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憲法は何を目的として改正されるべきなのか

日本国憲法はその第96条に改正に関する規定が置かれていますので、憲法は本来的にその条文が改正されることを想定したうえで制定されているということが分かります。

【日本国憲法第96条】

第1項 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
第2項 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

しかし、法学になじみのない人の中には、そもそも憲法がどのような場合に改正されることがあり、どのような目的のために改正されることがあるのか、憲法改正に関する本質的な部分を理解していない人も多くいるのではないかと思います。

では、そもそも憲法という法典は、何を目的として改正されるべきものなのでしょうか。

憲法改正の目的がどこにあるのか、検討してみます。

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憲法とは、国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのもの

憲法が具体的に何を目的として改正されるのかという点を考える前提として、そもそも憲法が何なのかという点を理解してもらう必要があります。

「憲法とは何か」という問いの答えが分からなければ、その改正の目的も理解しえないからです。

この点、「憲法とは何か」という問いがなされた場合、一般に「国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのもの」という答えが用いられます。

ではなぜ、そのような答えが導かれるかというと、国家権力はときに暴走し、その国家に帰属する国民の権利や自由を制限する方向に作用してしまうからです。

そもそも我々人間は、一人では生きていくことが困難であることから「社会」を形成しその共同体の中に所属して生きていきますが、その所属した共同体に自分の自由(安全)と財産を守らせるため、その一人一人が本来的に保有している権限をその共同体に移譲する契約を結びます。

この契約が社会契約であり、その契約によって形成される権限の総体が「国民国家」と呼ばれる国家概念となります。

このような社会契約によって形成された国民国家では、その国家権力はともすればその帰属する国民から移譲を受けた権限を濫用し、国家を形成する国民の自由や権利を侵害する方向に作用する危険性があります。

国家権力は立法府の権限によって法律を制定し、その法律の支配力によって国民の権利を奪い、また国民に義務を課すことができますが、ひとたび国家権力が暴走すれば法律を制定することでいくらでも国民の自由や権利を侵すことができるからです。

そのため、国家権力に権限を移譲しようとする国民は、国家権力の暴走を防ぐために、あらかじめ国家権力に「歯止め」をかけておこうと考えます。その手段が「憲法」という法です。

国民が国家権力に権限を移譲する際に「この規定に反する法律は作っちゃだめですよ」「この規定に違反しない範囲でだけ法律を作る権限を移譲しますよ」という決まりを憲法という法典に記録し、その憲法に記録(規定)された制限の範囲内に限って、国民が保有する権限を国家権力に移譲するわけです。

このような思想が憲法の根底にあるからこそ、「憲法とは国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのもの」という答えが導き出されることになるのです。

憲法も「法」であり「法学」という学問の客体となる以上、「真理の探究」が目的となる

ところで、憲法も法律と同じ「法」に含まれる体系的理論の一つですから、その憲法法という「法」は「法学」という学問の対象になり得ます。

では、その「学問」とはそもそも何なのでしょうか。つまり「学問」とは何を目的として存在しているものなのかという問いの答えです。

この点、「学問」の目的は「真理の探究」にあると理解されています。

たとえば数学の世界では円周率について「3.1415926545……」という具合に延々と計算を続けていますが、それは円周率の「真理」が解明されていないのでその円周率の「真理」を探究するために延々と計算を続けているわけです。つまり数学の目的は「真理の探究」です。

また、例えば歴史学では過去の遺物を調査し、そこにどのような歴史的事実が「真実」としてあったかを議論しますから、それも過去の「真実(真理)」を探求するための学問と言えます。つまり歴史学の目的も「真理の探究」にあるわけです。

ダ・ヴィンチのモナリザやミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂の天井画にも同じことが言えます。これらの芸術作品が長い年月にわたって人々を魅了し続けているのは、そこに「女性(母性)の本質(真理)」や「神の本質(宗教の真理)」を観ることができる(描かれている)からに他なりません。ですから、芸術を学問的見地から考察した場合の目的も「真理の探究」と言えるでしょう。

このように、学問の目的はおしなべて「真理の探究」という点にあるわけですが、先ほども述べたように、憲法も「法」であり学問の一つである以上、その論理は当てはまります。

