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ウィル・スミスのアカデミー賞平手打ちを幸福追求権から考える

去る3月27日、アメリカで行われたアカデミー賞授賞式において、俳優のウィル・スミス氏がプレゼンターとして登壇したコメディアンのクリス・ロック氏の発したジョークに激怒して平手打ちしたことが大きな話題となり世界を駆け巡りました。

W・スミスが司会にビンタ、妻をからかう発言に激怒 アカデミー賞(字幕・28日)|ロイター

https://jp.reuters.com/video/watch/idOWjpvC40A6VWSVX9DVSCLZDALYLGNLI

会場に臨席した脱毛症に苦しむ俳優のジェイダ・ピンケット・スミス氏に向けて、クリス・ロック氏が「ジェイダ、愛しているよ。『G.I.ジェーン2』が待ちきれない」と容姿を揶揄したことに、ジェイダの夫であるウィル・スミス氏が激怒した(※「G.I.ジェーン」は、デミ・ムーア氏が役作りで丸刈りになったことが話題になった作品)のが騒動の発端だったと報道されています(※日刊スポーツ(2022年3月29日付))。

【米アカデミー賞】前代未聞ウィル・スミス壇上で怒りのビンタ 受賞スピーチでは涙の謝罪|日刊スポーツ

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202203280001334.html

この件に関しては、クリス・ロック氏の容姿を揶揄するジョークを非難する意見がある一方で、ウィル・スミス氏の暴力を批判する声の方も相当多くあり、様々な意見が入り乱れていまだにメディアやSNS界隈では話題となっていますが、本来議論されるべき問題から大きくずれてコメントするコメンテーターや識者も若干見かけます。

そこでここでは、この件で本来議論されるべきことを整理し、容姿を揶揄するジョークが孕む本質的問題について簡単に私見を述べておくことにいたします。

なお、このサイトは憲法に関するサイトですので、日本国憲法が保障する幸福追求権(日本国憲法第13条)と表現の自由(同第21条)の観点から、この問題を考えてみます。

なお、これ以降の人名はすべて敬称略で表記します。

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【1】クリス・ロックの容姿を揶揄するジョークは「表現の自由」か

この点、まずクリス・ロックの容姿を揶揄するジョークが「表現の自由」として認められるのかという点に疑問を持つ人もいるかもしれませんので、その点について簡単に述べておきます。

(1)容姿を揶揄するジョークは幸福追求権・人格権を侵害する

まず最初に、クリス・ロックの容姿を揶揄するジョーク自体が許容されるかという点を考えてみますが、結論から言えばこうした冗談は個人の尊厳を損なうもので、幸福追求権や人格権(プライバシー権)を侵害する言葉の暴力として認められないと考えます。

なぜなら、容姿を揶揄するジョークで笑われた側の人間は、ただそれだけで心を傷つけられ、個人として尊厳を持ち、幸福を追及して生きることを阻害されてしまうからです。

お笑い芸人の「ハゲ・デブ・ブス」は表現の自由で保障されるか』のページでも言及しましたが、容姿の特徴を持つ人を揶揄し嘲笑するジョークが許されるなら、その嘲笑される容姿の特徴を持った人間は、揶揄され嘲笑される客体としてピエロとして生きていく人生を強制させられてしまうのですから、それは個人の幸福追求権が侵害されるということに他なりません。

人は本来、その外見にいかなる特徴があろうとも、その特徴を持たない人と同様に、幸福になる権利を有し、平穏な人生を送る自由があるはずです。

その容姿の特徴は、それを笑う人の「ジョークのネタ」として消費されるための嗜好品ではなく、そのジョークで笑われる人の心は、そのジョークに笑う人が弄ぶための遊具ではないのです。

クリス・ロック氏のように人の容姿を揶揄して笑いを取ろうとする卑しいお笑い芸人やメディア関係者は日本にも少なくありませんが、そうしたジョークを良しとする人は、人の心を傷つけ、人の人生を破壊する言葉の暴力をメディアで拡散させて、社会で普遍化させ、経済的利益を得ていることになります。

それはすなわち、「容姿に特徴を持つ人たちは嘲笑の対象として笑ってよいのだ」という価値観を社会で普遍化させることで、その笑われる人たちから幸福に生きる人生を奪いとり、「笑い」として消費して金儲けしているということです。

それが倫理的に許されるものなのか、メディア関係者は十分に考えることが必要でしょう。

(2)容姿を揶揄するジョークは「表現の自由」で保障されるべきでないもの

この点、表現の自由(言論の自由)が基本的人権として保障されるなら、人の容姿を揶揄するジョークも表現の自由として認められるべきだと考える人もいるかもしれません。

しかし、先ほど述べたように人の容姿を揶揄するジョークは人の心を傷つけるだけでなく、その人が笑われる客体としてピエロを演じて生きることを強制させることになるわけですから、人の尊厳を損ない、幸福追求権や人格権(プライバシー権)を侵害する行為です。

