政府が憲法9条を「消極的な平和主義」と捻じ曲げて解釈する理由

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憲法9条が「単なる非武装中立・無抵抗主義」ではない理由』のページでも説明していますが、憲法の9条(1項)は「平和主義」を謳う条文ではあるものの、そこで具現化される「平和主義」は単なる「平和主義」ではなく「平和を実現するために積極的な行動をとることを要請する平和主義」を基礎とするものと理解されています。

【日本国憲法第9条1項】

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

憲法の「前文」では、外国が攻めてこないように外交等武力を用いない方法で国際社会に積極的に働きかけて自国の安全を確保することを要請しており、その憲法の「前文」に法規範がある以上、その限りで憲法9条を拘束しますから、憲法9条の「平和主義」は「平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している平和主義」であると解釈されているのです(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店56頁参照(※参考文献))。

「(中略)日本国憲法の平和主義は、単に自国の安全を他国に守ってもらうという消極的なものではない。それは、平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している。」

(以上、芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店56頁より引用(※参考文献))

この「平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している平和主義(以下、便宜上「積極的な平和主義」といいます)」を基礎とする平和主義では、「単なる非武装中立・無抵抗主義」などといった結論は導き出されません。

なぜなら、「単なる非武装中立・無抵抗主義」というような、いわば「右の頬を打たれれば左の頬をさしだせ」という理念は、平和に向けた積極的な行動を取ることなく「自国だけ」の平和を実現することを目指す「消極的な平和主義」に由来しているからです。

「積極的な平和主義」の下では、憲法の「前文」に記載されているように、国の安全保障は積極的に国際社会に「平和構想を提示」や「国際紛争や対立の緩和に向けた提言」を行ったり、外交や国際援助、人命救助など武力(軍事力)以外の方法を用いて能動的に国際社会に働きかけていくことで確保されますから、それはいわば「利他的」な手段で自国の安全保障を確保しようとするものになります。

【憲法前文(抄)】

日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する
われらは……自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって…(中略)。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

すなわち、憲法の9条を「積極的な平和主義」を基礎とするものと理解する立場では、それによって具現化される自国の安全保障政策は、「国際的な中立」を保持する立場にあっても世界の平和脅かす勢力に対して積極的に行動を起こすという意味で「ただ漫然と中立を維持するわけではない」といえますし、武力(軍事力)を用いないという意味で「非武装」「無抵抗」ではあっても、外交的等によって国際社会に働きかけを行うという意味では徹底的に「抵抗」しますから、憲法の9条は「憲法道程」の皆さんが思っているような「単なる非武装中立・無抵抗主義」などという理想論を展開する非現実的なものではないのです。

(※この点の詳しい解説は→憲法9条が「単なる非武装中立・無抵抗主義」ではない理由

ところで、憲法9条が「積極的な平和主義」を基礎とするものと理解される場合、憲法の「前文」で表明されたように国際社会に積極的に働きかけを行うことによって自国の安全保障を確保することが求められますから、日本は「自国のことのみに専念」し「自国の安全保障だけ」を確保することは許されません。

憲法の「前文」では「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」ことを確認し国際社会から「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」するが求められているわけですから、日本という国はその憲法「前文」によって表明される崇高な理念を実現し世界の平和が実現されるよう、能動的かつ積極的に国際社会に働きかけてゆかなければならないのです。

そしてそれこそが本来の日本のあるべき姿であり唯一取ることが許される安全保障施策といえるのですが、政府は戦後一貫して、その本来行われるべき「積極的な平和主義」を基礎とした安全保障施策をほとんど行ってきませんでした。

ではなぜ、政府はそのような憲法9条を「積極的な平和主義」を基礎とするものと理解した場合に必要となる施策を一切取ってこなかったのでしょうか?

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政府が戦後一貫して憲法9条の「積極的な平和主義」を基礎とする安全保障施策を怠ってきた理由

先ほども述べたように、憲法9条における「平和主義」を憲法「前文」によって表明される「積極的な平和主義」を基礎とするものと理解した場合、国の安全保障は「平和構想を提示」や「国際紛争や対立の緩和に向けた提言」を行ったり、外交や国際援助、人命救助など武力(軍事力)以外の方法を用いて積極的に国際社会に働きかけていくことで確保されますから、それに見合った具体的なあらゆる「武力(軍事力)以外」の安全保障施策が必要となります。

