日本国民は「憲法道程の憲法論議」をいつまで続けるのか?

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このサイトでは「憲法を学んだことがない人」のことを「憲法道程」と呼ぶことにしています。

なぜ「憲法を学んだことがない人」のことをあえて「道程」に例えるかというと、「憲法を学ぶという行為」を「性行為」に例えることで、今の日本の憲法改正議論の問題点をわかりやすく顕在化できると考えるからです。

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「憲法道程の憲法論議」は「道程の性談義」と同じ

私(このサイトの管理人)は「男性」ですので「女性」の場合は違うかもしれませんが、「男子」の場合は中学1~2年生ごろになると「性」に関する興味が活発化してくるのが一般的で(※もちろん個人差はあります)、教室の隅で毎日のように猥談を繰り広げる光景は、決して私の中学時代だけに限ったことではないのが実情だと思います(私だけだったのかもしれませんが…)。

もちろん、中学二年生前後の年齢ではほぼすべての男子生徒が「道程」でしょうから、そこで繰り広げられるその猥談のほとんどは「道程」が非公式系性教材やネット、あるいは「経験者」と自称する先輩などから仕入れて来た「実際の経験に基づかない」不確かな情報を基にした議論にすぎません。

そこで論じられるのは非公式系性教材に出演するプロの出演者の「プレイ」であったり、経験者と称する先輩の「個人的な武勇伝」にすぎないわけですから、必ずしもその中身が実際の性行為の場面で役に立つとは限らないでしょう。

つまり、そこで論じられる「性行為論」は「性行為の真理」とは程遠い、「道程の性談義」にすぎないのです。

もちろん、「道程」がそういった猥談を重ねることによって性教育が育まれ人として成長できるメリットはあるかもしれませんが、そのような「虚実入り混じった」内容の「道程の性談義」をいくら重ねても、「真の意味での性行為」を理解することはできません。

仮にそのような「不確かな性知識」をもって「自分は性行為の真理を十分に理解した」と勘違いして実際に女性と性行為を行うようなことがあれば、ときにその相手の女性の身体に重大な不利益を及ぼしてしまう危険性もあるわけですから、その問題点は十分に認識しておくべきでしょう。

※たとえば、道程が非公式系性教材で見た「過激なプレイ」を「実際の性交渉の際には必ず行うものだ」と誤って認識し、実際の初体験現場で女性に強要するようなことがあればその女性の身体に重大な傷害を与える危険性が生じてしまう結果となるでしょう。

ところで、このようないわゆる「道程の性談義」の問題は憲法に関する議論の場合にも同様に当てはまります。

なぜなら、憲法を全く学んだことのない「憲法道程」がTVの討論番組や週刊誌の記事で展開される議論から仕入れた「虚実入り混じった」情報だけを鵜呑みにして憲法を語ることも、「自ら憲法を学んだ」という「経験」がない状態で議論する点を考えれば「実際の経験に基づかない」不確かな情報を基にした「道程の性談義」と同じだからです。

テレビの討論番組や雑誌の討論記事は、視聴率や購読者数等によって利益を受けるテレビ局や出版社、あるいはその番組等に広告を出稿する広告主によって支えられているわけですから、出演(執筆)する憲法学者や大学教授、弁護士や元裁判官、政治家や作家など一般的に「憲法知識があると認識されている人々」によって議論が交わされているとはいっても、その内容にはエンターテイメン的要素が多分に含まれるものと理解するのが常識的です。

テレビの討論番組や雑誌の記事で、小難しい憲法論議だけに終始しても視聴者や読者はすぐに飽きてエンターテイメントとして成り立ちませんから、時には口角泡を飛ばす議論が「行われているような体」を演出するために「個人的な見解」であったり「憲法論的に矛盾する主張」であったり「憲法を学んだことがある人なら容易に”それはおかしいでしょ”」とツッコミを入れたくなるような「虚実入り混じった」主張であっても多分に織り交ぜられているわけです。