仮にそのジョークが出演者同士の合意のうえでなされる「ネタ」であったとしても、そこで揶揄される容姿と同じ身体的特徴を持つ視聴者は、そのジョークによって画面を通して心を傷つけられるだけでなく、そうした容姿の特徴をジョークの「ネタ」として消費してよいのだと理解した他の視聴者から同じように容姿を揶揄されることで、実生活においても心を傷つけられることにつながるでしょう。

そうであれば、その他人の権利を侵害する表現を権利として認めるわけにはいきません。

「表現の自由」は民主主義の実現に不可欠な人権であって最大限保障される必要がありますが、他者の人権を損ねてまで許されるものではなく、それは「公共の福祉」の中で保障されるべきものだからです。

基本的人権は「個人主義」を基礎としていますが、それは自分の自由や権利だけを最大化しようとする「利己主義」と同義ではなく、他者(個人)の自由や権利を尊重したうえで個人の自由と権利を具現化させようとするものであって、他の個人の自由や権利を損なう表現行為は「公共の福祉」の中で制限されるものなのです。

容姿を揶揄されて笑われる側の人にとっては、容姿を揶揄するジョークは、それに笑う人たちから滅多打ちに袋叩きにされ、あるいは滅多切りに斬り刻まれるのと何ら変わりません。

たとえ「表現の自由」があろうと、そうした「表現」までが「自由」として許されてよいものではありませんから、人の心を傷つけるジョークは「表現の自由」の側面を考えても保障されるべきではないと言えるのです。

【2】「男気」とか「かっこいい」などの問題に矮小化すべきでない

このように、容姿を揶揄するジョークは人の心を傷つけ、その人の尊厳と幸福追求権を侵害する許されない表現行為と言えますから、今回の件はウィル・スミスの暴力を議論する前提として、その表現行為が孕む問題をまず考えなければなりません。

ところが、メディアの報じ方を見ていると、ウィル・スミスが侮辱された妻を「守る」ために行動した点に焦点を当てて「男気」だとか「かっこいい」と評価して擁護する意見がある一方、それを「有害な男らしさ」だとか「俺の嫁みたいな…」などと否定的に評価するコメントが多く散見されます。

つまりメディアはこの件を「容姿を揶揄するジョークの是非」ではなく「”妻を守る夫”の是非」として論じているわけです。

しかし、この件で議論されるべきは、容姿を揶揄するジョークが「ジョーク」として許されるのか、またその容姿を揶揄するジョークで心と尊厳を傷つけられた被害者が、その言葉の暴力から身を護るために暴力を用いることが許されるのか(あるいは、許されないのはなぜなのか)、という点です。

この件を「妻を守った」という部分に焦点を当てて「男気」や「男らしさ」として称賛されるべきか否かの議論に矮小化させてしまうと、本来問題として考えなければならないはずの人の尊厳の問題が有耶無耶にされてしまいます。

しかも、そもそもウィル・スミスはこの件で、クリス・ロックが容姿を揶揄するジョークを発した際、当初は手を叩いて笑っていましたから(ABC Newsがツイッターに挙げた動画で確認できます)、彼も容姿を揶揄するジョークで妻を傷つけた「加害者」の一人です。彼を「妻を守った」とか「男気」などという文脈で論じること自体、トンチンカンでしょう。

【ウィル・スミスが妻ジェイダの容姿を揶揄するジョークに手を叩いて笑っている場面】

この件は、「男気」だとか「男らしさ」という問題ではなく、個人の幸福追求権や人格権、心を傷つける言葉の暴力の是非という側面で考えるべき問題だと思いますが、こうして議論の焦点を意図的にずらすメディアが散見される現状は、大変残念に思います。

【3】容姿を揶揄する「言葉の暴力」に対する「拳の暴力」による正当防衛も認められるべき

ところで、本件でウィル・スミスがクリス・ロックを平手打ちしたのが紛れもない暴力であることを理由に「いかなる暴力も許されない」と非難する意見が多くありますが、「いかなる暴力も許されない」は正しいのでしょうか。

ア)正当防衛としての「暴力」は認められている

たとえば、仮に自分の妻が突然襲い掛かってきた男に殴られたとすれば、ほとんどすべての夫はその暴漢を殴りつけるか押さえつけるかして制圧し妻を守ろうとするでしょう。ですがその場合の「(妻を守るための)暴力」を「いかなる暴力も許されない」と非難する人はまずいません。それは正当防衛として認められる「暴力」だからです。

