基本的人権の制約が許されるのは「公共の福祉」か「公益」か

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新型コロナウイルスの感染拡大に関連付けて、全く関係のない憲法への緊急事態条項の導入を正当化しようと企む国会議員の主張が不当なものである件に関しては『新型コロナウイルスを緊急事態条項の憲法改正に結び付ける卑劣』のページで詳しく論じましたが、この記事の中で紹介した国会議員の発言で、若干気になるものがありました。

その発言とは、環境大臣を務めている自民党の某衆議院議員の発言です。

この議員は、新型コロナウイルスの感染拡大に関連して一部の国会議員から憲法に緊急事態条項を導入するよう求める意見が出ていることについて問われた際に「私は憲法改正論者だ。社会全体の公益と人権のバランスを含めて国家としてどう対応するか、問い直されている局面だ」と回答したと報じられています(※参考→https://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/200131/plt20013114270012-n1.html)。

つまりこの議員は、「公益」の必要性があれば国民の基本的人権を制限することもそのバランスによっては肯定されることもありうる(問い直す必要性がある)、と考えているわけです。

しかし、この議員のこの考えは、日本国憲法の精神とは相いれないような気がします。

なぜなら、日本国憲法は「公共の福祉」の範囲内に限って基本的人権の制約を認めているにすぎず、「公益」のために基本的人権を制限することを許していないからです。

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憲法で保障された基本的人権は「人類普遍の原理」であって「侵すことのできない永久の権利」

この議員の発言の問題点を論じる前提として、まず基本的人権の性質について理解してもらわなければなりませんので簡単に説明することにいたしましょう。

この点、憲法が「基本的人権の尊重」を基本原則(三原則)の一つとして挙げているのは皆さんご存知のことと思いますが、ではその「基本的人権の尊重」が具体的に憲法のどの部分から導かれるかというと、それは憲法の前文です。

憲法の前文は「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し」と述べている箇所がありますが、この部分で基本的人権を尊重することを宣言し、それに続く「これは人類普遍の原理であり」「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と述べた部分でその基本的人権の不可侵性を確認し基本的人権の保障を確立しているものと考えられています。

日本国憲法:前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

また、憲法11条では憲法で保障される基本的人権が「侵すことのできない永久の権利」「現在及び将来の国民に与えられる」と規定されていますので、憲法はここでも基本的人権の不可侵性を確認しているものと考えられています。

日本国憲法第11条

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

この「現在及び将来の国民に与えられる」とは、憲法で保障される基本的人権が国家や憲法によってはじめて保障されるものではなく、憲法で保障される基本的人権が「人が生まれただけ」で保障されるものだという自然権思想に基づくことを宣言しています。

つまり、憲法で保障される基本的人権は「人がただ生まれただけ」で行使できるものであり、そうした絶対的・普遍的・不可変的な存在である基本的人権の性質が、現行憲法で保障された基本的人権の特徴的な性質であると考えられているわけです。

ではなぜ、現行憲法が基本的人権の保障についてこのような性質を持つに至ったかというと、それは人権保障が不十分だった明治憲法(大日本帝国憲法)の欠陥が先の戦争の過ちを招いた一因として考えられたからです。

現行憲法は形式的には明治憲法(大日本帝国憲法)の改正手続きを経て制定されていますので、現行憲法が制定される前の戦前や戦中は明治憲法(大日本帝国憲法)が施行されていたわけですが、明治憲法(大日本帝国憲法)においても基本的人権を保障する規定は置かれていました。

しかし明治憲法(大日本帝国憲法)における人権保障は「法律ノ定ムル所ニ従ヒ…」「法律ノ範囲内ニ於テ…」「法律ニ依ルニ非スシテ…」あるいは「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」などと法律や臣民義務の留保が付けられており、また「天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とすることで戦争等が発生した場合は天皇の名において自由に制限することができるものだったのです。

