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日本が非核三原則を守り続けなければならない理由

先日、関西方面で放送されている大阪朝日放送(ABCテレビ)制作のバラエティー番組「正義のミカタ」5月25日放送分において、京都大学大学院で教鞭をとられている藤井聡教授が、日本において非核三原則が国是として採用されている件に関して「これはポツダム宣言を受諾して、そして武装解除した状況として日米安保条約と日米地位協定と憲法9条セットで制度を作ってるからこうなった」と説明されていました。

つまり藤井氏は、日本で非核三原則が採用されている理由が単に「政策的」な理由によるものと説明されたわけですが、これは間違いとまでは言えませんが、正しくありません。

なぜなら、日本は世界唯一の戦争被爆国として、原爆の被害に遭われた多くの人たちが安らかに休んでもらえるようにするためにも、核兵器の悲惨さを世界に伝え、この世界から核兵器を根絶するために努力し続けなければならないという「非核三原則を国是として守り続けなければならない理由」が歴然として存在しているからです。

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日本が非核三原則を国是として選択した理由

非核三原則は一般に核兵器を「持たない、作らない、持ち込ませない」の3つの原則を言いますが、ではなぜこの三原則が国是として採用されたかというと、それは先ほど挙げた京大教授が説明されたように、政策的な目的でそうすることが良しと判断されたからに他なりません。

(1)歴代の政府は「自衛のための必要最小限度の実力」という理屈で自衛隊の違憲性を回避してきた

日本国憲法の9条2項では「陸海空軍その他の戦力」の保持が禁止されていますので、そもそも日本においては憲法上、核兵器の保有以前の問題として、武力(軍事力)の保有自体が憲法論的に違憲と考えられています。

【日本国憲法9条】

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この点、自衛隊の運用がなぜ認められているのかという点に疑問を持つ人もいるかもしれませんが、それは歴代の政府が自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」と説明してきたからです。

憲法9条2項の「戦力」が何を意味するのかという点については争いがありますが、憲法学の通説的な見解では「組織体の名称は何であれ、その人員、編成方法、装備、訓練、予算等の諸点から判断して、外敵の攻撃に対して国土を防衛するという目的にふさわしい内容を持った実力部隊(芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店61頁より引用)」と定義づけていますので、自衛隊が「外敵の攻撃から国土を防衛する」ために組織されている以上、この通説の見解に立てば自衛隊は違憲と言えます。

しかし歴代の政府は、独立国として当然に認められる固有の自衛権は憲法9条の下でも放棄されていないという見解に立ち、憲法9条2項の”戦力”に及ばない程度の「自衛のための必要最小限度の実力」であれば保持することができると解釈して自衛隊を運用してきました。

この解釈を採用する限り、通説の見解に立って9条2項の”戦力”を解釈した場合であっても、自衛隊の違憲性を回避することができるからです。

そのため、日本で運用されている自衛隊は、「憲法9条2項の”戦力”」ではなく「自衛のための必要最小限度の実力」というたてまえ(理屈)のうえで存続が許されている組織ということになるわけです(※参考→憲法9条2項で放棄された「戦力」とは具体的に何なのか)。

(2)自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」と解釈する政府の見解に立てば核兵器の保有さえも合憲となる

このように歴代の政府は、自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」であると説明し、「自衛隊は必要最小限度の実力の範囲を超えないから合憲だ」という理屈で自衛隊の違憲性を回避して運用してきました。

この点、このような歴代の政府がとってきた解釈に立てば、自衛隊が核兵器を保持することは可能です。

歴代の政府は自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」と定義したうえで、9条2項の”戦力”を「自衛のための必要最小限度を超える実力」と解釈し、その必要最小限度の範囲について「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できない」と説明してきましたので(芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第6版)」62頁参照)、政府が「自衛のための必要限度」と判断した兵器であれば、際限なくその保有が認められることになるからです。

実際、かつての政府は、防衛的な小型の核兵器は保有が認められると解釈していた時期がありますので(芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第6版)」63頁参照)、政府が憲法9条2項の”戦力”を「自衛のための必要最小限度の実力の範囲を超える戦力」と解釈する立場に立つ限りにおいて、政府は核兵器を保有すること自体は否定していないと言えます(※ただしあくまでも政府の解釈では核兵器の保有もできるということであって、憲法学の通説的な見解として核兵器の保有が認められると解釈しているわけではありません)。

