「弱者」への「強くなれ」が幸福追求権の侵害にあたる理由

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去る6月4日、とある著名漫画家(以下「A氏」という)が、川崎市で起きた児童殺傷事件や元官僚の長男刺殺事件に関連して、自身のブログ上で以下のように論じていました。

子供に働く「現場」を持たせられなかったのは、親の罪である。子育てに失敗している。人間を含む生物界は、弱肉強食が基本で、弱者が生き残れないのは自然だろう。人間ゆえに、強者が弱者を守らねばならないと、わしは思っているが、弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない。

※出典:https://yoshinori-kobayashi.com/18211/より引用

A氏が当該ブログで何を言いたかったのかは不明ですが、私が読んだ限りA氏は、まずこの社会を「弱者」は生き残れない「弱肉強食」の世界だと定義したうえで、当該児童殺傷事件の犯人や元官僚の父親から刺殺された長男らが社会に適合できなかった「弱者」であるとしても弱肉強食の社会ではそういった「弱者」は生き残れないのだから「弱者が弱者のままでいい」と考えて「弱者であること」に甘んじるのではなく「強者になるべく努力すべき」ということを言いたかったのだろうと思います。

しかし、仮にA氏がそのような意図のもとで当該主張を発信したとすれば、それは明らかな間違いと言わざるを得ません。

なぜなら、「弱い者」が「弱いまま」であることを否定する主張は、弱者の切り捨てであって多様性の否定そのものであり、すべての国民に幸福追求権を保障する日本国憲法の理念とも相容れない思想だからです。

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憲法13条は「弱い人」が「弱いまま」で幸せになる権利を保障している

A氏は自身のブログで「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない。」と述べていますが、これは明らかに間違っています。

なぜなら、日本国憲法は第13条において「弱者」が「弱者のまま」であることだけでなく「弱者のまま」であっても幸福を追求する権利を人権として保障しているからです。

【日本国憲法第13条】

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法13条は「すべての国民」が「個人」として尊重され、幸福を追求する権利があることを基本的人権の一つとして保障していますが、その「個人」には当然「強い人」だけでなく「弱い人」も含まれます。

「弱い人」であっても「個人」であって、その「個人」の幸福追求権を保障するのがこの憲法13条だからです。

そして、この憲法で保障されている基本的人権は、国家権力や憲法によってはじめて保障されるものではなく「人が生まれながらにして持つ権利」という自然権思想を基にしていますから、この「弱い人であっても幸せになることができる権利」は、人が生まれただけで保障される権利ということになります。

つまり日本国憲法は、「弱い人」が「弱いまま」であっても幸せになる権利は、ただ生まれただけで保障されるものだという確信の下で、憲法13条において幸福追求権の保障を明記しているのです。

日本国憲法は「弱い人」が「弱いまま」の状態であることを当然に許容し、その「弱いまま」の状態でも幸福を追求することのできる社会を実現することを求めているわけですから、その日本国憲法が施行されている今の日本は「弱者が弱者のままでいいという社会」を積極的に実現しようとする社会であり、「弱者が弱者のままでいいという社会」でなければならない社会であるといえます。

ですから、A氏の言う「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」というのは明らかな間違いと言えるのです。

自然界は「弱肉強食」ではなく「適者生存」の世界であること

ところで、A氏はこの世界を「弱肉強食」であると定義して「弱者は生き残れないから強くなるべきだ」としたうえで、「人間ゆえに、強者が弱者を守らなければならない」と述べていますから、A氏は「弱者」は本来、自分自身で生き残る術を身に付けるべきであり、「強者」が「弱者」を助けるのは「人間ゆえ」の「あくまでも人としてのお情け」に過ぎないと考えていることが分かります。

つまりA氏は、弱肉強食という自然界の法則に従えば「弱者」が生き残れないのは当然であって、「強者」である自分が「弱者」を「助けてやってる」んだから、「ありがたく思え」という発想なのです。

