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中国は9回も憲法改正してるから日本も…が暴論である理由

憲法改正の議論になると決まって「外国では何回も憲法を改正してるのに日本だけ1度も改正してないのはおかしい!」と主張して憲法改正を正当化する人が現れます。

戦後(1945年以降)だけでもアメリカでは6回、ドイツでは60回、中国でさえ9回も憲法を改正していますから、これらの事例を引き合いに出して「日本も改正すべきだ」と日本における憲法改正を正当化するわけです。

しかし、このように外国の事例を持ち出して日本の憲法改正を正当化しようとする主張は「詭弁」にすぎませんし、特に中国の事例を持ち出すよう主張は「暴論」とさえ言えます。

なぜなら、諸外国と日本では憲法の構造自体が異なるうえ「統治機構(日本でいえば国会・内閣・裁判所・地方自治といった国の統治に関する機関のこと)」に関する部分の細かな修正を行っただけの諸外国と憲法の原則を変えようとしている今の日本とではその事情が大きく異なりますし、非民主的手続きによって人権を制限した中国のケースを持ち出す意見に至っては独裁政権の許容が前提となるものであり全くもって肯定できるものではないからです。

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中国における戦後の憲法改正の実情

中国で戦後(1945年以降)具体的にどのような内容の憲法改正が行われたのかという点は、国会図書館が作成しウェブ上でも公開している「諸外国における戦後の憲法改正(第5版)」に詳しく挙げられています。

この点、この国会図書館の資料を確認すると、中国では1949年に中華人民共和国が成立した後の1954年に初めての憲法典となる「1954年憲法」が制定されて以降、細かな改正をはさみながら「1975年憲法」「1978年憲法」「1982年憲法」と新憲法の制定が重ねられているのがわかります(※ただし正式名称は全て「中華人民共和国憲法」)。

【戦後(1945年以降)の中国における憲法改正の状況】

  • 国家主席廃止、公民の基本的権利・自由の縮小等(1975年改正)※注1
  • 全人代の最高国家権力機関としての権限復活等(1978年改正)※注2
  • 地方制度改革に関する事項(1979年改正)
  • 言論の自由の一部の制限(1980年改正)
  • 文化大革命色の消去、国家主席の復活等(1982年改正)※注3
  • 土地使用権の譲渡、私営経済の認知(1988年改正)
  • 国家による所有と経営の分離、市場経済の導入等(1993年改正)
  • 前文への鄧小平理論追加、社会主義法治国家建設等(1999年改正)
  • 非公有制経済の発展奨励、人権尊重・保障規定の追加等(2004年改正)

※出典:国会図書館作成:諸外国における戦後の憲法改正(第5版)(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10249597_po_0932.pdf?contentNo=1&alternativeNo=)11頁ないし12頁を基に作成。

≪注釈≫

  • ※注1:1954年憲法の改正ではなく、文化大革命の理論と実践(毛沢東思)を憲法化する新憲法(1975年憲法)と認識されています。
  • ※注2:1975年憲法の改正ではなく、新憲法(1978年憲法)と認識されています。
  • ※注3:1978年憲法の改正ではなく、新憲法(1982年憲法)と認識されています。

中国における市場経済化のための統治機構に関する憲法改正は、すでに市場経済化している日本では意味をなさない

以上のように、中国では戦後(1945年以降)9回の憲法改正(うち3回は新憲法の制定)が行われていますが、1978年憲法以降の改正については改革開放政策(市場経済化)を推進するための「統治機構(日本でいえば国会・内閣・裁判所・地方自治といった国の統治に関する機関のこと)」に関連する改正が多く、すでに市場経済化している日本においては憲法改正を正当化させる理由としては不適といえます。

そもそも、日本における経済政策は国会によって立法される法律によって主導されるのが基本ですから、中国におけるこれらの憲法改正は日本の憲法改正の妥当性を判断するうえでの比較対象としては機能しないでしょう。

また、仮に中国における「統治機構」の細かな修正が市場経済化とは関係のないものであったとしても、後述するように自民党によって現在進められているのは「国民主権」や「基本的人権」「平和主義(9条)」といった憲法の基本原則を変更する改正なわけですから、「統治機構」に関する細かな修正しかしていない中国の事例をもって「憲法の原則」を変更する日本の憲法改正を正当化する根拠とするのはあまりにも乱暴といえます。

