【自民党憲法改正案の問題点:第13条】個人を「人」にして支配

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自民党が公開している憲法改正案の問題点を一条ずつチェックするこのシリーズ。

今回は、「人としての尊重等」について規定した自民党憲法改正案第13条の問題点を考えていくことにいたしましょう。

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「個人の尊重」を「人の尊重」に変えた自民党憲法改正案第13条

自民党憲法改正案の第13条はその”見出し”の部分からも分かるように「人としての尊重等」の規定を置いています。

この自民党憲法改正案の第13条の規定は、その文章自体は現行憲法の第13条とほぼ変わりませんが、条文に内在する思想とその意味が本質的な部分から大きく変更されていますので注意が必要です。

では、具体的にどのように変えられているのか、それぞれの条文を見てみましょう。

日本国憲法第13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

自民党憲法改正案第13条

全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

大きく変更されている部分は2か所です。

まず一つ目が、現行憲法では「個人として尊重される」とされている部分を「人として尊重される」と変えている部分。

二つ目が、現行憲法では「公共の福祉に反しない限り」とされている部分を「公益及び公の秩序に反しない限り」と変えている部分です。

もっとも二つ目の「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えた部分に関しては、すでに自民党改正案の第12条の問題点を指摘した『【自民党憲法改正案の問題点:第12条】人権保障に責務を強要』のページで解説していますので、ここでは、自民党憲法改正案の第13条が「個人として尊重される」の部分を「人として尊重される」と変えた部分について、その問題点を考えていくことにいたしましょう。

「個人として尊重」が「人として尊重」に変えられることの意味

上に述べたように、自民党憲法改正案の第13条は現行憲法では「すべて国民は、個人として尊重される」としている部分を「全て国民は、人としての尊重される」と変更しています。

現行憲法で国民は「個人」として尊重されなければならないわけですが、それを自民党はただ単に「人」として尊重されれば足りると変えたわけです。

この点、「個人」も「人」に違いありませんから、「個人」が「人」に変えられても文章の意味合いは変わらないと思う人もいるのかもしれませんが、以下で説明するように「個人」と「人」では人権保障に大きな違いが生じてしまいます。

(1)多様性が否定される

「個人」が「人」に変えられることで生じる問題としてまず挙げられるのが、多様性が否定されるという点です。

そもそも現行憲法が第13条で「個人として尊重される」と規定したのは、国民一人一人の違いを認めたうえでその個性を尊重し、ホモサピエンスの総体としての「人」としてではなく、かけがえのない一人の「個人」としてその自由と権利を保障する必要があるからに他なりません。

人はそれぞれ考え方や価値観が異なりますから、何を幸福の基準とするかも人それぞれで異なります。休みの日には外でスポーツをしたり友人と旅行や食事に出かけることが幸せだと思う人がいる一方、家に閉じこもって一人で漫画を読んだりゲームをしたりする方が幸せだと思う人だってたくさんいるでしょう。

優しい人が好きだという人もいれば、厳しい人に魅力を感じる人もいますし、気弱な人が好きだという人がいる一方、積極的な人が好きだという人もいるはずです。

人がそれぞれ何を幸福ととらえて生きていくかはその「個人」で違いますから、人が「個人」として尊重されることは「自由」にとって不可欠な要素なのです。

人が「個人」としてではなく、十把一絡げの「人」として一括りにされてしまえば、「自由」に生きることが出来なくなってしまいますから、それは他者から自分の人生を決定される「奴隷の自由」と同じです。

しかし、他者から人生の選択を決定される「奴隷の自由」を受け入れられる人はいないはずです。人間が「自由」を求める生き物だという確信を否定する人はいないはずであって、「自由」こそ人類が生きていくことの目的といえますから、「自由」は人類普遍の原理と言えるのです。

日本国憲法の前文には「自由のもたらす恵沢を確保し」と述べた部分があり、これは基本的人権の尊重を明示した個所と理解できますが、憲法が民主主義を採用し「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つを基本原理としているのも「自由」を実現するためであって、そのためには民主主義の実現が不可欠だからこそ、その3つの基本原理を憲法に規定したわけです。