(3)政府は核兵器の保有が可能という見解に立ちながらあえて政策的な理由で核兵器の保有を禁止してきた

以上で説明したように、憲法学の通説的な見解からすれば核兵器の保有は当然に違憲という解釈が導かれる一方で、歴代の政府は防衛的な小型の核兵器の保有は憲法上制限されないと解釈してきたわけですが、ではなぜ今の日本が核兵器を保有していないかというと、それは政策的な判断で核兵器を持たない方が良いと日本政府が考えているからです。

世界的には核兵器の拡散は否定的に考えられていますし、日本は核不拡散防止条約(NPT)を批准していますから、国際法的な面で事実上核兵器を保有することができないことを考えれば、NPTを脱退してまで核保有に踏み切るほどの積極的必要性もありません。

また日本はアメリカと日米安保条約を結ぶことでアメリカの核の傘の利益を受けていますし、核兵器を保有する場合の費用や核武装した場合に生じる東アジアの軍事バランスの影響などを考えれば核兵器の保有にメリットはないでしょう。

もちろん、核兵器の保有に反対する世論を考えても核兵器の保有は選挙的なデメリットも少なくありません。

このように政府は、憲法上の解釈としては核兵器の保有ができる(という解釈をとっている)にもかかわらず、あえて核兵器の保有を認めていないということになりますので、政府が核兵器を保有しないのは、「法的に保有できない(と政府が考えている)」のではなく、「政策的に保有しない(ことを政府が選択している)」ということになるわけです。

ですから、このページの冒頭で紹介した京大教授の言うように、日本が非核三原則を国是として採用したのは「政策的な理由によるものだ」という趣旨の説明も、間違いとは言えないわけです。

なお、参考までに、歴代の政府が防衛的な小型の核兵器の保有は憲法上可能であると解釈しているものの政策的な理由で核兵器の保有を認めていないという主旨の説明している国会の答弁のうち、比較的読みやすい部分を以下に引用しておきます。

(中略)ここに昭和四十五年十月に防衛庁から出しております「日本の防衛」というのがありますが、その中に「防衛力の限界」というところがございます。それには「憲法上の限界」と「政策上の限界」とあるわけでございますけれども、その中において「核兵器に対しては、非核三原則をとつている。小型の核兵器が、自衛のため必要最小限度の実力以内のものであって、他国に侵略的脅威を与えないようなものであれば、これを保有することは法理的に可能ということができるが、政府はたとえ憲法上可能なものであつても、政策として核装備をしない方針をとつている。」という内容がありますね。これといま園田外務大臣が言われたことは大変に違うといいますか、考え方が相反するわけでありまして、持てないというのと可能であるということですが、この点についてはどういうふうにお考えになっていましようか。

※出典:昭和53年3月2日内閣委員会:鈴切康雄衆議院議員発言部分(国会会議録検索システム)より引用

私がお答え申し上げました点といまの点とはいささかも変更はないと私は信じております。私が言いましたのは、憲法の規定によって縛られないけれども、核不拡散、非核三原則、原子力基本法、こういうものと憲法の規定と絡み合わせると持てない、こう言ったわけでありますから、憲法の規定そのもので持てないということではございません。
詳細は法制局長官からお願いをいたします。

※出典:昭和53年3月2日内閣委員会:園田直国務大臣発言部分(国会会議録検索システム)より引用

(中略)従来、防御的な兵器はたとえ核兵器であっても、それは憲法第九条二項で保有は禁止されておらない、おらないが、しかしそれは原子力基本法の第二条があるから現在は持つことができないのだ、こういう言い方をしておりますが、ちょうどそれと同じように、巌密に言いますと、なるほど九条二項では保有することが禁止されておらないけれども、核防条約に入った以上は条約は遵守しなければならない、したがって現在は小型の核兵器でも持てない、こういう言い回し方になるのだろうと思うわけでございます。(後略)

※出典:昭和53年3月2日内閣委員会:真田秀夫内閣法制局長官(政府委員)発言部分(国会会議録検索システム)より引用

日本が非核三原則を国是として守り続けなければならない理由

しかし、このように非核三原則が国是として採用されてきた意味を「政策的な面からだけ」で理解する認識は本質的な部分で誤解を生じさせます。

なぜなら、日本が非核三原則を国是としてきたのは、広島と長崎の悲劇を二度と繰り返させないという原爆の被害に遭われた方々との約束を果たすところにその本来の意味があるからです。

