「憲法草案はGHQが1週間で作った」が明らかに嘘である理由

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憲法改正に賛成する人の中に「現行憲法はGHQがわずか1週間で作成したものだ!」というような主張をする人が少なからずいるようです。

現行憲法である日本国憲法は、その制定改定においてGHQの民生局が作成した憲法草案(※GHQ草案・マッカーサー草案)を基に作成された経緯がありますが、そのGHQはマッカーサーから草案作成の指示を受けてからわずか1週間あまりという短期間で草案を起草し松本委員会(※日本政府が幣原内閣に設置した憲法問題調査委員会のこと)に提示していますので、その草案作成期間があまりにも短かったことを根拠として「そんな短期間で作られた憲法などポンコツだ!」「”やっつけ仕事”で作られた憲法なんてすぐにでも改正すべきなんだ!」「アメリカに押し付けられた憲法など改正して日本人の手で作り直すべきなんだ!」という理屈です。

しかし、このような主張は憲法制定過程の実情を踏まえて考えれば、明らかに失当と言わざるを得ません。

なぜなら、確かにGHQの民生局はマッカーサーから指示を受けてからわずか1週間あまりという短期間で憲法草案を作成し松本委員会に提出していますが、アメリカ政府の内部ではGHQが草案作成に着手するよりずっと前から日本の憲法改正に関する研究が続けられていましたし、新憲法(現行憲法)はGHQが作成した草案が”そっくりそのまま”の形で成文化されたわけではなく、日本政府(松本委員会)との間で繰り返された折衝と帝国議会における審議と議決という長期にわたる議論の結果誕生したものであり、決して「やっつけ仕事」で作成された中途半端な代物などではないからです。

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アメリカ政府内部では昭和20年(1945年)の10月8日以前からすでに憲法改正に関する研究が行われていたこと

今述べたように、憲法改正に賛成する人の中には「現行憲法の基になったGHQ草案は1週間足らずの短期間で作られたいい加減な代物だ」という意見があるわけですが、この「GHQの憲法草案は1週間で作られた」という部分に関して言えば、明らかな事実誤認があります。

なぜなら、アメリカ政府の内部ではマッカーサーがGHQの民生局に憲法草案の作成を指示するよりもっと前から、日本の憲法改正に関する研究と準備が入念に進められていた事実があるからです。

憲法制定過程の具体的経過については『日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要』のページで詳しく解説していますが、昭和21年2月1日に毎日新聞がスクープした松本委員会の憲法改正草案が明治憲法を微修正しただけのあまりにも保守的な内容であったことに驚いたマッカーサーが、その2日後の2月3日にGHQの民生局に対して独自の憲法草案作成に着手するよう命じ、その10日後の2月13日にGHQは松本委員会に憲法草案を提示していますから、GHQがわずか1週間あまりで憲法草案を作成したというのは、事実と言えば事実でしょう。

しかし、その2月1日に毎日新聞がスクープ記事を出す前の時点で、正確にいうと1946年(昭和21年)1月11日の時点で既にマッカーサーやGHQの下には日本の憲法改正に関する資料がアメリカ政府から届けられています。「SWNCC-228(日本統治制度の改革)」と呼ばれる文書がそれで、この文書には日本の憲法改正に関するアメリカ政府の直接的かつ具体的な方針が記載されていました。

アメリカ政府は、戦争終結前の早い段階から日本における軍国主義的統治体制の問題の根源は大日本帝国憲法の欠陥が由来しているものと考えていましたから、アメリカ政府内において国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部組織である極東小委員会(※連合国が設置した極東委員会とは関係ありません)に日本降伏後の統治体制の改革方針を研究させています。

そして、その研究結果が1945年(昭和20年)の10月8日付で作成された「日本の統治体制の改革」という文書でまとめられ(※下記参考資料参照)、その文書が翌1946年(昭和21年)の1月7日付けでアメリカ政府における日本の憲法改正に関する公式な指針「SWNCC-228(国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書二二八号)」として採択される形で、その4日後の1月11日にマッカーサーに送付されていたのです。