このように、人が「自由」であることを実現するためには民主主義の実現が必要で、そのためには基本的人権を保障する必要があるわけですが、そのためには人を「人」としてではなくそれぞれ異なる「個人」として尊重することが不可欠なので、憲法第13条は「すべて国民は、個人として尊重される。」と規定しているのです。

しかし、これを自民党改正案のように「人」にしてしまうと、人の個性は無視されて、全ての人が「人」という総体でひとくくりにされてしまいますので、国家(政府)は国民をただ「人」としてその自由や権利を保障すればよく、「個人」の違いは無視してもよいことになってしまいます。

たとえば、LGBTなどの性的少数者がいたとしても、行政はその性的な個性は無視して単に「人」として尊重すれば足りますから、婚姻制度や教育・労働・医療現場などで性的少数者の人権保障を考慮しなかったとしても、それは憲法違反ではなくなってしまうわけです。

また、たとえば「引きこもり」など社会で生きづらさを持つ人たちがいたとしても、行政はそうした生きづらさを抱える個人の個性は無視して単に「人」として尊重すれば足りますから、社会参加の機会を得られず社会から孤立した「引きこもり」の人たちの社会参加を支援せず、「社会に適合できないお前たちが悪い、自分で努力しろ」とのスタンスで無視しても、それは憲法違反と言えなくなってしまうのです(※この点は自民党憲法改正案第14条1項の問題点を解説した『【自民党憲法改正案の問題点:第14条1項】社会的弱者の差別を放置』のページでも論じています)。

このように「個人」を「人」に変えてしまうと、多様性が損なわれ少数者(マイノリティー)の自由や権利保障がないがしろにされていく懸念がありますのでその点で問題があると言えるのです。

(2)全体主義に親和性を持つ危険性

また、「個人」としてではなく「人」として自由や権利が保障されるとしてしまうと、これまで「個人」として個性をもっていた国民が、十把一絡げの「人」という総体的なもので括られる結果、自ずとそこに括られる国民が集団に同化されていく懸念もあります。

「個人」の尊重をなくし「人」として一括りにまとめられてしまえば、個性を尊重されない国民の意思決定は必然的に集団に同化していくことになる結果、戦前・戦中と同じように全体主義的な方向に向かってしまうのではないでしょうか。

というよりも、むしろ自民党は国民を全体主義的な方向に誘導するために、「個人」から「個」を取り除いて十把一絡げの「人」として国民の意思決定を集約しようとしているように思えます。

明治憲法(大日本帝国憲法)の下では、国民に保障される自由と人権は「天皇によって臣民に与えられるもの」という臣民の権利思想に基礎づけられていましたので、国民は「個人」として尊重されず、天皇の「臣民(臣下)」として自由や人権が様々な場面で制約を受けることになり、報道の自由などの基本的人権が制限される方向に作用して、国全体が全体的な方向に作用し戦争に突き進み敗戦に至りました。

こうした失敗を顧みれば、「個人」を「人」に変えてしまう自民党改正案第13条は到底受け入れられるものではないと言えるのです。

「個人として尊重される」から「個」を取り除いて「人」とする改正は人権保障を明治憲法に戻す改正

以上で説明したように、現行憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」から「個」を取り除き「すべて国民は、人として尊重される」と変える自民党改正案第13条は、個人の多様性を否定し国民を「人」というある種一塊の集団に変えてしまう作用を持つことから、国民全体の政治的意思決定が一定の方向に誘導されることで全体主義的な方向に傾く余地を与える点でとても危険な改正といえます。

この変更は、自由や人権を「天皇から臣民に与えられるもの」とする臣民の権利思想を背景にしていた明治憲法(大日本帝国憲法)に限りなく近づけるものであり、先の戦争の反省の下で制定された現行憲法を破棄し、その人権保障を戦前に戻すのと同じです。

国民を「個人」としてではなく「臣民(人)」としてその自由や人権を保障していた明治憲法(大日本帝国憲法)が80年前の国民に何をもたらしたか、その点を慎重に考える必要があります。