原爆投下当時の現地の状況は原爆資料館に行けばある程度は理解できますが、実際のあの日の広島と長崎には、残された資料からは我々が想像できないほどの地獄がまぎれもなく存在していたはずです。

原爆の投下によって引き起こされた爆風と熱線と放射能は数十万人の犠牲者を出しましたが、被爆2世や3世も含めれば今なお多くの方々がその影響に苦しめられているのが現実でしょう。

そうした悲劇が現実にあったからこそ広島の原爆慰霊碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているわけですが、それはもちろん、今を生きる我々にその使命が託されているからです。

あの日に広島と長崎で起きたことは決して繰り返してはならない人類の過ちなのですから、この「過ちは繰り返しませぬ」という言葉は、原爆で亡くなり、またあるべき人生を失った多くの人と交わした誓いであり約束です。

ですから、現代に生きる我々は世界から核兵器の根絶が実現されるまで、国民の総力を挙げて努力し続けなければならないのであって、それが原爆の犠牲となった方々へのせめてもの償いでしょう。

この点、なぜ原爆を落とされた被害者であるはずの我々日本国民がその責務を果たさないといけないのかと考える人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。核兵器の恐ろしさとその惨劇は、それを身をもって体験した国に住む我々にこそ伝えられるものがあると考えるからです。

広島と長崎の原爆では投下時点だけでも十数万人の人々が殺戮されました。

例えばの話ですが、一人の人間が銃で10万人の人間を殺戮しようとする場合、毎日27人もの人間を殺し続けたとして10年以上かかりますから、普通の神経を持っていれば途中で精神が破綻してしまうため10年もそれを続けてその殺戮を完遂させることは不可能です。

そのため、通常兵器を使用する場合には、その使用する側の人間に反省や後悔が必然的に生まれることを期待できるので、その反省や後悔を加害者の側に委ねることも肯定できる面があると言えます。

しかし、核兵器のような大量破壊兵器が使用される場合にはそうはいきません。

原爆のような大量破壊兵器を使用する側の人間はただボタン一つを押すだけでその行為を完遂させることができますので、原爆を落とした側の国や為政者や国民にその反省を委ねることは事実上困難だからです。

通常兵器と違い、大量破壊兵器である核兵器は倫理を伴わずに使用することが容易な兵器であるところに特殊な性質があり、この人間に人を殺すことの反省や後悔を生じさせない性質こそが核兵器が非人道的兵器と言われる所以です。

核兵器というものは、そこに人間の後悔や反省を生じさせない倫理観の欠如を必然的に伴わせてしまうものであり、容易にその残酷な破壊と殺戮を繰り返させてしまう危険性を必然的に包含させてしまうものなのです。

だからこそ、その被害を受けた側の我々が、その恐ろしさやその残酷さを伝えてゆかなければならないのです。

もし日本が非核三原則を破棄して核兵器を持つことができる国になってしまえば、誰が日本の言うことを聞いてくれるでしょうか。

自国の国家権力に対して核兵器の保有を認めるような国民が、いくら核兵器の恐怖や残酷さを訴えたとしても、世界の指導者や国民はだれも耳を傾けてはくれないでしょう。

だからこそ日本は、非核三原則を守り続けなければならないのです。

日本が非核三原則を国是として採用したのは、先ほども説明したように政策的な面でメリットがあると政府が考えたからですが、その非核三原則を守り続けなければならないのは、原爆の被害に遭われた方々とその遺族との約束を果たさなければならない責務があるからであり、核兵器の廃絶に向けて世界を先導する役割が我々にしか担えないからに他なりません。

非核三原則を政策的な側面だけで理解してしまう場合には、政策的な判断さえあればそれを破棄して核兵器の保持や行使に踏み切る道に容易に進んでしまいます。

仮に日本がそうなってしまえば、もはや世界における核兵器の拡散に歯止めをかける国民はだれもいなくなってしまうでしょう。そうなれば世界は破滅に向かうだけではないでしょうか。

非核三原則は国の政策としての側面だけで理解してよいものではありません。

被爆国としての役割や人類にあの惨劇を繰り返させないことへの誓い、被爆者や遺族の願いなど、広島と長崎の犠牲になられた方々との約束であって人類の唯一の希望であることを、すべての国民が改めて自覚すべき必要があるのです。

これを怠れば、必ずまたあの夏の地獄を繰り返させてしまうことを絶対に忘れてはならないのです。