【自民党憲法改正案の問題点:第12条】人権保障に責務を強要

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自民党が公開している憲法改正案の問題点を一条ずつチェックするこのシリーズ。

今回は、「国民の責務」について規定した自民党憲法改正案第12条の問題点を考えていくことにいたしましょう。

なお、自民党憲法改正案の第12条は第11条の問題とも密接に関連しますので『【自民党憲法改正案の問題点:第11条】臣民の権利思想の復活』のページも合わせてご覧ください。

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現行憲法からは導き出すことができない「国民の責務」を規定した自民党憲法改正案の第12条

自民党憲法改正案の第12条は文章を現行憲法の第12条に似せていますので法律になじみがない人が読むと一見して違いが判らないかもしれませんが、その本質的な部分が大きく変更されています。

ではまず、現行憲法の第12条と自民党憲法改正案の第12条の双方の条文を確認してみましょう。

日本国憲法第12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

自民党憲法改正案第12条

(国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

具体的に何が大きく変更されたかというと、それは”見出し”の部分に「(国民の責務)」と記載されていることからも分かるように「国民の責務」が規定された点です。

本文に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」と規定されているように「責務」とは責任と義務のことであって、責任を果たすべき務め(義務)の言い換えですから、自民党憲法改正案の第12条は国民の自由と権利に「責任」と「義務」を伴わせることを明文で規定したわけです。

なお、自民党憲法改正案の第12条と現行憲法の第12条の文章が似ていることから「現行憲法の第12条も国民の責務を規定しているのではないか」と思われる人もいるかもしれませんが、現行憲法の第12条は「努力によってこれを保持しなければならない」と規定しているだけで、そこに「義務や責任」を伴わせているわけではありません。

自由や権利に「義務と責任」を伴わせた自民党憲法改正案の第12条とは根本的に異なりますのでその違いをまず理解する必要があります。

自民党憲法改正案の第12条が自由と権利に課した「国民の責務」はどのような問題を生じさせるか

では、このように憲法で保障される自由や権利に「国民の責務」を課した自民党憲法改正案の第12条は具体的にどのような問題を生じさせるのでしょうか。

(1)「自由と権利には責任と義務が伴う」は明治憲法と同じ

この点、先ほど挙げたように、自民党憲法改正案の第12条は後段の前半部分で「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」と規定しています。

自民党憲法改正案第12条

(国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

つまり、国民に対して「自由と権利を主張するなら国家に対して責任と義務を果たせ」と、国家に奉仕することを義務付けたわけです。

現行憲法ではこのように国民が自由や権利を主張する際に、国家権力から責任や義務を果たすことを求められることはありません。

なぜなら、現行憲法で保障される基本的人権は「人が生まれながらにして持つ権利」という自然権思想を基礎にしているからです。

この自然権思想は憲法で保障される基本的人権が国家や憲法によってはじめて与えられるものではなく人が「ただ生まれただけ」で与えられるもの(生まれた時点ですべての人に無条件に備わっているもの)だという思想ですから(いわゆる天賦人権説)、社会契約の構成員であればすべての「人」に「ただ生まれただけ」で自由や人権が保障されることになります。

人が「ただ生まれただけ」で自由や権利が保障されるのであれば、国民が自由や権利を主張する際に国家権力が条件や要件を付すことは許されません。人が「ただ生まれただけ」で保障されなければならないのが国民の自由であって基本的人権だからです。

そのため、現行憲法の下では、国民が自由や人権を主張する際に、国家権力が国民に対して義務や責任の履行を求めることはできないわけです。

しかし、『【自民党憲法改正案の問題点:第11条】臣民の権利思想の復活』のページで解説したように、自民党憲法改正案は現行憲法の第11条から「現在及び将来の国民に与へられる」との文章を削除することでこの天賦人権説思想を排除しましたから、自民党憲法改正案の下では憲法で保障される自由や権利は、人が「ただ生まれただけ」で与えられるものではなく、「国家(あるいは君主)によって臣民に与えられるもの」という思想に基礎づけられることになっています。

憲法で保障される基本的人権が「国家(君主※自民党憲法改正案では天皇)によって臣民に与えられるもの」であるのなら、国家権力が臣民(国民)の自由や権利を保障するか否かは国家権力によって判断されることになりますから、国家権力が国民に対して「自由や権利を主張するのなら国家に対して義務や責任を果たせ」と求めることも許されることになります。

そのため、自民党の憲法改正案第12条は「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」との文章を挿入したわけです。

というよりも、自民党は国民を国に奉仕させることができるようにするために、憲法第11条から天賦人権説思想を排除することで憲法の基本的人権を「国家(天皇)によって臣民にあたえられるもの」にしたうえで、第12条に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」と規定して、国民に自由や権利の保障と引き換えに、責任や義務を果たすことを強制したのでしょう。

