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憲法9条の戦争放棄と戦力不保持が日本人のオリジナルである理由

憲法9条の改正に関する議論になると、それに賛成する立場の人から「アメリカ人が作った憲法9条など改正すべきだ!」という意見が必ずと言ってよいほど発せられます。

なぜこのような意見が出されるかと言うと、憲法の制定過程においてGHQ(連合国軍総司令部)が日本政府に提示した憲法草案(GHQ草案※総司令部案)の第二章に「戦争放棄」と「戦力の不保持」「交戦権の否認」という理念がすでに挙げられていたからです。

【GHQ草案(総司令部案)(抄)】

第二章 戦争の廃棄
第八条 国民の一主権としての戦争は之を廃止す他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す
陸軍、海軍、空軍又は其の他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるべし

※出典:GHQ草案 1946年2月13日『国会図書館所蔵:入江俊郎文書 15(「三月六日発表憲法改正草案要綱」の内)』を基に作成(※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています)。

「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つの理念は日本国憲法の平和主義を具現化するものとして憲法9条に明記されていますが、それがすでにGHQ草案に規定されていたとすれば、憲法9条の規定自体が「アメリカ人によって作られたもの」という主張にうなずける部分があることも否定できません。

【日本国憲法9条】

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

現行憲法の制定過程において日本政府はこのGHQ草案をたたき台にして憲法草案を起草していますので(※参考→日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要)、GHQ草案に「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つがすでに規定されていた以上、憲法9条の「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の理念はGHQが作成したGHQ草案が基になっているということも言えてしまうからです。

しかし、このような意見は過去に発表された文献や資料を確認する限り、明らかに間違いであり、また詭弁でもあることがわかります。

なぜなら、国会図書館に保存される公文書を調べた限り、現行憲法の9条に明記されている「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」の概念を最初に議論しはじめたのが、マッカーサーやGHQの民生局に所属するアメリカ人ではなく日本人であること(つまり「日本人のオリジナル」であること)が明確に確認できるからです。

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1946年(昭和21年)の2月13日より前に、アメリカから「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」が示唆された事実はあるか

このように、日本国憲法が「アメリカ(またはマッカーサー)から押し付けられたものだ!」と主張する人は、GHQが作成したGHQ草案に憲法9条の「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」の3つがすでに明記されていたことを根拠にしていますが、そのGHQが作成したGHQ草案(マッカーサー草案)は1946年(昭和21年)の2月13日に日本政府の松本委員会に提示されています。

そうすると、この「押しつけ憲法論」を主張している人は、「1946年(昭和21年)の2月13日」にアメリカから憲法を「押し付けられた」と主張していることになりますが、では、その1946年(昭和21年)の2月13日以前にアメリカから「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」の理念を示唆された事実は存在するでしょうか。

憲法9条の「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」の3つ理念が「日本人のオリジナル」であることを立証するためには、日本人がそれら3つの理念をアメリカや連合国から示唆されるよりも「前」に日本人独自の手で発案し議論していることを立証しなければなりませんが、GHQ草案の提示を受けた「1946年(昭和21年)2月13日」より「前」にすでにアメリカや連合国側からその3つの理念の示唆を受けていた事実があれば、たとえ「1946年(昭和21年)2月13日」より「前」に日本人が独自にその3つの理念について議論していた事実があったとしても、その3つの理念を「日本人のオリジナル」と立証することができなくなってしまいます。

そのため、「1946年(昭和21年)の2月13日」よりも「前」に日本人が独自にその3つの理念について議論していた事実があるかという点を確認する前に、その3つの理念がアメリカや連合国側から「1946年(昭和21年)の2月13日」より「前」に日本に伝達されていた別の事実がなかったかという点を検証する必要があるのです。

この点、1946年(昭和21年)の2月3日より「前」に日本政府がアメリカその他の連合国から「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」の3つの理念の示唆を受けたか否かは、その日以前に日本政府がアメリカその他の連合国と公式に接触した機会を確認すればわかるはずです。