しかし、これも間違っています。そもそも自然界は「強者」が生き残り「弱者」が亡びる「弱肉強食」が必然の世界ではなく、その世界の適応に最適化された種の生存率が最大化される「適者生存」の世界だからです。

自然界がもし「弱肉強食」の世界なら、地球上で食物連鎖の頂点に君臨していた恐竜が今でも闊歩していなければなりませんが、恐竜が絶滅した一方で、現代では恐竜よりはるかに「弱者」であるはずの哺乳類やその他の生物が世界に君臨しています。

これはもちろん、自然界ではその環境に適応した種が生存率を高めるからに他なりません。自然界では必ずしも「強者」が生き残れるわけではなく、環境の変化にうまく対応(進化)できる種が最も多く生き残ることができるのです。

そのためには当然、種は「多様性」を求めなければなりません。多様性を否定してその環境に合わせて種の性質を特化してしまえば、その環境がひとたび変化した場合に絶滅してしまう危険性があるからです。

しかし「多様性」を許容し、同じ種の中でも多様な存在を多く認めれば、その多様性の数だけ環境の変化に適応できる確立が高まります。「多様性」を認めることがその種の生存率を高めることにつながるのですから、種を次の世代に引き継ぐ確立を上げるためには多様な性質を持つ個体が多くあることが望ましいのです。

だからこそ人間は「多様性」を許容しようとするわけです。

「適者生存」の世界では「多様性」を保障することこそが「真理」となりますから、その多様性を認めるということは「人類普遍の原理(憲法前文)」であって「侵すことのできない永久の権利(憲法11条)」と言えます。

だからこそ日本国憲法は、その「多様性」をすべての個人に保障するために、憲法13条で幸福追求権をあえて条文化させてその保障を明確化したのです。

ですから、A氏の述べた「人間を含む生物界は、弱肉強食が基本で、弱者が生き残れないのは自然だろう」という部分。また「弱肉強食」の世界だからこそ「弱者」は「強者」に成るべく努力しろという趣旨の部分は、明らかに間違っていると言えるのです。

「弱い者」が「強い人」になる努力は素晴らしいが誰しもが「強い人」になれるわけではない

このように、憲法13条は幸福追求権をすべての「個人」に保障していますから、「弱い人(弱者)」も「個人」である以上、「弱い人」が「弱いまま」であっても幸福になる権利は保障されています。

ですから我々は、「弱い人」に対して「強くなれ」と言うのではなく、「弱い人」が「弱いまま」であっても幸せを感じることのできる社会を実現させるために努力しなければならいと言えるのです。

この点、「強い人」の中には「弱い自分」を厳しく鍛えて努力を重ねることで社会で成功し「強い人」になったという人もいるでしょうから、そのような人からすれば「弱い人」は単に努力を怠ったただの怠け者という評価になり、「弱い人」が「弱いまま」の状態で幸せになることを快く思わない人もいるかもしれません。

もちろん、「弱い人」が努力を重ねて「強い人」に成長するのは素晴らしいことですが、すべての人が「強い人」になれるわけではありません。我々が住むこの世界は他者との関係性のみにおいて存在しうる相対的な世界だからです。

相対的な世界では「競争に勝てる人」が存在する一方で「競争に勝てない人」も必然的に生まれてしまいますから、すべての人が「成功する」ことは不可能なのです。

では、その「成功できない」ことに価値がないかというと、もちろんそうではありません。この世界の「成功」は、数多くの「失敗」や「不成功」の上に初めて成り立つものだからです。

だからこそ憲法13条では「すべての国民」に「個人」として幸福を追求する権利を保障しているのです。

もちろん、「成功した人」が「成功できなかった人」よりも多くの経済的利益を享受できるのは自由主義・資本主義的統治体制の下では当然ですので、それを否定するつもりはありません。

