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憲法を「時代に合わせて」改正するとファシズムや差別を招く理由

政治家や(自称)知識人、ご意見番系タレントやわけのわからない一部のお笑い芸人などの中に「時代に合わない憲法は変えるべきだ」とか「社会の変化に合わせて憲法は変えるべきだ」と主張して、憲法改正を積極的に推し進めようとする人が多くいます。

これはおそらく、欧米諸国で戦後たびたび憲法が改正されてきた事実 があることから(※詳細は→外国は何回も憲法改正してるから日本も改憲すべき…は正しいか) 、日本もそれに倣い、時代の進行に沿って憲法を改正すべきだという意識が根底にあるからと思われます。

確かに、この主張には一理あります。憲法は国民を国家権力の暴走から守り、国家権力の権力行使に”歯止め”をかけるために存在していますが、「時代」や「社会」に適合しなくなった憲法を放置すれば、国民の権利や自由がむやみに制限されることにつながり不都合が生じてしまう可能性も否定できないからです。

しかし、憲法をその「時代」や「社会」の変化に応じて改正するべきであるとするこの主張は、明らかに間違いであると断言できます。

なぜなら、憲法を「時代」や「社会」の変化に応じて改正することを認めてしまえば、「時代」や「社会」の変化に乗じてファシズムや極右思想が一般化された場合にも憲法の改正を認めなければならなくなり、あの悲劇をまた繰り返してしまう危険性があるからです。

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憲法は「時代」や「社会」に合わせて改正されてきたのではない

外国は何回も憲法改正してるから日本も改憲すべき…は正しいか』のページでも解説しているように、先の大戦が終結した1945年以降、オーストラリアでは5回、アメリカでは6回、カナダでは19回、フランスでは27回、ドイツでは60回も憲法が改正されていますから(※ただし2017年までの回数)、この事実だけを見れば戦後80年の間に生じた「時代」や「社会」の変化に応じて主要各国が憲法を改正してきたかのように思えます。

しかし、これらの事実は戦後の主要各国が「時代」や「社会」の変化に応じて憲法を改正してきたことを示すものではありません。

これらの主要国における戦後の憲法改正は、単に既存の憲法が「普遍的」ではないことが分かったから、またその普遍的な価値基準となる「哲学的命題(人類普遍の原理)」に矛盾することに気付いたからこそ行われたものにすぎないからです。

憲法における統治体制が「普遍的」でないために改正された事実

戦後の主要各国では戦後複数回にわたって、いわゆる「統治機構(具体的には議会や行政、裁判所、地方自治に関する事項)」に関する憲法規定の改正が行われていますが、これらの国で統治機構に関する事項が頻繁に改正されたのは既存の憲法に規定された統治制度が「普遍的」ではなかったからです。

なぜそう言えるかというと、政治体制や国家の統治体制に関する理論は本来的に哲学的命題という絶対的普遍的な価値判断であるところの形而上学的理念を含むので(※詳細は→憲法は何を目的として改正されるべきなのか)、究極的には絶対的普遍的な政治制度や国家統治理論がどこかに存在するはずだからです。

もちろん、我々人類は未だその究極的な政治制度や究極的な国家の統治体制を知りません。知らないからこそ古代ギリシャでは直接民主制のアテネ民主制を試し、古代ローマでは元老院に権限を預ける共和制を試み、近代国家ではファシズムや全体主義を招いた欠陥のある民主主義で失敗し、共産主義では専制と抑圧を招いて破綻したわけです。

今の世界では多くの国が自由主義的な民主主義的国家体制を選択しそれぞれの国において様々な統治制度を試しながら国政が運営されていますが、それは単に「とりあえずこれが一番マシ」と思われるからその統治制度を選択しているに過ぎません。今ある政治制度や国家の統治制度が完全な完成形ではないのです。

だからこそ、主要各国では戦後複数回にわたって統治機構に関する憲法規定を改正し、試行錯誤を重ねながら国の統治を行っているのです。

戦後の主要国が憲法の統治機構に関する規定を細かく修正しているのは、現在運用している統治機構に関する憲法規定が「普遍的ではない」からであり、その「普遍的ではないこと」に国民が気付いたからに他なりません。

究極的な国家の統治制度の完成形に可能な限り近づけるために憲法の統治機構に関する規定を細かく改正しているのであって、「時代」や「社会」の変化に適応させるために改正しているわけではないのです。

