広告

憲法9条を改正して自衛隊を明記すると徴兵制が復活する理由

自民党を中心とした与党とそれに追従する一部の国会議員(いわゆる改憲勢力)の間では憲法9条を改正して自衛隊を9条に明記する改憲の議論が推し進められているようです。

【日本国憲法9条】

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この「自衛隊」を憲法9条に明記する憲法改正は、すでに存在し活動している自衛隊という組織を憲法に明記するものに過ぎませんので、国民の中には憲法9条が改正されても国民生活に影響が生じることはないだろうと軽く考えている人も少なからずいるのではないかと思います。

しかし、この憲法に自衛隊を明記する憲法改正が実際に行われれば、国民生活に大きな負担と制限がかけられてしまうことは避けられません。

なぜなら、憲法に自衛隊が明記されてしまえば、現行憲法では「違憲」と考えられている「徴兵制」が憲法で認められることになってしまうからです。

広告

現行憲法で徴兵制が認められない理由

憲法9条に自衛隊を明記することでなぜ徴兵制が認められるようになるのかという点を考える前提として、そもそもなぜ現行憲法で徴兵制が認められていないのかという点を理解してもらう必要があります。

現行憲法で徴兵制が認められない理由を理解できないと、憲法9条に自衛隊を明記することで徴兵制に関する憲法解釈がどのように変化するのかも正確に理解できないからです。

(1)徴兵制によって義務付けられる「兵役」は憲法18条の「意に反する苦役」にあたる

この点、なぜ現行憲法で徴兵制が認められていないかと言うと、それは徴兵制によって国民に強制される「兵役」が憲法18条が禁止した「意に反する苦役」にあたるからです。

【日本国憲法18条】

何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

この「意に反する苦役」とは、「広く本人の意思に反して強制される労役(芦部信喜著「憲法(第6版)」岩波書店235頁参照)」を指すものと一般に理解されていますが、徴兵制は国家権力が「兵役」という業務(労役)を一定期間、本人の意思にかかわらず強制させる制度なわけですから、その兵役は憲法18条で禁止された「意に反する苦役」そのものと言えます。

ですから、現行憲法では憲法18条の規定から徴兵制は認められないという結論が導かれることになるわけです。

(2)武力を否定した平和主義の基本原理の下で「兵役」は憲法12条の「公共の福祉」にはあたらない

この点、問題となるのは憲法12条の「公共の福祉」との調整です。現行憲法の12条は、憲法で保障される基本的人権が公共の福祉の制約を受ける場合があることを定めていますから、公共の福祉の必要性があれば憲法18条の「意に反する苦役」を国民に強制することも認められる場合があると考えられるからです。

【日本国憲法12条】

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

たとえば、災害対策基本法の第65条1項では災害が発生した場合の応急措置という「公共の福祉」の必要性がある場合には市町村長が災害の発生する恐れのある地域住民を応急措置の業務という「意に反する苦役」に従事させることを認めていますから、国の安全保障の危機を災害と同じように考えれば徴兵制によって国民に義務付けられる「兵役」も憲法12条の「公共の福祉」の必要性を理由に憲法18条の「意に反する苦役」の禁止の保障が制限されることも認められて良いようにも思えます (※この点の詳細は→徴兵制が日本国憲法で違憲と解釈される理由)。

しかし、この憲法12条の「公共の福祉」の側面を考えてもやはり徴兵制は憲法上認められません。

なぜなら、日本国憲法がその基本原理として平和主義を採用し他国との紛争を武力(軍事力)によらず外交等の平和的手段で解決することを求めているだけでなく、9条で武力(軍事力)の保有とその行使の一切を禁止しているからです (※詳細は→憲法9条が戦争を放棄し戦力の保持と交戦権を否認した理由) 。

徴兵制は「兵」という武力(軍事力)によって国の安全保障を確保することを目的として国民に「兵役」を義務づける制度に他なりませんが、日本国憲法はそもそもその武力(軍事力)によって国の安全保障を確保することを放棄していますので、その武力(軍事力)によって国の安全保障を確保するための「兵を養成する」という手段は憲法12条に言う「公共の福祉」には含まれないという解釈をせざるを得ません。

ですから、憲法12条の「公共の福祉」の側面を考えても、徴兵制の必要性は憲法12条の「公共の福祉」にはあたらないことになりますので、原則どおり徴兵制は国民に憲法18条の「意に反する苦役」を強制するものとして「違憲」という結論になるわけです(※この点の詳細は→徴兵制が日本国憲法で違憲と解釈される理由 )。

憲法に自衛隊を明記すると徴兵制が復活する理由

以上で説明したように、現行憲法ではその基本原理として採用した平和主義と9条が武力(軍事力)の行使を放棄している点を考えれば武力(軍事力)を前提とした徴兵制は「公共の福祉」の目的として適当ではありませんから徴兵制によって強制される兵役が憲法18条の「意に反する苦役」にあたるものである以上、憲法上の解釈では「違憲」と判断せざるを得ません。

