憲法9条の改正に賛成する人たちの中に「北朝鮮の拉致問題が解決しないのは憲法9条があるからだ!」と主張する人が少なからずいます。
日本人が北朝鮮の工作員によって拉致された事件では小泉政権時代の2001年に拉致被害者の一部の帰国が実現しましたが、拉致された被害者のすべての帰国が実現されたわけではありません(※詳細は→北朝鮮の拉致事件は憲法9条のせいだ…が間違っている理由)。
しかし、日本国憲法の9条では軍隊の保持と交戦権が否定されていますから、北朝鮮が拉致被害者の帰国に応じないからと言って軍事力を行使して拉致被害者を取り返すことも不可能です。
そのため「憲法9条があるから拉致被害者を武力(軍事力)で取り返すことができないじゃないか!」「他の国で国民が拉致されたら特殊部隊を送って奪還するのが常識だぞ!」「9条に軍(自衛隊)を明記して軍事力で拉致被害者を奪還すべきだ!」と主張して憲法9条を改正しようと言い出す人が出てくるわけです。
しかし、このように北朝鮮の拉致問題が解決しない問題と憲法9条の改正を関連付ける主張は明らかに間違いであり詭弁とさえ言えます。
なぜなら、憲法9条を改正して9条に自衛隊や軍隊を明記し国の交戦権を認めても、軍事力によって北朝鮮から拉致被害者を奪還するなどできるわけがないからです。
経済的に依存する中国を無視して北朝鮮と戦争できるわけがない
北朝鮮の拉致問題が解決できないのが憲法9条のせいだと主張している人達は、憲法9条を改正して憲法に軍隊(または自衛隊)を明記し、軍事力を行使して拉致被害者を奪還すべきだと主張していますが、仮に憲法を改正して9条に軍(自衛隊)を明記したとしても軍事力で拉致被害者を奪還するなどできるはずがありません。
北朝鮮と戦争になれば、北朝鮮と友好関係にある中国が経済制裁で対抗することが当然に予想されますが、今の日本経済は中国経済に依存していて、その影響は計り知れないからです。
中国が制裁として日本との貿易を制限すれば、コンビニの商品は半分以上なくなるでしょうし、衣料品や工業製品などの生産もできなくなり、日本の経済はマヒしてしまいます。
経済制裁で対抗する中国だけでなく、攻撃やテロの不安から中国以外からの観光客も激減しますから、日本の観光産業も壊滅的な損失を被ることになるのは避けられないでしょう。
また、日本が北朝鮮と戦争状態になれば安全資産として為替市場で買われた「円」は売られて急激に円安が進むので、原材料価格の高騰で急激にインフレが進むのは当然ですし、地政学的リスクを嫌気した海外投資家は日本の株式市場から資産を引き上げてしまうので株式市場は暴落し、株高を支えた年金資金が損失を抱えるだけでなく、労働者の賃金は下げられてデフレどころかスタグフレーションに陥るのは目に見えています。
もちろん、日本がそうなれば中国にも経済的なデメリットは生じるでしょうが、日本が受ける影響とは比較にならないほど小さいはずです。
ですから、このような北朝鮮に軍事力を行使した場合に生じる経済の影響を考えれば拉致被害者を軍事力で奪還するなどできるはずがないのです。
世界最強の軍隊を持つアメリカでさえ北朝鮮と戦争できない
北朝鮮に軍事介入できないことは、アメリカの例を見ても明らかです。
つい最近、アメリカ人の大学生が旅行先のピョンヤンで逮捕され数年後に意識不明で送還された事件(※オットー・ワームビア事件|Wikipedia)がありましたが、トランプ大統領は核ミサイルの対処の関係もあって当初武力攻撃を示唆していたものの結局は断念せざるを得ませんでした。
もちろんアメリカが軍事行動をとらなかったのは北朝鮮からの核攻撃や地上戦になった場合の人的被害の懸念もあったでしょうが、もっとも大きな問題は経済への影響でしょう。
今のアメリカ経済も日本と同様、中国に依存していますから、北朝鮮への軍事行動によって中国との経済関係に支障が出ればアメリカの経済は大きな打撃を受けてしまいます。
世界最強のアメリカでさえ北朝鮮に対しては拘束された自国民を軍事力で救出するのは不可能なわけですから、日本のような経済的にも軍事的にも小さな国が北朝鮮に軍事介入するなど、たとえ憲法を改正して軍備を整えてもできるはずがないのです。
特殊部隊で救出するなどハリウッド映画の見過ぎ
この点、憲法9条の改正に賛成する人たちの中には、9条に軍隊(または自衛隊)を明記して国の交戦権を容認し、特殊部隊で急襲をかけて拉致被害者を奪還しろなどと威勢のいいことを言う人がいますが、そのようなことが現実にできるわけがありません。
