ウクライナはロシアに侵攻されたから9条は改正すべき…なのか

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(3)憲法の平和主義と9条は「集団的自衛権を否定しておけば平和が保たれる」と考えているわけではない

A氏はこの講演で、憲法9条の改正に反対している”自称平和主義者”たちが「集団的自衛権を容認すれば他国の戦争に巻き込まれてしまう」と主張していることが間違いだという趣旨のことも述べています。

この点、日本国憲法の平和主義と憲法9条は集団的自衛権の行使を否定している解釈されていますので(※参考→集団的自衛権が日本国憲法で違憲と解釈されている理由)、憲法9条の改正に反対している人が集団的自衛権の容認に反対して「集団的自衛権を容認すれば他国の戦争に巻き込まれてしまう」と主張していること自体は間違いとは言えません。

しかしA氏は、この発言をウクライナでは大規模な軍縮を行い核兵器の保有も廃止して国防に不安があったものの大国の戦争に巻き込まれてしまう不安からNATOなどの軍事同盟には一切加盟しなかった、というような趣旨の話をしたうえで、ウクライナで起きた事情と日本のそれとを対比させて「集団的自衛権を容認すれば他国の戦争に巻き込まれてしまう」と考える主張が間違いだという趣旨で述べています。

つまりA氏は、ウクライナでは「集団的自衛権を容認すれば他国の戦争に巻き込まれてしまう」と考えて集団的自衛権を放棄していたにもかかわらずロシアから侵攻を受けたのだから、「集団的自衛権を容認しなくても戦争に巻き込まれてしまうことはある」と言えるので、集団的自衛権を否定する日本国憲法の平和主義や憲法9条の思想が「集団的自衛権を否定しておけば平和が保たれる…と考えていること」が間違いだ(だから9条を改正して集団的自衛権を行使できるようにすべきなんだ)、と述べているわけです。

しかし、日本国憲法の平和主義と憲法9条は、「集団的自衛権を否定しておけば平和が保たれる」と考えたから集団的自衛権の行使を否定しているわけではありません。

日本国憲法は、憲法の基本原理として平和主義を採用し、武力(軍事力)による紛争解決の一切を放棄したので集団的自衛権の行使も否定しているのです。

先ほどから繰り返し述べているように、日本国憲法が基本原理として採用した平和主義は、国際協調主義に立脚して諸外国と信頼関係を築き、中立的な立場から積極的な外交努力や紛争解決の為の提言を行い世界の平和を実現していくことの中に日本の平和が実現できるいう確信に基礎を置いています。

ですから、その平和の実現のためにはただ漫然と平和を謳歌するのではなく、国際社会で能動的・積極的に外交努力等を行い世界の平和を実現するために行動し続けなければならないわけですが、集団的自衛権の行使を容認して武力(軍事力)の行使を容認し、しかも「自衛」のためではなく「他衛」のために第三国を攻撃するような国であっては国際社会で信頼関係を築くことができません。

だからこそ日本国憲法は平和主義を基本原理として採用したうえで憲法9条を規定して武力(軍事力)を放棄し、集団的自衛権の行使も否定しているわけです。

そもそも、集団的自衛権の行使を容認するということは、他国の戦争に加担して、自国に対して全く敵対していないその第三国を自国が突然攻撃する概念を含むものです。

先日、アメリカ軍が空母打撃群をイランに派遣したというニュースが流れましたが、たとえばアメリカ軍の軍船がイランの戦闘機から攻撃を受ける事案が発生したような場合に、イランが日本に何ら敵対意識を持っていないにもかかわらず日本のイージス艦がイランの戦闘機を撃墜するような行為が集団的自衛権の行使です。

このような事案がもし現実に発生すれば、イランからすれば日本からの攻撃は侵略戦争以外の何物でもありません。日本からすれば集団的自衛権の行使という「自衛」のための戦争であっても、その攻撃を受ける側の国にとっては”寝耳に水”の攻撃であり全く関係のない第三国からの意味不明な突然の攻撃であって侵略行為に他ならないからです。

そのような国が国際社会で信頼関係を築くことができないのは明らかです。だからこそ日本国憲法では集団的自衛権の行使は許容されないのです。

集団的自衛権を含む武力(軍事力)の行使は国際協調主義に立脚して諸外国と信頼関係を築き、世界の平和を実現していくうえで有害無益にしかならないことを先の戦争で気付いたからこそ、現行憲法ではそれが否定されています。