この「SWNCC-228(国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書二二八号)」には、日本側が自主的に統治体制を変革することができないような場合には、GHQ(マッカーサー)が日本側に対して憲法改正を示唆すべきことが明記されており、その改正すべき項目の指針も具体的に示されていましたから(※憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院|24~26頁(第3章)参照)、マッカーサーとGHQは少なくとも1946年(昭和21年)1月11日の時点で日本の憲法改正に関する具体的な内容をある程度理解していたということができます。

つまり、マッカーサーがGHQの民生局に対して憲法草案の起草を命じたのは1946年(昭和21年)の2月3日ですが、マッカーサーとGHQ民生局は、それより前の1946年(昭和21年)1月11日の時点で、アメリカ政府が1945年(昭和20年)当時から研究を重ねて編纂した「日本統治制度の改革(SWNCC-228)」の送付を受けることにより、日本の明治憲法(大日本帝国憲法)に具体的にどのような問題があり、また具体的にどのように改正しあるいは新憲法を制定する必要があるのか、といった点について具体的かつ網羅的に把握していたということになるわけです。

また、更に言えば、すでに1945年(昭和20年)10月8日の時点において、日本の憲法改正に関する指針と具体的内容のある程度の部分がアメリカ政府の内部で研究成果としてまとめられていたわけですから、遅くとも1945年(昭和20年)10月8日までにアメリカ政府における日本の新憲法(現行憲法)に関する研究はある程度の段階まで終えられていたということができるでしょう。

このように、GHQの民生局がマッカーサーから憲法草案の起草を命じられたのが1946年(昭和21年)2月3日で、その憲法草案が日本政府(松本委員会)に提示されたのが2月13日であり、その期間が1週間あまりしかなかったとしても、そのわずか1週間から10日の間でGHQが全くの白紙状態から憲法草案を作成したわけではなく、遅くともその4か月前の時点(昭和20年10月8日)ではすでにアメリカ政府における憲法改正の骨子は研究がある程度の段階まで終えられていたわけですから、GHQが作成した憲法草案は、短く見積もっても(アメリカ政府が「日本統治制度の改革」を1日で研究し終えていたとしても)4か月以上はその作成に期間を費やしているということになるのです。

なお、この点については、憲法学の基本書として長く読まれ続けている「芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店」の25~26頁で同様に指摘されています。

「総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、二月二六日に活動を開始することが予定されていた極東委員会(連合国11か国の代表者からなる日本占領統治の最高機関)の一部に天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが必要かつ望ましい、と考えたからだと言われる。もっとも、草案の起草は一週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和二十年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた。一九四六年一月一一日に総司令部に送付された「日本統治制度の改革」と題するSWNCC-二二八(国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書二二八号)は、総司令部案作成の際の指針となった重要な文書である。」

(※以上、芦部信喜著・高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店25~26頁より引用)

GHQ内部でも遅くとも昭和20年12月6日の段階で独自の憲法改正に関する「準備的研究」が行われていたこと

以上で指摘したように、アメリカ政府の内部では遅くとも1945年(昭和20年)10月8日までの期間において日本の統治制度の改革に関する憲法改正の指針が研究されており、その研究成果は翌1946年(昭和21年)の1月11日までにはマッカーサーとGHQに「SWNCC-228」として伝達されていますから、GHQ草案が「SWNCC-228」をその重要な指針として作成されている以上、「憲法草案はGHQが1週間足らずで作成した」という主張は事実と異なるものであるといえます。

なお、「憲法草案はGHQが1週間で作成した」というのが事実と異なるのは、この「SWNCC-228」の存在だけがその理由ではありません。

なぜなら、GHQはアメリカ政府からこの「SWNCC-228」の送付を受ける前の時点においても、GHQ独自の方法で日本の明治憲法(大日本帝国憲法)と民間グループが作成した新憲法の草案の分析を行い、「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」と題する論文を作成して研究を進めていたからです(※ラウエル「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」 1945年12月6日|国会図書館)。

マッカーサーは1945年(昭和20年)の10月11日にGHQの総司令部を訪れた幣原首相に対して「明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆」を行っていますが(※詳しくは『日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要』のページ参照)、マッカーサーとGHQは当初、GHQ側が草案作成を行うのではなく、日本側が自主的に改正案を作成することを期待していましたので、いざ日本側から憲法草案が提示された際に適切な評価を下すためにも日本における憲法の研究が不可欠であると考えていました。