しかし、実際に日本が戦後一貫して行って来た安全保障施策は、憲法上「違憲」と判断される「自衛隊」の整備拡張という「武力(軍事力)」による抑止力の強化にすぎません。

もちろん、ODAや途上国への経済支援・技術協力などによって世界の発展に寄与してきた事実は少なからずありますが、アフリカやアジア中東地域における貧困や民族紛争の問題に対して憲法9条が標榜する「積極的な平和主義」に叶う積極的な助言や平和構想の提言を具体的な形で実現してきたかというと、不十分な点は否めないでしょう。

たとえば日本が難民の受け入れに極端に消極的なのは世界に知られた話ですが、そのような日本の態度は「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と表明し、そのための積極的・具体的な施策を要求する憲法「前文」の「積極的な平和主義」の理念に明らかに反します。

また、イスラエルが核兵器を保有していることはもはや周知の事実で、それは近隣のアラブ諸国民の生命を脅かす重大な脅威以外の何物でもありませんが、日本はそれを非難するどころか、核拡散防止条約がありながらそれを黙認するアメリカに追従して目をつぶり、被爆国でありながら核兵器禁止条約の批准も拒んだまま、ただ漫然とアメリカの核の傘の下で胡坐をかいて自国の平穏だけを享受しています。このような日本の態度も同じように憲法「前文」の「積極的な平和主義」の理念に反するでしょう。

さらには、日本は高度経済成長からバブル経済終焉までの間、長期にわたって経済的な繁栄を誇ってきたわけですが、そこで得られた経済的利益の一部はODAや経済援助等によって国際社会の利益のために使われた事実があるものの、その経済繁栄によってもたらされた利益のほとんどは国内のインフラ整備と国民の享楽(例えば海外でブランド品や不動産を買いあさるとか)、そして本来憲法上存在しないはずの「自衛隊」の拡充のために使われてきたのは事実なわけですから、そのようにして得られた日本の安全と繁栄は、紛争や弾圧、貧困に苦しむ諸外国の国民の存在に目を背け、いわば見てみぬふりをして築きあげられてきたものであって、それはすなわち「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と表明し「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と宣言してその実行を誓った憲法「前文」の理念を一切無視するものといえます。

このように、戦後の日本は一貫して、憲法9条の「積極的な平和主義」の理念に反し、自国の安全と繁栄だけを追い求めその利益を享受してきたわけですが、それはすなわち、日本政府と多くの「憲法道程」である国民が、戦後の長きにわたって、憲法9条(1項)における「平和主義」を「消極的な平和主義」と解釈してきた証左に他なりません。

なぜなら、そのように憲法9条の「平和主義」とアメリカの核の下に胡坐をかいて、ただ漫然と自国の安全保障だけを確保することが許容されるのは、憲法9条(1項)の「平和主義」を「消極的な平和主義」と解釈した場合だけだからです。

憲法9条(1項)を「消極的な平和主義」と解釈した場合には、そこで具現化される「平和主義」は「単なる非武装中立・無抵抗主義」というものになりますから、憲法9条を「積極的な平和主義」を基礎とするものと解釈した場合に要請される「平和構想を提示」や「紛争緩和に向けた提言」をもって積極的に国際社会に働きかける施策を怠ることも許容されます。

実際、戦後の日本では、そのような努力を怠る状態が長きにわたって継続され、かつそれが国民によって許容されてきたわけですから、政府と多くの国民(憲法道程)が憲法9条の「平和主義」を「消極的な平和主義」と誤って(または故意に捻じ曲げて)解釈してきたことは間違いないでしょう。

そして、その「消極的な平和主義」を基礎として安全保障を考えた結果、「非武装中立・無抵抗主義では国は守れない」と判断したからこそ、政府は本来であれば「違憲」であるはずの「自衛隊」を「合憲」と解釈して長年にわたって運用し、国民(憲法道程)もそれを許容してきたのです。

政府が憲法9条を「消極的な平和主義」と捻じ曲げて解釈してきた理由

ではなぜ、政府が憲法9条の「平和主義」を、憲法の「前文」で表明される「積極的な平和主義」の理念を一切無視して「消極的な平和主義」を基礎とするものと「捻じ曲げて」解釈してきたかというと、その方が政府にとって都合がよかったからです。

この国の安全保障政策は、本来「違憲」であるはずの「自衛隊」を「合憲」と解釈し、その「憲法上は本来存在しないはずの自衛隊」をもって国土を守ることに重きを置く施策が戦後一貫して取られてきましたから、そこでは憲法9条を「消極的な平和主義」と解釈する必要があります。

なぜなら、先ほども述べたように、憲法9条を「積極的な平和主義」と理解した場合には、国の安全保障は「武力(軍事力)」を使わず「平和構想を提示」や「紛争緩和に向けた提言」などを積極的に国際社会に働きかけることよって確保されますから、憲法9条を「積極的な平和主義」を基礎とするものと解釈する限り、実質的な「武力(軍事力)」を保有する「自衛隊」の存在は世論から容認されないからです。

