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ウクライナはロシアに侵攻されたから憲法9条は改正すべき…なのか

去る5月3日の憲法記念日に、某団体が開催した「公開憲法フォーラム」においてウクライナから留学中のA氏(以下、単に「A氏」)が行った講演が、憲法改正を積極的に推し進めようとしている人たちの間で若干話題になっています。

A氏の講演内容はおおむね、ウクライナが1991年のソ連崩壊以降、大規模な軍隊を組織し核兵器も保有していたものの、その維持費の問題や周辺諸国から警戒されることを懸念して軍縮を推し進め、また大国の対立に巻き込まれないようにするためにNATOなどの軍事同盟にも加盟せず武力に頼らない平和実現を目指していたにもかかわらずロシアから侵攻を受けることによってクリミア半島を事実上併合されてしまった状況は日本の置かれた現状に酷似していると持論を展開したうえで、日本は憲法9条を改正して軍備の充実を図らなければいずれウクライナと同じように他国に侵略されてしまう…というようなことを日本人に警告するという趣旨のものだったようです。

この点、在ウクライナ日本大使館のウェブサイトによれば、ソ連崩壊後のウクライナで軍備の縮小が行われたことは事実のようですが、それはただ不要になったソ連時代の攻撃的で大規模な装備や老巧化した装備を整理し改革しただけで国力に応じたそれなりの軍隊は維持していたようですし、NATOとの間では1994年の早い段階から協力関係を築いていただけでなく、2002年にはNATO加盟の意思を表明していたそうですから、このA氏の説明は実際のウクライナの実情とはかけ離れているようにも思えます。

旧ソ連邦の軍事上の前線と位置づけられ攻撃的な性格の強い部隊が配備されていたウクライナは、ソ連崩壊に伴い膨大な軍事施設と兵力、組織及び装備品等をそのまま受け継ぐこととなった。しかし、国家防衛を主任務とするウクライナ軍にとって旧ソ連型の攻撃的で大規模な兵力を擁する軍事組織、装備品等は不要となり、国防に特化した国力に応じた軍隊作りに努力してきた。

〔中略〕

ウクライナは、1994年に他のCISに先駆けてNATOとの間で「平和のためのパートナーシップ(PfP)協定」に署名したのに引き続き、1997年には「ウクライナ・NATO間の特別な関係に関する憲章」に署名し、NATOとの関係強化を明確にした。

 また、2001年9月に勃発した米国における同時多発テロ以降、米を含むNATOとロシアとの関係改善が図られる等、国際情勢が大きく変化する中で、ウクライナ国家安全保障国防会議は、2002年5月、「ウクライナのNATO加盟に向けた準備に着手する」決議を採択、7月にはクチマ大統領が同大統領令に署名する等、中・長期目標としてウクライナのNATO加盟の意思を内外に示した。

※出典:ウクライナ概観 (2011年10月現在)|在ウクライナ日本国大使館:ウクライナ概観(日本語)より引用

また、黒川祐次氏の著書『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)によれば、そもそもクリミアはもともとロシアの一部だったのを1954年にソ連のフルシチョフがウクライナ懐柔策の一環として、またウクライナにおけるロシア人比率を高めるという政治的な目的のためにウクライナに移管した経緯があるそうですし(同書240頁参照)、全人口に占めるロシア人の割合は1979年時点ですでに20%を超えていて(同書243頁)、クリミア半島では1991年の時点でも過半数をロシア人が占めていたそうですから(同書251頁)、そうしたウクライナにみられる歴史的な事情を踏まえれば、昨今のロシアによるクリミアを含めた東部ウクライナへの軍事介入は、それが武力を用いた侵略として非難されるべき問題であるにせよ、ウクライナにおける親ロシア派の分離闘争(ロシアへの合流闘争)という内戦の側面も考えなければならないような気がします。

一九五四年、フメリニツキーがロシアの宗主権を認めたペレヤスラフ協定の締結三〇〇周年記念の際に、これまでロシアの一部だったクリミアが「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」としてウクライナ共和国に移管された。これは対ウクライナ懐柔政策であったが、他方ロシア人が人口の七〇%を占めるクリミアをウクライナに帰属させることによってウクライナの中でロシアの比率を高める意図もあったとされている。いずれにせよ当時はウクライナが将来独立することなど毛頭考えられていなかったので、行政上の措置程度の軽い気持ちでなされた決定であっただろう。