特にドイツでは、戦前のワイマール憲法の欠陥が利用されてナチスの台頭を招いた苦い経験がありますから、「時代」や「社会」の変化に乗じてファシズムや極右思想が台頭しないよう、統治機構を細かく修正して普遍性のある制度に近づけ、国の統治を適切に運営することが求められました。

だからこそ戦後のドイツでは、あの悲劇を繰り返さないように、少しでも普遍性のないほころびが見つかればそれを紡ぐ必要があった結果、統治機構に関する憲法規定を細かく修正し普遍性のある制度にしてきたわけです。

ですから、戦後の主要各国で行われた統治機構に関する憲法改正は、「時代」や「社会」の変化に合わせるために行われてきたのではありません。

「普遍的」な統治制度に憲法規定を合わせるため、「普遍的」な統治理論に憲法規定をより近づけるために改正されてきただけなのです。

憲法が「人類普遍の原理(哲学的命題)」に矛盾するために改正された事実

憲法が「人類普遍の原理(哲学的命題)」と矛盾することに気付いたから改正されてきた事実も、戦後の主要各国で行われた憲法改正の事実を確認すれば容易に分かります。

たとえば、ドイツで1994年に行われた「男女同権促進」に関する憲法の改正、フランスで1999年に、イタリアで2003年に行われた「男女平等の促進」に関する憲法の改正、またカナダで1984年に行われた「先住民の権利の追加」や、オーストラリアで1967年に行われた「先住民に対する差別的規定の廃止」に関する憲法改正が代表的です。

これらの憲法改正が行われたのは、それまでの既存の憲法が女性や人種・民族に対する「差別」を肯定していたからに他なりません。

「差別」は哲学など絶対的普遍的な価値判断を追求する形而上学から導かれる命題と矛盾しますから、時代や社会の変化があろうとなかろうとけして許されるものではありません。それが「人類普遍の原理」です。だから改正されたのです。

この点、これらの改正が「時代」や「社会」の変化によって差別が禁止されるようになったから改正されたんだ、と思う人もいるかもしれませんが、それは間違いです。

たしかに、過去に女性や先住民族に対する差別が肯定されていた時代があり、今はそれが許容されていないわけですから、「時代」や「社会」の変化によって「差別」が受け入れられなくなったという一面はあります。

しかし、それはただの表層であって本質ではありません。先ほども述べたように「差別」は哲学、宗教学など絶対的普遍的な価値観を追求する形而上学の世界でも否定されているように、絶対的普遍的な価値観とは矛盾する論理的思考によってもたらされる概念であり、この宇宙が存在する限りそもそも「差別」は認められるものではないからです。

「差別」は本来的に許容されるべきものではなかったのですから、過去の時代に女性や先住民族に対する差別が許容されていたのは、単に過去の時代の人たちが無知で愚かだったからであって、今の世代の人間がその無知や愚かさに気付いたからこそ、その差別を否定する憲法改正が行われたにすぎないのです。

「時代」や「社会」が差別を許容しない方向に変化したから憲法の差別規定が改正されたと理解するならば、もし仮に「時代」や「社会」が差別を許容する方向に作用した場合にも再び差別を許容する憲法改正を認めなければならなくなってしまいますが、差別は人類普遍の原理と矛盾する概念なのですから、たとえ「時代」や「社会」がそれを受け入れたとしても、憲法で許容することはできないはずです。

ですから、戦後の主要各国で行われた女性や先住民族への権利拡充や差別禁止に関する憲法改正は、「時代」や「社会」の変化に合わせるために行われてきたのではないのは明らかです。

絶対的普遍的な理念である「人類普遍の原理(哲学的命題)」に矛盾することに気付き、その矛盾を本来あるべき姿に合わせるため、絶対的普遍的な価値に憲法をより近づけるために改正されてきただけなのです。

なお、以上の点は『憲法は何を目的として改正されるべきなのか』のページで更に詳しく解説しています。

憲法を「時代」や「社会」に合わせて改正することを認めればファシズムや極右思想の台頭を許すことになる

ところで、このページの冒頭でも述べたように、憲法改正を積極的に推し進めようとしている人の中には「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」とか「社会の変化に応じて憲法は改正すべきだ」と主張する人が多くいるわけですが、その主張は正しいと言えるのでしょうか。

