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匿名アカウントでの批判は自分を安全圏に置く卑怯な行為なのか

SNSを利用している有名人や著名人あるいはタレントなどの中に、自分の意見を批判(非難)するコメントに対して「自分を匿名という安全圏に置いて他人を批判するのは卑怯だ!」などと叱りつけてしまう人が少なからずいます(※例えばこの人たちとか→https://twitter.com/kenichiromogi/status/1085342831374348288)。

著名人や有名人やタレントなどはフォロワー数を多数抱えることで必然的にいわゆる”アンチ”からの批判的な意見やコメントに日常的に晒されてしまうことになりますが、その批判的なコメントを寄せる人のすべてが専門的な知識を有した有識者とは限りませんので、当然その批判的なコメントの中には論拠が希薄で意味不明なもの(いわゆる”クソリプ”)も含まれているのが普通です。

この点、有識者が本名でアカウントを開設しているのに対して、世間一般の人は本名ではなく匿名でSNSのアカウントを開設して利用するのが普通ですから、そのいわゆる”クソリプ”はどうしても匿名アカウントからの比率が増してしまいます。

しかも、アカウントが本名よりも匿名である方がユーザーはより攻撃的になりますから、批判的なコメントのうち攻撃的な批判(非難)も必然的に匿名アカウントからのものが多くなってしまいます。

そのため、著名人や有名人やタレントなどにとって匿名アカウントからの批判が「匿名という安全圏に置いて他者を攻撃するクソリプ」という認識になってしまい「自分を匿名という安全圏に置いて他人を批判するのは卑怯だ」という言動が発せられるわけです。

しかし、このように「匿名アカウントで他人の意見を批判(非難)するのは卑怯だ」という認識は、明らかに間違っていますし、そのような意見を著名人や有名人がSNSで発信すること自体が有害とさえ言えます。

なぜなら、社会的な影響力や本名を公開した場合に受ける不利益等に差があることを考えれば一般人が本名を公開しないことが「卑怯」とはなりませんし、名もなき市民が発する批判(非難)を「卑怯」という権力者側の勝手な道徳規範で制限することを認めてしまえば、言論の自由が不当に抑制されてしまう危険性があるからです。

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著名人や有名人やタレントと一般市民では議論できる場所の”前提条件”が対等ではない

人が第三者に対して「卑怯」と言う場合、その当事者間の”前提条件”は対等であるのが前提です。

たとえば、柔道の試合で相手を「パンチ」で倒した場合は「卑怯だ!」と非難されますが、ボクサーが柔道家と異種格闘技戦で戦う場合に柔道家を「パンチ」で倒しても「卑怯だ!」とは非難されません。

これは柔道の試合では「パンチの禁止」という対等なルール(前提条件)の下で試合が行われる一方で、異種格闘技戦ではそもそも格闘技の”前提条件”が対等でないことが織り込み済みで試合が行われるからです。

”前提条件”が対等でないことを当事者があらかじめ認識している場合は”前提条件”を逸脱した相手に対して「卑怯だ」とは言わないわけですから、相手を「卑怯だ」と非難する人は必然的に自分と相手の”前提条件”が「対等だ」と認識していることになります。

そうすると、匿名アカウントで自分の意見を批判(非難)する人に対して「匿名という安全圏に自分を置いて他人を批判するのは卑怯だ!」と叱りつけてしまう有名人や著名人、タレントなども、自分と匿名アカウントの”前提条件”が「対等であるべきだ」と認識しているということになります。

では、その場合の”前提条件”とは何かと言うと「本名を公開している」という事実です。

「自分を匿名という安全圏に置いて他人を批判するのは卑怯だ!」と叱りつける有名人や著名人やタレントたちは、自分たちは「本名を公開している」という”前提条件”の下で発言しているのに、匿名アカウントはその”前提条件”を守らずに「匿名のまま」の状態で自分たちを批判(非難)することが気にくわないので、本名を公開しないで他人を批判(非難)することが「卑怯だ」と主張しているわけです。

つまり、このような意見を主張する著名人や有名人やタレントなどは、「本名を公開している」という”前提条件”を対等にしない限り他人の意見を批判(非難)する資格はない、と主張しているわけですが、多数のフォロワーを抱える著名人や有名人やタレントなどと、普通の生活を送る一般市民が「本名を公開する」という状態で”前提条件”が「対等」になるとは思えません。

