憲法改正を積極的に推し進めようとしている人の中に「イタリアでは戦後に15回も憲法を改正してるのに日本は一度も改正していないなんておかしい」という主張をする人がいます。
イタリアでは戦後(1945年以降)15回にわたって憲法が改正された事実がありますので、その事実だけをとらえて「イタリアは何回も改正してるから日本も憲法を改正すべきだ」という理屈です。
しかし、この主張には賛同できません。
なぜなら、確かにイタリアでは戦後、憲法が15回改正されている事実がありますが、その内容は「統治機構(日本でいえば国会・内閣・裁判所・地方自治といった国の統治に関する機関のこと)」に関する細かな修正に限られており、自民党が予定しているような「国民主権」「基本的人権」「平和主義(9条)」という憲法の基本原則にかかる改正とはその性質がまったく異なるからです。
イタリアにおける戦後の憲法改正の実情
イタリアで戦後(1945年以降)具体的にどのような内容の憲法改正が行われたのかという点は、国会図書館が作成しウェブ上でも公開している「諸外国における戦後の憲法改正(第5版)」に詳しく挙げられています。
この点、この「諸外国における戦後の憲法改正(第5版)」を確認すると、イタリアでは1947年の12月に新憲法である「イタリア共和国憲法」が制定された後、以下のような改正を経て現在に至っているのがわかります。
【戦後(1945年以降)のイタリアにおける憲法改正の状況】
- 議員定数および上院の任期変更(1963年2月改正)
- モリーゼ州の新設(1963年12月改正)
- 憲法裁判所裁判官の任期短縮(1967年11月改正)
- 大臣の弾劾裁判廃止、大臣による犯罪の裁判管轄変更(1989年1月)
- 大統領による解散権行使期間の条件緩和(1991年改正)
- 大赦及び減刑の法律事項への変更(1992年改正)
- 議員の不訴追特権の廃止・不逮捕特権の縮減等(1993年改正)
- 州知事の原則公選制等の地方自治改革(1999年11月22日改正)
- 公正な裁判の原則に関する規定の挿入(1999年11月23日改正)
- 在外投票制度の導入(2000年改正)
- 在外選挙区の議員定数(2001年1月改正)
- 地方分権改革のための改正(2001年10月改正)
- 男女平等の促進(2003年5月3日改正)
- 死刑禁止の例外規定の削除(2007年10月)
- 均衡予算原則の導入(2012年改正)
※出典:国会図書館作成:諸外国における戦後の憲法改正(第5版)(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10249597_po_0932.pdf?contentNo=1&alternativeNo=)9頁ないし10頁を基に作成。
イタリアにおける15回の憲法改正は、そのほぼ全てが「統治機構」に関する部分に限られる
上の一覧に挙げたように、イタリアでは戦後(1945年以降)15回憲法が改正されていますが、「2003年改正(男女平等の促進)」と「2007年改正(死刑禁止の例外規定の削除)」の2回を除き、そのすべての改正が「統治機構」という国の統治に関する部分に限られているのがわかります。
つまり、イタリアでは戦後15回の憲法改正がなされていますが、そのうち13回の改正は「統治機構」に関する細かな修正が行われただけで、「国民主権」や「基本的人権」といった国の根幹にかかわる部分の憲法改正はなされていないわけです。
日本では「統治機構」の細かな部分は「法律」で規定されているのでその修正に「憲法改正」は必要ない
しかし、そもそも日本では、統治機構に関する細かな部分は憲法ではなく「法律」に規定されていますから、仮に統治機構に関する細かな修正が必要になったとしても「憲法」を改正する必要性は一切生じません。
たとえば、イタリアでは1967年に裁判官の任期短縮に関する憲法改正が行われていますが、日本ではそもそも裁判官の任期については裁判所法という「法律」に規定されていますので、仮に日本で裁判官の任期を短縮する必要が生じたとしても、裁判所法という法律の改正が必要になるだけで「憲法」の改正は必要ありません。
【裁判所法第40条】
第1項 高等裁判所長官、判事、判事補及び簡易裁判所判事は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。
第2項 (省略)
第3項 第一項の裁判官は、その官に任命された日から10年を経過したときは、その任期を終えるものとし、再任されることができる。
【裁判所法50条】
最高裁判所の裁判官は、年齢70年、高等裁判所、地方裁判所又は家庭裁判所の裁判官は、年齢65年、簡易裁判所の裁判官は、年齢70年に達した時に退官する。
また、たとえばイタリアでは1963年に「議員定数および上院の任期変更」が、2001年に「在外選挙区の議員定数」に関する憲法改正が行われていますが、日本ではそもそも議員の定数に関しては「憲法」ではなく「公職選挙法」という「法律」に規定されていますので、仮に日本において議員の定数を増加ないし削減する必要性が生じたとしても公職選挙法という「法律」を改正すれば済むわけで「憲法」を改正しなければならない必要性は全く生じません。
【公職選挙法第4条】
第1項 衆議院議員の定数は、465人とし、そのうち、289人を小選挙区選出議員、176人を比例代表選出議員とする。
第2項 参議院議員の定数は242人とし、そのうち、96人を比例代表選出議員、146人を選挙区選出議員とする。
第3項 地方公共団体の議会の議員の定数は、地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)の定めるところによる。