※出典:黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史』中公新書240頁より引用

そうであれば、そうした事情の全く存在しない日本にウクライナにおけるロシアの侵攻をそのまま当てはめて「ウクライナのように日本にもロシアが攻めてくる」などと短絡的に決めつけることもできないでしょう。

もっとも、私はウクライナの歴史や政治には知識がなく、A氏が講演で述べたクリミア問題の詳細が実情に即しているのか判然としませんのでその内容についてはこれ以上一切言及しませんが、問題はA氏が述べた日本国憲法の平和主義と9条についての解釈です。

この講演でA氏は、ウクライナの実情が日本の置かれた状況と酷似していると持論を展開したうえで日本における憲法9条の改正の必要性を訴えましたが、その際、憲法9条の改正に反対する国民を「自称平和主義者」とこき下ろしたうえで、その自称平和主義者たちが「軍隊を無くして隣国の脅威とならなければその隣国が攻めてくることはない」「どんな争いであっても話し合いで解決できる」「集団的自衛権を容認すれば他国の戦争に巻き込まれてしまう」「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を保つことができる」と主張して9条の改正に反対していることが、かえって日本をウクライナと同様の危機に陥れているというような趣旨の話を述べています。

つまりA氏は、日本国憲法における平和主義の基本原理と9条が

  • 「軍隊を無くして他国の脅威とならなければ他国から侵略されることはない」
  • 「どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる」
  • 「集団的自衛権を否定しておけば平和は保たれる」
  • 「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を保つことができる」

という4つの思想を包含していると解釈したうえで、それと同様な理念をもって国政を運営していたウクライナがロシアから侵攻を受けたのだから、日本国憲法の平和主義の基本原理と9条の下で平和を実現できるはずがない、だから9条は改正すべきなのだ、と論じているのです。

しかし、この理屈は、はっきり言って暴論です。

なぜなら、A氏が述べた上記4つの日本国憲法における平和主義の基本原理と憲法9条に関する見解は、そのすべてが明らかに憲法論における見解と矛盾する捻じ曲げられた解釈に基づくものであり、その矛盾する捻じ曲げられた解釈を前提知識として日本国憲法の平和主義や憲法9条の具現性を否定しても、その議論自体に何らの価値も生じないからです。

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ウクライナ人留学生A氏における日本国憲法の平和主義と9条の解釈はどこがおかしいのか

上に述べたように、A氏は講演で日本国憲法の平和主義と9条の解釈について大きく4つの点を指摘して、9条を改正して軍備の拡張を図らなければ平和を守ることはできないと論じました。

しかし、このA氏が論じた日本国憲法の平和主義と9条に関する見解は、以下の(1)~(4)で述べるように、すべて憲法論的見解を捻じ曲げて理解したものであり憲法論の常識と矛盾しています。

(1)憲法の平和主義と9条は「軍隊を無くして他国の脅威とならなければ他国から侵略されることはない」と考えているわけではない

A氏は日本国憲法の平和主義や9条を「軍隊を無くして他国の脅威とならなければ他国から侵略されることはない」というような思想が元になっていると解釈しているようですが、憲法学の世界ではこのような説明はなされていません。

この点は日本人の中にも誤解している人が多いのですが、そもそも憲法9条は国の安全保障の手段を規定した条文ではなく、憲法前文で宣言された平和主義の基本原則を具現化するための規定です(高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材304~305頁参照)。

日本国憲法は、第二次世界大戦の反省に立ち、前文において、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意」し、そのために人類普遍の原理としての立憲主義にコミットすると同時に、さらに平和主義の理想を掲げ「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに存在する権利を有することを確認」し、国際社会と協調してかかる理想の実現に向かうことを宣言した。この平和主義と国際協調主義の理念は、憲法本文においては、九条の戦争放棄と九八条二項の国際法規遵守義務の規定に具現化されている。

※出典:高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材304~305頁より引用

日本国憲法の前文では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」と述べることで憲法の基本原理が平和主義にあることを宣言していますが、これはもちろん先の戦争で日本国民だけでなく周辺の諸国民にも多大な犠牲を強いてしまった反省があるからに他なりません。

そしてその平和主義を実現する方法については、そのあとに「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と続けることで、国際社会と協調し信頼関係を築く国際協調主義に立脚して実現することを要請しています(※参考→平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼…することが必要な理由)。