では、本当に彼らが言うように、著名人や有名人やタレントなどと一般市民は「本名を公開する」という状態がSNSで意見を発信する際に「対等」な状態となるのでしょうか。

(1)社会に与える影響力に格段の差がある

この点、まず考えなければならないのはその影響力に差がある点です。

多数のフォロワーを抱える著名人や有名人やタレントは、一言SNSで発信するだけで瞬時に何十万人もの人たちに自分の意見を拡散させることができますし、出版社から依頼が来れば書籍を執筆し出版することで、またテレビ番組からの出演依頼が来ればメディアで自分の意見を伝えることでその意見を一般化させることは比較的容易です。

つまり、著名人や有名人やタレントは「本名を公開する」という”前提条件”をクリアしていますが、自分の意見を拡散させる手段と影響力も十分に確保されているわけです。

一方、一般市民はそのような手段や影響力は用意されていません。

一般市民はSNSのフォロワー数も数十人程度しかいないのが普通ですから自分の意見を拡散させようとしても数人から数十人程度が限界ですし、一般人に書籍の執筆依頼やメディアへの出演依頼が来るわけがありませんから、一般人が自分の意見を社会で一般化させることはまず不可能です。

つまり一般市民は「本名を公開する」という”前提条件”をクリアしたとしても、自分の意見を社会に拡散させて一般化させる手段を与えられることはないのです。

そうであれば、その著名人や有名人やタレントなどと一般市民の間に存在する「本名を公開する」という”前提条件”は「対等」とは言えないでしょう。

著名人や有名人やタレントなどは「本名を公開する」という”前提条件”をクリアすることで自分の意見を拡散させる手段や影響力が確保されていますが、一般市民は「本名を公開する」という”前提条件”をクリアしても自分の意見を拡散させる手段や影響力は与えられないからです。

ですから著名人や有名人やタレントと一般市民との間の「影響力の格差」の点を考えれば、「本名を公開する」という条件は「対等」な”前提条件”とはなり得ないと言えます。

(2)一般市民は実名を公開することでリターンを得られない

また、著名人や有名人やタレントと一般人の間で「本名を公開する」という”前提条件”をクリアすることによって得られる経済的なメリットに差があるという点も考える必要があります。

実名を公開している著名人や有名人やタレントは、SNSで気の利いた発言をしたり自分を批判(非難)する第三者を論破して議論に勝てば、そのディスカッション能力が評価されることでワイドショーや討論番組への出演であったり、コラムや書籍の執筆など仕事の確保に繋がることが期待できます。

また、仮にタレントなどではない弁護士などの士業や医師や起業家など一般人であっても、仕事と関連付けて本名のアカウントを利用している人は顧客の獲得や企業イメージの向上に役立たせることで経済的なメリットを享受できる期待があり得るでしょう。

つまり、SNSで本名を公開している著名人や有名人やタレント(一般の弁護士や起業家等も含む)は「本名を公開する」という”前提条件”をクリアすることで経済的な利益を得ることができるわけです。

一方、一般市民は仮に「本名を公開する」という”前提条件”をクリアして著名人や有名人やタレントを論破しても、それによって仕事が舞い込むことはありません。一般人が本名を公開して気の利いた意見を言ったとしてもせいぜい数十人からリツイートされるぐらいが関の山で、それによって出版依頼やテレビの出演依頼を確保できるわけではないからです。

そうであれば、その著名人や有名人やタレントなどと一般市民の間に存在する「本名を公開する」という”前提条件”は「対等」とは言えないでしょう。

著名人や有名人やタレントが「本名を公開する」という”前提条件”をクリアすることで莫大な経済的利益を受けられる(期待がある)のに対して、一般市民は「本名を公開する」という”前提条件”をクリアしても、1円の経済的利益も受けられないのですから、その「本名を公開する」という”前提条件”自体が両者の間でフラットではありません。

ですから著名人や有名人やタレントと一般市民との間の「本名を公開した場合に得られる経済的利益の格差」の点を考えても、「本名を公開する」という条件は「対等」な”前提条件”とはなり得ないと言えます。

(3)本名を公開した場合に受ける不利益に格段の差がある

本名を公開した場合に生じる不利益に格段の差がある点も問題です。

著名人や有名人やタレントは、自分の意見をSNSで発信しても、その意見を発信することで自身の仕事や日常生活で不利益を受けることは普通はありません。むしろ(2)で述べたように仕事の一環としてSNSを利用している側面もあるわけですから、SNSで自分の意見を発信すること自体が利益にはなっても不利益は生じないのが普通です。

