旧日米安保条約の憲法適合性が争点となった有名な裁判で「砂川判決」というものがあります。
この裁判は、東京都の砂川町(当時)にあった在日米軍の立川飛行場の拡張工事に反対するデモ隊の一部が米軍基地内に数メートル侵入したことを理由として「旧日米安全保障条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法違反」で逮捕・起訴された事件ですが、その「日米安全保障条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」の第2条では、正当な理由なく米軍基地内に侵入した者に対して1年以下の懲役または2千円以下の罰金に処す旨の刑事罰が科せられていました。
【日米安全保障条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法第2条】
正当な理由がないのに、合衆国軍隊が使用する施設又は区域(行政協定第二条第一項の施設又は区域をいう。以下同じ。)であつて入ることを禁じた場所に入り、又は要求を受けてその場所から退去しない者は、一年以下の懲役又は二千円以下の罰金若しくは科料に処する。但し刑法(明治四十年法律第四十五号)に正条がある場合には、同法による。
しかし、日本国憲法の9条では「戦力の不保持」を規定していますから、仮に旧日米安保条約に基づいて日本に駐留する在日米軍が憲法9条2項の「戦力」にあたると言えるなら、旧日米安保条約自体が「違憲」と判断されることになり、この「日米安全保障条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」という法律自体も「違憲」ということになって逮捕されたデモ隊の人たちは「(有効な)法律の定める手続によらずに」刑罰を科せられたということになる結果、その処分自体が「法定手続の保障」を規定した憲法31条に違反して「違憲」となって「無罪」ということになり得ます。
【日本国憲法第31条】
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
そのためこの裁判では「旧日米安保条約によって駐留する在日米軍が憲法9条の”戦力”にあたるか」という点や「旧日米安保条約が憲法9条に反して違憲となるか」という点が争点となって争われることになったのです。
結局、この裁判で最高裁は、旧日米安保条約に基づいて駐留するアメリカ軍が憲法9条2項の”戦力”にあたると判断した原審の地裁判決を取り消して地方裁判所に裁判を差し戻しましたが、その判決文の途中において「固有の自衛権」に言及があったことから、この判決が出された後にその「固有の自衛権」が何を意味するものなのかという点が議論されるようになりました。
…わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく…(中略)…わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。…(中略)…わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
※出典:砂川判決:最高裁昭和34年12月16日|裁判所判例検索、1~2頁より引用
砂川判決では、上記のように憲法9条の下でも「固有の自衛権」に基づいて自国の平和を維持するために必要な限度で「自衛のための措置」をとりうることが憲法9条の下でも禁止されていないことに言及していますが、その「自衛のための措置」が具体的にどの範囲まで許容されるのか、つまり、その自衛の措置が「個別的自衛権」にとどまるものなのか、それとも「集団的自衛権」までも含む意味合いなのか、必ずしも明らかではなかったからです。
「砂川判決は集団的自衛権を禁じていない」と論じた「五・一五報告書」と政府の集団的自衛権容認の閣議決定
このように、砂川判決は憲法9条の下でも「固有の自衛権」に基づいて「自衛のための措置をとりうること」は禁じられていないという立場に立って判決を出していますが、その「自衛のための措置」の中身が何なのかという点には何も触れられていません。
「自衛権」には個別的自衛権と集団的自衛権の2つの概念があると考えられていますが、砂川事件は、その判決文で言及した「固有の自衛権」が「個別的自衛権」にとどまるものなのか、それとも「集団的自衛権」も含まれるのかという点には一切説明をしていないわけです。
しかし、平成25年から翌年にかけて内閣総理大臣の下で開催された「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会|首相官邸)」は、砂川判決について「我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない」と論じたうえで、砂川判決で言及された「固有の自衛権」に「集団的自衛権が含まれている」との見解を出してしまいました。
…(中略)…この砂川事件大法廷判決は…(中略)…我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない点にも留意すべきである。…(以下省略)
