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自民党憲法改正案の問題点:第89条1項|靖国参拝を合憲に

憲法の改正に必要に固執し続ける自民党が公開している憲法改正草案の問題点を一条ずつチェックしていくこのシリーズ。

今回は、公金その他の公の財産の宗教団体等への支出について規定した自民党憲法改正草案第89条1項の問題点を考えてみることにいたしましょう。

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【1】宗教組織・団体への公金支出への道を開いた自民党憲法改正草案第89条1項

現行憲法の第89条は公金その他公の財産の宗教組織もしくは団体への支出等を禁止する規定を置いていますが、自民党憲法改正案第89条はその規定を第1項と第2項に分割したうえで、第1項においてその公金支出等を一定の条件の下で許容できるよう変更しています。

具体的にどのような変更が行われているのか。改正案の条文を確認してみましょう。

日本国憲法第89条

公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、または公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出又はその利用に供してはならない。

自民党憲法改正草案第89条

第1項 公金その他の公の財産は、第二十条第三項ただし書に規定する場合を除き、宗教的活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。

第2項(省略)

自民党憲法改正草案第20条3項

国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

この条文を見ても分かるように、現行憲法が「公金その他の公の財産」を宗教上の組織若しくは団体の使用、便益もしくは維持のために支出またはその利用に供することの一切を禁止しているところを、自民党憲法改正案第89条1項が「第二十条第三項ただし書に規定する場合」についてその支出等を許容しているところが異なります(※現行憲法89条後段の「慈善・教育・博愛」の事業に関しては自民党案では第2項に規定されていますのでここでは省略します)。

この点、その自民党案が挿入した「第二十条第三項ただし書に規定する場合」とは、自民党憲法改正案第20条3項ただし書きが「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」を除外している部分を指しますので、自民党憲法改正案第89条1項は、その「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教組織や団体に対する公金等の支出等について許容していることが分かります。

つまり、自民党憲法改正草案第89条1項は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教組織や宗教団体に対して、「公金その他の公の財産」を自由に使用、便益もしくは維持のために支出またはその利用に供することができるようにするために、あえてわざわざ「第二十条第三項ただし書に規定する場合」という文章を挿入したわけです。

では、こうして公金その他の公の財産の支出や便益等に供することを「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教組織や宗教団体に対して認めることは、具体的にどのような問題を生じさせるのでしょうか。検討してみましょう。

なお、自民党憲法改正草案第89条第1項の問題点については『自民党憲法改正案の問題点:第89条2項|私学への利益供与が無制約に』のページで、また自民党憲法改正草案第20条3項の問題点は『自民党憲法改正案の問題点:第20条3項|国の宗教活動が無制約に』のページで詳しく解説していますので、そちらも合わせてご覧ください。

【2】公金等の支出等を「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教組織や宗教団体に認めることは何が問題か

このように、自民党憲法改正草案第89条は、現行憲法が宗教上の組織若しくは団体に対してその一切の支出や便益の供与等を禁止している「公金その他の公の財産」を「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教組織や宗教団体について支出し又は利用に供することを許容する条文に変えています。

この点、こうした変更は「政教分離」の原則を無効にしてしまう点で大きな問題を生じさせるだけでなく、その政教分離の原則が機能しなくなることで靖国神社の参拝まで合憲とされてしまい、先の戦争における反省という側面においても大きな問題を生じさせます。

以下、それぞれ別にその問題点を確認していきましょう。

(1)「政教分離」の原則が失われる危険

まず指摘できるのは、政教分離の原則が破壊されてしまう危険性です。

現行憲法は第20条1項後段で「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と、また3項で「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定することで、国から特権を受ける宗教を禁止するとともに、国家の宗教的中立性を明示して「政教分離の原則」を制度的に保障していますが、それに加えて第89条で「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため(中略)これを支出又はその利用に供してはならない」とすることで、その政教分離の原則を財政面から裏付けています。

日本国憲法第20条

第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
第2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
第3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

