憲法9条の改正に賛成する人の中に「日本が侵略戦争をするわけがないんだから9条は改正してもいいんだ」と主張する人がいます。
現行の憲法9の改正案では2項に「自衛隊を明記する案」だけでなく「国防軍を明記する案」や「2項自体を削除する案」なども出ていますから、その改正が実現すれば当然、日本は「戦争ができない国」から「戦争ができる国」になってしまいます。
…が、その改正によってできるようになる「戦争」が「侵略戦争」ではなく他国から攻められたときに自衛手段としてなされる「自衛戦争」に限られるというのであれば「戦争」をすることも許されるはずだ…だから「9条は改正してもいいんだ」と言う理屈です。
しかし、この「侵略戦争をしないなら戦争ができる国になっても構わない」と言う理屈は、それを言っている時点ですでに破綻しています。
なぜなら、古今東西の「侵略戦争」は概ね「自衛戦争」の名の下に行われるのが通常だからです。
「侵略します」と言って「侵略戦争」を始めるバカな国はない
そもそも、「侵略戦争をします」と言って他国の侵略を始めるバカな権力者はいません。
そんなことを言い出せば、外交的に孤立してしまいますし、そもそも世論がついてこないからです。
他国を「侵略」する「戦争」は、その相手国の国民を殺戮し、財産を奪うことを意味しますから、たとえ自国の利益になる行為であっても、ほとんどの国民はそのような残虐な行為をしてまで豊かになりたいとは考えません。
大義名分のない戦争など国民は支持してくれませんから、政治家は戦争をしたい場合であっても「これから侵略戦争をしますよ」とは言わないわけです。
では、政治家が他国を侵略したい場合にどうするかと言うと、他国からの危機を煽って国民の不安を駆り立てたうえで「攻撃しないとこちらが侵略されてしまいますよ」という世論を作り出し、「相手国を攻撃しないと自国が攻撃されてしまう」という大義名分を国民に植え付けるわけです。
「自衛戦争」であれば国民も納得しますから、あくまでも「自衛戦争」の「体(てい)」を装うことは必須です。
ですから、古今東西の「戦争」というものは、それが「侵略戦争」であろうと「自衛戦争」であろうと、おしなべて「自衛」の名の下に行われているということが言えます。
古今東西の「戦争」のほとんどは「自衛戦争」
「戦争」が「自衛戦争」の名の下に行われていることは歴史上の「戦争」を振り返ればわかります。
911やイスラム国のテロは彼らからすれば「ジハード(聖戦)」ですし、ロヒンギャの虐殺もミャンマー政府から見れば「自衛」のための行為として正当化されています。
イラク戦争はアメリカからすれば化学兵器を持った(持っていた事実は見つかりませんでしたが…)危険な国から世界を守るための「自衛戦争」でしたし、シリア政府軍が反政府勢力の拠点都市に所在する病院をミサイルで狙い撃ちにするのもシリア政府からみれば「自衛戦争」でしょう。
パレスチナ人によるテロはイスラエルの侵略に対する「自衛」のための抵抗ですが、イスラエルが年がら年中パレスチナの一般市民を砲撃しているのだってイスラエル人からすれば「自衛」のための攻撃にすぎません。
朝鮮戦争やベトナム戦争はアメリカとソ連の代理戦争でしたが、アメリカからすれば自由主義陣営を社会主義陣営の侵略から守るための「自衛戦争」ですし、ソ連からすれば自由主義思想の侵略拡大を防ぐための「自衛戦争」といえます。
ナチスだってそうです。第二次大戦前のドイツは第一次大戦の敗戦で生じた多額の賠償金の支払いで疲弊していましたから、ポーランドへの侵攻とそれから始まる欧州全体への侵略は、ナチスからしてみればドイツ国民を守るための「自衛戦争」の「体(てい)」よって始められ、「自衛戦争」だからこそ当時のドイツ国民はそれを支持したわけです。
日本が中国(満州)で行った戦争はソ連の脅威から日本を守るための「自衛戦争」でしたし、東南アジアで繰り広げられた戦争はアジアの国々から見れば「侵略戦争」に他なりませんが、日本からすれば「アジアの国々を欧州列強の支配から独立させる」という大義名分の下で進められた(大東亜共栄圏構想)「自衛戦争」です。
もっと遡れば、たとえば信玄の信濃攻略だって信濃の民衆を戦乱から解放するための「自衛戦争」でしたし、信長の比叡山焼き討ちだって、古い寺社勢力から民衆を守るための「自衛戦争」といえます。
ローマ帝国がユダヤ国家を滅ぼしたのだって、ローマからしてみれば反乱を起こしたユダヤ自治国家からローマ市民を守るための「自衛戦争」だったでしょう。
このように、過去の歴史を振り返れば、古今東西の「戦争」というものは、それが「自衛」のためであろうが「侵略」を目的としたものであろうが、「自衛」の名の下に行われていたことがわかります。
自衛戦争をも放棄したのが9条
ところで、日本国憲法の9条は「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」をも放棄したところにその特徴があります。
憲法9条の1項では「国際紛争を解決する手段」としての「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」が「永久に放棄」されていますので、日本は「戦争」をすること自体を憲法で放棄しているものと考えられます。
しかし、「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは具体的には「侵略戦争」を意味したものと解されていますので、この9条1項の規定が「侵略戦争だけ」を放棄するものなのか、それとも「自衛戦争も」放棄したものかという点には解釈に争いがあります。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
つまり、憲法では「侵略戦争」を放棄していることは明らかですが、「9条1項で放棄されたのは侵略戦争だけで自衛戦争は放棄されていない」という考え方も理論的には成り立つことになるわけです。