しかし、憲法9条を「消極的な平和主義」と理解した場合には、先ほども述べたように「非武装中立」や「無抵抗主義」というようないわば「右の頬を打たれれば左の頬をさしだせ」という理想論的な理念によってしか国の安全保障は確保されないことになりますので、憲法9条を「消極的な平和主義」を基礎とするものと理解する限り、具体的かつ有効な安全保障施策は一切提示されないことになる結果、「自衛隊なしでどうやって国の安全保障を確保できるんだ」という世論を形成することも容易です。

そして、そうすれば「本来は違憲であるはず」の「自衛隊」も世論から容認され易くなりますから、本来は「違憲」である「自衛隊」を「合憲」と解釈して運用したい政府としては、憲法9条を「消極的な平和主義」と解釈する必要がありましたし、そのように国民が解釈してくれる方が都合がよかったのです。

だからこそ、政府はあえて憲法9条の「平和主義」を「消極的な平和主義」を基礎とするものと捻じ曲げて解釈し、「憲法9条の非武装中立・無抵抗主義では国は守れない」という理屈を積極的にアナウンスすることで国民を納得させてきたのです。

【学校教育における「平和主義」の定義の問題】

日本の学校教育では憲法の三原則を「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」の三つと教えられています。

しかし、これは正しくありません。

なぜなら、憲法の三原則の一つである「平和主義」を単に「平和主義」と教える場合、その「平和主義」は「消極的な平和主義」をも含むことになり、本来の憲法9条が基礎とする「積極的な平和主義」と全く異なるものになってしまうからです。

学校教育で憲法9条の「平和主義」を単に「平和主義」と教われば、その「平和主義」が「消極的な平和主義」と「積極的な平和主義」とで異なる概念であることを認識せず、両者の概念を混同したまま、大人になってしまいます。

そうすると、憲法9条の「平和主義」が「単なる非武装中立・無抵抗主義」と同義であると間違って認識してしまうことは避けられませんから、その誤った認識に基づいて政府やテレビ等の討論番組に出演する「知識人」と呼ばれる論者の「憲法9条消極的な平和主義論」を耳にすることで、容易に「憲法9条では国は守れない」という正確ではない知識を植え付けられてしまうでしょう。

憲法9条の「平和主義」は「積極的な平和主義」を基礎とするものであり、本来国の安全保障は「武力(軍事力)」を使わず「平和構想を提示」や「紛争緩和に向けた提言」などを積極的に国際社会に働きかけることよって確保されるべきものです。

にもかかわらず、その真実を教えられないまま多くの国民が大人になってしまうことが、憲法9条に関するまともな議論が進展しない根本的な原因といえるのはないでしょうか。

憲法道程が憲法9条の「平和主義」を「消極的な平和主義」を基礎とするものと解釈し続けるのはあまりにも危険

このように、政府は意図的に憲法9条の「平和主義」を「消極的な平和主義」を基礎とするものとしてアナウンスし、ほとんどの国民もそれを無意識的に許容して憲法の改憲議論をしているのが今の日本の現状です。

改憲論者は「憲法9条では国は守れない」と言いますが、それは本来、憲法「前文」に表明される「積極的な平和主義」を基礎として理解すべき憲法9条を、あえて「9条の条文」の文言だけをもって理解し「消極的な平和主義」を基礎とするものと捻じ曲げて解釈することによって、憲法9条の「平和主義」をあえて「悪者」に仕立て上げているだけにすぎません。

憲法9条の「平和主義」を「消極的な平和主義」を基礎とするものと解釈すれば、そこから帰結される安全保障施策は非現実的で理想論的な「単なる非武装中立・無抵抗主義」を基礎とするものしか連想されません。

そうすると、多くの国民が「現行の9条では国は守れない」と誤って認識して9条の改憲に賛成しますから、改憲に賛成する人々と政府はあえて憲法9条を「消極的な平和主義」を基礎とするものと吹聴しているだけなのです。

もちろん、憲法9条を改正するかしないかは、国民が自分の頭と心で考えて国民投票で決めれば良いわけですから、その結果は「改正する」ものであっても「改正しない」ものであっても、どちらでも構わないわけです。

しかし、憲法9条が本来、憲法「前文」に表明される「積極的な平和主義」を基礎とするものであることを理解しないまま、多くの国民が誤った知識の下で憲法改正の議論を行い、その間違った議論に基づいて判断した結論によって国民投票に一票を投じることは、あまりにも危険であまりにも愚かな行為といえます。