ですから、その点を考えても中国で行われた憲法改正の事実は日本の憲法改正の議論においては比較対象にならないといえます。

中国における人権保障や法治国家推進に関係する憲法改正は、それらが憲法上明確に保障されている日本では意味をなさない

また、1982年憲法以降の改正では「人権の尊重・保障」や「法治国家の推進」などが行われていますが、これらは文化大革命思想によって制限されていた人権を回復するための改正と、市場経済化によって西欧思想を取り入れる必要性から生じた改正にすぎません。

しかし、戦後に世界の先進的な思想を多く取り入れて作られた日本の憲法では、憲法11条以下の規定で「基本的人権」がすでに保障され、憲法の第三章・第31条・第六章・第十章において「法の支配」が明確化されているわけですから、これらの部分に関する中国における憲法改正の事実は、日本では特段の意味を成すものではないといえます。

ですから、中国におけるこれら人権や自由の拡充に関する憲法改正は、日本の憲法改正の必要性を正当化する理由にはならないのです。

中国における人権や公民権の縮小(ないし制限)に関する憲法改正を持ち出すことは日本における人権や国民主権の制限(後退ないし縮小)につながる

問題は、「1975年憲法(1975年改正)」の制定時に行われた「公民の基本的な権利及び自由の縮小」と、「1978年憲法」の「1980年改正」時に行われた改革開放政策への転換で副作用として生じる民主化運動への対応を目的としたものと推測される「言論の自由の一部の制限」をどう位置付けるかという点です。

なぜなら、「1975年改正」における「公民権と自由の縮小」と「1980年改正」における「言論の自由の一部制限」は、いずれも日本の憲法における「国民主権(の縮小ないし後退)」と「基本的人権(の制限ないし後退)」にリンクしますので、仮に日本において「国民主権」を「縮小ないし後退」させたり「基本的人権」を「制限ないし後退」させたりする憲法改正が行われる場合には、中国におけるこれらの憲法改正は日本の憲法改正を肯定する積極的な理由付けに成りうるからです。

たとえば、日本国憲法の1条では「象徴天皇制」と「国民主権」が明確に規定されていますので日本国憲法においては天皇は「日本国民統合の象徴」であって国の「元首」ではなく、国の「元首」は「内閣または内閣総理大臣」になるというのが憲法学上の多数説の見解とされていますが(芦部信喜「憲法(第六版)」47~48頁参照(※参考文献))、もし仮に「天皇」を現行憲法の「象徴」から「元首」としたり、あるいは「元首であり象徴でもある」とするような憲法改正が行われる場合には、それが「国民主権」の「縮小ないし後退」という帰結につながるのは避けられません。

そうすると、改憲を積極的に肯定する一部の人たちが言うように「外国では憲法を改正してるんだから日本も憲法を改正していいんだ」という理屈が肯定されるというのであれば「中国では毛沢東思想の影響下で文化大革命の理論と実践を現実化させるために公民権と自由を縮小させる憲法改正が行われてるんだ…だから日本でも国民主権を縮小(後退)させて天皇を単なる象徴から元首にする憲法改正も認められるんだ」という主張もまた、理屈としては成り立つことになってしまうでしょう。

また、たとえば日本において「言論の自由」は憲法の21条(表現の自由)によって保障されていると考えられていますが、もし仮にこの21条とは別に「国民の自由や権利は公益や公の秩序に反して行使してはならない」などというような規定が新設される憲法改正が行われる場合には、「国の公益」や「国の秩序」を乱すような「言論(表現)」(つまり現政権を批判する言論)が「制限」されることになり「言論の自由」が「制限ないし後退」する帰結につながることは避けられません。

そうすると、この場合も、改憲を積極的に肯定する一部の人たちが言うように「外国では憲法を改正してるんだから日本も憲法を改正していいんだ」という理屈が肯定されるというのであれば「中国では市場経済化を促進する際の反作用として生じる民主化運動を抑圧するために言論の自由の一部を制限する憲法改正が行われているんだ…だから日本でも政権を批判する奴の言論の自由を制限するような憲法改正も認められるべきなんだ」という主張もまた、理屈としては成り立つということになってしまいます。