しかし、もし仮に憲法9条が改正され憲法に「自衛隊」が明文で規定されてしまった場合は、この結論が大きく変更されることになります。

なぜなら、もし仮に憲法9条に自衛隊が明記されることになれば、その憲法に明記された自衛隊の範囲で、国民が国家権力に対して武力(軍事力)によって国の安全保障を確保することを認めたことになり、その憲法に明記された自衛隊の目的の範囲で憲法12条の「公共の福祉」の要請が認められることになるからです。

ア)自衛隊の必要性が憲法12条の「公共の福祉」になる結果として「兵役」という「意に反する苦役」の強制も許されることになる

憲法9条が戦争を放棄し戦力の保持と交戦権を否認した理由』のページでも解説したように、現行憲法が9条で「自衛戦争をも放棄」し「戦力の保持」と「交戦権」を否認しているのは、憲法前文が宣言した平和主義の基本原理とその平和主義を実現するための手段として必要な国際協調主義に立脚して国政と外交を図る上で武力(軍事力)が邪魔になるからに他なりません。

しかし、憲法9条を改正して自衛隊を憲法に明記すれば、その憲法に明記された自衛隊の範囲で国民が「戦力の保持」を認め、その範囲で「交戦権」も認め、その範囲で「自衛のための戦争」も認めたことになりますから、その範囲で「武力(軍事力)によって国の安全保障を確保すること」も認めたことになってしまいます。

国民が憲法改正という方法で「武力(軍事力)によって国の安全保障を確保すること」を認めたことになれば、その「武力(軍事力)によって国の安全保障を確保する」という目的が、憲法12条の「公共の福祉」になり得ることになりますから、その「武力(軍事力)によって国の安全保障を確保する」という「公共の福祉」の制約の範囲内で憲法18条の「意に反する苦役」を国民に強制することも認められることになります。

つまり、憲法に自衛隊が明記されれば、その憲法に明記された自衛隊の範囲で国家権力が国民に兵役を義務付けても、憲法12条の「公共の福祉」からの要請として認められることになるので、憲法18条の「意に反する苦役」の違憲性は問題にならなくなってしまうのです。

仮にそうなれば、国家権力が法律で徴兵制を制度化しても憲法18条の「意に反する苦役」としての違憲性は憲法12条の「公共の福祉」として許容されることになりますから、徴兵制は憲法上「合憲」と解釈されることになってしまいます。

ですから、憲法9条を改正して自衛隊を憲法に明記すれば、現行憲法では「違憲」と解釈された徴兵制も「合憲」と解釈されて認められるようになると考えられるわけです。

イ)「現代兵器は高度化され専門的知識が必要だから素人を徴兵する兵役はあり得ない」との意見はトンチンカン

なお、このような自衛隊(または国防軍)明記の憲法改正に関連して徴兵制の実現が懸念される意見に対しては、「現代の兵器は高度化され専門的知識と経験が必要だから素人を徴兵しても意味がないので徴兵制はありえない」などという反対意見を述べる人がごく稀にいますが、これほど頓珍漢な意見はありません。

なぜなら、そもそも徴兵制は、兵器を使用する技能を持っていない素人の民間人を訓練して、その兵器を使えるように育成するための制度だからです。

そもそも一般的な徴兵制は、1年から2年程度の兵役を義務付け、その期間に自動小銃の取り扱いや行軍・作戦遂行に必要となる基礎的な体力育成や技能習得など基礎訓練を施すものがこれにあたります。

そして、その徴兵期間が終了すれば、10年から20年程度の予備役に編入されて、その予備役期間にいざ戦争が始まって志願兵(職業軍人)と徴兵期間中の兵力で不足するような事態が生じた時には、その予備役から数万人程度が不作為に抽出されて数週間から数か月の再訓練が実施され、その後に数か月からの期間を区切って戦場に送り込まれるのです。

なお、戦前の昭和2年(1927年)4月に公布された兵役法では満20歳になる秋に徴兵検査を受けることが義務付けられ、甲・第一乙・第二乙・丙種の合格と丁種の不合格、翌年再検査の戊種に分類されて、現役として徴集された合格者は2年間の現役在営が終わったあとも5年4ヶ月の予備役、さらに10年の後備役に、また現役として徴集されなかった者は12年4ヶ月の補充兵役に服し、その後備役・補充兵役が終わった後も40歳まで国民兵役に編入されることになっていました。そして先の大戦において陸軍は、既に第二次上海事変(1937年)の段階から予備役や後備役どころか補充兵役の年配者まで大量に召集し戦場に送り込んでいます。
ちなみに、アメリカは徴兵制をとっているわけではありませんが、米軍の新兵の訓練期間は半年程度です。アメリカでは大学進学への奨学金の支給を受けるため少なからぬ若者が軍隊に志願する傾向がありますが、彼等は高校を卒業して半年程度の訓練を経た後にイラクやアフガニスタンに送られています。

もちろん、実際に戦争が発生し既存の兵力で作戦遂行が困難になるような事態が発生した時には、この訓練期間が短縮されたり予備役からの徴兵が増やされたりして国民が次々に戦場に送られることになります。こうした全体的なシステムが「徴兵制」になるわけです。