日本国憲法は「集団的自衛権の行使を否定しておけば平和が保たれる」と考えているから集団的自衛権の行使を否定しているのではなく、「集団的自衛権を容認しては平和を実現することができない」からこそ集団的自衛権の行使を否定しているのです。

ですから、日本国憲法の平和主義と憲法9条が、先の戦争の反省に立ち、平和主義を具現化する上で有害無益にしかならないからこそ集団的自衛権の行使も含む武力(軍事力)の行使を否定したものであるにもかかわらず、それを「集団的自衛権を否定さえしておけば平和を維持できる(と憲法9条が考えている)」と捻じ曲げて解釈しているA氏の論は、憲法学の定説を捻じ曲げて解釈した知見による架空の憲法を論じたものであって、無価値と言えるのです。

(4)憲法の平和主義と9条は「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を保つことができる」と考えているわけではない

A氏は日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分を引用して、日本がいくら周辺国の「平和を愛する諸国民を信頼」しても、独裁国家では権力者が国民に「戦争しろ」と命じれば国民は拒否できないので、日本国憲法のように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」平和を実現することなど不可能だ、というような趣旨のことも述べていますが、これも憲法学の定説的見解と相いれません。

先ほども説明したように、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、国際協調主義に立脚して諸外国と信頼関係を築き、そうした外交努力を積極的に行うことで平和を実現していく中に日本の安全を確保していこうとする思想を述べたものであって、決して「諸外国の国民は平和愛好者ばかりだから信頼しておきさえすれば平和を維持できる」などというユートピア的発想に基づく期待を述べているものではないからです(※参考→平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼…することが必要な理由)。

何度も繰り返しますが、日本国憲法の平和主義は、その前文で述べられているように、諸外国と信頼関係を築き、中立的な立場から国際社会に対して紛争解決のための提言や貧困解消のための援助など、積極的な外交活動を行うことで世界平和の実現に尽力することを要請しており、その努力の中でこそ日本の安全保障が確保され平和を実現することができるという確信に基礎を置いています。

そして、そのためには武力(軍事力)の行使は有害無益にしかならないので9条でその一切を放棄しているのです(※参考→憲法9条が戦争を放棄し戦力の保持と交戦権を否認した理由「侵略戦争しないから9条は改正してもよい」が間違っている理由)。

日本国憲法の平和主義と憲法9条は、ただ非武装中立・無抵抗主義を念仏のように唱えて「平和を愛する諸国民を信頼」するだけで平和が実現できるなどと考えているわけではなく、積極的に国際社会に働きかけを行い、世界から紛争や貧困の種を除去する努力を行うことを要請しているのであって、その努力の中にこそ日本の平和が実現できるという点に確信を置いているわけですから、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」おきさえすれば平和を実現できるなどというお花畑的発想とは相いれないのです。

ですから、A氏が憲法前文の平和主義の基本原理をまるで理解することなく、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分をその一文のみの文章だけで理解して、日本国憲法の平和主義と憲法9条が「平和を愛する諸国民を信頼しておけば平和を保つことができる(と短絡的に考えている)」などと捻じ曲げて解釈してしまっているところに憲法学の定説とかけ離れた認識があると言え、その論に価値はないと言えるのです。

(5)捻じ曲げられた憲法解釈を前提とした憲法論は架空の憲法を論じたものに過ぎず、その議論に価値はない

以上で指摘したように、A氏が論じた日本国憲法の平和主義と憲法9条の解釈はすべて憲法学の定説を捻じ曲げて理解したものによるものであり、日本国憲法の基本原理である平和主義や憲法9条の具現性を論じるために理解すべき前提知識が欠落していますので、その議論に価値はありません。無価値です。

ネット上では憲法9条の改正に賛成する人たちが「ウクライナ人留学生が護憲派を完全論破したぞ!」などと騒いでいますが、憲法の平和主義と9条を論じるために最低限必要な前提知識となる憲法学の定説を捻じ曲げて理解してしまった知見でいくら論じても、それは自分が生み出した架空の憲法を論じているにすぎません(※A氏の論はその架空の憲法さえも論破したとは思えませんが…)。

このA氏が講演で述べた論は、寿司屋に入り、自宅から持参したおにぎりをポケットから取り出し食べながら「大将の握る寿司は不味いな!」と文句をつけているのと同じです。

それに気づかずネットで大騒ぎしている改憲推進派は自己の無知を恥じるべきでしょう。

A氏個人を非難しているのではない

以上で説明したように、A氏が講演で行った憲法9条の改正に係る議論に関する意見は、日本国憲法の平和主義と憲法9条を捻じ曲げて解釈したことによるものと言えますので、憲法9条の改正を正当化させる根拠には全くなりませんし、その論に価値はありません。