もちろん、何らかの不適切な発言をした場合には炎上して仕事が減ることもありますので「本名を公開」することでリスクが全くないわけではありませんが、炎上しない限り仕事や日常生活で不利益は生じないわけです。

しかし、一般市民は違います。たとえば一般市民が「本名を公開」して「著名人のA」を批判する意見をSNSで発信したとして、仮にその一般市民の勤務する会社の上司や経営者が「著名人のA」と同じ思想を持っている人物であった場合、その一般市民は「本名を公開」したことで会社でパワハラを受けたり不利益な待遇を受けてしまうことになるかもしれません。

もちろん、パワハラや不当な労働条件の不利益変更は違法性を帯びるのでその上司や経営者が責められるべきですが、そうした労働トラブルに巻き込まれてしまう確率が高まってしまうのは避けられないでしょう。

つまり、一般市民が「本名を公開」した場合には、たとえ炎上するほどの表現行為に至らなくても、自分の意見を発信すること自体で大きな社会的不利益を受けてしまう危険性があるわけです。

ですから、このように自分の意見を発することだけで受ける不利益の度合を考えれば「本名を公開する」という条件は「対等」な”前提条件”とはなり得ないと言えます。

(4)実名を公開したくても公開できない人もいる

さらに言えば、一般市民の中には本名を公開したくても社会的な問題で公開できない人がいる点も問題です。

本名を公開してSNSを利用している著名人や有名人やタレントは、本人が望んで本名を公開し活動しています。彼らは誰かに「本名を公開しろ」と強制されているわけではなく、自らの意思で自ら望んで本名を公開して生活しているわけです。

しかし、一般市民の中には、ネット上に本名を公開したくても公開できない人が大勢います。たとえばLGBTの特性を持っている人たちの中には、社会での偏見や差別を懸念してその特性と自分の本名が関連付けられて世間に認知されないようにひっそりと生活している人の方が多くいるのが実情だと思います。

それ例外にも、特定の病気に罹患していたり怪我などで身体的な欠損が生じている人達の中には、それらの疾病や身体的欠損と自分の名前が関連付けられて会社や学校に認知されないように細心の注意を払って生きている人も多くいるのが現実でしょう。

では、もしSNS上で著名人や有名人やタレントが、それらLGBTや病気や怪我の後遺症や身体的欠損などを揶揄する発言、あるいはそれらの人の人権を制限するような発言をした場合どうなるでしょうか。

仮にその場合に、それらの意見を批判(非難)する場合も「本名を公開」しなければならないと言うのなら、LGBTや病気や怪我の後遺症や身体的欠損などの特性を有している人達は、自身の人権を制限しようとする表現行為を批判(非難)するために、今まで懸命に隠してきた自身の特性を自分の本名と関連付けたうえでネット上に公開しなければならなくなってしまいます。

もちろん、その著名人や有名人やタレントの意見を批判(非難)するだけであればSNS上で本名を公開したからといって自分の特性が社会に知られることはないかもしれません。

しかし、そうした特性を持つ人たちは、社会的な偏見や差別を恐れて自分がそのような話題と接触しないように細心の注意を払って、極力そのような話題を避けるようにして生活しているのが普通なのですから、そのような意見を批判(非難)するセンシティブな発言をすること自体が大きな私生活上のリスクとなり得ます。

つまり、そのような身体的特性を保有する人にとっては「本名でその話題に触れること」自体が大きなリスクであり一般の人には考えられないぐらい大きな負担になるのです。

にもかかわらず、それらの人たちに「本名を公開しろ」「匿名で人の意見を批判するな」ということが言えるでしょうか。

自らの意思で望んで本名を公開している著名人や有名人やタレントと、その特性が社会に知られることを恐れて静かな生活を送っている一般市民とでは、その「本名を公開」するということのリスクと負担の度合いが大きく異なるのですから、その違いを考えてみても「本名を公開する」という条件は「対等」な”前提条件”とはなり得ないと言えます。

憲法は基本的人権の行使に本名を公開すべき責任や覚悟を求めていない

このように、匿名でSNSのアカウントを開設している一般市民は「本名を公開しない」状態でようやく「本名を公開した」著名人や有名人やタレントと対等な意見(批判・非難)を交わすことができるわけですから、一般市民が匿名のSNSアカウントで彼らの意見を批判・非難したとしても「卑怯」ということにはならないはずです。