つまり「兵器を使えない素人を兵器を使える兵士に教育する」のが徴兵制なのですから「素人は兵器を使えないから徴兵制はありえない」という主張はその主張自体が論理的に成立していないのです。だからトンチンカンなのです。

また、「現代の兵器は高度化され専門的知識と経験が必要」といっても、そういった高度な知識を要する兵器は志願兵(職業軍人)を長期間教育して訓練すれば足りますから、そもそも徴兵制によって集めた民間人を高度な兵器に従事させる必要はありません。

たとえば、徴兵制が布かれていた戦前も、ミッドウェー海戦で大敗し戦力の不足が生じるようになったあとは方針が変わりましたが、海軍では艦艇や航空機の運用など熟練した技能や技術を必要とした兵科について徴兵ではなく志願兵を積極的に採用して長期的な教育を施す方針がとられていました。徴兵制が施行されても志願兵制度がなくなるわけではないので「高度な技能技術を必要とする兵器」の運用は志願兵に担わさせれば済むわけです。

ここで懸念される徴兵制は、機関銃と手りゅう弾を持って前線に送り出されるような、あるいは後方支援や兵站輸送など将棋で言えばいくらでも替えが効く使い捨ての「歩」の働きをさせる兵士を養成するためのものであって、「飛車角桂香」のような複雑な動きをする部類の駒は自衛隊に志願する志願兵(職業軍人)が、王将の守りの要となる「金銀」は防衛大学校を卒業したエリートが役割を担うわけですから、「高度化された専門的知識が必要となる兵器」があることは、徴兵制を否定する根拠にはならないのです。

このような反論をする人は、徴兵制を先の戦争末期に「有事即応ノ態勢タラシムル(※学徒戦時動員体制確立要綱(昭和18年6月25日閣議決定))」ために行われた”学徒動員”やいわゆる”赤紙(召集令状)”のケースとあえて混同させ、徴兵制の懸念を払しょくさせる魂胆があってこのような詭弁を弄しているだけにすぎません。

憲法9条の改正で懸念される徴兵制は、今の韓国やスイスなどの国で行われているような、戦争が行われていない平時(※正確には朝鮮戦争は終結していないので韓国は平時ではないですが…)において数年程度の兵役を義務付け、志願兵(職業軍人)の命令に従うことのできる技能(歩兵用銃器の使用等)を習得させるための徴兵制なのであって、先の戦争末期のように戦争状態にある時期に行われた学徒動員で兵役が義務付けられるケースではありません(もちろん実際に戦争になればそういうものも実施されるでしょう)のでこの点を混同してしまわないように注意が必要です。

憲法への自衛隊の明記は慎重な議論が必要なもの

このように、憲法に自衛隊を明記する憲法改正は、現状で現実に存在している自衛隊を「ただ明文で規定するだけ」というような簡単なものではなく、憲法学的に考えれば国民の自由と権利に大きな負担と影響を与えることになり得る重大な憲法の改正と言えます。

もちろん、憲法9条を改正して憲法に自衛隊を明記する憲法改正が実現した場合であっても、それによって直ちに自民党やその他の改憲勢力が徴兵制を制度化する法律を制定し徴兵制を実施することはないだろうと思います。

しかし、日本はこれから少子化に向かうのは確実です。労働人口が減少すれば必然的に自衛隊への入隊希望者も減ることになるのは容易に想定できますから、自衛隊の規模を縮小しない限り徴兵制なしで現在の規模の自衛隊を維持するのは事実上困難になるでしょう。

そうであれば、「徴兵制を実現できない」現在の憲法を「徴兵制を実現しようと思えば実現できる」憲法に変えてしまうことは、国民の権利と自由に大きな影響を与える性質のものであって簡単な議論で結論を出して良いものではないはずです。

憲法9条に自衛隊を明記する憲法改正を積極的に推し進めている一部の勢力は、「憲法9条に自衛隊を明記しても徴兵制が認められるようになるわけではない」などと説明していますが、それは国民を憲法改正に賛成させるための方便に過ぎません。

憲法学的に考えれば憲法に自衛隊を明記するだけで徴兵制を憲法上「合憲」と解釈する学説が通説的な見解となってしまうこと(※学説(憲法学者)や司法(裁判所)が徴兵制を”違憲だ”と反論できなくなってしまうこと)は十分に考えられるのですから、彼らの説明を鵜呑みにするのはとても危険なのです。その事の重大さに気付いている国民が今の日本に果たしてどれだけいるでしょうか。

憲法は国の最高法規(憲法98条)であり、国民の権利と自由を制限するすべての法律に優先する最も重要な法規範となりますから、本来はすべての国民が十分にその内容を理解し慎重な議論を経たうえで改正の議論がなされるべきものです。

憲法の平和主義や憲法9条が国家に何を制限しているのか、また憲法の平和主義と憲法9条が国民の何を守ってくれているのか理解しないままの状態で憲法9条を改正してしまうことの危うさに、すべての国民が気付くべきなのではないかと思います。