ですが、国民に保障される自由や権利に「責任や義務を果たすこと」が強制させられれば、自由や権利を主張する国民は、国家権力からの奉仕の要求を事実上拒否できなくなってしまいます。

たとえば、国が国民に対して「授業料を無料にしてほしいなら勤労動員に参加しろ」という取り扱いをとったり(※「教育を受ける権利」の保障と引き換えに勤労奉仕という義務の履行を求める事例)、「所得税非課税世帯には選挙権を付与しない」としたり(参政権の保障と引き換えに納税の義務を求める事例)することも、理論上は可能となるわけです。

しかし、こうした国民に対する国への奉仕の義務付けは、明治憲法(大日本帝国憲法)と同じです。

先の戦時中には、物資の統制が行われたり、勤労動員への参加や軍隊への召集などが国民に強制されましたし、選挙に関しても日本では昭和三年の衆議院議員選挙で初めて普通選挙が実施されるまで国税を三円以上収めた25歳以上の男子にしか選挙権は与えられていませんでした。

こうした自由や権利の制限が可能だったのは、明治憲法(大日本帝国憲法)が天皇が臣民を統治するための欽定憲法だったからです。

明治憲法でも基本的人権の保障はありましたが、それは「法律ノ定ムル所ニ従ヒ…」「法律ノ範囲内ニ於テ…」などと法律の留保が付けられたり「天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と天皇の名において自由に制限ができるものでした。

欽定憲法の下で臣民(国民)に保障される自由や権利は、人が「ただ生まれただけ」で与えられるもの(天賦人権説思想)ではなく、「君主(天皇)が臣民(国民)に与えるもの」という思想(臣民の権利思想)に基礎づけられますので、こうした国民の自由や権利の制限も許されたのです。

そうであれば、自民党の憲法改正案第12条は、憲法を明治憲法(大日本帝国憲法)に限りなく近づける憲法と言わざるを得ません。

自民党の憲法改正案第12条は、その後段前半部分に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」との文章を挿入していますが、これは明治憲法(大日本帝国憲法)で実現されたように、国民を国家(政府)の思惑通りに徴用したり奉仕させたりすることを可能にするための改正です。

明治憲法(大日本帝国憲法)の下では、天皇を中心とした国体思想の中で、すべての国民が国家への忠誠を求められ国家への奉仕を義務付けられて全体主義的統治体制に突き進み軍国主義を拡大させて敗戦を招きました。

そうした憲法に戻す作用を持つ自民党憲法改正案の第12条の危険性を十分に認識しておく必要があるのです。

(2)「公益」や「公の秩序」を理由に基本的人権を制限するのも明治憲法と同じ

自民党憲法改正案の第12条は後段の後半で国民に保障される自由や権利について「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と規定しています。

自民党憲法改正案第12条

(国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

つまり、国民が自由や基本的人権の保障を主張することが「公益」や「公の秩序」に反する場合には、国家権力が制限することも認められるとしたわけです。

この点、現行憲法の第12条は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とされていて「公共の福祉」を理由にした制限が許されるだけですから、現行憲法の下では「公益」や「公の秩序」を理由として国民の自由や基本的人権を制限することはできません。

現行憲法では「公共の福祉」に反する場合にしか制限することが許されない国民の基本的人権を、「公益」や「公の秩序」に反する場合にまで制限できるようにしたのが自民党憲法改正案の第12条なのです。

具体的に説明しましょう。例えば「表現の自由」の制限のケースです。

現行憲法では第21条で表現の自由が保障されていますから、他人の言論を批判したり非難したりする表現行為は基本的人権として最大限に保障されなければなりません。

そのため、たとえば私がどこかの一般人が投稿したツイート内容の間違いを指摘する記事をブログで公開しその一般人の意見を批判・非難したとしても、それが批判・非難にとどまる限り、ブログの記事が裁判所によって差し止めされることはないのが通常です。

これは、言論が正当な批判・非難にとどまるかぎり個人(私)の「表現の自由」が保障されなければならないので、司法が個人の「表現の自由」を制限する差し止め請求は許されないということです。これが「表現の自由」が保障されるということです。

一方、たとえば私がその一般人を誹謗中傷する記事をブログに書き連ねて人格権を損ね続けたとします。こうした場合は、その一般人が弁護士に相談して私の個人情報の開示請求をし裁判が提起されて差止請求などが出されれば、私のブログは閲覧に制限が掛けられてしまうでしょう。

これは私に保障されるべき「表現(言論)の自由」とその相手方に保障されるべき「人格権(幸福追求権やプライバシー権)」という基本的人権を比較考量して私のブログの内容がその相手の名誉感情を棄損するため司法が公開を取りやめさせたということになりますから、ブログ記事の公開を差し止められた私にとっては「表現の自由」の制限となります。これが「公共の福祉」による人権の制限ということです。