このように、もし仮に日本で国民主権や基本的人権を後退(縮小ないし制限)させる憲法改正が行われる場合には、中国において人権や公民権を制限する憲法改正が行われた事実は、日本の憲法改正を積極的に肯定する根拠となり得てしまうわけです。

自民党が予定しているのは「国民主権」「基本的人権」「平和主義」を後退(縮小ないし制限)する改正

以上で説明したように、中国で行われた憲法改正は改革開放政策に伴う統治機構に関する細かな修正や、文化大革命や共産党独裁政権下で抑圧された人権や公民権の制限を一部開放するものであり、すでに自由経済や人権、国民主権が保障されている日本では全く意味をなしませんが、日本で今後「国民主権」や「基本的人権」「平和主義」を後退(縮小ないし制限)させる憲法改正をしようという場合には、中国で人権や公民権を制限する憲法改正が行われた事実は日本の憲法改正を積極的に肯定する根拠として成り立つことになります。

ところで、今の日本で自民党を中心とした与党が目指しているのは「統治機構」の部分にとどまらない、「国民主権」「基本的人権」「平和主義(憲法9条)」という「国の原則」を「後退(制限ないし縮小)」させることを目的とした改正です。

自民党が予定している憲法改正についての具体的な内容については自民党がウェブ上で公開している憲法改正案(日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))|自由民主党憲法改正推進本部)を見てもらえばわかりますが、その内容はほぼ全てが「国民主権」や「基本的人権」「平和主義」という憲法の三原則を後退(縮小ないし制限)するものになっています。

たとえば、現行憲法では日本国の元首は内閣総理大臣と解釈されますが(芦部信喜「憲法(第六版)」47~48頁参照(※参考文献))自民党の憲法改正案では「天皇」を元首とするものとされていますので(自民党改正案第1条参照)、その点で国民主権が後退(ないし制限)を加えられる余地が生じます。

また、たとえば現行憲法では「基本的人権」は「公共の福祉」に反して濫用することが禁止されているだけですが(日本国憲法12条)、自民党の改正案では「公益及び公の秩序」に反して濫用することが禁じられるものに変更されていますので、「公益(国の利益)」すなわち政権与党(つまり自民党)の不利になる言論や表現も政府の権限によって自由に制限がかけられることになってしまいます(自民党改正案12条参照)。

もちろん、メディアが盛んに取り上げている憲法9条の改正も、それが自衛隊を明記するものであれ、国防軍を明記するものであれ、9条2項を削除するものであれ、自衛戦争をも放棄した現行憲法から自衛戦争を許容する憲法に改正することになる点を考えれば、国家権力に掛けられた制限を緩和する点で「平和主義の後退」といえるでしょう。

なお、この点については『アメリカは6回も憲法改正してるから日本も…が詭弁である理由』のページで詳しく解説しています。

このように、政府が憲法改正案として公表している自民党が作成した憲法草案では「基本的人権の尊重」や「国民主権」「平和主義」といった国の根幹(日本国憲法の三原則)に関わる条項を、後退(縮小ないし制限)させようとしているのが明らかであって、それが今の日本で議論されている憲法改正議論の現実です。

そうすると、先ほども説明したように、中国では実際に毛沢東思想や中国共産党一党独裁政権の下で公民権や人権を制限する憲法改正が過去に行われた事実があるわけですから、中国の事例を許容する限りにおいて、日本でも「中国では公民権や人権を制限する憲法が改正が行われてるんだから日本でも国民主権や人権を制限する憲法改正が行われてもいいんだ」という主張は成り立つことになるでしょう。

つまり、テレビの討論番組などで「中国では9回も憲法改正してるんだから日本も改正するべきだ」と主張している政治家や(自称)知識人、タレントなどは、毛沢東思想や中国共産党一党独裁政権の下で行われた中国における非民主的手続による憲法改正を許容し、積極的に肯定したうえで、自民党が作成した改憲案を支持しているわけです。

しかし日本は、中国とは異なる民主的な国民主権国家であったはずです。

そのような民主的な国民主権国家において、独裁政権の下で行われた憲法改正を許容しその独裁政権下で行われた公民権や人権の抑圧を根拠として、「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」といった憲法の原則を制限する憲法改正を正当化しようとしているわけですから、そのような主張は「暴論」以外の何物でもないといえるのです。

諸外国の憲法改正
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