これはもちろん、政教分離の原則が機能しなくなることで、国家権力が宗教的権威を利用して世論を誘導したり、特定の宗教組織が政治に影響力を行使して国家統治に介入することを防ぐ必要があるからです。

先の戦時中は、国家神道に国教的地位が与えられ、その宗教的権威や信仰が国家指導者に様々な場面で利用されることで、国全体が軍国主義的な方向に誘導されて国が焦土と変えられた挙句敗戦を招きました。

そうした反省から、現行憲法では政教分離の原則を制度的な側面だけでなく財政的な側面からも裏付けることで、権力が宗教を利用することを、また宗教が政治権力に介入することを防いでいるわけです。

しかし、自民党憲法改正草案第89条1項は「公金その他の公の財産」を「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教組織や宗教団体に支出し又は利用に供することを許容する条文に変えていますから、国が「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」と判断すれば、特定の宗教組織や宗教団体に公金を支出したり、公の財産を利用させたりすることもできるようになってしまいます。

その「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」か否かを判断するのは政府なので、政府が「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」と判断すれば、あらゆる宗教組織や団体への公金支出等が認められるようになるからです。

そうなれば、総理大臣や現役閣僚が特定の宗教組織や宗教団体に参拝等を行い、公金を奉納等したとしても、その公金等の支出等は『社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないから憲法に違反しない』との言い訳も成り立つことになりますから、もはやその違憲性を指摘することは困難になってしまうでしょう。

それはもちろん、憲法から「政教分離」の原則が失われるということに他なりません。

自民党憲法改正草案第89条1項は「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」について公金その他の公の財産を支出等することを許容していますが、こうした規定は、政教分離の原則を機能不全に陥らせることが明らかですから、大きな問題があると言えるのです。

(2)特定の宗教組織・団体の財政基盤が強化され政治的影響力を及ぼす危険

また、自民党憲法改正草案第89条1項が「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」範囲で宗教団体等への公金支出等を認めてしまうと、特定の宗教組織や宗教団体に際限なく公金が支出等されることにつながり、その宗教組織や宗教団体の財政基盤が強化されて経済界や政界に大きな影響力を持つようになってしまうという点も問題です。

前述したように、自民党憲法改正草案第89条1項は「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」範囲で宗教団体等への公金支出等を認めていますから、これが国民投票を通過すれば、政府が「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」との理屈で、自民党や与党に名を連ねる公明党を支持する宗教組織や宗教団体に多額の資金を支弁することも合憲とされてしまうことになります。

そうして多額の国費が宗教組織や宗教団体に流れれば、当然その宗教組織や団体の財政基盤が強化されていきますから、その公金の支出等を受けた宗教組織や団体は、その財政基盤を武器にして経済界や政界に大きな影響力を持つようになるでしょう。

しかしそれでは、宗教組織や団体が労働者や有権者の意思決定に様々な影響力を行使する危険を招きますから、国民の政治的意思決定は歪められてしまい、民主主義も機能不全に陥ってしまいます。当然それは、国家神道に国教的な地位が与えられ軍国主義的統治体制に誘導されてしまった戦前の失敗の繰り返しでしかないでしょう。

このように、自民党憲法改正草案第89条1項は「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」範囲で宗教団体等への公金支出等を認めていますが、こうした規定は、特定の宗教組織や団体の財政基盤が強化され、経済界や政界に影響力が行使されることで国民の政治的意思決定が歪められてしまう点で大きな問題があると言えるのです。

(3)靖国神社への参拝が合憲とされることで生じる2つの危険

自民党憲法改正草案第89条1項は、こうした「政教分離」の原則を失わせてしまう問題とは別に、靖国神社への閣僚の参拝に関する問題も指摘できます。

なぜなら、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」範囲で宗教団体等への公金支出等を認める自民党憲法改正草案第89条1項が国民投票を通過すれば、閣僚の靖国神社への参拝についても「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」との理由で認められることになり、現役閣僚の靖国参拝が合憲とされてしまうことになるからです。