つまり、憲法の目的もまた「真理の探究」にあると言えるのです。

憲法の目的は「矛盾のない普遍的な憲法の追求」にある

憲法の目的が「真理の探究」にあると理解した場合、その憲法の「真理」とは何を意味するのでしょうか。

この点、「真理」とは物事の本質であり「矛盾がない」状態を言い、またこの宇宙が存在する限り「普遍的」にゆるぎないものを言いますので、憲法の真理は「矛盾のない普遍的なもの」と言い換えることができます。

たとえば数学における「1+1」という数式は「2」という解が得られますが、この数式はなにがあっても「1」になることはありませんし「0」になることもありません。これは「1+1=2」という数式が数学における「真理」だからです。

「1+1=2」という「真理」は、雨が降ろうが槍が降ろうが太陽が爆発しようが銀河系が消滅しようが、この宇宙がある限り「1+1=2」のままです。つまり「1+1=2」という数式は、この宇宙が存在する限り何があってもその解が「2以外にならない」という点で「矛盾がない」ものであり、この宇宙が存在する限り何があってもゆるぎないという点で「普遍的なもの」と言えます。これが物事の「真理」です。

これは憲法も同じです。憲法の目的も「真理の探究」にあるわけですから、その憲法の最終的なゴール(真理)は「真理と矛盾がない憲法」であり「普遍的な憲法」であると言えます。

つまり、我々現代の人間は、「真理に矛盾しない憲法とは何か」また「普遍的な憲法とは何か」という命題を追求しながら、この現代社会を生きているということになるわけです。

「真理に矛盾しない普遍的な憲法」とは何か

このように、憲法の目的が「真理の探究」にあり、その「憲法の真理」とは「真理に矛盾のない憲法」であって「普遍的な憲法」を意味しますから、現代に生きる我々は、その「真理と矛盾しない憲法」「普遍的な憲法」がいかなる憲法なのか、という点を追求し続けなければなりません。

では、その「真理と矛盾しない憲法」また「普遍的な憲法」とは具体的にどのような憲法を言うのでしょうか。

「真理と矛盾しない憲法」とは

「真理と矛盾しない憲法」とは、憲法という「法」が「哲学」などの形而上学的命題と矛盾しない状態にあることを言います。

なぜなら、「法」という論理体系は、形而上に存在する哲学などの論理を、現実社会という形而下において具現化するための道具となるからです。

少し小難しくなりますが、哲学ではこの世界(宇宙)を「形而上の世界」と「形而下の世界」に分けて考える思考法があります。

形而上とはこの宇宙の根源にある絶対的普遍的な世界を表しますので、その宇宙の根源(真理)を探究する手段は、「哲学」や「宗教(神学)」など絶対的・普遍的価値を追求する学問に委ねられることになります(※そのためこれらの学問は「形而上学」と呼ばれます)。

一方、形而下とは、我々人間が住むこの現実世界のことを表します。この現実世界は個人が他者と相対することで存在しますのでそれは絶対的ではなく相対的な世界と言えますから、絶対的な形而上学的理念を相対的なこの形而下における現実世界に適用するのは困難が伴います。

そこで考えられたのが「法」です。「法」は形而上の世界の絶対的な価値観である「哲学」や「宗教」などによって導き出される命題を、形而下にある現実世界で具現化させるために用いられますので、「法」の根源(真理)には「哲学」や「宗教(神学)」などによって導き出される絶対的・普遍的な命題が内在されているといえます(※ちなみに法学は「形而下学」と呼ばれます)。

たとえば、絶対的普遍的な価値観を追求する「哲学」や「宗教(神学)」という形而上学では「人を殺すなかれ」という命題が導き出されますが、この「人を殺すなかれ」という命題は形而下学である「法(学)」でも具現化されています。

具体的には、刑法の199条で「殺人罪」として規定されることで具現化されていますが、国家権力が国民に「人を殺すな」と刑罰をもって禁止できるのは、その「人を殺すなかれ」という命題が絶対的普遍的な価値観であると国民に認識され、その絶対的普遍的な価値観を現実社会で具現化させる必要があると国民が考えているからに他なりませんので、形而下学である「法(刑法)」には「人を殺すなかれ」という「哲学」や「宗教(神学)」によって導き出される絶対的普遍的な命題(真理)が内在されているといえます。

