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自民党の改憲案は「憲法の改正」か「革命」か「クーデター」か

憲法改正の議論がなされる場合、「憲法改正」なのか、それとも「革命」なのか、という議論がなされることがあります。

たとえば、現行憲法である日本国憲法は明治憲法である大日本帝国憲法を「改正する」形で誕生したものですが、明治憲法が欽定憲法(君主が君主主権原理によって制定した憲法)であるのに対して、日本国憲法は民定憲法(国民が国民主権原理に基づいて制定した憲法)であることを憲法前文で宣言していますので、その理念的に対立する両者の関係性をどう説明するか、という議論の場合です。

【日本国憲法前文より抜粋】

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…(省略)…ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。…(以下省略)

明治憲法が天皇主権を採用している一方、現行憲法は国民主権を採用していますから、その根本的思想が異なる以上、天皇主権を国民主権に改めることは「憲法改正」の手続きとしてはできないという考え方も成り立ちます(憲法の改正に法的な限界があるとする説、限界説)。

この限界説に立つ限り、現行憲法は「明治憲法の改正」としては成立しないという矛盾を抱えてしまうことになりますので、その矛盾をどのようにして説明するかという点が議論になるわけです。

その矛盾を解消するための考え方の一つに「八月革命説」というものがあります。「八月革命説」では日本がポツダム宣言を受諾した時点で「革命が起きた」と解釈します。

ポツダム宣言では「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去」すべきことや「基本的人権の尊重を確立」させること、また「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立」されることが明記されていましたから、それらの実現のためには国民主権主義を採用することは不可欠となります。「基本的人権の尊重」や「国民意思による政府の樹立」は天皇主権の下では成立しえないからです。

【ポツダム宣言】

第10項 (中略)日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし 言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし

第12項 前記諸目的が達成せられ且つ日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるにおいては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし

(出典:ポツダム宣言|国会図書館※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています。)

そうすると、日本がポツダム宣言を受託した段階で明治憲法の天皇主権主義が否定され、国民主権主義が無条件に成立した考えることができます。つまり、ポツダム宣言を受諾した段階で「法的な革命があったんだ」とみなすわけです。

この「八月革命説」に立った場合には、現行の日本国憲法は形式的には「明治憲法の改正」として継続性を持たせたうえで成立させた「欽定憲法」ではあるものの、実質的にはポツダム宣言の受諾によって成立した国民主権に基づいて国民自らが制定した民定憲法である解釈されますので、欽定憲法から民定憲法への「憲法改正」としての矛盾は説明が付けられることになります。

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「憲法改正」と「革命」と「クーデター」

少し分かりにくかったかもしれませんので、もう少し分かりやすく説明してみましょう。

例えば、「お父さん」「お母さん」「お兄さん」「妹ちゃん」の4人が暮らす家庭があったとします。

その「お父さん」がとんでもなく古臭い九州男児的思想の持ち主で亭主関白にあこがれて「メシを食う時は俺より先に箸を付けるな!」「一番風呂は俺が入る!」と、家庭の決まり事を自らの判断だけで決定していたとするとその家庭では「お父さん」の言うことは絶対です。これがいわゆる「欽定憲法」です。

この場合、君主(お父さん)の言うことは絶対ですから、君主(お父さん)の言うことには国民(お母さん、お兄さん、妹ちゃん)も逆らえません。

もっとも、家庭によっては外見的には亭主関白に見えても、実際には「お父さん」に家庭内での権限はなく、家庭内の決まりは全て「お母さん」が決めているような、いわゆる「かかあ天下」の家庭もあります。

明治憲法もいわば「かかあ天下」のようなものでした。明治憲法では天皇主権を採用していましたが、その天皇に与えられた「統治権の総攬者たる地位」を国家指導者や軍人(お母さん)が悪用したことで、「天皇(お父さん)がこう考えてるんだから」と国民(お兄さん、妹ちゃん)を自由に戦争に駆り立てることができたからです。