※公人として参拝すればその参拝時間は公務時間として公金が支払われることになりますし、公用車で参拝すればその車の利用は公金の支出等にあたりますし、参拝して公金から玉串料等を奉納すればそれは公金の支出にあたることになります。

現役閣僚の靖国神社への参拝が憲法上合憲とされてしまうことで生じる問題は、先の戦争における「戦争犯罪の正当化」の側面と、「国家神道の復活」の側面で別の問題を指摘できますので、それぞれ別に確認していきましょう。

ア)先の戦争における戦争犯罪の正当化という問題

この点、まず問題なのは、靖国神社への閣僚等の参拝が合憲とされてしまうことで、日中戦争から太平洋戦争へと続けられた先の戦争における戦争犯罪が正当化されてしまう点です。

なぜなら、靖国神社には戊辰戦争、明治維新後の戦没者が祀られていますが、先の戦争でいわゆる「A級戦犯」とされた人も昭和53年(1978年)10月17日に合祀されていますので、そのA級戦犯が合祀された昭和53年以降に閣僚が靖国神社に参拝するということは、日本国の国家指導者が先の戦争において侵略戦争を主導したA級戦犯を「神」として敬う(崇める)ことに他ならず、ひいては日本国民がその「A級戦犯」を「神」として崇め奉り、先の侵略戦争を正当化することにつながるからです(※ちなみに「A級」とは「最大の責任者」という意味ではなく「平和に対する罪(A級)」「通例の戦争犯罪(戦争法規・慣例違反)(B級)」「人道に対する罪(C級)」の3種の罪状の分類上の種別を意味します)。

この点、東京裁判等の軍事裁判が連合国主導で行われ、原爆投下や市街地への空襲など連合国側の戦争犯罪が不問に付されたこと、また開戦当時にパリ不戦条約などによって侵略戦争が国際法上「不法(違法)」とされていたとしてもそれを「犯罪」と定めた国際法はなかったことから侵略戦争を犯罪として罰するのは「法の不遡及の原則(事後法の禁止)」「罪刑法定主義」に反することなどから「勝者の裁きであって公正な裁判ではなかった」との意見もありますが、そうした点で裁判の正当性や公正性に批判があるとしても、裁判は連合国側の一方的断罪で終始したわけではなく、弁護側の主張や証拠も数多く提出されて認められた部分も多数あるわけですから、そうした事実を踏まえれば極右思想を持つ一部の人たちのように「東京裁判史観」などと全否定できるものではないでしょう。

たとえば、あくまでも一例にすぎませんが、A級戦犯の弁護人にはいわゆる「勝者の裁き論」を避けるため日本人弁護人だけでなく米国人弁護人も選任されており、その米国人弁護人が日本人弁護人と共同してA級戦犯の弁護の一翼を担いましたが、その米国人弁護人についてA級戦犯として起訴された重光葵は「米人弁護人は……裁判長が如何に『諸君〔注:米国人弁護人のこと〕の弁論は祖国〔注:米国のこと〕に対して弓を引くものなり』と注意しても、昂然として祖国は自分等に被告を弁護することを命じたりと云ひ放つ。米国は単に戦争に勝ちたるのみにあらざるなり」と日記に書き残しているそうですから(※日暮吉延著『東京裁判』講談社現代新書164頁)、A級戦犯として起訴された人たちの中においても東京裁判の公平性に一定の評価があったことがうかがえるのではないでしょうか。

なお、昭和天皇も、A級戦犯が合祀されたことを理由に昭和53年以降は一度も靖国神社に参拝しておらず、平成以降の天皇も同様に参拝していないそうです。

実録で179カ所に典拠資料として採用された「富田メモ」は、1975年を最後に昭和天皇が靖国神社を参拝しなくなった理由が、78年10月のA級戦犯合祀(ごうし)だったことを明らかにした。