つまり形而下学である「法」は、形而上学である「哲学」や「宗教(神学)」によって導き出される絶対的普遍的な理念(真理)と「矛盾しないこと」が求められるわけです。

このように考えると、憲法が「哲学」などの形而上学から導かれる帰結と矛盾しない状態にあることを求めていることが分かります。憲法も形而下に存在する「法」の一つだからです。

ですから、現代に生きる我々は、哲学的命題という絶対的普遍的な価値観と矛盾しない憲法を追求することが求められているのであり、その哲学的命題という宇宙の真理に矛盾しない憲法を求めるために日々議論を重ねなければならないと言えるのです。

「普遍的な憲法」とは

では、「普遍的な憲法」とは具体的にどのような憲法を言うのでしょうか。

この点、憲法に「普遍であること」が求められるわけですから、その憲法は時代や社会、その国家に帰属する人種や民族、宗教等が変わっても、この宇宙が存在する限りおしなべて通用する憲法ということが言えるでしょう。

時代や社会、その国家に帰属する人種や民族、宗教等によって通用しなくなる憲法であれば、それは「普遍的」とは言えないからです(※ただし、国家という概念そのものがなくなれば国家権力に歯止めをかけるための憲法自体が必要なくなるので、国家が存在することが前提です)。

「普遍的な憲法」とは、いつの時代も、どのような社会でも、どのような人種や民族や宗教(宗派)が所属する国家であっても通用するものでなければなりません。

つまり、我々現代に生きる人間は、時代や社会情勢や所属する個人の移ろいによって左右されない「普遍的な憲法」を求めて議論を重ねなければならないのであり、この宇宙に人間が存在しうる限り、100年後でも100万年後でも(国家が存在する限り)通用する「普遍的な憲法」を探求し続けている最中にある、ということができます。

憲法の改正は、憲法を「真理」に近づける作業

このように、憲法が形而上学的命題を具現化するための形而下学である以上、その目的は「真理の探究」にありますから、我々現代に生きる人間は「真理に矛盾しない普遍的な憲法」という「憲法の真理」を求めて議論を重ねることが求められていると言えます。

では、そのために何が必要になるかと言うと、それが「憲法の改正」です。

憲法の「改正」は、既存の憲法規定が現実の社会(形而下の世界)でうまく機能しない場面で初めて必要性が生じますから、憲法の改正が必要になっているというのであれば、既存の憲法規定が「形而上学的理念と相いれない」、つまり「真理と矛盾している」か「普遍的ではない」かのどちらかの状態が生じているということになります。

もし仮に既存の憲法規定が「真理に矛盾しない普遍的な性質」を持つならば、それはすでに「憲法の真理」に内在する形而上学的理念を形而下において具現化していると言え、そもそも憲法改正の必要性自体が生じないからです。

このように憲法の本質から憲法改正の議論を考えた場合、国民が既存の憲法に「真理(哲学的命題)と矛盾している」点があることを発見した場合、また国民が既存の憲法に「普遍的ではない」点があることを発見した場合にのみその改正が許されるということが分かります。

つまり、憲法の改正は、既存の憲法に「真理(哲学的命題)と矛盾している」点や「普遍的ではない」点があった場合に初めて行われるものであり、既存の不完全な憲法を「憲法の真理」に近づけるためだけに行われる作業であるということが言えるのです。

「人類普遍の原理」と「人が生まれながらにして持つ権利」に反する一切の憲法が排除される理由

このように、憲法の改正は今ある憲法を「憲法の真理」により近づけるため、既存の憲法を「真理(哲学的命題)と矛盾しない普遍的な憲法」にするために行われるものであり、そのためだけに行われるものであると言えます。

少し哲学的に過ぎたのと私の文章力の拙さで理解しにくかったかもしれませんが、以上の理屈は日本国憲法にも明確に規定されています。

具体的には憲法前文の前半部分と憲法11条がそれです。

【日本国憲法:前文(※前半部分のみ抜粋)】

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(以下省略)