例えばアメリカが1993年にソマリアで特殊部隊を派遣して民兵組織の高官を捕縛しようとして大規模な戦闘に発展した事件(モガディシュの戦闘)は「ブラックホークダウン」という映画の題材にもなっていますが、その事件ではアメリカ軍の特殊部隊は2機のヘリコプターを撃墜されたうえ多数の死傷者を出しています。
つまり、特殊部隊を使った急襲作戦は、世界最強のアメリカ軍の特殊部隊が行う場合であっても失敗することがあるわけです。
その危険な急襲作戦を、自衛隊や憲法9条を改正した後にできる国防軍が、北朝鮮という統制のとれた国家を相手にできるとでも思っているのでしょうか。
北朝鮮の軍隊は、ソマリアの民兵組織とは比較にならない統制と装備を整えていますから、そのような国家に対して特殊部隊を急襲させるなどできるはずがありません。
ソマリアのたかが民兵組織を相手でも世界最強のアメリカ軍の特殊部隊が失敗するのに、日本の自衛隊や国防軍が北朝鮮の統制のとれた制空権をかいくぐってヘリで内陸部まで侵入し、特殊部隊を急襲させて多数の拉致被害者を一気に救出するなど可能でないのは子供でも分かります。
しかも、拉致事件は発生から既に40∼50年は経過しており、拉致被害者には北朝鮮で結婚した配偶者や義理の両親、子や孫がいる可能性もありますが、仮に特殊部隊で急襲して「奪還」してしまえば現地家族と引き裂くことになりますし、現地の家族も一緒に「奪還」すれば、日本の特殊部隊が現地の家族を「拉致」することになってしまいます。
拉致被害者を救出するにしても、すでに相当な年月が経ってしまっている以上、拉致問題は被害者一人を連れ帰れば解決するという問題ではなく、被害者が北朝鮮で築いてきた人生と現地家族の問題でもあるのですから、それを全く無視して特殊部隊で「奪還」することは、当人と北朝鮮にいる家族の希望や意思を無視する重大な人権侵害となり得るのです。
そうした問題を考えず、ただ「奪還」すれば解決だと考えること自体異常ですし、基本的人権を尊重しようとする近代憲法の理念とも相容れません。
そもそも、その拉致被害者がどこの地方のどの家にいるのかどうやって把握するつもりなのでしょうか。
結局、憲法9条を改正して9条に自衛隊や国防軍を明記し、武力(軍事力)で拉致被害者を奪還しろなどとほざいている人たちは、ハリウッド映画の見過ぎなのです。
アメリカでさえベトナムに負けたのに日本が北朝鮮に勝てるはずがない
憲法9条を改正して自衛隊や軍隊を憲法に明記するよう求めている人の中には、軍事力を行使して北朝鮮に侵攻し拉致被害者を奪還しろなどと恐ろしいことを主張する人もいますが、これも馬鹿げた意見です。
なぜなら、日本が北朝鮮と戦争して勝てるわけがないからです。
もちろん、日本の自衛隊は世界有数の装備を保有して訓練も行き届いているのでしょうから、装備の近代化も不十分なうえ食糧不足で士気も上がらない北朝鮮軍と戦えば、緒戦では優位に立って制海権や制空権はとれるかもしれません。
しかし、拉致被害者を奪還するためには地上部隊を内陸まで侵攻させしらみつぶしに北朝鮮の国土を捜索し拉致被害者の居場所を特定しなければなりません。そのようなことが現実にできるとでも思っているのでしょうか。
たとえばアメリカはベトナム戦争で地上戦を展開し近代的な装備で北ベトナムを圧倒しましたが、その戦果は日中戦争における旧日本軍と同様に”点と線”だけの攻略に限られた挙句、国内の反戦運動もあって結局は甚大な死傷者を出しながら何も得ることなく逃げ帰りました。
アメリカのような超大国でもベトナムのような小国に勝てないのに、日本のような小国が地上戦で北朝鮮の広大な国土を制圧できるわけがありません。
また、北朝鮮から工作員が日本に上陸するのは簡単ですから(※実際、日本海側の海岸に北朝鮮の船が漂着している事実が多数散見されるのでその気になれば工作員の上陸は簡単です)、実際に北朝鮮と戦争になれば日本国内も多数の攻撃に晒されるのは必至でしょう。もちろん、ミサイルだって飛んでくるかもしれません。
さらに言えば、日本が北朝鮮と戦争になれば北朝鮮が自由主義陣営に組み込まれるのを嫌う中国やロシアが当然に北朝鮮を支援しますので、先の戦争でイギリスがビルマルートを利用してラングーンから重慶の蒋介石に武器弾薬を大量に輸送して支援したように、中朝国境から大量の支援物資が北朝鮮に送られるのは確実です。
そうなれば、先の戦争の旧日本軍と同様に終わりの見えない泥沼の戦闘に巻き込まれていきますが、地上戦が長引けば長引くほど日本の経済は疲弊し国力もそがれていきますので、強権で国民を抑圧できる北朝鮮と異なり自由や人権意識の高い日本の方が先に音を上げてしまうのは確実です。