富田朝彦元宮内庁長官は天皇が合祀ゆえに参拝をやめたと語った言葉をメモしていた。その後、『卜部亮吾侍従日記』、天皇の和歌を指南した歌人の岡野弘彦氏の『四季の歌』など、同様の事実を裏付ける資料が出版され、近年の昭和天皇研究では定説となっている。

※出典:昭和天皇の靖国参拝取りやめ、A級戦犯合祀が理由(2014年9月14日)|日本経済新聞社 より引用

このように、靖国神社はA級戦犯が合祀されている以上、先の戦争が侵略戦争であったとの歴史認識の問題と密接不可分な状態にあるわけですが、そうであるにもかかわらず、自民党憲法改正草案第89条1項のようにその参拝を「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」との理由で憲法上合憲としてしまえば、総理大臣や閣僚の参拝が「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」との理由で許容されることで、先の戦争における侵略の罪を免罪するメッセージとなってしまいます。

それはすなわち、我々日本国民が、先の戦争で行われた数々の戦争犯罪を免罪し、その戦争犯罪を許容し、その侵略戦争の全てを正当化するということです。

靖国神社への参拝は、先の戦争における戦犯が合祀されている以上、戦争犯罪の正当化という問題に直結しますので、その参拝を「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」との理由で憲法上合憲としてしまう自民党憲法改正草案第89条1項は、歴史修正主義的な観点から考えても大きな問題があると言えるのです。

イ)「国家神道」を復活させてしまう危険性

また、閣僚の靖国神社への参拝が合憲とされてしまうことで、明治以降の日本を軍国主義に傾倒させる要素の一つとなった「国家神道」を復活させてしまう点も問題です。

自民党憲法改正案の問題点:第24条1項|家族制度と忠孝の復活』のページでも説明したように、明治新政府はそれまでの藩主が領民を支配する統治体制を改めて天皇を中心とした中央集権的な統治システムを構築するべく戸籍制度や家族制度を整備しましたが、その天皇中心の統治体制に宗教的な権威を持たせるため、帝国憲法の「告文(※天皇の始祖と歴代の天皇に対して天皇が憲法制定の事実を報告する文書)」に、

皇朕すめらわ天壌無窮てんじょうむきゅう宏謨こうぼしたが惟神いしん宝祚ほうそヲ承継シ…ここニ皇室典範及憲法ヲ制定スおもフニ此レ皆皇祖皇宗こうそこうそう後裔こうえいのこシタマヘル統治ノ洪範こうはん紹述しょうじゅつスルニ外ナラス…

※出典:大日本帝国憲法|国会図書館 より引用。※注釈:天壌無窮(天地のように永遠に続くさま)、宏謨(広大な計画のこと)、惟神(神の御心のままにの意)、宝祚(天皇の位のこと)、皇祖皇宗(天皇の始祖と歴代の天皇のこと)、洪範(古代中国で天帝から授けられた天地の大法のこと)、紹述(明らかにすること)。

と記述することで、帝国憲法における天皇の地位の根拠を天皇が惟神の承継者である点に求めました。また「憲法発布勅語(※国民に対して天皇が憲法制定の目的と精神を明らかにした文書)」ではこの告文を受けて

…此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス…

※出典:大日本帝国憲法|国会図書館 より引用。

と帝国憲法の絶対性を宣し、それに続く「上諭(※現行憲法の前文にあたり、憲法の基本原則や理想を宣言した部分)では、

…国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ…

※出典:大日本帝国憲法|国会図書館 より引用。

とすることで、帝国憲法における統治権と統帥権の根拠を、天皇が神の地位の承継者であるという宗教的権威に求めました。つまり、帝国憲法における国家形態を天皇の宗教的権威と不可分な関係として成立させることで、中央集権的な国家統治システムを構築しようとしたのです。

もちろん、民間宗教としての神道は神社神道として古来から存在していましたが、その神社神道を母胎として、明治維新後の日本を統治するために新政府によって新たに創唱された天皇教とも言うべき新宗教が国家神道であったわけです。