また、その国際協調主義に立脚して平和を実現する具体的な方法は、その憲法前文の後段で「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と、また「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と述べていますので、日本国憲法が世界から紛争や貧困を除去し世界の平和を実現していく過程のなかに日本国民の平和が実現できることに確信を抱いていることが分かります。

【日本国憲法:前文】

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

つまり日本国憲法は、ただ平和主義や非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えるだけで自国の平和を実現できると考えているわけではなく、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示を行ったり、紛争解決のための助言や提言であったり、貧困解消のための援助など外交努力を積極的に行い、世界の平和実現に向けた努力を行い続けることの延長線上に日本国民の平和と安全保障の確立が実現できると考えているわけです(※参考→憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由)。

日本国憲法は、日本の安全保障について、前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べ、国際的に中立の立場からの平和外交、および国際連合による安全保障を考えていると解される。このような構想に対しては、しばしば、それが他力本願の考えであるという批判がなされるが、日本国憲法の平和主義は、単に自国の安全を他国に守ってもらうという消極的なものではない。それは、平和構想を提示したり、国際的な紛争・対立の緩和に向けて提言を行ったりして、平和を実現するために積極的な行動をとるべきことを要請している。すなわち、そういう積極的な行動をとることの中に日本国民の平和と安全の保障がある、という確信を基礎にしている。

※出典:芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店56頁より引用

憲法9条の条文だけを読んで憲法の平和主義を理解しようとしてしまうと、9条に規定されている「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つの文章だけを念仏のように唱えて非武装中立・無抵抗主義さえ守っておけば平和が実現できると考える「お花畑的・ユートピア的発想」に基づく平和主義しか導き出すことはできません。

【日本国憲法9条】

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

そのため、憲法の平和主義を9条の条文だけを読んで理解しようとしてしまう人たちの中には、A氏のように日本国憲法の平和主義を「軍隊を無くして他国の脅威とならなければ他国から侵略されることはないと考えているもの」と短絡的に理解してしまう人が出てきてしまうのです。

A氏は講演中「私に言わせれば、抑止力を無くして平和を得た国はないでしょう」とも述べていますが、我々人類は「抑止力」の名の下に何万年も戦争を繰り返してきたにもかかわらず、いまだ平和を実現できていないのですから、人類史上「抑止力を無くして平和を得た国がない」のではなく「抑止力を行使して平和を実現させた経験がない」と考えなければなりません。

自衛戦争と侵略戦争を客観的に区別することが不可能であるにもかかわらず、「自衛戦争」の名の下に愚かな戦争を正当化してきたのが我々人類なのですから、自衛戦争を許容する限り何万年経っても戦争を根絶することができないのです(※参考→「侵略戦争しないから9条は改正してもよい」が間違っている理由)。

そのため戦後の日本は「世界最初ノ平和国家非武装国家タラントスル国家方針」の下(※参考→憲法9条の戦争放棄と戦力不保持が日本人のオリジナルである理由) 、世界に先駆けて戦争を放棄し、世界の先頭に立って国際社会を先導し、世界平和の実現に貢献していく決意をこの憲法の前文で宣言したのです。そしてそれを具現化させるために9条を規定して「戦争をするな!(戦争放棄)」「軍事力を持つな!(戦力の不保持)」「交戦権を行使するな!(交戦権の否認)」と国家権力に対して歯止めをかけたのです(※参考→憲法9条の戦争放棄を吉田茂首相はどう帝国議会に説明したのか)。

侵略戦争だけを放棄しても自衛戦争の名の下に行われる侵略戦争を無くすことができないことに先の戦争で気付いたからこそ、戦後の日本は自衛戦争も含めたすべての戦争を放棄して平和に徹すること、非武装中立を貫いて武力(軍事力)以外の方法で積極的に国際社会に働きかけを行うことを宣言しています。

日本国憲法の平和主義と9条は、明治憲法のように「他国が攻めてきたらどうやって反撃して国を守るか」という”対症療法的”な視点から安全保障を考えるのではなく、「他国が攻めてこないような国にするにはどうするか」「他国が武力を用いて紛争解決を図ろうと思わない国にしてゆくにはどうすればよいか」という”原因療法的”な思考で国民の安全保障を考えるものであり、そのためには国際協調主義に立脚して諸外国と信頼関係を築き、積極的な外交を重ねることが必要であって武力(軍事力)の保有とその行使は有害無益にしかならないからこそ9条を規定して武力の一切を放棄したのです(※参考→憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由)。