これは、明治憲法(大日本帝国憲法)における基本的人権が「天皇から臣民に与えられるもの」に過ぎないと考えられていたからです。

しかし、そうした法律や天皇大権による人権保障の留保が当時の国家指導者や軍部に利用され、国民を戦争にまい進させることを法的に正当化させることになり、終わりの見えない戦争に突き進むことを許してしまうことになりました。

こうした反省があったことから、戦後の日本では、基本的人権の不可侵性を確立させる必要性が求められました。そのため、戦後に制定された現行憲法では基本的人権を「人類普遍の原理」であって「侵すことのない永久の権利」とすることで、その人権保障を確立させたわけです。

つまり、明治憲法(大日本帝国憲法)では「天皇から与えられるもの」に過ぎず国家権力が自由に制限できるものであった基本的人権を、「ただ生まれただけで与えられるもの」という自然権思想に立脚することで基本的人権の不可侵性を確立させたのが現行憲法における「基本的人権の尊重」の基本原理であると言えるのです。

基本的人権は「公共の福祉」の制約を受ける

このように、現行憲法は明治憲法(大日本帝国憲法)で不十分だった基本的人権の保障を確立させましたが、だからといってその基本的人権に制約がないわけではありません。

憲法で保障された基本的人権も「公共の福祉」の範囲で制限を受ける余地があるからです。

現行憲法の第12条は、憲法が保障する自由と権利は「公共の福祉」のために利用することを求めていますから、日本国憲法は「公共の福祉」の範囲内で基本的人権が制約されることをあらかじめ予定したうえで基本的人権の保障を確立させていると言えます。

日本国憲法第12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

では、その「公共の福祉」とは何なのでしょうか。

この点、「公共の福祉」の概念を説明するのは私の知識や文章力では難しいものがありますのでうまく表現することができませんが、弁護士の伊藤真氏はその著書「憲法問題(PHP新書)」の中で次のように説明されています。

現憲法は自由と権利について、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と書いています。
ここに登場する「公共の福祉」は、どういう意味でしょうか。公共とは、人々の集まりのこと。英語でいえば、Public です。つまり公共の福祉(Public Welfare)といえば、多くの人々の福祉という意味になります。
具体的に何が公共の福祉に当たるのかは解釈によって個別に決まるため、ここでは詳細を除きますが、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」という一文は、簡単にいうと、自分勝手はだめですよ、自分のことだけ考えていてはいけませんよ、というふうに理解しておけば差し支えないと思います。

※出典:伊藤真著「憲法問題」PHP新書 86~87頁より引用

この伊藤先生の言葉を借りるなら「公共の福祉」は「自分勝手はだめですよ」というふうな言葉に言い換えることができますから、憲法で保障される基本的人権も自分勝手で自分のことだけを考えているような行使は「公共の福祉」の調整の中で制限される余地はある、ということになるわけです。

基本的人権の制約が認められるのは「公共の福祉」であって「公益」ではない

このように、日本国憲法で保障された基本的人権は「公共の福祉」の制約を受けることが前提となっているうえでその保障が確立されたものだということが言えます。

では、これを踏まえたうえでこのページの冒頭で紹介した自民党の某環境大臣の発言を検討してみますが、この議員は「社会全体の公益と人権のバランスを含めて国家としてどう対応するか、問い直されている局面だ」と述べたと報道されていますので、この議員は「公益」の必要性とのバランスが取れれば基本的人権を制限することも許される余地がある、と考えていることになります。

つまり、この議員は「公共の福祉」ではなく「公益」を理由に基本的人権を制限することを肯定しているわけです。

しかし、先ほど説明したように、日本国憲法が基本的人権の制約を認めているのは「公共の福祉」であって、「公益」ではありません。

「公共の福祉」と「公益」は「公益」と「公共」の字面が似ていることから両者を同列に解釈しがちですが、「公共(公共の福祉)」と「公益」は似て非なるものです。

「公益」は「National Interest」、「国益」の言い換えですから(※前掲伊藤「憲法問題」88頁参照)、「国益」は「国の利益」となりますが、その「国」について国民を代表し運営しているのは「政府」となりますので、「公益」は「政府の利益」と言い換えることもできます。