【日本国憲法第11条】

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

憲法前文の前半部分では「自由のもたらす恵沢を確保し」の部分で基本的人権の尊重を、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」の部分で「平和主義」を、また「ここに主権が国民に存することを宣言し…」の部分で「国民主権」原理を明記するとともに「これは人類普遍の原理であり…これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣言することでその「基本的人権の尊重」と「平和主義」「国民主権」の3つの原理が普遍的絶対的な価値観であることを明確化しています。

また、憲法11条では「現在及び将来の国民に与へられる」と宣言することで憲法で保障される人権が憲法によって与えられるものではなく「人が生まれながらにして持つ権利」という自然権思想に基礎を置くものであることを明確にするだけでなく、「侵すことのできない永久の権利」であることを明記して、憲法で規定された基本的人権が絶対的普遍的な価値であることを認めています。

これは、日本国憲法がこれら「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という3つの基本原理が「憲法の真理」に到達していると考えているからです。

このページで説明してきたように、憲法の目的は「憲法の真理の探究」にあり「真理と矛盾しない普遍的な憲法」を探究するために改正がなされますが、その改正された憲法が「真理」に到達した場合はそれ以上の改正は必要ありません。既存の憲法が「真理」に到達してしまえば、それ以上の憲法の真理はこの宇宙に存在しないからです。

だからこそ日本国憲法は「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つの原理について「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」「侵すことのできない永久の権利」と規定してその改正を排除しているわけです。

このように考えると、これまで説明してきた哲学的な考え方も理解できると思います。

つまり、憲法の改正は、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つの基本原理以外の部分に限って改正が認められるべきものであり、その3つ以外の条項を「憲法の真理」に少しでも近づけるためにのみ、用いられるべきものであると言えるのです(※参考→憲法の三原則(基本原理)はなぜ改正できないのか)。

憲法は「時代」や「社会」に合わせて改正するものではない

以上で説明したように、哲学的な思考を取り入れて考えれば、憲法の改正が「憲法の真理」を探究するために、つまり「真理と矛盾しない普遍的な憲法」を追求するために行われるべきであることが分かります。

この憲法の神髄を理解している人は意外に少ないですが、これはとても重要です。これを忘れてしまうと「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「社会に適合しなくなった憲法は変えるべきだ」というような意見に流されてむやみやたらに改正されてしまう危険性があるからです。

「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「実態社会に適合しなくなった憲法は変えるべきだ」という主張はもっともらしく聞こえますが、実はもっともな主張とは言えません。

なぜなら、その主張には「時代」や「社会」の変化に応じて憲法を改正することを許容する思想が基礎にありますが、「時代」や「社会」は必ずしもまともな方向に変わるわけではなく、ときにファシズムや極右思想や全体主義の台頭を許すこともあるからです。

もし仮に「時代」や「社会」の変化に応じて憲法を改正することを認めてしまえば、ファシズムや極右思想や全体主義が「時代」や「社会」で一般化された場合にまでも憲法改正を許容しなければならなくなりますが、それでは80年前にドイツや日本が犯したあの悲惨な歴史を繰り返すことになってしまうでしょう (※この点の詳細は→憲法を「時代に合わせて」改正するとファシズムや差別を招く理由) 。

このように、「憲法は時代に合わせて変えるべき」という主張は本来的にファシズムや極右思想や全体主義を呼び込む危険性を包含していることを考えれば妥当な思想ではありません。

ですから、憲法は「時代」や「社会」の変化に応じて改正してはいけないのです。

憲法は「時代」や「社会」に応じて改正するものではなく、「憲法の真理」つまり「真理(哲学的命題)と矛盾しない普遍的な憲法」に近づけるためだけに行われるべきものであり、それ以外を目的として行われるべきものではないこと(※つまり、哲学的命題や普遍性に反する憲法改正はできないと考えるべきということ)は、すべての国民が十分に理解しておく必要があります。

もしそれを忘れて安易な改正に同意すれば、後の世代に本来予期しない災いを与えてしまう可能性があることはしかと肝に銘じておくべきでしょう。