「公共の福祉」という文言は解釈に争いもあり論証も複雑で学者でもない私がここで説明するのは困難ですが、弁護士の伊藤真氏の言葉を借りるなら「自分勝手はだめですよ、自分の事だけを考えていてはダメですよ」という意味合いになります(※伊藤真著「憲法問題」PHP新書87頁)。

表現の自由は憲法で保障された基本的人権ですから最大限に保障されなければなりませんが、他者の人格権を棄損するような自分勝手な表現行為はその他者の幸福追求権(プライバシー権)等の基本的人権を侵害することになりますので、表現者の表現の自由という基本的人権も比較考量のうえで制限されることも許されなければなりません。これが「公共の福祉」によって基本的人権が制限され得ると規定した現行憲法の第12条の意味です。

しかし、現行憲法では「公共の福祉」に反する場合にだけ制限が許されるとしている基本的人権を、自民党憲法改正案第12条のように「公益」や「公の秩序」に反する場合にまで制限が許されるとしてしまうと、国家権力の都合で自由に国民の基本的人権が制限されてしまう危険性が生じます。

なぜなら、「公益」は「国益」の言い換え、「公の秩序」は「現在の一般社会の利益」の言い換えだからです。

「国益」とは「国の利益」、「国」とはその運営をゆだねられている「政府」のことであって「政府」を形成するのは政権与党、現状では自民党ということになりますから、「国益に反する権利行使は制限され得る」という文章は「自民党の不利益になる権利行使は制限され得る」という意味になってしまいます。

また、「公の秩序」とは「現在の一般社会で形成される秩序」という意味になりますが、その「現在の一般社会で形成される秩序」は現在に生きる多数の一般市民によって形成されますから、多数派(マジョリティー)の利益のために少数者(マイノリティー)の自由や人権がやみくもに制限される余地が生じてしまうかもしれません。

たとえば、総理大臣が憲法や法律に違反するなんらかの行為を行ったという事案があった場合に私がツイッターで「首相の行った○○の行為は憲法違反だ!辞任しろ!」というツイートをした場合、こうした批判・非難は個人の人格権を侵害する誹謗中傷とは異なりますので「公共の福祉」に反するものとは言えませんから、この私の批判・非難は憲法の「表現の自由」として保障される以上、この私のツイートを行政や司法が差し止めることはできません。

しかし、自民党憲法改正案の第12条の下では「公益」や「公の秩序」に反する言論も制限され得ることになりますから、私が首相を非難した「首相の行った○○の行為は憲法違反だ!辞任しろ!」とのツイートは政府の利益を損ねるとの解釈も成り立つ結果、自民党憲法改正案の第12条の規定から「公益を損ねる」との理由で行政がいくらでも自由に制限し、差し止めることもできるようになってしまうでしょう。

また、たとえば現行憲法では「公共の福祉」に反する基本的人権の行使は制限され得ると考えられますので、たとえレイシストが多数派を占めたとしても、在日外国人やLGBTなど性的少数者を差別し誹謗中傷する表現行為は「表現の自由」を保障すべき要請があっても「公共の福祉」を理由に制限することが可能ですが、自民党憲法改正案の第12条は「公の秩序」に反する人権の行使が制限されることになりますので、仮に将来、レイシストが多数派を占めるような社会になってしまえば、在日外国人や性的少数者を差別する言動があった場合であっても、その差別的言動を批判・非難する言動(表現行為)の方が「公(多数派)の秩序を害する」という理由で制限されてしまうことになり、レイシストの差別的言動を抑止することが出来なくなってしまうかもしれません。

仮にそうなれば、差別的言動が社会に拡散されることで在日外国人や性的少数者などマイノリティーへの抑圧はますますエスカレートしてしまう懸念も生じます。

こうした「公益」や「公の秩序」に反する基本的人権の制限は、明治憲法(大日本帝国憲法)が施行されていた戦前・戦中と何ら変わりません。

先の戦時中は、国を守るためという理由で資源を統制されたり戦争末期には学徒動員など戦場にも多くの国民が駆り立てられました。これは明治憲法(大日本帝国憲法)で保障される基本的人権が「人が生まれながらにして持つ権利」ではなく「天皇が臣民に与える権利」であると理解されていたため、「公益」つまり「国(天皇・政府)の利益」のために臣民(国民)の自由や基本的人権を制限することが認められていたからに他なりません。

また、軍国主義が拡大されていく過程では、政府(軍部)の意向に反対する言論などが抑圧を受けましたが、これも「公の秩序(多数派の利益)」のために少数者の人権が制限された証左ですから、「公の秩序」を理由に基本的人権を制限する余地を与えていたことが軍国主義や全体主義を拡大させたとも言えます。

それにもかかわらず、自民党は憲法改正案第12条のように「公益」や「公の秩序」のために基本的人権の制限を許す規定に変えようとしているわけです。