もっとも、その「かかあ天下」も戦争の終結によって終わります。ご近所の人が児童相談所に通報したことで行政(連合国)が介入してきたからです。

児童相談所の介入によって、この4人家族は「お父さん」がなんでも決めたり「お母さん」が「お父さん」の古臭い九州男児的思考(天皇の統治権の総攬者たる地位)を悪用して決めるのではなく、家族4人が話し合って多数決で家庭の方針を決めることになりました。これが「民定憲法」であり「国民主権」です。

「亭主関白でお父さんがなんでも決める家庭(お母さんがお父さんの権限を利用して勝手に決めてしまう家庭)」と「家族みんなで話し合って決める家庭」では、その本質が全く異なり九州男児的思想に連続性はありませんが、児童相談所の介入によって「お父さんが全部決める」ことは否定されましたので、その児童相談所の介入によって家庭内における「革命があった」とみなすことができます。

これが「八月革命説」です。

ところで、「革命」と似た概念に「クーデター」というものがあります。

「クーデター」とは、「暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変(※wikipediaより引用)」などと説明されますが、日本でもクーデターは何度か起こされています。

「クーデター」がわからない人に簡単に説明すると、たとえば先ほどの4人家族の例でいえば「お兄さん」が金属バットを振り回して「一番風呂は俺が入るぞ!」と宣言するような場合です。

具体的な例でいえば、515事件や226事件がそれにあたります。

また、家族の多数決で「車は買わない」と決めていたのに、「妹ちゃん」がナイフを自分の首に突き付けて、「車を買わないと切るよ」と脅すのもクーデターといえます。

具体的な例でいえば、三島由紀夫がそれにあたるでしょう。

「お母さん」が毒をご飯に混ぜて自分以外の家族全員に食べさせるようなケースもクーデターといえます。

たとえば、オウム真理教のサリン事件がそれにあたるでしょう。

ちなみに、「革命」に話を戻すと、革命の場合には「暴力的な手段」を使わないものもあります。

先ほどの家族でいうと、「ドライヤーを使えるのはお父さんとお母さんとお兄さんだけ」という決まりがあったとして、それに納得できない「妹ちゃん」が「私にも使わせない限りここを動かない!」とリビングに座り込むようなケースがそれです。

たとえば、外国の例ですが、ガンジーやキング牧師あるいは天安門事件などがそれにあたるでしょう。

自民党の憲法改正案は憲法の三原則をすべて後退(制限)させるもの

話がだいぶそれてしまいましたので元に戻しましょう。憲法の話です。

今の与党、特に自民党は憲法改正の必要性を熱心に主張していますので、憲法改正案が国会で発議されるのは時間の問題と思われます。

この点、自民党が具体的に憲法をどのように改正しようとしているのかという点が問題となりますが、自民党がウェブ上で公開している改正草案(日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))|自由民主党憲法改正推進本部)を見る限り、その改正内容は「憲法の三原則」のすべてに変更を加えるもの、さらに言えば「憲法の三原則」を全て後退(縮小ないし制限)するものであることがわかります。

(1)自民党の憲法改正草案は「国民主権」を後退させるもの

たとえば、国民主権の規定です。

現行憲法における「国民主権」の根拠条文は「憲法前文」と「第1条」になりますが、そこでは以下のように規定されています。

【日本国憲法前文より抜粋】

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…(省略)…ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。…(以下省略)

【日本国憲法第1条】

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

一方、自民党の憲法改正草案における国民主権はその1条で以下のように変更されています。

【自由民主党:日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))第1条】

「天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」

(※出典:日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))|自由民主党憲法改正推進本部|2頁を基に作成)

一見すると両者に違いはないように見受けられますが、国の「元首」が「天皇」に変更されているところが大きく異なります。

この点、「現行憲法でも元首は天皇じゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、現行憲法では日本国の「元首」は多数説的見解では「内閣または内閣総理大臣」であると解釈されています(芦部信喜「憲法(第六版)」47~48頁参照)。