この点、憲法を「時代」や「社会」の変化に沿って改正すべきという思想は、社会の変化に応じて柔軟に憲法を運用し国民の権利や自由を保障しようと考える一面が窺えますので、一見すると真っ当な意見のように思えます。

しかし、このような思想は端的に言って妥当ではないばかりか、危険とさえ言えます。

なぜなら、そのような思想は、結果としてファシズムや全体主義、あるいは極右思想の台頭をも許容する思想を包含しているからです。

このような思想は「時代」や「社会」の変化に応じて憲法を改正することを許容しますが、その「時代」や「社会」は必ずしも「良い」方向にだけ変化するわけではありません。

ときに「時代」や「社会」は、国民の望まぬ方向に作用することもあるからです。

たとえば、戦前のドイツでは当時の世界でも先進的なワイマール憲法が施行されていましたが、その憲法上の欠陥がヒトラーに利用されてナチスの台頭を招き、あの悲劇を引き起こしました。

これは「時代」や「社会」の変化がファシズム(ナチズム)を台頭させた証左です。

戦前の日本も同じです。当時の日本は不十分ではあったものの自由主義・民主主義的統治体制の下で国家運営が行われていましたが、明治憲法で天皇に与えられていた統治権の総覧者たる地位が軍人や国家指導者に利用され、それに少なからぬ国民が同意し(もちろん天皇もその同意を与えた一人だったわけですが…)、迎合・熱狂したことであの戦争が引き起こされました。

これも「時代」や「社会」の変化が軍国主義や全体主義を台頭させた証左と言えます。

このように、「時代」や「社会」は必ずしも平和や安寧を求めて変化するものではなく、専制や圧政を許容する方向に作用することもあるのが現実です。

そうであれば、憲法を「時代」や「社会」の変化に応じて改正することを認めることはできません。認めてしまえば、「時代」や「社会」がファシズムや極右思想や全体主義を受け入れてしまった場合においても憲法の改正を認めなければならなくなってしまうからです。

そもそもファシズムや極右思想や全体主義は絶対的普遍的な価値観である哲学的命題とは相いれない危険思想なのですから、仮に「時代」や「社会」がそれを受け入れても、絶対に許容されるべきものではない思想です。

ファシズムや極右思想や全体主義は本質的に排外主義や差別主義を包含していますから、たとえ「時代」や「社会」が変わっても、この宇宙が存在する限り絶対に許容されるべきものではないのは当然の帰結でしょう。

つまるところ、「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「社会の変化に応じて憲法は改正すべきだ」という思想の根底には、ファシズムや極右思想や全体主義を許容する思想が包含され、またそれを積極的に許容しようと試みる意識が内在されています。

だからこそ、「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」とか「社会の変化に応じて憲法は改正すべきだ」という主張は断じて認められるべきではないと言え、端的に言って「危険」とさえも言えるのです。

「憲法を時代に合わせて…」という言葉にはファシズムや全体主義を実現させたいという思惑が包含されている

以上で説明したように、先の大戦後に主要各国で行われた憲法改正は「時代」や「社会」の変化に対応させるために行われたものではなく、その既存の憲法が規定した統治体制が「普遍的でなかった」こと、またその憲法規定が絶対的価値観である「人類普遍の原理(哲学的命題)と矛盾する」ことに国民が気付いたからこそ、その「哲学的命題と矛盾する普遍的ではない憲法」を「哲学的命題と矛盾しない普遍的な憲法」に合わせるために行われたものに過ぎません。

また、『憲法は何を目的として改正されるべきなのか』のページでも論じたように、憲法は本来、「憲法の真理」に向けて「真理と矛盾しない普遍的な憲法」により近づけるためにのみ改正されるべきものなのですから、それ以外の目的をもって改正されるべきではないのです。

仮にそれを忘れ、「時代」や「社会」の変化に合わせて改正することを認めてしまえば、容易にファシズムや極右思想や全体主義を招き入れる危険性があることは十分に認識しなければなりません。

時の権力者やそれに迎合する人たちが「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「社会の変化に応じて憲法は改正するべき」と嘯くときは、その言葉の裏に「ファシズムや全体主義を実現したい」「極右思想を一般化したい」「マイノリティーを差別して自身を特権的地位に就かせたい」という思惑が必然的に包含されています。

これに気付かないまま安易な考えで憲法改正に同意してしまえば、後の世代の国民に本来意図しない危険と負担と苦しみを与えてしまう危険性があることを、すべての国民が認識しなければならないのです。