しかし、その「成功」は膨大な数の「成功できなかった事実」の上に初めて実現できるものなのですから、その「成功できなかった人」に手を差し伸べるのは当然でしょう。

「強い人」が「弱い人」に対して「努力が足らない」とか「努力を怠ったからだ」と断じるのは、弱者を切り捨てるための詭弁にしか聞こえません。

「弱い人」に「強くなれ」を強制することは「思想及び良心の自由」の侵害

また、憲法19条は「思想・良心の自由」を保障していますから、「弱い人」が「弱いままでいたい」のか、それとも「強い人になりたい」のかは、そもそもその個人の自由意思に委ねられるべきものです。

【日本国憲法第19条】

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

この世界は「弱い人」と「強い人」の集合体で構成されているものであって、すべての人が「強い人」なわけではありませんし、すべての人が「強い人であるべきもの」でもありません。

「弱い人」が「弱いまま」であることも思想及び良心の自由として保障されているのですから、その「弱い人」に対して「強くなれ」と強制することは人権侵害以外の何物でもないのです。

「弱い人」が「強い人」から「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」と言われれば、その弱い人は「自分は弱いままではいけないんだ」という強迫観念にさいなまれ、本人の自由意思に反して「強い人」になることを間接的に強要されてしまうでしょう。

それは当然、「弱い人」にも幸福追求権を保障した憲法13条にも反しますし、思想良心の自由を保障した憲法19条にも反します。

ですから、「弱い人」に対して「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」と、事実と異なる告知を行って「強い人」になることを間接的に強要することは、明らかな人権侵害と言えるのです。

「弱い人」が「弱いまま」であることを否定することは多様性の否定そのもの

「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」という意見には、「弱者が弱者のままであってはならない」という意見が含意されていますので、そのような意見を述べる人は、そもそも「弱い人」を社会から排除しようとする思想を持っていることが窺えます。

A氏はブログで「人間ゆえに、強者が弱者を守らねばならないと、わしは思っているが…」と述べてはいますが、そのあとに「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」と続けていますので、本心では「弱者」が「弱者であること」を快く思っておらず、「弱者」が「強者になるべきこと」を強く求めているということでしょう。

しかし、先ほどから述べているように、「弱い人」が「弱いまま」であることは「個人」の自由意思によるものとして最大限保障されなければならないものです。

「弱い人」が「弱いまま」であることを否定し、「強くなる」ことを強要することは「弱い人」というマイノリティーを社会から排除しようとするものであって、弱者の切り捨て、多様性の否定以外の何物でもありません。

この世界は、「強い人」だけでなく、多くの「弱い人」も存在することによって実現されているわけですから、その「弱い人」だけを排除することのおかしさに、まず気付かなければならないのです。

「弱い人」に対して「強くなれ」と求めることは一見すると真っ当な意見に思えますが、その本質は多様性を否定しマイノリティーを差別し排除する思想を必然的に包含するものです。

にもかかわらず、社会的には成功者の部類に属する「強者」の立場にある人間が、「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」などと、あたかも「弱者」が「弱者」のままでいる場所がこの世界に存在しないかのような意見を拡散してしまえばどうなるでしょうか。

そのような意見が一般化され、多様性を否定する社会が実現されれば、「強い人」になれない、またはそもそも「強い人」になろうと思わない「弱い人」は居場所を失い孤立してしまうことになるでしょう。

そうした孤立は、社会にとって有益なものとなるのでしょうか。そういった問題を抱える人にとっては「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」という言葉は、強者からの最後通告と受け取られる可能性もあるのです。

そうして追い込むことが、どのような帰結を生むか考えたことがあるのでしょうか。

我々は、「弱い人」を追い込むような社会をつくってはなりません。

「弱い人」が「弱いまま」でも幸せを感じられるような、温かい社会を作っていくべきであり、そういう社会を構築するために努力し続けなければならないのです。

そのようなことを全く考えず、社会に影響力のある著名人が「弱者が弱者のままでいいという社会は、実際にはない」などとブログで発信することの危険性に、すべての国民が気付く必要があるのです。