そうすると、自民党の改正草案が国民投票を通過すれば、日本国の元首が「内閣又は内閣総理大臣」から「天皇」に変更されることになるといえますが、それはすなわち日本の中心的存在が「国民」から「天皇」に移行することを意味します。

なぜなら、日本国の元首が「内閣又は内閣総理大臣」である限り、国民は選挙における投票行動によって与党を形成しその国民が形成した与党が党首や内閣を組織することで間接的ではあっても内閣又は内閣総理大臣という「元首」を選任することができますが、「天皇」が元首になった場合には国民の意思は元首の地位に全く反映されなくなるからです。

ですから、自民党の改正草案が国民投票を通過した場合には、その意味で「国民主権が後退」することになるといえます。

なお、この点については『憲法を改正すると国民主権が後退してしまう理由』のページで詳しく論じています。

(2)自民党の憲法改正草案は「基本的人権」を制限するもの

基本的人権の尊重についても同様です。

基本的人権の尊重は現行憲法の12条で以下のように規定されています。

【日本国憲法第12条】

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

一方、自民党の憲法改正草案では、基本的人権の尊重については次のように変更されています。

【自由民主党:日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))第12条】

「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保証されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」

(※出典:日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))|自由民主党憲法改正推進本部|5頁を基に作成)

こちらも一見すると大差ないように見えますが、現行憲法では基本的人権が「公共の福祉」に反して濫用することが禁じられるにすぎないのに対して、自民党の憲法改正草案では「公益及び公の秩序」に反して行使することが禁じられるものに変更されている点が大きく異なります。

なぜなら、「公共の福祉」とは簡単に説明すると「自分勝手はダメですよ、自分のことだけ考えてはいけませんよ(伊藤真「憲法問題 なぜいま改憲なのか」PHP新書86~87頁より引用)」という意味になりますが、「公益及び公の秩序」における「公益」には「政府」や「政党」や「国会議員」や「総理大臣」も含まれることになるからです。

現行憲法では「基本的人権」は「公共の福祉」に反して行使しない限りその行使は保障されますので、「自分勝手に、自分のことだけを考えて」行使ない限り、基本的人権の行使が国家権力によって制限されることはありません。

しかし、自民党の憲法改正草案では「公益及び公の秩序」に反して基本的人権を行使することが禁止されることになるわけですから、たとえば基本的人権の一つである「言論の自由」なども「公益」つまり「政府」や「政党」や「国会議員」や「総理大臣」に不利益を与えたり、「政府」や「政党」や「国会議員」や「総理大臣」を批判するものである場合には、国家権力によって自由に制限がかけられてしまうでしょう。

これはつまり、「基本的人権の尊重」の後退(ないしは制限、縮小)といえます。

(3)自民党の憲法改正草案は「平和主義」を後退させるもの

もちろん、メディアが盛んに取り上げている憲法9条の改正も、憲法前文と憲法9条で謳う「平和主義」を後退させるものと言えます。

なぜなら、自民党の憲法改正草案でも「侵略戦争」を禁止している点では「平和主義」を尊重しているといえますが、その9条2項では国に「自衛権」があることを、また9条の2を新設して国防軍を持つことや集団的自衛権存在を明確に規定している点を考えれば、自民党の憲法改正草案における「平和主義」は「自衛戦争を許容する平和主義」と言えるからです。

この点、現行憲法は、先の戦争で”自国を防衛する”という大義名分の基に”侵略戦争”を拡大させてしまった反省から、「自衛戦争も含めた全ての戦争」を放棄することで戦争の可能性一切を排除しており、「侵略戦争」だけでなく「自衛戦争」をも放棄した点にその特徴があります。