1946年(昭和21年)2月13日より「前」に日本政府がアメリカその他の連合国と公に接触した機会としては、以下の3つの事案に限られると思いますので、次の3つの事案に絞って、アメリカその他の連合国から「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」という現行憲法9条に通じる平和主義に関する示唆があったか検証してみましょう。

  • 1945年(昭和20年)8月14日…日本政府がポツダム宣言を受諾
  • 1945年(昭和20年)9月2日…戦艦ミズーリ上での降伏文書調印
  • 1945年(昭和20年)10月11日…幣原首相がマッカーサーから「憲法の自由主義化」の示唆を受ける

(1)ポツダム宣言受諾の際には憲法9条の概念は示唆されていない

まず最初に昭和20年の8月14日に日本がポツダム宣言を受諾した際、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」の概念を連合国側から示唆された事実があるか検討してみましょう。

ポツダム宣言の文言は国会図書館のサイトでテキスト形式で公開されていますが(ポツダム宣言|国会図書館)、そちらを見てもわかるように、ポツダム宣言には「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という文言は一切含まれていません。

6項に「吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は」の文言がありますが、これは「日本国国民を欺瞞して」戦争を始めた「権力や勢力」を除去することを目的としており、日本という国家に「戦争放棄」や「戦力の不保持」を求める趣旨ではありません。

また、9項に「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後」の文言が、また13項にも「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し」という文言がありますが、これらも旧日本軍という軍事組織に対して武装解除や無条件降伏を求めるものであって、日本という国家に「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」を求める趣旨ではありません。

ですから、ポツダム宣言を受諾した時点では「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法9条の概念に類似する概念はアメリカその他の連合国から一切示唆されていないといえます。

(2)降伏文書調印の際も憲法9条の概念は示唆されていない

では、昭和20年9月2日に戦艦ミズーリ上で行われた降伏文書の調印に際してはどうでしょうか。

この点、この降伏文書も国会図書館のサイトで公開されていますが(降伏文書調印に関する詔書 1945年9月2日|国会図書館(テキスト))、降伏文書自体には「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった概念は一切記載されていません。

ですから、この戦艦ミズーリ上の降伏文書調印に際しても、アメリカその他の連合国から憲法9条の概念は一切示唆されていなかったということができます。

(3)幣原・マッカーサー会談の際にも憲法9条の概念は示唆されていない

では、昭和20年の10月11日に幣原首相が総司令部(GHQ)のマッカーサーを訪れた際に行われた会談でマッカーサーから「戦争放棄」や「戦力の不保持」という文言が出た事実があるかという点を検証してみます。

この点、この際の会談の内容は国会図書館のサイトで公開されている外務省の文書(總理「マクアーサー」会談要旨 昭二0、一0、一三、昭和廿年十月十一日幣原首相ニ對シ表明セル「マクアーサー」意見)に記載されていますが、この文書を隅から隅まで読んでもマッカーサーから「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった概念が示唆された事実は見当たりません。

それは当然です。この時のマッカーサーは「明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆」を行うために以下の5つの指針(いわゆる「マッカーサーの五大改革要求(憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院14頁参照)」)を提示し憲法改正の必要性を説いただけだからです。

【マッカーサーの五大改革要求】

  • 「婦人参政権の解放」
  • 「労働組合の促進」
  • 「自由主義的教育の実現」
  • 「検察・警察制度の改革」
  • 「経済機構の民主主義化」

ですから、この昭和20年10月11日に幣原首相が総司令部(GHQ)のマッカーサーを訪れた際に行われた会談においても、マッカーサーやGHQ側からは一切「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条につながる概念は示唆されていないといえます。

(4)マッカーサーノートを渡した時点では使われているが日本側には伝えられていない

なお、GHQ草案は1946年(昭和21年)の2月3日にマッカーサーがGHQ民生局のホイットニーに提示した「マッカーサーノート」が基礎になって作成されており、その「マッカーサーノート」にはすでに「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条につながる概念が記載されています。

【マッカーサーノート】

1(省略)
2 国家の主権的権利としての戦争を放棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。
いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
3(省略)