ちなみに、大江志乃夫の著書『靖国神社』(岩波新書)で国家神道は次のように説明されています。

(中略)これらの特殊性は国家神道がまさに国家神道として創唱された、いわば天皇教ともいうべき宗教として成立した特殊性にもとづく。天皇自身が「惟神」の道の総唱者であり、皇祖神を最高の絶対者とし、その皇祖神の唯一の祭祀者であることによってみずからもまた現人神であるのが国家神道である。その教義は、憲法的慣習法としての国家と神宮・神社との関係を含めた、いわゆる近代天皇制イデオロギーそのものであると見ることができる。

※大江志乃夫著『靖国神社』岩波新書78頁より引用

そして、その新たに創唱された国家神道の祭祀(祭祠)をつかさどるのが靖国神社でした。

靖国神社が他の神社と異なる特異性は、一般国民が国家によって神として祀られる点にあります。

人が神として祀られた例は、明治以前にもたとえば菅原道真(太宰府天満宮)や楠木正成(湊川神社)、徳川家康(日光東照宮)など歴史に名を残した人物でありますが、一般の民衆が神として祀られる事例は特殊な例を除いてありませんでした。

それを明治になって国家の手で可能にしたのが靖国神社です。天皇のために戦死した一般人の人霊を「招魂」と呼ばれる宗教的手続によって「神霊」に転化し、その「神霊」に転化された戦死者の魂を「忠魂」と呼ばれる祭神として慰める施設が靖国神社でした。

そうして祀られる「神霊」はその信者には「英霊」などとも呼ばれますが、「英霊」とされた一般人は神となって国を安んじるために靖国神社に祀られます。つまり、天皇を守らせるために一般人を兵士にして戦場に送り出す法制度が徴兵制で、その戦場で戦死した兵士の魂(人霊)を故郷に帰すことなく靖国神社で「招魂」し、強制的に「神霊」として祀り上げ、死んだあとも天皇を護るための「英霊」として国民(臣民)を天皇(国家)に縛り付ける施設が靖国神社であって、その信仰が国家神道なわけです。

閣僚の靖国神社への参拝を批判する意見があると、必ずと言っていいほど「国を護るために死んでいった兵士を閣僚が慰霊するのは当然だろ!」という意見が出てきますが、靖国神社に参拝する行為は戦死した兵士の「人霊」を慰める「慰霊」ではありません。

靖国神社への参拝(慰霊)は、戦死した兵士の「人霊」が靖国神社における「招魂」の手続きを経て「神霊(英霊)」に転化して天皇を護らせるために国家によって縛り付けられた「忠魂」を慰める行為であって、それは原爆や阪神淡路大震災、東日本大震災などで被災した「人霊」を慰める「慰霊」とは違うのです。

ところで、靖国神社がこうした施設であるのなら、閣僚の参拝を認めて公金の支出等を許すわけにはいきません。閣僚の参拝や靖国神社への公金支出等を憲法で合憲と位置付けてしまえば、その天皇を守らせるために国民を戦場に送ったり、戦死した兵士の「人霊」を強制的に「英霊」として祀り上げ天皇を守らせるための宗教施設である靖国神社を国が財政的に護ることになってしまうからです。

靖国神社ヘの参拝や公金支出等が自民党憲法改正草案第89条1項のように「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」として合憲とされてしまうと、それは国が国家神道のための招魂施設である靖国神社を財政的に護るということになりますから、それは国家神道の復活という意味に直結してしまうわけです。

しかしそれは、先の戦争の反省を反故にするだけでなく、国民の自由と権利を生きている間だけでなく死後にまで天皇(国家)の為に強制的に捧げさせる思想(宗教)を許容するということであって明治憲法(大日本帝国憲法)の思想そのものに他なりません。

そうした憲法規定に変えてしまうのが自民党憲法改正草案第89条1項なのですから、そうした危険性を十分に認識すべきでしょう。