先日、イエメンの内戦を取材するために羽田空港から出国しようとしたジャーナリスト(常岡浩介氏(https://twitter.com/shamilsh?lang=ja))が外務省(外務大臣)から旅券返納命令を受け出国禁止の状態になっている事件がありましたが、その件に関する違憲性の問題については『ジャーナリストの出国を禁止する旅券返納命令が違憲となる理由』のページで簡単に論じました。
この事件では「取材の自由」や「海外渡航の自由」「職業選択の自由」といったジャーナリスト個人に対する人権侵害だけでなく、「知る権利」という国民全体への重大な人権侵害も顕在化していますから、本来であれば国は、その人権侵害の重要性に鑑みて撤回するか、もしくはあくまでも国の処分が適正であるというのであれば、その処分の妥当性について誠実に国民に説明すべき義務を負うはずです。
ところが、現在の政府はそのようには考えていないようです。
報道によれば、本件ジャーナリストの旅券返納命令に関して生じた「海外渡航の自由」や「取材の自由」などの人権侵害の問題について2月5日の記者会見で質問を受けた外相は「行政不服審査や訴訟の権利が保障されているので処分に問題はない」という趣旨の回答を行い、処分の適法性・妥当性について何ら具体的な回答を行うことはなかったからです。
…(中略)…は会見で、常岡さんの主張について「行政不服審査、訴訟(の権利が)が保障されている。必要ならばそういう手段に訴えられるだろう」と述べた。一方で、ジャーナリズムの役割と邦人保護のあり方への認識を問われると、「危険な場所で取材されているジャーナリストに敬意を表したい」とも語った。
※出典:河野外相「邦人男性に返納命令」認める 名前は明かさず|朝日新聞DIGITAL(2019/2/5付)より引用
つまり政府(外務大臣)は、本件によって出国禁止を受けているジャーナリストには行政不服審査や通常訴訟手続きによって処分の無効や取消を求める権利が保障されているので、仮に本件で人権侵害が生じていたとしても、国側に責められるべき点は一切なく、「文句があるなら訴えればいいじゃないか」というまさに「他人事」のスタンスで本件を扱っているわけです。
しかし、『ジャーナリストの出国を禁止する旅券返納命令が違憲となる理由』のページでも解説したように、本件の発端となっている旅券の返納命令という国の処分によって様々な人権侵害が発生しているのは明らかなわけですから、その人権侵害の事実を無視して人権を制限した側の国家権力が「救済措置があるから問題ない」「不服があるなら訴えればいいじゃないか」と開き直るのはあまりにも横暴なのではないでしょうか。
「憲法尊重擁護の義務」はどこに行った?
そもそも、このような「不服があるなら訴えればいいじゃないか」という国(政府)のスタンスは、憲法99条ですべての国務大臣や国会議員などに憲法を「尊重」し「擁護」すべき義務が課せられていることを忘れています。
【日本国憲法第99条】
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
国会議員は国会という立法府の権限によって法律を制定し国民の権利を制限し義務を課すことができますが、その法律の運用が無制限に認められるわけではありません。全ての法律の運用には憲法の「縛り」があるからです。
たとえ立法府の権限によって成立した法律であっても、それを運用する行政機関とそこに所属する公務員は憲法99条に明記された「憲法尊重擁護の義務」に従い、憲法の人権規定を侵害しない範囲で法律を執行することが求められていますから、法律があるからといって行政が好き勝手に運用してよいわけではないのです。
それはもちろん、その行政機関の長たる国務大臣も同じです。国務大臣にも「憲法尊重擁護義務」は課せられていますから、本件における外務大臣も憲法で保障された基本的人権を侵害しないよう細心の注意を払って法律を運用しなければならないはずです。