※出典:「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院30頁を基に作成

しかし、この「マッカーサーノート」はGHQの民生局という内部で共有されただけにすぎず、日本政府や日本人に提示されていたわけではありません。

ですから、マッカーサーが「マッカーサーノート」を作成した昭和21年2月3日の時点でも、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条につながる概念は日本政府に示唆されていなかったということができます。

1945年(昭和20年)10月27日の松本委員会ですでに「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」に関係する議論が行われていた

以上のように、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条につながる概念は、GHQ草案(総司令部案)が日本政府に提示された1946年(昭和21年)2月13日以前には、日本政府はアメリカその他の連合国から一切示唆されていなかったということが、公文書において確認できます。

もちろん、アメリカでは戦争終結前から日本における憲法改正の研究と準備が進められていましたので(※この点の詳細は→「憲法草案はGHQが1週間で作った」が明らかに嘘である理由)、アメリカや連合国側の資料のどこかに「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という文言が存在しているかもしれませんし、「国際紛争解決のための戦争の放棄」はすでに1928年のパリ不戦条約や1945年6月26日にサンフランシスコで調印された国連憲章などにも同趣旨の文言が明記されていましたから、世界的に見れば「戦争放棄」などの文言は、けして真新しいものとはいえないでしょう。

しかし、このページでは、憲法9条の概念が「アメリカ人(または連合軍)から示唆・強制されたものであるのか」(※端的に言えば「アメリカや連合軍に”押し付け”られたのか否か」)という文脈で論じていますので、パリ不戦条約や国連憲章などで規定された戦争放棄の規定は除外して考えなければなりません(※もちろん、パリ不戦条約や国連憲章の戦争放棄条項を連合国が終戦直後に憲法に明記するよう”押し付け”てきたというなら話は別ですが、そのような事実はありません)。

1946年(昭和21年)2月13日以前のアメリカや連合国側から日本に提示された公文書に「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった文言が出てこないことは事実ですから、少なくとも1946年(昭和21年)の2月13日まではマッカーサーやGHQ(総司令部)、極東委員会(連合国側)といった「日本人以外」が日本政府や日本人に対して「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法に類似する概念を公式に提示した(押し付けた)事実は一切ない、ということが公文書の上で明らかといえます。

では、GHQ草案(総司令部案)が日本政府に提示された昭和21年の2月13日より「前」に、「日本人」の側において「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という概念が議論された事実は存在するのでしょうか?

ア)松本委員会の議事録に「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」に類似する発言が記録されている

この点、国会図書館で公開されている松本委員会(※幣原内閣が憲法改正の必要性を調査するために設置した憲法問題調査委員会のこと)の議事録(憲法問題調査委員會議事録(テキスト)|国会図書館)を見ていくと、昭和20年の10月27日から翌年の2月末までの期間における議事録において「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条の理念に類似する文章を見つけることができます。

この議事録はかなり長いので隅から隅まで確認するのは骨が折れますが、「Ctrl」+「F」で「軍」というキーワードで検索を掛けると45か所ほどに絞ることができますので時間がある方は確認してみてもよいでしょう。

その45か所ほどの「軍」に関係する文章のうち、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条の理念に密接に関連・類似する文章といえる代表的な部分としては以下のようなものが挙げられます。

(※以下、国会図書館「憲法問題調査委員會議事録」より引用(※引用は「」内のみ。()内はサイト管理人による注釈)