※出典:平成26年5月15日安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会報告書(五・一五報告書)5頁より引用
さらにこの懇談会は、「集団的自衛権に基づいて…我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも…必要最小限度の実力を行使」することができるようにすべきと述べたうえで、憲法9条を改正しなくても集団的自衛権の行使を容認することは可能であると結論付けてしまっています。
我が国においては、この集団的自衛権について、我が国と密接な関係にある外国に対して武力攻撃が行われ、その事態が我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるときには、我が国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請又は同意を得て、必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加し、国際の平和及び安全の維持・回復に貢献することができることとすべきである。
※出典:平成26年5月15日安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会報告書(五・一五報告書)22頁より引用
必要最小限度の範囲の自衛権の行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることによって可能であり、憲法改正が必要だという指摘は当たらない。
※出典:平成26年5月15日安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会報告書(五・一五報告書)38頁より引用
しかも政府(安倍政権)は、この報告書に準じる形で、平成26年7月1日付けの閣議決定で従来の憲法解釈を変更し、集団的自衛権を容認してしまいました(※参考→平成26年7月1日 安倍内閣総理大臣記者会見 | 平成26年 | 総理の演説・記者会見など | 記者会見 | 首相官邸ホームページ)。
そうすると、砂川判決は国家固有の権利として認められる「固有の自衛権」の内容として「集団的自衛権」を許容していたかのように思えますが、このような懇談会の見解(以下「五・一五報告書」といいます)の解釈は端的に言って暴論です。
なぜなら、先ほどから述べているように、この砂川判決は「固有の自衛権」の内容については何ら判示していませんし、その判決が判示していない内容にまで判決の射程を拡張してしまうことは、最高裁判決の恣意的な利用であって到底許されるものではないからです。
砂川判決は「集団的自衛権」について一切憲法上の判断をしていない
「集団的自衛権」は
「他国との取り決めで、他国への攻撃も自国への攻撃とみなして協同して防衛行動をとる権利」
などと説明されますが(※高橋和之著「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材308頁参照)、平たく言えば、自国が直接侵害を受けていない場合に他国を「他衛」することを目的とした権利のことを言います。
たとえばアメリカ軍の艦艇が第三国の戦闘機から攻撃された場合に、近くを航行する自衛隊のイージス艦がその戦闘機から攻撃を受けていないにもかかわらず、アメリカ軍の艦艇を守るためにその第三国の戦闘機を撃墜するような行為が「集団的自衛権」の行使にあたります。つまり集団的自衛権の本質は「自衛」ではなく「他衛」にあるわけです。
そうすると、先ほど挙げた「五・一五報告書」や従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権を容認した政府(安倍政権)は、砂川判決において言及された「固有の自衛権」が、その内容として「自衛のための措置」として「他衛」としての武力行使を行うことを含んでいると解釈したことになりますが、以下の2つの点にからそれが明らかに誤りであることが分かります。
(1)砂川判決は旧安保条約の合憲性の判断についての傍論で「固有の自衛権」に言及したに過ぎない
先ほど挙げたように、砂川判決は「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」と述べて「固有の自衛権」について言及していますが、それは旧日米安保条約に基づいて日本の領土に駐留するアメリカ軍が憲法9条2項の「戦力」にあたらないこと、またその「固有の自衛権」に基づいてアメリカと安全保障条約を締結することが憲法9条の文言と矛盾しないことを説明するために「固有の自衛権」に傍論として触れたに過ぎません。