ですから、本名を公開しないで匿名で他人の意見を批判(非難)することを、その批判(非難)される著名人や有名人やタレントなどの側から「卑怯だ!」と非難される筋合いはないわけですが、他人の意見を批判(非難)するのに本名を公開しなくてもよいことは憲法でも認められています。

憲法21条は表現の自由(言論の自由)を規定して基本的人権として保障していますが、その憲法で保障される基本的人権は、憲法11条で「侵すことのできない永久の権利」と規定されており「人が生まれながらにして持つ権利」と考えられているからです。

【日本国憲法第21条】

第1項 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
第2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

【日本国憲法第11条】

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

「人が生まれながらにして持つ権利」とは、憲法で保障される基本的人権が「国家によって与えられるもの」ではなく「人が生まれた時からすでに与えられているもの」であるという自然権的思想が基礎にある権利のことを言います。

このような自然権として認められる人権は、ただ「生まれるだけ」で権利を行使することができますので、その権利を行使するために国家権力や第三者から「責任」や「覚悟」を求められることはありません。

「責任」や「覚悟」や「義務」を果たさなくても「ただ生まれるだけ」で行使できるのが憲法で保障された基本的人権だからです(※詳細は→他人を批判するには相応の覚悟と責任が必要…が間違っている理由)。

表現の自由(言論の自由)も憲法で保障される人権であり、他人の意見を批判(非難)する言論もその表現の自由(言論の自由)で保障される表現行為である以上、その行使のために「本名を公開すべき責任や覚悟や義務」は必要ないのですから、著名人や有名人やタレントから「匿名で人の意見を批判するのは卑怯だ」とか「人の意見を批判するなら本名を公開しろ」と言われること自体、憲法で保障された表現の自由(言論の自由)が侵害されているとさえ言えます。

ですから、憲法で保障された基本的人権の存在を考えれば、匿名アカウントから自分の意見を批判(非難)された著名人や有名人やタレントが「匿名で人の意見を批判するのは卑怯だ」とか「人の意見を批判するなら本名を公開しろ」と声高に主張していること自体が、そもそもおかしなことなのです。

「自分を安全圏に置いて他人を批判するな」と言う方が卑怯

以上で説明したように、本名を公開している著名人や有名人やタレントと、本名を公開せずに匿名でSNSのアカウントを開設している一般市民とでは、その「本名を公開する」という行為自体に内在するリスクや負担が全く異なりますから、「本名を公開するかしないか」ということ自体は表現行為を制限するための”前提条件”にはなり得ません。

SNSのアカウントで「本名を公開しない」一般市民は、確かに「本名を公開しない」ことで「安全圏」に身を置くことができますが、「本名を公開」してしまえば、同じように「本名を公開」した著名人や有名人やタレントとは比べ物にならない不利益とリスクを負担しなければならなくなるのですから、「本名を公開すること」によって一般市民が著名人や有名人やタレントと対等な関係になるわけではないのです(しかも一般人は彼らと違って本名を公開してもリターンは一切得られません)。

一般市民は「本名を公開する」ことで著名人や有名人やタレントと対等関係になるわけではなく、「本名を公開しない」状態でようやく「本名を公開」した著名人や有名人やタレントと対等な関係で議論ができるわけですから、その一般市民に対して「本名を公開しないと卑怯だ」とは言えないはずです。

むしろ、そのような”前提条件”を一切無視して「匿名で人の意見を批判(非難)するのは卑怯だ!」と声高に叫んでいる著名人や有名人やタレントの方が、「本名を公開しない」状態でようやく対等な関係にある一般市民を、自分たちとは比べ物にならないほど不利益の度合いとリスクの高いリングに引きずり上げようとしているわけですから、彼らの方がよほど「卑怯」です。

ある意見に賛意を示す”リツイート”や”イイね”は対立する他の意見を批判(非難)する意見が必然的に包含されているのに受け入れている

また、彼らが「匿名で人の意見を批判(非難)するのは卑怯だ!」と言いながら、自分の意見に賛成する意見には決して「卑怯だ!」と言わないのも問題です。

ある意見に賛意を示す意思表示は、その意見と対立する他の意見を間接的に批判(非難)する意思を包含しますので、著名人や有名人やタレントの意見に賛意を示す”リツイート”や”イイね”は、その意見と対立する他の意見を必然的に「批判(非難)」していることになります。