このように、日本ではそもそも統治機構に関する細かな部分は「憲法」ではなく「法律」で規定されており、統治機構に関する細かな部分の修正に「憲法」の改正は必要ないわけですから、イタリアで過去に行われた統治機構に関する細かな部分の修正に関する憲法改正が行われた事実は、日本における憲法改正を積極的に論じる比較対象にはならないわけです。
自民党が予定しているのは「国民主権」「基本的人権」「平和主義」という「国の原則」を変更する憲法改正
以上で説明したように、イタリアでは戦後15回の憲法改正が行われていますが、そのほとんどすべてが「統治機構」という国の統治に関する部分の細かな修正に限られているのが実情です。
しかし、今自民党を中心とした与党が目指しているのは「統治機構」の部分にとどまらず、「国民主権」や「基本的人権」「平和主義(憲法9条)」という「国の原則」を「後退(制限ないし縮小)」させることを目的とした改正です。
自民党が予定している憲法改正についての具体的な内容については自民党がウェブ上で公開している憲法改正案(日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))|自由民主党憲法改正推進本部)を見てもらえばわかりますが、その内容はほぼ全てが「国民主権」や「基本的人権」「平和主義」という憲法の三原則を後退(縮小ないし制限)するものになっています。
たとえば、現行憲法では日本国の元首は内閣総理大臣と解釈されますが(芦部信喜「憲法(第六版)」47~48頁参照(※参考文献))自民党の憲法改正案では「天皇」を元首とするものとされていますので(自民党改正案第1条参照)、その点で国民主権が後退(ないし制限)を加えられる余地が生じます(※この点の詳細は『憲法を改正すると国民主権が後退してしまう理由』のページで詳しく論じています)。
また、たとえば現行憲法では「基本的人権」は「公共の福祉」に反する場合にのみその制限が許されるだけですが(日本国憲法12条)、自民党の改正案では「公益及び公の秩序」に反する場合にまでその制限が許されることになりますので、「公益(国の利益)」すなわち政権与党(つまり自民党)の不利になる言論や表現も政府の権限によって自由に制限がかけられることになってしまいます(自民党改正案12条参照)。
もちろん、メディアが盛んに取り上げている憲法9条の改正も、それが自衛隊を明記するものであれ、国防軍を明記するものであれ、9条2項を削除するものであれ、自衛戦争をも放棄した現行憲法から自衛戦争を許容する憲法に改正することになる点を考えれば、国家権力に掛けられた制限を緩和する点で「平和主義の後退」といえるでしょう(※詳細は→憲法9条に自衛隊を明記すると平和主義が平和主義でなくなる理由)。
自民党の憲法改正案では憲法の「統治機構」の部分にとどまらず「基本的人権の尊重」や「国民主権」「平和主義」など国の根幹(日本国憲法の三原則)に関わる条項を改正をしようとしているわけですから、国の原則とは関係ない「統治機構」の細かな部分の修正しかしていないイタリアの事例をもって、日本における憲法改正を正当化させる理由にすること自体、無理があります。
イタリアにおける「2003年改正(男女平等の促進)」と「2007年改正(死刑禁止の例外規定の削除)」は日本においては憲法改正の必要性が生じないもの
なお、「2003年改正(男女平等の促進)」と「2007年改正(死刑禁止の例外規定の削除)」については、前者が「法の下の平等」後者が「生存権」という人権に関係することになりますので、「イタリアでは人権に関する規定の憲法改正が行われているんだから日本も憲法の人権規定を改正してもいいんだ」と言う理屈も一応は成り立ちます。
しかし、確かに2003年の「男女平等の促進」については「基本的人権」に関する部分の改憲と言えますが、日本ではそもそも憲法14条の「法の下の平等」において「男女の平等」は確保されていますから、日本で「男女の平等」が実現されていないとすればそれは「憲法」ではなく「立法(法律)」や「行政」の問題となります。
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
仮に日本で「男女の平等」が実現されていない状況があるのであれば、「法律」を改正するか「行政」を改革する必要があるわけですから、「法の下の平等」が憲法で保障されている日本ではそもそも「憲法」を改正する必要がないわけです。
また、イタリアにおける2007年の「死刑禁止の例外規定の削除」に関する憲法改正については、日本の「憲法31条」の「生命…を奪われ…」という条文にも関係してきますが、これは「死刑制度を残すか残さないか」という問題であって、「憲法を改正するかしないか」の問題ではありません。
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
なぜなら、現行憲法では「法律」によって死刑制度を運用することが許容されているだけであって、死刑を運用する法律の施行を強制するものではないからです。
(※死刑制度を廃止したいのなら刑法や刑事訴訟法その他の関連法を改正し死刑という刑罰を削除すればよく、憲法31条はそのまま据え置いても差し支えありません)
「死刑禁止の例外規定の削除」の是非は「憲法改正の是非」ではなく「死刑存続の是非」を議論することが必要でイタリアにおける「死刑禁止の例外規定の削除」に関する憲法改正はその議論の結果生じた事象に過ぎないわけですから、イタリアにおいて「死刑禁止の例外規定の削除」に関する憲法改正が行われたことは、日本における憲法改正を正当化させる理由としては成り立ちえないのです。
ですから、その意味でもイタリアにおける憲法改正の事実は、日本における憲法改正の必要性を肯定する理由としては不適と言えます。