そうであれば、万が一その運用において人権侵害の事実が確認できた場合には、その運用に誤りはなかったのか真摯に検証してしかるべき対応をすることが求められるはずですし、仮に行政が「法律の執行に誤りはない」と判断した場合であっても、その理由と根拠について国民に真摯に説明すべきでしょう。
特に本件においては『ジャーナリストの出国を禁止する旅券返納命令が違憲となる理由』のページでも解説したように、旅券の返納を命じられたジャーナリストだけでなく、その取材が妨げられたことによってすべての国民の「知る権利(憲法21条)」という民主主義の実現に不可欠な基本的人権が侵害されているわけですから、国(政府)は、本件においてなぜ「海外渡航の自由」や「職業選択の自由」「取材の自由」あるいは国民の「知る権利」という重大な人権侵害を行ってもなお旅券の返納とジャーナリストの出国禁止が許容されるのか、丁寧に説明する必要があることは当然です。
にもかかわらず、その責任を一切顧みずに「行政不服審査や訴訟という救済措置があるから問題ない」などと、憲法尊重擁護義務から要請される責任を無視して違憲状態を放置するのはいかがなものでしょう。
もちろん、外務大臣が言うように、行政の処分については行政不服審査法に基づく審査請求を行って執行停止を求めたり、通常訴訟による処分の取り消しや差し止めなどを求めることも不可能ではありません。
しかし、それらはあくまでも事後救済に過ぎません。審査請求や訴訟が確定するまでは違憲状態は放置され基本的人権の侵害状態は継続されるわけですから、「不服があるなら訴えればいいじゃないか」と他人事で済ませてよいものではないはずです。
憲法99条の「憲法尊重擁護義務」を遵守せず、国民の人権に大きな制限をあたえる処分を執行しておきながら「不服があるなら訴えればいいじゃないか」と開き直ることが許されるのか、改めて議論が必要になると考えます。
「不服があるなら訴えればいいだろう」は国家権力が主権者である我々国民に反旗を翻す謀反の狼煙
このような、行政(今回の件では外務省)とその行政の長(今回の件では外務大臣)が「不服があるなら訴えればいい」と開き直り、政策的な判断で法律を執行することを認めてしまえば、たとえ司法から「違憲」と認定されるものであっても、国民はその司法判断がなされるまでは基本的人権の侵害を甘受しなければならなくなってしまいます。
仮にそのような法の執行が常態化されれば、憲法で規定された人権保障は「絵に描いた餅」になり、国民の人権は国家権力の政策的な判断によって容易に侵害されてしまうことになるでしょう。
国家権力の政策的な判断によって国民の人権が制限されてしまえば、たとえ事後的にその人権侵害が治癒されたとしても、その人権が侵害されていた間に行われた国家権力の行為を治癒させることはできません。国家権力の権限行使は確定的に社会に作用を及ぼすからです。
特に、今回の件で制限されたような「取材の自由」や「知る権利」などは、国民主権原理と民主主義の実現に不可欠な基本的人権なのですから、それがいったん制限されてしまえば、国家権力によって行政権が恣意的に行使され、国家権力の思うが儘に国政が濫用されてしまうことになり民主主義や国民主権原理は容易に機能不全に陥ってしまうでしょう。
そしていったん国民主権と民主主義が機能しなくなれば、もはや国民にその歯止めをかけることができないことは80年前の大日本帝国が証明していますから、「不服があるなら訴えればいい」などという妄言を許容して国家権力の意のままに人権侵害を見過ごすことは、到底許されるものではないはずです。
今回のジャーナリストの件は単に一人のジャーナリストがパスポートを取り上げられて取材に行けなくなっただけの単純な問題なのではありません。「知る権利」という国民主権と民主主義の実現に不可欠な基本的人権を取り上げられてしまった我々すべての国民に対する重大な人権侵害の問題です。
「不服があるなら訴えればいいだろ」などという暴言は、国家権力が我々主権者に反旗を翻す謀反の狼煙と同じなのですから、その発言の危険性はすべての国民が十分に認識しなければなりません。