それとも、憲法を改正して明治憲法(大日本帝国憲法)で実現されたような人権を制限する全体主義国家に日本を変えてしまうつもりなのでしょうか。
ですから、そもそも日本が北朝鮮と戦争して勝てるわけがないのです。
武力(軍事力)による国際紛争解決は国連憲章違反なので世界から非難されるだけ
国連との関係で考えても、憲法9条を改正して自衛隊や国防軍を憲法に明記することで拉致問題が解決しないのは明らかです。
国連憲章は、国家間の紛争解決はまず外交交渉等の平和的手段によって解決を図ることを求めていますし、それで解決できない場合でも国連の安全保障理事会に付託しなければならないことが義務付けられているからです。
【国連憲章第37条】
第1条 第33条に掲げる性質の紛争の当事者は、同条に示す手段によってこの紛争を解決することができなかったときは、これを安全保障理事会に付託しなければならない。
第2条 安全保障理事会は、紛争の継続が国際の平和及び安全の維持を危うくする虞が実際にあると認めるときは、第36条に基く行動をとるか、適当と認める解決条件を勧告するかのいずれかを決定しなければならない。
「拉致被害者を返さないから」などという勝手我儘な理由で日本独自の判断で北朝鮮に兵を進めても、国連決議に基づかない派兵は単なる侵略と同じですから、北朝鮮に宣戦を布告して戦争を始めてしまえば、日本は世界から非難されアメリカでさえ日本を擁護しないでしょう。
ですから、憲法9条を改正して自衛隊や国防軍を明記したところで、武力によって拉致事件を解決するなど不可能なのは明らかと言えます。
軍事力を背景にして北朝鮮が「ビビる」わけがない
憲法9条を改正して自衛隊や国防軍を憲法に明記することを求めている人たちの中には、日本が憲法9条のせいで軍事力を行使できないことになっているから北朝鮮に「舐められて」拉致被害者の返還に応じてもらえないのだと主張する人もいるようですが、これも滑稽な話です。
たとえば先ほど挙げたアメリカの大学生が北朝鮮に拘束された事件では意識不明の状態になって帰国されるまで1年以上の期間を要しましたが、北朝鮮に軍事力を背景にした脅しが効くのなら意識不明になる前に解放されているはずでしょう。
そもそも北朝鮮のような独裁国家では軍事力による抑圧で国を統制しているのですから、軍事力を背景にした交渉に屈すれば国内の反乱を招くだけなので、他国から軍事的な圧力を受ければ受けるほど態度は硬化してしまうのが普通です。
しかも、仮に日本が憲法を改正して軍備を整えても、上に述べたような理由で日本が軍事力を行使できないことは北朝鮮も十分に認識していますから、軍事力を背景にした脅しなど通用するはずがないのです。
「外交における交渉力はその背後に軍事力があってこそ確保できるものだ」などとしたり顔で語る(自称)知識人は多いですが、彼らの発想は明治大正の植民地思想で止まっているのかもしれません。
最後に
以上で説明したように、憲法9条を改正して自衛隊や国防軍を憲法に明記したとしても、実際に北朝鮮と戦争することもできませんし、その軍事力による抑止力は外交的にも何のメリットもないわけですから、憲法の改正は拉致問題の解決に何ら効果を生じさせるものではありません。
結局、憲法改正のために北朝鮮の拉致事件を持ち出して来る人たちは、非人道的な国家的犯罪である北朝鮮の拉致事件を、憲法を改正したいという自分たちのイデオロギーのために都合よく利用しているだけなのです。
このような詭弁を弄して憲法改正を図る人たちの口車に乗せられて憲法改正に応じれば、将来世代の国民に80年前の悲劇を繰り返させてしまう危険性があることをすべての国民が認識しなければならないと言えます。
2022年9月17日追記
なお、一部の拉致被害者(田中実さん(失踪当時28歳)、金田龍光さん(失踪当時28歳))については2014∼2015年頃に北朝鮮側から一時帰国に関する提案を受けておきながら安倍政権が拒否していたことが報道で明らかになっていますので(※参考→拉致被害者2人の一時帰国拒否 安倍政権時、幕引き警戒|東京新聞(2022年9月17日付))、拉致被害者の帰国が実現されない根本原因は拉致問題の解決を望まない自民党政権にあると言えます。
拉致被害者が帰国して拉致問題が解決してしまうと、自民党は拉致問題を9条改正の口実に使えなくなるだけでなく、選挙のたびに「我々は拉致問題の解決に全力を注いでます!」と連呼することで保守層の票を増やすこともできなくなってしまいます。
自民党にとって拉致問題は憲法改正と選挙のための”打ち出の小槌”なのかもしれません。