つまり、自民党の憲法改正草案では、日本国憲法の三原則の一つである「平和主義」を現行憲法の「自衛戦争をも放棄した平和主義」から「自衛戦争を許容する平和主義」に変えてしまうわけですから、国家権力に掛けられた「戦争をしてはならない」という制限を緩和する点で「平和主義の後退」といえるのです。

自民党の改憲案は「憲法改正」か、それとも「革命」か

このように、自民党の憲法改正草案を見る限り、その条文のほぼすべては現行の日本国憲法の三原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を後退(または制限・縮小)させる性質を持つものであることがわかりますが、そもそもこのような「憲法の原則」を変えてしまう「憲法の改正」が許されるのかという点も考えなければなりません。

なぜなら、憲法学においては憲法の条文は憲法改正手続きを経ればどのような内容の改正も許容されるわけではなく、一定の限界があるとする限界説が通説と考えられているからです。

「このような憲法改正手続きに従えば、いかなる内容の改正を行うことも認められるかと言えば、けしてそうではない。この問題は、憲法、人権、国民主権等の本質をどのように考えるか、という憲法の基礎理論と密接に関連する。わが国では、国民の主権は絶対的である(制憲憲は全能であり、改正憲はその制憲権と同じである)と考える理論、ないし憲法規範には上下の価値の序列を認めることはできないと考える理論に基づいて、憲法改正手続きによりさえすれば、いかなる改正も法的に許されると説く無限回説もある。しかし、法的な限界が存するとする説が通説であり、かつ、それが妥当とされる。」

出典:芦部信喜著・高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店385~386頁より引用

この憲法学における通説的見解に従えば、自民党の憲法改正草案のように「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を後退(制限ないし縮小)するような「憲法改正」は認められるべきではないでしょう。

現行憲法における「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三つは現行憲法の三原則として憲法の根本的規範となるものですから、これを後退(制限ないし縮小)させる改正は、憲法制定権力の範囲外にあると解されるからです。

そうすると、もし仮に今自民党が公開しているような憲法改正案が国会において憲法改正案として発議され国民投票で承認を受けた場合、その国民投票にかけられた憲法条文の位置づけが問題となります。

現行憲法から自民党改正案への「憲法改正」が憲法改正限界説によって認められないと考えられる一方で、その「憲法改正」が国民投票によって承認されたという事実は変わりませんから、その本来「憲法改正」できないはずの改正が実際に行われてしまったという点に法的な矛盾が生じてしまうからです。

もっとも、この点についてはこのページの最初の方で説明した「八月革命説」が参考になります。

明治憲法(大日本帝国憲法)から現行憲法への「改正」も、天皇主権から国民主権という根本原則の変更であることからその法的連続性が問題となりましたが、「八月革命説」を基に考えた場合には、ポツダム宣言を受諾した段階で「革命が起こった」という解釈をとることで無条件に国の主権が天皇から国民に移転したと説明することができました。

そうすると、この現行憲法から自民党の憲法改正草案への改正も、この「八月革命説」と同じように考えることで説明が付きます。

現行憲法の「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という憲法三原則を後退(制限ないし縮小)する「憲法改正」は憲法改正限界説からは許容されませんが、自民党政権による憲法改正発議と国民投票における承認によって「革命が起きた」と解釈すれば、その矛盾を説明することができるからです。

ですから、もし仮に今自民党が公開している憲法改正草案が、国会に憲法改正案として発議され国民投票を通過してしまった場合、その改正された憲法の条文については、将来の日本において、「憲法の改正」として制定されたものではなく、その国民投票があった時点で発生した「革命」によって「現行の日本国憲法が破棄」されて「新憲法が制定された」という解釈によって説明されることも十分に考えられるのです。

そうすると、自民党が推し進めている「憲法改正」の議論は、憲法学的に考えれば形式的には「憲法改正」の体裁を整えていても、実質的には「革命」であると結論付けることができるかもしれません。

