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面白いお笑い番組を作れないのがコンプラ強化と関係ない理由

お笑い芸人の一部に「コンプライアンスが厳しくなったから面白い番組を作れなくなった」とか「ちょっと過激なことをやると視聴者がクレームを入れるくせに最近の番組がつまらなくなったと言われるのは心外だ」というようなことを言う人がいます。

いわゆるバブルのころまでのバラエティー番組は、出演する芸人に身体的苦痛を与える表現であったり、性的少数者や身体障害者あるいは外国人の身体的特徴を揶揄する表現が広く許容されていました。

しかし昨今は、少しでも差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現があればクレームやネット上での炎上につながってしまう社会的な風潮がありますので、制作側も必然的に過激な表現や差別的な表現を控えるようになってしまいます。

そのため、いわゆる”ボケ”や”ツッコミ”や”いじり”の自由度が狭められてしまった芸人たちは、面白い番組を作れなくなった原因がコンプライアンスを声高に叫ぶ「視聴者」の側にあり、視聴者がテレビ番組にコンプライアンスをうるさく求めるようになったから「面白い番組を作れなくなった」と主張しているわけです。

しかし、このような意見には全く賛同できません。

なぜなら、差別を助長したり個人の尊厳を棄損する表現行為は何も最近になって許されなくなったわけではなく、コンプライアンスが今ほど厳しくなかった昔から許されるものではなかったものであって、昔はただその表現行為によって侵害される側の人達の人権がメディアによって無視されていただけに過ぎないからです。

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差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現行為は憲法13条の幸福追求権を侵害するものとして本来は許容されないもの

先ほど述べたように一部のお笑い芸人の中に「最近はコンプライアンスが厳しくなったから面白い番組を作れなくなった」と考えている人が少なからずいるわけですが、彼らが根本的に勘違いしている点があります。

それは、差別的な表現や個人の尊厳を棄損するような表現行為は、そもそも昔から許容されるべきものでなかったという点です。

お笑い芸人は差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現行為によって笑いをとることがありますが、これらのネタも表現行為に含まれる以上、憲法21条で保障された表現の自由(言論の自由)の範囲に含まれます。

【日本国憲法第21条】

第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

ですから、たとえお笑い芸人が差別的な表現や他人の身体的特徴を揶揄する表現(例えばブラックフェイスを用いた表現や”ハゲ”や”デブ”など他人の身体的特徴を揶揄する表現、”保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)”に代表されるような性的少数者を揶揄する表現など)であったり、出演者の個人の尊厳を棄損する表現(たとえば芸人を隔離して閉じ込めたり過度な爆破で身体を危険にさらす表現など)を行ったとしても、一応は表現の自由としてその表現行為は保障されるべきであり、その表現行為を制限することは認められないと考えるのが基本となります。

しかし、そのような差別的な表現や個人の尊厳を棄損する行為が無制限に認められるわけではありません。他人の人格権を棄損する表現行為は、その表現行為によって人格権を侵害される側の人の人権(幸福追求権・憲法13条)保障も考えなければならないからです。

【日本国憲法第13条】

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

そのような場合、その表現の自由(憲法21条)で保障される表現行為と、その表現行為によって人格権(プライバシー権・憲法13条)を侵害される側の人権との調整が必要になりますから、他人の人格権を棄損する名誉棄損的表現は制限されることもあり得ます。

具体的には「表現の自由を制限して得られる利益とそれを制限しない場合に維持される利益とを比較して前者の価値が高いと判断される場合に表現の自由の制限が認められる」という比較衡量論(定義づけ衡量論)によって調整が行われますが(※詳細は→お笑い芸人の「ハゲ・デブ・ブス」は表現の自由で保障されるか)、いずれにせよ、お笑い芸人の差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現が無制限に認められるわけではないのです。

ですから、お笑い芸人の差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現行為は、何もコンプライアンスが厳しくなった最近になってそれが認められなくなったわけではなく、本来は昔から人格権(プライバシー権)を侵害するものとして認められるべきではなかった表現も存在していたということが言えるのです。

昔は差別や個人の尊厳を棄損される側の人の人権が無視されていただけ

このように、他人の人格権(プライバシー権)を侵害するような名誉棄損的表現であったり、出演する芸人の個人の尊厳を棄損するような表現は、企業のコンプライアンスが今ほど厳しくなかった昔も、本来は許容されるべきではなかった部分があったということができます。

ではなぜ、昔はそれが許容されていたかというと、昔はその表現行為によって人格権を侵害される側の人たちが、メディアによって無視されていたからです。

たとえば先ほど挙げた”とんねるず”の「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」の件では「homo」という発音から連想される同性愛者を「気味の悪いもの、気持ち悪いもの」として表現することで性的少数者の人格権を侵害している点が問題となっていますが、同性愛者は今の時代にだけ存在しているわけではなく「保毛尾田保毛男」がテレビで放送されていた当時も存在していたことは間違いありません。

もちろん同性愛者のすべてが「保毛尾田保毛男」を否定しているわけではなく、中には「保毛尾田保毛男」の同性愛者表現に不快感を持たない同性愛者がいたかもしれませんが、当時からその「保毛尾田保毛男」の表現行為によって人格権を侵害され傷つけられていた性的少数者は少なからずいたはずです。

しかし、当時は表現の自由によって確保されるべき表現者と受領者の関係性は固定されていて、表現者の立場はマスメディアによって独占される一方で、一般市民は表現行為における受領者の立場に追いやられてそこに固定化されていました(※詳細は→有名人が「匿名アカウントで人を批判するな」と言いたがる理由)。

