9条の改正に反対し戦争を否定する人でも「攻めてきたら銃を手に取って戦う(武装蜂起に参加する)」と回答することは論理的に矛盾しません)。

日本国憲法の平和主義と憲法9条は、国の安全保障予算(近年であれば約5兆円)を毎年、国際社会と協調して信頼関係を築き、世界の平和構築のために支弁して世界平和に尽力することで日本の安全保障を確保しようとしますので、それでも「他国が攻めてきた」というのであれば、それは国の安全保障施策が破綻したことになるのでもはや国は存在しなくなりますから、降伏か滅亡か個人の武装蜂起に委ねるほかありません。

ですから、「攻めてきたらどうするんだ?」と問われても、そのような問い(批判)に答えは出せないわけです。

しかしそれは、憲法9条を改正して国防軍や自衛隊を明記しようとしている改憲推進派にしても同じです。「国の安全保障施策が破綻した場合の対処法」はどのような立場に立っても答えることは不可能だからです。

この点、憲法9条を改正して国防軍や自衛隊を憲法に明記しようとしている人たちは、「対処療法的」な考え方に基づいて、国の安全保障を「軍事力」によって確保しようとしますから、「他国が攻めてきたらどうするんだ?」という問いに対しては「軍事力で応戦するんだ」と答えるかもしれません。

しかし、これは日本国憲法の平和主義や憲法9条に対して行った「攻めてきたらどうするんだ?」という問いとパラレルな問いに答えたことにはなりません。日本国憲法の平和主義や憲法9条に対して「攻めてきたらどうするんだ?」という問いは、先ほども述べたようにその本質は「国の安全保障施策が破綻した場合の対処法」を問うていることになるからです。

憲法9条を改正して国防軍や自衛隊を憲法に明記しようと考える人たちは「対処療法的」な安全保障施策を目指して、「他国から攻められたとき」に「軍事力で応戦することができるようにする」ために憲法改正を求めていますから、国の安全保障の目的は「他国から攻められていない状態」を維持することではなく、「他国から攻められたときに応戦して戦争に勝つこと」になります。

つまり、憲法改正を積極的に推し進めている人たちは、毎年の安全保障予算(たとえば先ほどの例で言えば5兆円)をすべて戦備の購入に充てて軍事力を強化し、軍事力による抑止力や防衛力で国の安全保障を確保しようとするわけです。

そうであれば、「国の安全保障施策が破綻した場合」というのは「戦争で負けた時」と考えなければなりません。「対処療法的」な視点から国の安全保障を考えて9条に自衛隊や国防軍を明記しようとする立場では、武力(軍事力)で国の安全保障を確保しようとしますので、「国の安全保障施策が破綻したとき」は「攻めてきた敵軍を軍事力で防衛しようとして防衛できなかったとき」を意味することになるからです。

ですから、憲法9条の改正に賛成する人たちが、憲法9条の改正に反対する人に対して「攻めてきたらどうするんだ?」という問いを投げかけるのであれば、憲法9条の改正に賛成する人たちはまず「他国が攻めてきて戦争に負けた時はどうするんだ?」という問いに自分がまず答えなければならないのです。

しかし、憲法9条の改正に賛成する人たちが「他国が攻めてきて戦争に負けた時はどうするんだ?」という問いに答えることは不可能です。

なぜなら、先ほども述べたように、国の安全保障施策が破綻した場合は最早「国」を守るすべはありませんので、降伏するか、それとも国家が失われた国土で元国民が個人で銃を取り武装蜂起を繰り広げるしかないからです。

ですから、「(軍事力も持たないで)攻めてきたらどうするんだ?」と批判する人たちは、自分が答えられない質問を投げかけて日本国憲法の平和主義や憲法9条を批判していることになりますので、はなはだ「たちが悪い」と言えるのです。

「攻めてきたらどうするんだ?」は有害無益

以上で指摘したように、改憲派が好んで使う「攻めてきたらどうするんだ?」というフレーズは、憲法9条の改正に反対する人に対する批判としては不適切です。

どうしてもそのフレーズで批判したいというのであれば、まず自分が「他国から攻められて戦争で負けた時はどうするのか」「軍事力で国を守ることができなかった時はどうするのか」という問いに答えなければなりません。

そしてその場合、「降伏する」とか「個人で武装蜂起を展開する」などという答えはしてはいけません。そのような答えは、憲法9条の改正に反対する人でも同じようにできますし(※個人の武装蜂起と国家の戦争は全く本質が異なるので、憲法9条の改正に反対し戦争を否定する人でも「攻めてきたら銃を手に取って戦う(武装蜂起に参加する)」と回答することは論理的に矛盾しません)、そもそも武装蜂起は「個人」の闘争であって「国」の安全保障ではなく、国の安全保障手段を答えたことにならないからです。

憲法9条の改正に賛成する人が「攻めてきたらどうするんだ?」と改正に反対する人を責め立てるのであれば、そう責め立てる前に「他国から攻められたときに戦争で負けても軍事力で他国の侵略を防ぐことができること」または「軍事力で国を守ることができなかった場合でも軍事力で国の安全保障を確保できること」を立証しなければなりません。

もちろん、戦争に負けて軍事力で国を守ることができなかった場合は、もはや軍事力は機能しないのでそのようなことを立証することは不可能です。

結局、「攻めてきたらどうするんだ?」などと憲法の平和主義や憲法9条を批判する人たちは、論理的に成り立たない批判を繰り返しているということになりますから、端的に言ってその批判に価値はないのです。

ですから「攻めてきたらどうするんだ?」などという批判(主張・問い)は、憲法9条の改正議論で本来行われなければならない議論を阻害し続けている有害無益な意見に過ぎないということが言えるわけです。



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9条(戦争放棄・戦力/交戦権の否認)
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