たとえば、「消費税を上げるべきだ」という意見は「消費税を下げろ」という反対意見を批判する意見を含むことになりますから、その「消費税を上げるんだ」と主張した著名人の投稿に”いいね!”をしたユーザーは、「消費税を下げろ」と主張する意見を持つ人を「批判(非難)」する意思表示をしたことになるわけです。

そうであれば、彼らが「匿名で人の意見を批判(非難)するのは卑怯だ!」と言うのなら「匿名で俺の意見に賛成してリツイートするな!」とか「本名を公開しないで俺の意見に”いいね”を押すのは卑怯だ!」と言わなければなりません。

しかし彼らは、自分の意見に賛同してくれる匿名のアカウントからの”リツイート”や”いいね!”だけは歓迎して悦に入り、自分の意見に批判的(非難的)なコメントにだけ「匿名は卑怯だ!」と叫んでいるのですから、ずる賢いとしか言いようがありません。

卑怯なのは匿名のアカウントで著名人や有名人やタレントの意見を批判する一般市民なのではありません。「匿名は卑怯だ!」と声高に主張しながら匿名で自分に賛成する意見だけは受け入れて偉そうなことを言っている著名人や有名人やタレントたち自身の方が卑怯で狡猾なだけなのです。

「自分を安全圏に置いて他人を批判するな」は権力者が名もなき市民の声を黙らせるための詭弁

先ほど説明したように、憲法で保障された基本的人権が自然権的思想を基礎にしていることを考えれば、憲法で保障された表現の自由(言論の自由)は「責任」や「覚悟」や「義務」を果たさなくても、ただ生まれただけで無条件に行使できる大切な人権なわけですから、その憲法で保障された人権をただ行使して、ある意見を批判(非難)する表現を行うことにまで、社会における発言力というある種の「権力」を持つ著名人や有名人やタレントたちが「本名の公開」という「責任」や「覚悟」を押し付けて一般市民の言論を制限するのは、「卑怯」を通り越して権力者による人権侵害と言っても過言ではありません。

ではなぜ、彼らがそのような憲法で保障された表現の自由(言論の自由)を制限しようとしてまで「匿名で人の意見を批判(非難)するのは卑怯だ!」と声高に主張しているかというと、それは彼らにとって「名もなき市民の発言」が邪魔だからです(※詳細は→有名人が「匿名アカウントで人を批判するな」と言いたがる理由)。

人がSNS上で認知できる発言には限界がありますから、一般市民の匿名アカウントが彼らの意見を批判(非難)すればするほど、彼らの意見は相対的にその影響力が希薄化されてしまいます。

だから彼らは、その「名もなき市民の声」を抑制するために「匿名は卑怯だ!」と声高に主張しているのです。

もちろん、表現の自由(言論の自由)が憲法で保障されるとは言っても、その人権保障は無制限に認められるものではなく相手方の人格権(プライバシー権)を侵害するような発言は慎まなければなりません (※詳細は→お笑い芸人の「ハゲ・デブ・ブス」は表現の自由で保障されるか)。

しかし、「他人の意見を批判(非難)すること」と「他人の人格を誹謗中傷して名誉を棄損すること」は全く別の表現行為です。その根本的に異なる2つの表現行為を恣意的に混同させて、他人の意見を批判(非難)するだけの正当な表現行為が「匿名は卑怯だ!」との大義名分の下で制限されてはならないのです。

「自分を匿名という安全圏に置いて他人を批判するのは卑怯だ!」と主張している著名人や有名人やタレントは、さももっともらしい意見を述べているように見えますが、その深層心理には市民の発言を押さえつけて自分の意見を一般化させたい、自分たちの意見だけで世論を形成したいという思惑が必然的に内在されています。

国民は、このような彼らの詭弁に惑わされることなく、彼らのもっともらしい発言に細心の注意を払って監視し続けることが重要です。

それを忘れてしまうと、容易に世論は誘導され、80年前にこの国が犯したあの悲劇を繰り返す危険性があることは肝に銘じておくべきでしょう。

この社会は「ネット上に本名を公開できる強い人」だけで形成されているわけではありません。「ネット上に本名を公開できない弱い人」も含めた多様な人が集うことで成り立っているのがこの社会です。それが多様性を認めるということなのです。

その「弱い人」の意見だけを「卑怯だ」と非難し排除してしまう多様性を許容できない社会の恐ろしさに、彼らも我々も、気付かなければなりません。