ではその「政府」とは何かというと、今の政府は政権与党の自民党(と公明党)が組織する安倍内閣(安倍政権)ということになりますから、「政府の利益」は「安倍政権(または自民党)の利益」ということになります。

つまりこの自民党の某環境大臣は「安倍政権(政権与党の自民党)の利益のために基本的人権を制限することを問い直せ」と述べたことになるわけです。

この環境大臣の発言は憲法尊重擁護義務に違反する

以上で説明したように、この自民党の某環境大臣は新型コロナウイルスの感染拡大にかこつけて「安倍政権(自民党)の利益のために国民の基本的人権を制限することを問い直せ」と述べてしまったことになるわけですが、先ほど説明したように、現行憲法の日本国憲法が基本的人権の制約を認めているのは「公共の福祉」であって「公益」ではありません。

ですから、この大臣は日本国憲法を逸脱して基本的人権の制約を肯定したことになりますが、日本国憲法は99条ですべての公務員や議員に対して憲法尊重擁護義務を規定していますので、この環境大臣の発言は憲法尊重擁護義務に違反して国民の基本的人権を制限することを肯定したことになります。

日本国憲法第99条

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

つまりこの大臣の発言は、憲法尊重擁護義務(憲法99条)に違反する違憲なもの、ということができるのです。

「公共の福祉」と「公益」の違いを理解しなければ知らぬ間に明治憲法に戻されてしまう

ところで、憲法の改正を積極的にアナウンスしている自民党は自党のサイトで憲法改正案を公開していますが、その自民党案では憲法12条の規定について次のような条文が置かれています。

自民党憲法改正案第12条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

※出典:自民党憲法改正案 を基に作成

自民党の憲法改正案はこのように日本国憲法で保障された基本的人権について「常に公益及び公の秩序に反してはならない」としていますが、先ほど説明したように現行憲法の第12条では基本的人権は「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とされていました。

そうして比較すると、現行憲法では「公共の福祉」でしか制約が認められない基本的人権を、自民党は「公益」や「公の秩序」の必要性を理由に国家権力が制限できるよう変えてしまいたいと考えていることがわかります。

これは先ほどから説明している自民党の某環境大臣の考えと同じです。某環境大臣も基本的人権を「公共の福祉」ではなく「公益」の必要性を理由に制限することを肯定しているからです。

もちろんこの環境大臣は自民党の議員だからそれは当然なのですが、そうであればその環境大臣の発言は問題となります。

なぜなら、環境大臣というある種の権力を利用して、あたかも現行憲法の基本的人権が「公益」や「公の秩序」によって制約できるが如き印象を国民に植え付けたことになるからです。

「公益によって基本的人権の制約を認めることを議論する必要がある」などという環境大臣の言葉を聞いた人の中には「現行憲法で基本的人権は『公益』の必要性があれば制約も許されるんだ」と誤って理解する人もいるかもしれませんが、仮にそう理解してしまえば、いざ自民党の憲法改正案が国会で発議されて国民投票にかけられたとしても「現行憲法でも基本的人権は公益を理由に制約を受けているのだから憲法が改正されても解釈に変更はないだろう」と判断して自民党の改憲案に賛成票を投じてしまうかもしれません。

つまり、こうした環境大臣の発言が許されれば、憲法改正によって「公益(安倍政権・自民党の利益)」のために国民の基本的人権が制約されるよう変えられてしまうにもかかわらず、それに気づかないまま憲法の改正に賛成してしまう人が出てしまうことも十分に考えられるわけです。

仮にそうなれば、それは国民がその内容を理解しないまま憲法が改正されるということになりますから、それは主権者が理解しないままの憲法改正であって立憲主義の破壊であり民主主義の破壊です。

「公共の福祉」と「公益」の何が違うのか。

この違いを正確に理解しておかなければ、我々国民が知らぬ間に憲法が改正されて、いつの間にか戦前のような窮屈な国に変えられてしまう危険性があることにすべての国民が気付く必要があります。