捻じ曲げられた日本国憲法の解釈をいくら論じても、それは架空の憲法を論じたことにしかならないので無価値なのです。

ただ、誤解してほしくないのは、私は何もこのA氏を非難しているわけではないという点です。

おそらくA氏はウクライナがロシアから侵攻を受けた後に日本に留学してきたのでしょうから、日本国憲法の平和主義が何を要請していて憲法9条が何を具現化しようとしているのかなど、その正確な解釈まで熟知しているはずがないのは当然です。

むしろ、日本人でも語るのが難しい憲法に関する話題を自国の事情と比較しながら、母国語ではなく日本語で、しかも言葉に詰まることなく早口で講演していたことなどを考えれば、何十回も何百回も練習を重ねてきたことが窺われますので、その努力は尊敬に値するとさえ言えるでしょう。

もちろん、日本国憲法は21条で言論の自由を保障しており、憲法で保障される基本的人権は国籍の有無にかかわらず日本に所在するすべての外国人にも保障されるのが基本ですので(※参考→日本国憲法における人権の享有主体としての「国民」とは誰なのか憲法の人権は日本国籍を持たない外国人にも保障されるか)、A氏が独自の解釈で日本国憲法を論じても全く問題ないのは当然と言えます。

問題なのはA氏に捻じ曲げた憲法解釈論を植え付けた「誰か」

問題なのは、A氏にねじ曲がった憲法解釈を植え付けた「誰か」です。

先ほど述べたように、ウクライナから留学してきたA氏が日本国憲法の平和主義や9条の解釈など短期間に学ぶことは困難ですから、常識的に考えれば日本人の「誰か」が、上記のような憲法学の定説的見解とはかけ離れた独りよがりの捻じ曲げられた憲法解釈を特定の意図をもってA氏に植え付けて講演で語らせたということになるでしょう。

またA氏は講演中「押し付けられた憲法を…」などと、憲法改正推進論者が好んで使ういわゆる「押しつけ憲法論」に基づく知見を何度も開陳していますが、憲法学の世界では日本国憲法が連合国等に押し付けられたものではないことは何十年も前に議論は終わって確定しており、A氏が自身の努力で日本国憲法を学んだのであれば「押し付け憲法論」に基づく知識を身に付けるはずがありませんので、憲法9条の改正を積極的に推し進めたい「誰か」がその知見を植え付けたのは明らかです。

つまりその「誰か」が、「憲法9条を改正したい」「9条に自衛隊(または国防軍)を明記したい」という自身のイデオロギーを実現させるためにA氏を利用したわけですが、これは絶対にあってはならないことです。

なぜなら、A氏にウクライナで起きたロシアの侵攻という侵略行為を語らせて憲法9条の改正を正当化しようとする行為は、「侵略戦争」という事実を自身のイデオロギー実現のために利用するものであり、その根底には、自分たちが求める世界の実現のためであれば躊躇なく「侵略戦争」も利用するという思想が包含されているからです。

A氏にそのねじ曲がった憲法解釈を植え付けた「誰か」は、憲法9条を改正したいという個人的なイデオロギー実現のために、A氏にウクライナがロシアから受けた侵略の事実を語らせて、憲法9条の改正を正当化させようとしたことになりますから、その「誰か」は自身のイデオロギー実現のためならば「侵略戦争」をも積極的に肯定し利用する思想を持っているということに他なりません。

その「誰か」と思想を同じくする人々は、根本的に侵略戦争を肯定し侵略戦争を積極的に利用する思想を保持している点で日本国憲法の基本原理である平和主義と、また世界から紛争と貧困を除去して平和を実現しようと努力している国際社会と本質的に相容れないのは当然です。

そのような人たちが積極的に推し進めている憲法9条の改正が危険以外の何物でもないということが、このA氏の講演の事実をもって改めて明らかになったとも言えるでしょう。

いわゆる改憲勢力の一部には、今後もその豊富な資金力を利用して、憲法学の定説的見解とはかけ離れ、ねじ曲げられた憲法解釈を植え付けた「使徒」を送り込み、世論を憲法改正に賛成させる方向に操作しようと目論む人たちが一定数存在しているのは確実です。

我々国民は、戦後の国民が大切に守り抜いてきた憲法を真摯に学び、そのような「使徒の襲来」に備えなければなりません。

本当の「自称平和主義者」が誰なのか。

この判断を誤れば、将来世代の国民に80年前と同じ過ちを繰り返させてしまうことにすべての国民が気付く必要があります。