  • 「即チ第一ハ軍備ノ撤廃ニ伴ヒ如何ナル改正ガナサルベキカ」(野村顧問発言:第一回総会議事録)
  • 「日本ハ現在ハ軍備ヲ撤廃シタケレドモ永久ニ陸海軍ハ無クテ良イモノデアラウカ。」(美濃部顧問発言:第一回総会議事録)
  • 「戒厳宣告ハ存置シテオイテモ良イト思フ。軍隊ガ無ケレバ不要デハナイカ従来ノ戒厳ハ軍隊ヲ前提トスル軍隊ノ無イ国ガ外国ニ在ルカ。永世中立国モ軍隊ヲ有シテヰル。」(発言者記載なし:第一回調査会議事録)
  • 「軍ニ付テハ目下ノ情勢ヨリシテ之ニ関スル規定ハ停止スルカ又ハ削除スベシトノ論ハ勿論有力ナルモノナルモ」(発言者記載なし:第三回調査会議事録)
  • 「又軍ニ関スルコトヲ憲法中ニ規定スル必要アリヤ、法律又ハ勅令ニテ規定不可能ナリヤノ問題モ考究シテオク必要アリ」(発言者記載なし:第三回調査会議事録)
  • 「宣戦ハ軍ガ無クナツテモ有リ得ルカト云フコトデアルガ」(発言者記載なし:第三回調査会議事録)
  • 「結局軍ヲ止メル否ヤト云フコトニ依リ決セラルルモノデアル」(発言者記載なし:第三回調査会議事録)
  • 「イ説論者ハ軍備ヲ撤廃シ乍ラ尚将来之ガ必要ヲ予想スルハ聯合国ニ対スル誠意ヲ欠クモノトシ一蹴サレタ。」(発言者記載なし:第四回調査会議事録)
  • 「宣戦ニ関シテハ削除残置両説存シ 削除説ハ世界最初ノ平和国家非武装国家タラントスル国家方針ヲ闡明セントスル理想主義的見地ヨリモツトモ主張セラレタガ」(発言者記載なし:第九回調査会議事録)
  • 「削除説モアルノデアルガ、国家ノ将来ヲ考ヘレバ「軍」ノ存在ハ自然デアルト考ヘ甲案デハ存置スルコトトナツタ。」(発言者記載なし:第十五回調査会議事録)

(※出典:憲法問題調査委員會議事録(テキスト)|国会図書館を基に作成)


※上記の引用部分はリンク先の国会図書館のサイトで「Ctrl」+「F」を押し、「上記の引用部分の最初の数文字」をコピペ入力して検索をかければ簡単に検出することができます。

このように、松本委員会の議事録では「軍の撤廃の是非」やそれに伴う「戒厳」や「宣戦」をどうするかという点が活発に議論されていますので、議事録の複数個所で「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という現行憲法の9条の概念に密接に関連・類似する発言が確認できます。

特に、発言者不明の「軍ニ付テハ目下ノ情勢ヨリシテ之ニ関スル規定ハ停止スルカ又ハ削除スベシトノ論ハ勿論有力」(第三回調査会)や「軍備ヲ撤廃シ乍ラ尚将来之ガ必要ヲ予想スルハ聯合国ニ対スル誠意ヲ欠ク」(第四回調査会)、「世界最初ノ平和国家非武装国家タラントスル国家方針」(第九回調査会)といった発言からは、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条につながる思想を基にした議論が、松本委員会の席上において活発に議題に乗せられていたことが十分に推測できるでしょう。

イ)松本委員会で憲法9条に通じる議論がなされた理由

ではなぜ、松本委員会でこのような「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった憲法9条に通じる理念と共通する議論がなされていたかというと、当時の日本において、明治憲法に規定された「軍」に関する条文と実際に生じている現実との間に齟齬が生じていたからです。

当時の日本ではポツダム宣言の受諾によって武装解除が徹底されていましたから、日本には「軍」という組織が存在していませんでした。

しかし、ポツダム宣言を受諾したからといって当然に憲法の効力が停止するものではなく、当時は戦前に施行されていた明治憲法(大日本帝国憲法)が未だ有効に機能していて、そこでは「天皇の統帥権」や「陸海軍」に関する規定、「軍」の存在を前提とした「戒厳」や「宣戦」の規定が存在していましたから、その連合国によって武装解除されている状態が明治憲法の上で「違憲状態(明治憲法に違反する状態)」となっていたわけです。

ですから、その「違憲状態」を回避するために新憲法で「軍」をどうするか、つまり憲法の改正案に「軍」の規定は置かないことで憲法と現実との整合性を確保するか、それとも改正案にも「軍」規定を置いたまま「軍を組織する」ことをもって憲法と現実との整合性を図るか、という点が議論の対象になったのです。

もっとも、上記に挙げた議事録の抜粋を見てもわかりますが、「軍」を憲法から削除する案は有力であったものの(※「乙案」では明治憲法で「軍」を規定していた第11条と12条が削除されています→憲法改正案(乙案)(テキスト) | 日本国憲法の誕生|国会図書館)、最終的には採用されませんでした。