1945年(昭和20年)の10月から翌年の1月にかけては、日本の各政党やリベラルな知識人の間で憲法改正案の議論が活発に行われており、民間グループの憲法草案なども盛んに新聞で報道されるなどしていましたから、民生局のラウエル少佐の下でそれら民間グループの草案を逐次収集・翻訳して、その分析と研究が行われていたわけです(※西修著「日本国憲法の誕生」河出書房新社20~22頁参照)。

そしてこのラウレルのレポートは、1945年(昭和20年)の12月6日付けで作成されていますから、その日付けの時点においてGHQの民生局はすでに日本の明治憲法や民間グループの作成した憲法草案をある程度研究し、日本の国民(特にリベラル層)が具体的にどのような新憲法を望み、また日本政府から提示されるであろう草案に具体的にどのような問題があるのか、という点を把握していたものと推測できます。

つまり、GHQの民生局がマッカーサーから憲法草案の起草を命じられたのが1946年(昭和21年)2月3日で実際にその憲法草案が日本政府(松本委員会)に提示されたのが2月13日であり、その期間が1週間あまりしかなかったとしても、遅くともその2か月前の時点(昭和20年12月6日)ですでにGHQは日本の明治憲法や民間グループが望む新憲法に関する研究をある程度終えていたわけですから、その後の2月13日にGHQが作成し日本政府に提示した憲法草案は、短く見積もっても2か月以上はその作成に期間を費やしているということができます。

したがって、このラウエルのレポートの存在する事実から考えても、「憲法草案はGHQが1週間で作成した」という主張は間違いであるということができるのです。

なお、この点については、前述したように「芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店」の25~26頁で同様に指摘されていますし、また衆議院の憲法審査会が作成した「「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院」の4頁でも「西修「日本国憲法の誕生」河出書房新社」の22頁を参照する形で以下のように指摘されています。

「1945年12月6日の段階で、総司令部内において『日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート』が作成されている。このレポートは、帝国憲法体制に関する様々な問題点を摘出し、①憲法を改正する必要があること、②提案される憲法改正案については、総司令部の同意を必要とすること、③憲法改正には、信教の自由や言論の自由等の諸権利、三権分立の徹底、地方自治の承認などの諸規定が設けられるべきこと、を提案していたとされる(西修著「日本国憲法の誕生」河出書房新社、22頁参照)。」

(※出典:「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院|4頁注釈5より引用)

GHQから草案の提示を受けた後、帝国議会で可決されるまで半年以上の期間にわたり国会での審議が尽くされていること

以上の2つに加えて、1946年(昭和21年)の2月13日にGHQがその作成した憲法草案を日本政府(松本委員会)に提示した後の段階において、それから半年以上の時間をかけて日本政府(松本委員会)とGHQの間における折衝が重ねられ、また帝国議会の衆議院と貴族院において議論が尽くされている点についても考える必要があります。

先ほど説明したように、GHQが作成した憲法草案は1946年(昭和21年)の2月13日に日本政府(松本委員会)に提示されていますが、その草案がそっくりそのままの形で現行憲法の条文として規定されたわけではありません。

詳細は『日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要』で解説していますのでここでは繰り返しませんが、GHQから提示された憲法草案は松本委員会で検討が重ねられ、そのGHQ草案をたたき台にして新たな日本政府の改正案である「3月2日案」が作成されてGHQに再提出され、その「3月2日案」について更にGHQとの間で徹夜の折衝が繰り返されてようやく両者が合意した「憲法改正草案要綱」が1946年(昭和21年)の3月6日に国民に公表されています。

そして更に、その「憲法改正草案要綱」は松本委員会とGHQとの間で検討と修正が行われ、ひらがな口語体の条文で作成された「憲法改正草案(内閣草案)」が同年4月17日に再び国民に公表された後、同年6月20日に帝国憲法改正案として帝国議会の衆議院に提出され、衆議院の委員会で同年7月25日から8月20日まで都合13回にわたって集中審議されています(西修著「日本国憲法の誕生」河出書房新社、75頁参照)。