ですからA氏の論は、日本国憲法の平和主義が、先の戦争の反省に立ち、中立的な立場から国際社会に向けた平和構想の提示や紛争解決のための助言や提言、貧困解消のための援助など外交努力を積極的に行い、世界の平和実現に向けた努力を行い続けることを要請し、その努力の中にこそ国民の安全保障を確保することができると考えているにもかかわらず、その神髄をまるで理解することなく、ただ9条の文言だけを読み「(日本国憲法は)軍隊を無くして他国の脅威とならなければ他国から侵略されることはない(…と考えている)」と捻じ曲げて解釈したところから議論を始め、憲法論的見解と相容れない独自の解釈によって架空の日本国憲法論を論じてしまっている点において無益な議論と言えます。

(2)憲法の平和主義と9条はただ何もせずに「どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる」と考えているわけではない

またA氏はこの講演で、憲法9条の改正に反対している人たちが「”どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる”と考えている」との趣旨の発言をしていますので、A氏は憲法の平和主義と憲法9条が非武装中立・無抵抗主義さえ守っておきさえすれば「どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる」と考える思想に基づいているものと理解しているようですが、これも憲法論的な見解と矛盾します。

たしかに憲法の平和主義と憲法9条は国際紛争を解決する手段として武力(軍事力)を用いることを否定していますから、その意味では「どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる」と考えている一面はあります。

しかし、それはなにも単に非武装中立・無抵抗主義さえ守っておきさえすれば「どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる」と帰結されることを述べているのではありません。

先ほども説明したように、憲法の前文は国際協調主義に立脚して諸外国と信頼関係を築き、中立的な立場から紛争解決のための提言や国際援助等を能動的・積極的に継続し続けることで世界平和に貢献し、そうして世界の平和を実現していくことの中に日本の安全保障が実現できるという確信が基礎にあるからです。

日本国憲法は、非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えて平和を謳歌し、いざ隣国が攻めてきたときに「ちょっと待ってよ、話し合いで解決しましょうよ」などという姿勢で平和を実現できるなどと考えているわけではなく、日ごろから諸外国と信頼関係を築き、日本が他国から「攻められない国」に、他国が「攻めようと思わないような国」に、他国と信頼関係を構築することで「武力につながるような国際紛争が生じないような国」にしていく努力を続けることの中に日本の平和を実現しようと考えているわけです。

A氏は講演中「戦争は(※筆者注:おそらく「戦争を」の言い間違い)言葉によって止められるならその言葉を教えてくださいよ」とも述べていますが、日本国憲法の平和主義は「戦争を言葉を用いて止めよう」というような思想なのではなく、「戦争が起きてしまわないように、武力以外の方法で信頼関係を築くことによって武力に訴えられるような紛争が生じるのを未然に防ごう」という思想です。

具体的に言うなら、たとえば毎年の国防予算が1兆円あったとして、その1兆円を兵士の育成や戦車・戦闘機の購入費用に充てるのではなく、その1兆円を世界の貧困解消や紛争解決のための活動に支弁することを求めているのが日本国憲法の平和主義であって、国民の安全保障のための人的・経済的資源を「他国が攻めてきたときの反撃のため」に集中させるのではなく「世界の紛争解決と貧困解消のため」に集中させることで世界平和の実現に貢献し、それによって得られる信頼と国際協調によって自国に対する紛争を未然に防ごうという思想なのです(※参考→憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由憲法9条に「攻めてきたらどうする」という批判が成り立たない理由)。

日本国憲法の平和主義と憲法9条は、国の安全保障を一朝一夕で実現できるものと考えているわけではなく、そうした努力の積み重ねの上に実現でき得るものという確信に基礎を置くものなのであって、A氏が言うように単に「どんな国際紛争であっても話し合いで解決できる」という短絡的な期待を述べているわけではないのです。

ですから、この点でもA氏の述べた日本国憲法の平和主義と憲法9条を否定する論は、憲法論で理解されている見解を捻じ曲げて解釈した明らかに個人的な独自の見解に基づくものであり架空の憲法を論じた無価値な議論と言えます。