この点、「9条1項で放棄されたのは侵略戦争だけで自衛戦争は放棄されていない」という説に立てば、日本では「侵略戦争」をすることは認められませんが「自衛戦争」をすることは憲法上否定されないことになります。
しかし、仮に「9条1項で放棄されたのは侵略戦争だけで自衛戦争は放棄されていない」という説に立ったとしても、憲法上は「自衛戦争」すら行うことはできません。
なぜなら、憲法9条の2項で、「陸海空軍その他の戦力」の保持と「交戦権」が認められていないからです。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「陸海空軍その他の戦力」の保持と「交戦権」が認められていないのであれば、”戦争をする戦力”を保持すること自体ができませんし、交戦権もない以上、他国と”交戦”することも禁じられますから、日本の憲法では「戦争」をすること自体が事実上禁止されているといえます。
ですから、結局は「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」すらも認められない、というのが憲法上の一般的な解釈(通説)になり、歴代の日本政府もこの立場をとっています(※芦部信喜「憲法(第6版)」岩波書店57,58頁参照)。
「甲説をとっても、二項について、「前項の目的を達するため」に言う「前項の目的」とは、戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すにとどまると解し、二項では、一切の戦力の保持が禁止され、交戦権も否認されていると解釈すれば、自衛のための戦争を行うことはできず、結局すべての戦争が禁止されているということになるので、乙説と結論は異ならなくなる。これが通説であり、従来、政府もほぼこの立場をとってきた。」
※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第6版)」岩波書店 57~58頁より引用
ちなみに、今現実に日本に自衛隊が存在しているのは、自衛隊の戦力は憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力」には当たらず「必要最小限度の実力」であると政府が解釈しているからです。
「必要最小限度の実力」の行使であれば、「自衛」のための”戦闘”であってもそれは「戦争」ではなく「必要最小限度の実力の行使」になり「自衛戦争」にはならないので自衛権の行使としての自衛隊の武力(最小限度の実力)の行使は憲法上「違憲ではない」と言えます。これが歴代の政府がとってきた理屈です。
常識的に考えるとこの理屈はおかしいのですが、理屈としては一応筋が通っているので、この政府の解釈の範囲内において、今現在の自衛隊の存在が認められているわけです。
ただし、いずれにせよ、日本では憲法9条の1項と2項においてどのような解釈の立場に立っても「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」も放棄されていることには変わりありません。
現行憲法では「侵略戦争」「自衛戦争」の区別なく、「一切の戦争行為」が禁止されているということになります。
憲法9条が「自衛戦争」さえも放棄した理由
ではなぜ、日本の憲法9条が「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」までも放棄したのか、つまりなぜ敗戦直後の日本人が「自衛戦争」までも放棄してしまう憲法を選択したのかというと、「自衛戦争」の名の下に「侵略戦争」が行われてきた過去があることを知っていたからです。
いったん「戦争」を認めてしまえば、それが「自衛戦争」なのか「侵略戦争」なのかを客観的に区別することは困難ですから、時の権力者が「これは侵略戦争じゃなくて自衛戦争なんだ」と言いさえすれば、その戦争は「自衛戦争」として許容されることになります。
実際、先ほども述べたように、過去に起きた古今東西の「戦争」は「自衛」の名の下に引き起こされた事実があるわけですし、先の日本における戦争も、一部の権力者(主に軍部)が天皇の統帥権を悪用し、権力者の垂れ流す大本営発表によって国民に十分な真実を知らせないまま、「自衛のため」という大義名分を掲げてアジアと太平洋で戦火を拡大させていったわけですから、「自衛戦争」を許容する限り「侵略戦争」もまた許容されることになるのは避けられません。
このような事実を目の当たりにしたからこそ当時の国民は今の憲法9条を選択したのです。
「侵略戦争」だけを放棄しても「自衛戦争」の名の下に行われる「侵略戦争」を防ぐことはできないことに気付いたから、「自衛戦争」をも放棄した憲法9条を選択したわけです。
※なお、日中戦争や太平洋戦争は「侵略戦争じゃない!」と怒り出す人がいるかもしれませんが、ポツダム宣言においては先の日本における戦争は「世界征服」を意図した戦争であったことが明記されていますから、あの戦争は「侵略戦争」であったというのが国際的な認識であり、日本もそのポツダム宣言を受諾している以上、日本においてもあの戦争は「侵略戦争」であったことは間違いない事実として確定しています。戦争に負けるというのはそういうことです。
「侵略戦争じゃなかったんだ!」なんてことを言ったってアジア諸国のみならず世界中のどの国も(アメリカですら)認めてくれるはずがありません。そのような議論に固執する限り国際社会で孤立してしまうだけです(日本が江戸時代のように鎖国するなら話は別ですが…)。
「侵略戦争」であったことがポツダム宣言の受諾によって「世界史的な事実」になっている以上、以後の日本はあの戦争が「侵略戦争」であったことを前提とした国づくりをするしかないわけですから、先の戦争が「侵略戦争」であった事実を否定する議論は建設的・生産的議論を妨げるだけで不毛で有害なだけです。
【ポツダム宣言第6項】
吾等は無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するなるを以て日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出ふるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず
(※出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊 ※ポツダム宣言|国会図書館(http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.htmlを基に作成)※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています。)
「侵略戦争しないから9条は改正してもよい」が間違っている理由
以上のように、古今東西の「戦争」はたとえそれが「侵略戦争」であっても「自衛戦争」の名の下に行われるわけですから、「侵略戦争するわけじゃないから」という理由はそもそも9条に自衛隊や国防軍を明記したり2項を削除することを正当化させる理由として成立しません。
「自衛戦争」を許容する限り「侵略戦争」もまた許容されることになるわけですから、「侵略戦争をしない」ということを誓うのであれば「自衛戦争」をも放棄することが前提となるのは避けられないのです。
だから結局、この世界から「戦争」を無くしたいと思うのであれば「自衛戦争」をも放棄する現在の憲法9条をそのまま残すしかありません。
ここまで説明してもまだ「日本人が侵略戦争なんかするわけないだろう!」とか「日本民族が侵略戦争するとでも思ってるのか!」とか怒り出す人がいるかもしれませんが、それは間違っています。
なぜなら、近代民主主義国家の行う戦争は「人種」や「民族」が始めるものではなく、時の権力者の暴走に熱狂した主権者の形成する「国家主権」が引き起こすものに他ならないからです。
だからこそ、その国家権力の暴走に歯止めをかけるために、現行憲法の9条が必要なのです。
「正当防衛権を認むると云うことそれ自身が有害」吉田茂
以上はあくまでも私(このサイトの管理人)の個人的な意見にすぎませんので、このページを読んでくれた人の中には「こいつ戦争のことなんて何も分かってないくせに何言ってんだ?」とまったく相手にしてくれない人もいるのが現実だと思います。
ですので、最後に現行憲法である日本国憲法の制定(明治憲法からの改正)が議論された1946年6月28日の帝国議会の衆議院本会議における吉田首相の答弁を引用することで、このページの結びに代えさせていただきたいと思います。
なお、この吉田首相の答弁は、共産党の野坂参三議員による「戦争」を「正しい戦争(自衛のための戦争)」と「正しくない戦争(侵略戦争)」の2つに分ける二分論に基づいた
『憲法9条の戦争放棄は「(自衛戦争をも含む)戦争一般の放棄」ではなく「侵略戦争だけを放棄」する条文にすべきではないか?』
との趣旨の質疑(※今の自民党がこれと全く同じ主張をしているのが面白いです)に対するものになりますので、まず最初に共産党の野坂参三議員の質疑部分を引用し、その後に吉田首相の答弁を引用する形にいたします。
【昭和21年6月28日衆議院本会議、共産党野坂参三議員の質疑部分より引用】
「ー体この憲法草案に戦争一般抛棄と云う形でなしに、我々は之を侵略戦争の抛棄、そうするのがもっとも的確ではないか、この問題に付て我々共産党はそう云う風に主張して居る、日本国は総ての平和愛好諸国と緊密に協力し、民主主義的国際平和機構に参加し、如何なる侵略戦争をも支持せず、又之に参加しない、私はそう云う風な条項がもっと的確ではないかと思う」
(※出典:衆議院憲法調査会 関係会議録 衆議院本会議昭和21年6月28日(第8号)|衆議院(www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/s210628-h08.htm)を基に作成)※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記(現代口語訳)」に変更しています。)
※上記の引用部分は上記のURLで衆議院のサイトにアクセスし、該当ページで「Ctrl」+「f」を押して「一体此ノ憲法草案ニ」をコピペして検索を掛ければ簡単に検出することができます。
この共産党の野坂議員の質疑に対する吉田首相の答弁が以下になります。
【昭和21年6月28日衆議院本会議、共産党野坂参三議員の質疑に対する吉田茂首相の答弁部分より引用】
「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります、又交戦権抛棄に関する草案の条項の期する所は、国際平和団体の樹立にあるのであります、国際平和団体の樹立に依って、凡ゆる侵略を目的とする戦争を防止しようとするのであります、併しながら正当防衛に依る戦争が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならぬのであります、故に正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むると云うことは、偶々戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、若し平和団体が、国際団体が樹立された場合に於きましては、正当防衛権を認むると云うことそれ自身が有害であると思うのであります、御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」
(※出典:衆議院憲法調査会 関係会議録 衆議院本会議昭和21年6月28日(第8号)|衆議院(www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/s210628-h08.htm)を基に作成)※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています。)
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