そのため当時は、たとえ一般市民がメディアの垂れ流す人格権を侵害する表現行為に不満を感じても声を上げる手段は電話や投書で批判する程度に限られ、彼らの声が社会に広く伝わるような手段はありませんでしたから、メディアはそれらマイノリティーの意見を意図的に封じ込めて自分たちの都合の良い表現行為を拡散させることができていたわけです。

つまり、お笑い芸人の差別的な表現や他人の人格権を侵害する表現は「昔は許容されていた」というのは間違いで、コンプライアンスが今ほど厳しくなかった「昔も許容されていなかった」というのが事実であり、その当時は単にそれらの表現によって人格権を侵害されていたマイノリティーの声がマスメディアによって黙殺されていただけなのです。

今の時代に人格権を侵害する表現が許容されないのはネットが普及して少数者の意見が社会で共有されるようになっただけ

このように、昔のお笑い番組で差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現が許容されていたのは、その表現が「社会から許されていた」わけではなく、その表現行為によって人格権を侵害されていたマイノリティーの声がマスメディアによって無視され続けていただけに過ぎません。

昔のお笑い番組でも差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現によって傷つけられ人格権(プライバシー権)を侵害されていた人は今の時代と変わらずいたわけですから、そのような表現が社会的に許されるものでないことは、今も昔も変わらないのです。

では、今と昔で何が変わったのかというと、それはインターネットが普及したという点です。

インターネットが普及する前は、マスメディアがマイノリティーの意見を無視して押さえつけたとしても、その事実をマスメディアが自ら報道しない限り情報の受領者に追いやられていた一般市民はその事実を認知することはできませんでした。

しかし今は違います。今は誰でも自由にインターネット上で自分の意見を発信し、その意見を社会で共有させることが可能ですから、ひとたびテレビで少数者を差別したり個人の尊厳を棄損する表現が行われれば、その表現を批判する意見をSNSやブログなどで発信することによってマイノリティーの意見を社会で一般化させることも昔ほど難しくはありません。

今もし、マスメディアが差別的な表現や個人の尊厳を棄損するお笑い番組を公共の電波で垂れ流してしまえば、マイノリティーがネットで声を上げることでそのメディアに対する批判(非難)がたちまちネット上で”炎上”し、そのメディアは現実社会でも批判(非難)を浴びてしまうことになるのは避けられないでしょう。

だから今は、マスメディアの側が自主的にコンプライアンスの見直しを行い、お笑い番組で差別的な表現や個人の尊厳を棄損する表現を制限するようになっているわけです。

ですから、今の時代に差別的な表現や個人の尊厳を棄損するお笑い番組が社会で許容されないのは、昔と比べてそのような人格権(プライバシー権)を侵害する表現行為に視聴者がうるさくなったからではありません。

昔は無視されていたマイノリティーの声がネットの普及でマスメディアの側が無視できなくなり、そのマスメディアが人格権(プライバシー権)を侵害するお笑い番組によって傷つけられていたマイノリティーの声に耳を傾けるようになったために、そのような番組作成ができなくなってきただけなのです。

「コンプライアンスが厳しくなったから面白い番組を作れない」は少数者の意見を無視する社会の復活を望む恐ろしい思想

以上で説明したように、差別的な表現や個人の尊厳を棄損するお笑いは表現の自由という憲法の基本的人権の保障を考えた場合であっても、それが個人の人格権(プライバシー権)を侵害するものであるときは人格権(プライバシー権)の保障の必要性から考えてお笑い番組という名の下に公共の電波で垂れ流されてよいものではありません。

また、そのような人格権(プライバシー権)を侵害する表現行為は、コンプライアンスが厳しくなった今の時代になって許されなくなったものではなく、そのコンプライアンスが厳しくなる前の時代から本来は許されるべきものではなかったものであり、昔は単にマスメディアによって表現者の立場を独占されていたがゆえに、その人格権を侵害する表現行為によって傷つけられていた少数者の被害が無視されていただけなのです。

ですから、お笑い芸人がよく言う「コンプライアンスが厳しくなったから面白い番組を作れない」という主張は、他人の人格権を侵害する表現行為が「昔は社会的に許容されていた」と認識している点で事実誤認も甚だしいだけでなく、そもそもお笑い芸人も含めたマスメディアの側の人間が「昔は少数者の意見を無視していた」にもかかわらず、その事実をうやむやにして「昔は差別や人格権侵害も許容されていた」と自分たちの醜悪な表現行為を正当化している時点で、聞くに値しない無価値な主張といえます。

しかも彼らは、「コンプライアンスが厳しくなったから面白い番組を作れない」と主張して、昔は垂れ流されていた差別的な表現や個人の尊厳を棄損するお笑い番組が「面白い」と認識し、その差別的な表現や個人の尊厳を棄損するお笑い番組の復活を求めているのですから始末に負えません。

つまるところ、彼らの主張はかつて平然と行われていた「少数者を差別し個人の尊厳を棄損して笑いものにするコメディー」を復活させて再び少数者を笑いものにしたいという意見と同義なのですから、到底是認されるものではないでしょう。

昨今のお笑い芸人は「コンプライアンスが厳しくなったから面白い番組を作れない」と主張して自分たちのお笑いの幅が狭くなったことを嘆いていますが、それはただ自由なお笑いが制限されていることを嘆いているのではありません。

マイノリティーを笑いものにして自分たちが人気者になることができなくなったことを、またマイノリティーの犠牲の上で金儲けすることができなくなったことを嘆いているだけなのです。