ちなみに、この委員会とその後の衆院本会議の議事録は衆議院のサイト『日本国憲法制定時の会議録(衆議院)|衆議院憲法審査会』で閲覧することができます。

また更に、その委員会で修正された改正案が同年8月24日の衆議院本会議で「賛成421、反対8」の圧倒的多数をもって可決され、その後貴族院に回付されて更に議論が重ねられて若干の修正を加えられたうえで同年10月6日に再び貴族院において圧倒的多数をもって可決され、10月29日に天皇の裁可が与えられることでようやく帝国議会の憲法改正手続きが終了する、という経過を経ているのが実情です。

つまり、マッカーサーがGHQの民生局に憲法草案の作成を指示した1946年(昭和21年)の2月3日からわずか1週間から10日の間にGHQの民生局が憲法草案を作成したと考えたとしても、その後8か月間の間、政府の委員会(松本委員会)とアメリカ政府の影響力が全く及ばない日本の国会(小委員会)において議論と修正が繰り返し行われているわけですから、帝国議会で可決された新憲法(現行憲法)は、「やっつけ仕事」で作られた中途半端な代物でもアメリカから「押しつけ」られた代物ものでもないということが明らかなわけです。

ですから、このようにGHQが憲法草案を作成してから8か月以上の期間にわたって政府(松本委員会)とGHQによる折衝と帝国議会における審議と修正が尽くされている点を考えてみれば、「憲法草案はGHQがわずが1週間で作成したものだ!」という主張は、まったく道理をなさない無意味な主張といえます。

草案作成期間を強調して憲法成立の手続に疑義を唱える主張は新憲法の制定に尽力した議員やGHQ民生局の努力を愚弄するもの

以上のように、「現行憲法の草案はGHQが1週間で作成したものだ!」と事実を捻じ曲げて解釈し「そんなやっつけ仕事で作られた憲法なんか今すぐにでも改正すべきなんだ!」と断じる主張は、1945年(昭和20年)から翌1946年(昭和21年)における憲法制定過程の事実を検討してみる限り、明らかに事実誤認と言えますし、その主張自体に合理的な理由も一切存在しないといえます。

また、仮にGHQの草案が1週間から10日という短期間で作成されたことを問題にしたとしても、民主的な自由選挙で選ばれた議員が半年以上にわたって議論を重ね、しかも圧倒的多数で可決したわけですから、それを後になって「草案が短期間に作成されたから改正すべきだ!」と主張して憲法成立の手続きに疑義を呈すること自体が民主主義のプロセスを無視していると言えます。

そのような理屈が通るのであれば、国会で審議されるほとんどの法律は官僚がその法案作成と成文化作業を行っているわけですから、たとえ与党が野党と十分に協議を重ねたうえで与野党合意の上で可決されたものであったとしても「官僚が短期間に作ったものだから無効だ!」という理屈を使って無制限にその成立を否定することができてしまうでしょう。

そもそも、これらの事実を一切顧みることなく「憲法草案はGHQがたったの1週間で作成したものだから改正しろ!」などと主張をすること自体、草案作成に尽力した幣原内閣(松本委員会)とGHQの民生局、また新憲法(現行憲法)の成立に議論を重ねてくれた第一次吉田内閣と当時の帝国議会の議員の方々の苦労を無視するものであり、これらの方々の努力を愚弄するものに他なりません。

今、国民が享受している権利や自由は現行憲法があるおかげです。明治憲法(大日本帝国憲法)では法律で認められた範囲でしか主権や人権は保障されていませんでしたから、戦後すぐに新憲法(現行憲法)の成立に尽力してくれた方々が苦労と努力を惜しまなかったからこそ、新憲法(現行憲法)の下、我々は自由と繁栄を謳歌できているのです。

そのような戦後の復興に力を尽くしてくれた方々の苦労を「なかったもの」として、ことさらにGHQの草案作成期間だけをあげつらい現行憲法の成立に疑義を唱える人たちは、その主張自体があるべき過去の事実を抹消し、存在しない事実をねつ造する歴史修正主義に基づいた極めて愚かな思想に基づくことを自覚すべきなのです。