※テレビや雑誌の憲法論議がすべて演出であると言っているのではありません。それがエンターテイメントである以上、その論者や放送局、出版社等の主観的または意図的な言動が含まれているということを言いたいだけです。

これは結局、非公式系性教材と同じです。

なぜなら、非公式系性教材作品では、ただ一般的な男女が普通にベッドで行うような性行為を再現しても誰も買ってくれませんので、そこには「普通の人がする一般的なプレイ」だけでなく実際の性行為の場面ではやらないような「コアなプレイ」など「虚実入り混じった」描写も必然的に織り交ぜて表現する工夫が必要となるからです。

先ほども述べたように非公式系性教材やネット、あるいは「経験者」と自称する先輩などから仕入れて来た「実際の経験に基づかない」不確かな情報を基に「道程」が「性行為論」を論じても、それは所詮「虚実入り混じった」内容の「道程の性談義」にすぎないのであって、いくらそれを繰り返したところで「正確な性の知識」は身に付きません。

それと同じで、テレビや雑誌の憲法論議だけから仕入れた「エンターテイメント的要素を多分に含む憲法知識」を基にいくら「憲法道程」が「憲法論」を論じても、それは所詮「虚実入り混じった」内容の「憲法道程の憲法論議」にすぎないのであって、それをいくら繰り返したところで「正確な憲法の知識」は身に付かないのです。

「憲法道程」の問題はそこにあります。

「憲法道程」が「憲法道程」である限り、どんなに議論を重ねても正確な憲法知識を得ることはできませんから、その「虚実入り混じった」不確かな憲法知識をもって、正確な憲法知識を持たないまま、憲法改正の国民投票に挑まなければならないことになってしまいます。

しかしそれは、正確な憲法知識を持っていればしなかったであろう誤った判断を、実際の憲法改正の国民投票の場で行ってしまうかもしれないということを意味します。

もし仮に、そのような誤った憲法知識によって憲法改正の是非を判断してしまった場合には、その結果が「憲法を改正するもの」であれ「憲法を改正しないもの」であれ、将来の日本において国民が本来意図していない災いを生じさせることは容易に想像できるでしょう。

なぜなら、「憲法道程」が「エンターテイメント的要素の含まれる憲法論議だけで得た不十分な憲法知識」を「憲法の真理」と誤解して「改憲または護憲」を判断してしまう場合には、その結果として改憲される(または改憲されない)日本国憲法を将来の日本国民に押し付けることになるからです。

それはつまるところ「道程」が非公式系性教材で見た「プレイ」を「性行為の真理」と誤解して実際の性行為の場面で女性に強要するのと同じですから、将来の日本と日本国民に対して重大な危険を生じさせてしまう結果に繋がることは避けられないといえるのです。

「憲法道程」が「憲法道程であることに気づかないままの状態」で憲法改正の是非を判断して本当に良いのか?

以上のように、「憲法道程」が「憲法道程」のままの状態で憲法改正の国民投票に挑むことは、その結果が「憲法を改正する」ものであれ「憲法を改正しない」ものであれ、将来の日本国と日本国民に本来意図していない災いを生じさせる危険性のある行為といえます。

私がこのサイトで「憲法道程」の皆さんに伝えたいのはそこです。

「憲法道程」のままで憲法改正の国民投票の日を迎えても構わないのか、という点を真剣に考えて、「正しい憲法知識を学ぶ」ことの必要性を分かってもらいたいのです(※このサイトに書かれてあることが正しいという意味ではなく、憲法の専門書を読むなどして正しい憲法知識を身につけてほしいという意味です)。

このまま憲法を理解せず、不確かな憲法知識のまま「憲法を改正するのかしないのか」を判断して困るのは「憲法道程」の皆さんではなく、今の子供たちであり将来の日本国民です。

にもかかわらず、その責任を放棄して現在の「憲法道程」のまま漫然と時を過ごすことが本当に正しいのか、真剣に考える時が来ているのではないか、と思うのです。