松本委員会では、明治憲法に規定された「軍」と「天皇の統治権」をそのまま残す「甲案」と「軍」規定を削除する「乙案」の2つの改正案が作成され、その是非が議論されましたが、最終的にGHQに提出されたのは「軍」の規定をそのまま存置する「甲案」だったからです(※参考→松本委員会「憲法改正要綱」と「憲法改正案」 | 日本国憲法の誕生|国会図書館)。

松本委員会の委員長だった国務大臣の松本丞治や顧問として招聘された憲法学者の美濃部達吉はそもそも「軍規定の削除」には否定的で、世界的に見ても「軍」を置かない憲法は革新的過ぎましたから、松本委員会における議論の上では「軍規定の削除」が有力な意見として議論に上ったものの、結局は保守的な松本や美濃部に保守的な結論でまとめられてしまった、ということになろうかと思われます。

「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の理念は公文書の上では「日本人のオリジナル」であることが立証される

以上の事実は、戦後すぐに幣原首相の指示で開始された憲法問題調査委員会(松本委員会)という公的で正式な会議の議事録に明記されていますので、少なくともその憲法問題調査委員会(松本委員会)が開催されていた「1945年(昭和20年)10月から1946年(昭和21年)2月」までの期間において、すでに「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法9条の理念に密接に類似する思想が日本の政府内において現実に存在していたということが公文書の上で立証されることになります。

具体的には、「軍ニ付テハ目下ノ情勢ヨリシテ之ニ関スル規定ハ停止スルカ又ハ削除スベシトノ論ハ勿論有力」という発言が登場する第3回調査会は「昭和20年の11月8日」に、また憲法9条の理念に一番近い「世界最初ノ平和国家非武装国家タラントスル国家方針」という文言が登場する第九回調査会は「昭和21年の1月5日」に開催されていますので、これらの発言があった日付においては、すでに日本政府の内部において「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法9条に通じる理念の採用の是非が議論されていたことが明らかといえるでしょう。

そして、先ほども説明したように「日本人以外」が「日本人」に対して「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という文言を使用したのは、GHQが草案を日本政府に提示した「1946年(昭和21年)の2月13日」が一番最初ということが公文書の上で明らかとなっていますから、その日付が松本委員会における発言の「昭和20年11月8日」や「昭和21年1月5日」より「後」という事実がある以上、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法9条に通じる理念は、日本人自らの意思で憲法草案として議論が開始された「日本人のオリジナル」な理念であるといえます。

「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」は公文書以外でも「日本人のオリジナル」であることが立証される

以上のように、現行憲法の9条において表明される「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」といった概念は公文書の資料を証拠として議論する限り、松本委員会(憲法問題調査委員会)の議事録にしっかりと残されてありますから、「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法9条に通じる理念が、アメリカや連合国から示唆されたものではなく、日本人が日本人の意思によって憲法草案として議論を開始した日本人オリジナルなものであることは明らかといえます。

もっとも、参考にする資料を公文書以外まで広げた場合には、松本委員会(憲法問題調査委員会)の会議が行われるよりも「もっと前」に、他の日本人によって「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という憲法の平和主義の理念が構想されていた事実が判明します。

なぜなら、松本委員会を内閣に設置した当時の内閣総理大臣である幣原首相自身が、その自伝(幣原喜重郎 外交五十年/日本図書センター)において終戦直後に「軍備の全廃」と「戦争の放棄」を決意したことを明らかにしているからです。

幣原は(もちろん終戦当時は未だ首相になっていませんが…)、昭和20年8月15日に玉音放送を聞いた後、電車に乗って家路についていたのですが、その電車の中で、玉音放送によってようやくこれまでの大本営発表が嘘であったことに気付づかされた乗客たちが泣き騒ぐ様子を目の当たりにして、再び国民の意思によらない戦争の悲劇が繰り返されないための政治改革が必要不可欠であると考えるようになりました。