「革命」か「クーデター」か

ところで、一部の(自称)知識人やタレントあるいは特定のメディアなどの中に、憲法改正を実現させたいがために事実と異なる嘘の情報を拡散し、世論を憲法改正に賛成する方向に誘導しようとしている勢力があるようです。

たとえば、「外国は〇回も憲法を改正してるんだから日本だけ改正しないのは変だ!」とか「今の憲法はGHQが1週間で作った中途半端なものだから改正すべきだ!」とか「現行憲法は制定過程で国民投票を経ていないから制定手続きに欠陥がある」とか「憲法は占領軍に押し付けられたものだから改正すべきだ!」などと声高に主張している一部の人々や一部のメディアなどです。

しかし、これらの点についてはこのサイトでもたびたび指摘していますが、憲法の制定過程を調べる限り事実と異なることは明らかといえます。

そうすると、これらの勢力に属する人々は、事実と異なる情報を流して憲法改正を正当化しようと企んでいるということになりますが、「事実と異なる情報」を故意に拡散させる行為は、その情報を受け取る側の人間にとっては真実とは異なる情報を無意識的に刷り込まれて「混乱に陥れられる」ことを意味しますから、それは端的に言って「暴力」に他なりません。

有名なテレビゲームで「ドラクエ」というものがありますが、ドラクエでは「メダパニ」という呪文を唱えて攻撃してくるモンスターがいます。

「メダパニ」の呪文をかけられたプレイヤー側のキャラクターは「混乱」して味方のパーティーを攻撃しHPを奪ってしまいますので、この「メダパニ」の呪文は敵となるモンスターの攻撃系呪文として分類されています。

つまりドラクエの世界では相手を「混乱に陥れること」は「攻撃」であり「暴力」になるわけです。

これはもちろん、現実の世界でも同じでしょう。国民に「事実と異なる情報」を無意識的にその意識に刷り込んでその思考を「混乱」させ、正常な判断能力をマヒさせた状態で国民投票を実施し、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という憲法の三原則すべてを後退(制限ないし縮小)させることで国民の権利や自由を制限させるわけですから、それはドラクエにおける「メダパニ」と何ら変わりません。

憲法改正を正当がしたいがために事実と異なる情報を拡散させ、国民を混乱に陥れて憲法改正に賛成させようと躍起になっている一部の勢力があるとすれば、その勢力による事実と異なる主張は民主主義への「攻撃」であり「暴力」とも言えるのです。

このように考えた場合、もし仮に今後憲法改正が現実化してしまったとすると、一部の勢力の人々の「暴力的な手段」によって「憲法が改正」されてしまったということになりますが、それも「革命」として説明することができるでしょうか。

先ほども述べたように、「憲法の三原則」を後退させる憲法改正は、憲法の改正には限界があるとする限界説の立場から否定的に解釈されますが、「八月革命説」のように「革命があった」と解釈すれば法的な矛盾を回避して説明することが可能です。

しかし、その「革命」に一部の勢力の人たちの「暴力的な手段」が介在していたとなれば、それは「暴力」によって「革命がおこされた」と説明されることになるでしょう。

そうなると、その「憲法改正」は「革命」ではなく「クーデター」の方が近いようにも思えます。

事実と異なる情報を拡散させることが「暴力」であり、その「暴力」を用いることで革命を起こそうというのであれば、それは暴力を用いて国家体制の変更を図るクーデターに類似するからです。

このように考えていくと、今議論されている憲法改正を文字通り「憲法改正」として捉えることが本当に妥当であるのか疑問が生じてきます。

憲法改正の発議は憲法で認められていますので、政党が憲法改正の議論を進めその発議を行うのはなんら問題ありません。

しかし、憲法改正を実現したいがために事実と異なる情報を拡散させて世論を誘導しようとする場合には、それが「暴力的な手段」による憲法改正となり、その帰結として「革命」どころか「クーデター」に近づいてしまうことも忘れてはならないといえます。