砂川事件では旧日米安保条約に基づいて制定された「日米安全保障条約3条に基づく行政協定に伴う刑事特別法」という法律自体の憲法適合性を判断するために、「旧日米安保条約に基づいて駐留するアメリカ軍が憲法9条2項の”戦力”にあたるか」という点と「旧安保条約をアメリカとの間で締結することが憲法9条の下で認められるか」という点が争点となりましたから、最高裁判所が結論として在日米軍や旧安保条約を「違憲」と判断した原審を破棄して原審に差し戻すためには、旧安保条約と在日米軍の存在が憲法9条と矛盾しないことを説明しなければなりません。
そのため最高裁は旧安保条約と旧安保条約に基づいて駐留するアメリカ軍が憲法9条と矛盾しないことを説明する過程において、傍論として「固有の自衛権」に言及したわけです。
しかし、 法学(司法)の世界では一般的に、裁判所の判決として効力を生じるのは、その判決の結論部分を直接的に理由付ける部分に限られ、傍論部分は拘束力をもたないと解釈されていますから(※参考→砂川事件判決を集団的自衛権の根拠とすることに反対する会長声明|東京弁護士会)、判決の結論部分の直接的な理由づけに関する部分ではない傍論で触れた部分は裁判規範としての拘束力が生じることはないのが基本です。
この点、先ほどから述べているように、砂川判決は以下の2点の理由づけのみを判示して原審の地方裁判所判決を一審に差し戻した裁判であり、「固有の自衛権」の内容として憲法9条の下で「集団的自衛権」が認められるなどという結論を判示したものではありませんから、砂川判決が言及した「固有の自衛権」の内容を「集団的自衛権」にまで広げてしまうのは、集団的自衛権を憲法上合憲とすることを目的とした結論ありきの恣意的な判例解釈と言えます。
【砂川判決が在日米軍が憲法9条2項の”戦力”にあたり「違憲」と判断した原審を破棄して一審に差し戻すために用いた直接的な2つの理由】
- 旧安保条約に基づいて駐留するアメリカ軍は憲法9条2項の「戦力」には該当しない。
- 安保条約のような高度の生成を有する条約は「一見極めて明白に違憲無効と認められるものでない限り裁判所の司法判断になじまない。
ですから、判決の直接的な理由づけとして述べられたものではなく傍論の理由づけとして言及されたにすぎない「固有の自衛権」について、しかもその「固有の自衛権」の内容として「集団的自衛権」が含まれるとまで射程を広げて解釈することは暴論と言えるのです。
なお、この点については1968年3月16日の衆議院予算委員会において政府側の委員として出席した高辻正巳内閣法制局長官も「最高裁も言っておりますように、自衛のための措置をとること、この中身は言っておりません」と答弁している事実がありますので、当時の政府としても砂川判決が「固有の自衛権」に基づいて「自衛のための措置をとること」に言及した事実はあっても、その「自衛の措置」として「集団的自衛権」までが許容されるとまで言及したものではないと解釈していたことは明らかですから(※奥平康弘・山口二郎編「集団的自衛権の何が問題か」岩波書店※水島朝穂著「集団的自衛権が憲法上認められない理由」124~125頁参照)、そのような事実を一切無視して現在の政権が砂川判決の解釈を捻じ曲げて集団的自衛権容認のために利用することは、最高裁判決を恣意的に解釈して政治利用するものであり許されるものではないと言えます。
…わが国の憲法九条は自衛権というものの完在を否定しておらない。これは最高裁も認めております。最高裁も言っておりますように、自衛のための措置をとること、この中身は言っておりませんが、そういうことも認めておる。日本のいまの現行法制のたてまえでは、自衛隊法というものがあるのは、その判決に合わせていえば、これは見るほうの立場でございますが、自衛のための一つの措置であるという、ふうにいえると思います。
※出典:国会会議録検索システム|昭和43年3月16日衆議院予算委員会議事録(高辻内閣法制局長官答弁部分)より引用
(2)砂川判決が言及した「固有の自衛権」は「武力によらざる自衛権」を前提とした概念
また、砂川判決が「固有の自衛権」に言及している点が事実であるとしても、そこで触れられた「固有の自衛権」が、「武力によらざる自衛権」を内容としているものであるのに留まり「武力による自衛権」としての概念は包含されていなかった点も考える必要があります。
先ほど説明したように、砂川判決は旧安保条約に基づいて駐留する在日米軍の存在が9条2項の”戦力”にあたるものでないこと、また旧安保条約が憲法9条に矛盾しないことを説明するために「固有の自衛権」に言及していますから、その「固有の自衛権」に言及したのはあくまでも「アメリカと安保条約を結ぶ」という方法によって自国を「自衛」することが憲法9条と矛盾しないことを説明するためのものであって、「武力によらざる自衛権」の範囲内で「固有の自衛権」を論じていたにすぎません。
アメリカと「条約を結ぶこと」については「武力」は問題となりませんから、アメリカと「安保条約を結ぶ」という行為は「武力」を用いない方法で国を「自衛」することに他なりませんので、砂川判決で語られた「固有の自衛権」は「武力によらざる自衛権」の範囲に限られるわけです。
この点は歴代の政府も過去の国会における答弁で認めています。