そして、その数か月後に東久邇宮内閣の退陣後を引き継いだ幣原が首相に選任されますが、その際、憲法に戦争の放棄と軍備の全廃を明記することをすでに決意していたのです。

【幣原喜重郎 外交五十年(人間の記録64)日本図書センターより引用】

「…(中略)…それで憲法の中に、未来永ごうそのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、他の人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。
…(中略)…よくアメリカの人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである。
…(中略)…外国と戦争をすれば必ず負けるに決まっているような軍隊ならば、誰だって真面目に軍人となって身命を賭するような気にはならん。それでだんだん深入りして、立派な軍隊を拵えようとする。戦争の主な原因はそこにある。中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思うのである。」

※出典:幣原喜重郎 外交五十年/日本図書センター238~241頁より引用

このように、幣原首相(幣原喜重郎)は終戦直後から「戦争の放棄」と「軍備の撤廃」という現行憲法の9条に通じる思想を決意し、その実現に向けて憲法改正に挑もうとしていた事実がありますから、これを合わせて考えると、終戦直後の段階で、すでに日本人によって「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という概念が生み出されていたといえるでしょう。

もちろん、この書籍はあくまでも自伝であって公文書ではありませんから、この幣原首相の記録を無視することもできるかもしれません。

しかし、先ほども述べたように、少なくとも昭和20年の10月27日には松本委員会で「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」が議題に上っていたわけですから、その時点で同じことを考えていた政治家なり学者なりが存在していたことを考えると、この幣原首相の回顧録の信ぴょう性も推して知るべしといえるでしょう。

【マッカーサーはいつ「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」を想起したか?】

先ほども述べたように、マッカーサー昭和20年の10月11日の幣原首相との会談では「戦争放棄」や「戦力の不保持」という文言は一切使用していなかったにもかかわらず、昭和21年2月3日にホイットニー渡したマッカーサーノートの中では「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という理念を使用しているわけですが、そうすると、マッカーサーがいったい「いつ」から「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」という考えを抱くに至ったのかという点に疑問が生じます。

マッカーサーの心の中で、昭和20年10月11日から昭和21年2月3日までの4か月弱の間にどのような心境・構想の変化があったのか、という点に疑問が生じるわけですが、この点、一般的には昭和21年1月24日に行われた幣原首相との私的な会談がその契機になったものと考えられています。

幣原首相は、昭和21年の1月24日、ペニシリンを手配してくれたお礼にGHQのマッカーサーを訪ねていますが、その際、幣原首相はマッカーサーと2時間ほど会談を行い「戦争と軍事施設維持を永久に放棄する条項を含むよう提案」していたことがホイットニーやマッカーサーの回想録(※注1)によって後に明らかとされていますから(※注2)、おそらくその会談における幣原首相の提案を契機にマッカーサーの中で「戦争放棄」や「戦力の不保持」「交戦権の否認」を含む草案の構想が形作られていったのでしょう。


※注1:コートニー・ホイットニー 著「日本におけるマッカーサー : 彼はわれわれに何を残したか 」毎日新聞社|国会図書館(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001739122-00)、「マッカーサー回想記(津島一夫訳)」朝日新聞社|国会図書館(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001061074-00

※注2:高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材 305~306頁、伊藤真「憲法問題 なぜいま改憲なのか」PHP新書155~157頁参照

最後に

以上のように、国会図書館に眠っている松本委員会(憲法問題調査委員会)の議事録や、古本屋でほこりをかぶっている幣原首相の自伝を確認すれば、憲法9条の「戦争放棄」や「戦力の不保持」が日本人によって生み出された、日本人オリジナルの憲法条文であることが意外と簡単にわかります(※しかも松本委員会の議事録はネット上で公開されているので自宅で簡単に誰でも確認できます)。

ですから、「アメリカ人が作った憲法9条なんか破棄すべきだ!」とか「日本人自身の手で9条を作り直すべきなんだ!」などという意見は全くの詭弁ですし、暴論とも言えます。

このような事実と異なる主張を展開する政治家や(自称)知識人、タレントなどの意見に惑わされることなく、過去の資料をあたるなどして正確な憲法知識を学ぶことが大切です。