たとえば、旧日米安全保障条約が締結された直後の1951年10月16日(※旧安保条約が調印されたのは1951年(昭和26年)の9月8日です)に行われた衆議院本会議において吉田茂首相は「自衛権発動の結果として安全保障条約を結ぶということは当然のこと」と述べて旧日米安保条約の憲法合憲性を説明していますが、その旧日米安保条約が締結される前の1950年1月28日に行われた衆議院本会議では、その旧日米安保条約を締結する根拠として国家固有の「自衛権」について「ただ武力によらざる自衛権を日本が持つということは、これは明瞭」と説明しています。
…(中略)…また安全保障條約は、これは日本の独立を守るために、日本の安全のために規定せられたのであります。すなわち自衛権の発動であります。自衛権なるものは、国が独立した以上は自衛権は欠くべからざるものであり、当然の権利であります。この自衛権発動の結果として安全保障條約を結ぶということは当然のことであります。…(以下省略)
※出典:国会会議録検索システム|昭和26年10月16日衆議院本会議議事録(吉田茂首相(国務大臣)答弁部分)より引用
…(中略)…過日も私がここにおいて説明をいたしました通り、いやしくも国が独立を回復する以上は、自衛権の存在することは明らかであつて、その自衛権が、ただ武力によらざる自衛権を日本は持つということは、これは明瞭であります。しからば…(以下省略)
※出典:国会会議録検索システム|昭和25年1月28日衆議院本会議議事録(吉田茂首相(国務大臣)答弁部分)より引用
このような過去の国会における答弁に鑑みれば、旧日米安保条約を締結した当時の日本政府は、憲法9条の下でも認められる(と政府が解釈している)「固有の自衛権」について「武力によらざる自衛権」の概念だけを根拠にして、アメリカとの旧安保条約を憲法に違反しないと国会で説明していたことが明らかですから、その「固有の自衛権」に「武力による自衛権」が含まれるとまでは解釈していなかったことは明らかでしょう。
ですから、その「武力によらざる自衛権」を基に締結された旧安保条約の憲法適合性が争われた砂川判決が言及した「固有の自衛権」も「武力によらざる自衛権」を基にした概念だったと言えるわけあり、その砂川判決が言及した「固有の自衛権」に「武力による自衛権」が含まれると解釈することはできないわけです。
しかし、先ほど挙げた「五・一五報告書」は、砂川判決が言及した「固有の自衛権」について「武力による自衛権」が含むという前提の下で「集団的自衛権」を許容してしまいました。
「五・一五報告書」は結論として、集団的自衛権を容認して「必要最小限の実力を行使してこの攻撃の排除に参加」することを政府に求めていますから、その集団的自衛権を導き出した「固有の自衛権」には当然に「武力による自衛権」の概念が包含されていることになります。集団的自衛権を行使して同盟国を守るために行使される自衛隊の実行力は「武力」に他ならないからです。
つまり「五・一五報告書」の作成に携わった”有識者”たちは、砂川判決が「武力によらざる自衛権」の概念から「固有の自衛権」に言及しただけに過ぎないにもかかわらず、集団的自衛権を容認したいがためだけに、砂川判決が「固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別して論じていないこと」を持ち出して、「(砂川判決は)集団的自衛権の行使を禁じていない」と飛躍して、砂川判決が言及した「固有の自衛権」を「武力による自衛権」の概念まで射程を広げて恣意的に解釈してしまったところに大きな間違いがあると言えるのです。
「固有の自衛権」の内容について何ら言及していない砂川判決を持ち出して集団的自衛権を容認することは本来できないもの
以上で説明したように、砂川判決は「固有の自衛権」に言及していますが、それは「旧日米安保条約に基づいて駐留する在日米軍が9条2項の”戦力”にあたるから違憲だ」と判断した原審を破棄して地方裁判所に差し戻すために、旧日米安保条約に基づいて駐留する在日米軍が憲法9条に矛盾しないこと、また旧安保条約が憲法9条に矛盾しないことを説明するための傍論として述べられたものであり、砂川判決はその「固有の自衛権」の内容については一切言及していません。
また、砂川判決が言及した「固有の自衛権」は、「武力によらざる自衛権」の概念を基に締結された旧日米安保条約の憲法適合性が争われた裁判なのですから、そこで言及された「固有の自衛権」は「武力によらざる自衛権」の概念に基づくものであって、そこに「武力による自衛権」が含まれると解釈することも不可能なものです。
にもかかわらず政府(安倍政権)は、この「五・一五報告書」を前提として閣議決定で従来の憲法解釈を変更し集団的自衛権を容認してしまいましたが、このような行政府(政府)による司法判断の恣意的な解釈が認められるというのなら、もはや三権分立は成り立たず、国民主権や民主主義は容易に機能不全を起こしてしまうでしょう。
政府が閣議決定で憲法解釈を変更するということは、憲法96条で定められた国民投票を経ずに憲法を改正してしまうのと実質的に変わりません。
この集団的自衛権の容認を決定した閣議決定が、立憲民主主義を破壊する極めて憂慮すべき問題であることに一人でも多くの国民が気付くことが望まれます。