また、仮に電車内で誰かが痴漢に遭っている場面に遭遇すれば、その痴漢の手を押さえつけて拘束し、次の駅で下車させて駅員に突き出そうとするかもしれません。しかしその「手を押さえつけ」て身体的に「拘束」する行為も「暴力」に他なりませんが、その「暴力」を非難する人もまずいません。それは正当防衛として認められるべき「暴力」だからです。

つい最近も、駅で酔っ払いから肩を引き寄せられていた小学生から助けを求められたプロレスラーが、その酔っ払いの男の腕を押さえつけて制圧し、警察から感謝状を贈られていましたが、その「酔っ払いの腕を押さえつけて制圧するという暴力」を「暴力だ」非難する人もまずいないでしょう。その小学生を守るための正当防衛として認められる「暴力」だからです。

女児の「助けて」、目撃したプロレスラー 酔っ払いの腕押さえ制圧|朝日新聞社

https://www.asahi.com/articles/ASQ44659KQ44ULOB00C.html

このように「いかなる暴力も許されない」と言う人も、正当防衛として認められる「暴力」は積極的に肯定しているわけです。

にもかかわらず、ウィル・スミスの件では容姿を揶揄するジョークで妻の心を傷つけている男を「妻を守る」ために平手打ちで殴ったことが、「いかなる暴力も許されない」と非難されてしまいます。それはおかしくないでしょうか。

もちろん、前述したように平手打ちしたウィル・スミス自身も当初は手を叩いて笑っていたわけですから、彼も加害者の一人であって「妻を守る」意図がどれだけあったか疑問はありますが、あの場面で仮に容姿を揶揄されたジェイダ・ピンケット・スミス本人が平手打ちしていたとしても、同じように「いかなる暴力も許されない」と非難されていたはずです。ですがそれは、理不尽なことではないのでしょうか。

先ほど説明したように、容姿を揶揄するジョークは人の心を傷つける「言葉の暴力」です。「言葉の暴力」は人の心を傷つけて、その傷つけられた心は何年経っても癒されることはありません。

人から揶揄されて笑いの「ネタ」にされる容姿を持たない人には分からないかもしれませんが、病気や怪我や、先天的な障害などから容姿に特徴を持つ人がその容姿を揶揄するジョークで笑われれば、その心の傷は、何年も何十年も、一生消えることのできない傷として心に刻まれるのです。

殴られた傷は当たりどころが悪くなければ数週間で癒えてしまうかもしれませんが、心の傷は何年でも何十年でも心の奥深くに沈殿して、その笑われた人の心に反芻して嘲笑を浴びせかけ、その人の人生に大きな負担を与え続けます。

人の容姿を揶揄するジョークを好んで使う人は、ひと時の「笑い」に他人の容姿を消費するだけなのかもしれませんが、そのジョークで笑われる人にとっては、時に命を絶つことも考えるほど重い傷となり得るのです。

それにもかかわらず、その心を傷つける「言葉の暴力」に対して「拳の暴力」による正当防衛が認められないのはなぜなのでしょうか。

仮にナイフで襲い掛かる暴漢を拳で殴りつけて制圧すれば、身体に傷を負わなくても「勇気ある行動」だと称えられるはずなのに、容姿を揶揄する言葉の暴力で襲い掛かってきた男を平手打ちで制圧したら、実際に心を深く傷つけられて時に命を絶つほどのダメージを受けているにもかかわらず「いかなる暴力も許されない」と非難されてしまうのはなぜなのでしょうか。

「言葉の暴力」は時に「拳の暴力」以上に深刻なダメージを人に与えます。それにもかかわらず、なぜ「容姿を揶揄する言葉の暴力」に対しては「拳の暴力」で身を守ることが正当防衛として認められないのか、私にはわかりません。

もちろん、過剰防衛は「拳の暴力」に対する正当防衛でも違法ですから、過剰に「拳の暴力」を振るうことまで認めろと言っているのではありません。

しかし、容姿を揶揄するジョークは時に死をも考えてしまう深刻な心の傷となり得るのですから、それに応じた相応の「拳の暴力」も認められてしかるべきだと思うのです。

イ)「言葉の暴力」から「言葉」で心を護ることは事実上不可能

この点、こうした意見に対しては、容姿を揶揄するジョークが有形力を行使した「暴力」ではなく「言論」という表現行為であることから、「暴力」ではなく「言葉」で対応すべきだったという反対意見もあるでしょう。

しかし、容姿を揶揄して笑う相手に対して「言葉」で自分を守るのは事実上不可能です。

なぜなら、容姿を揶揄する相手は、揶揄された側が不快に感じる反応自体も込みで、容姿を揶揄する「笑い」を肯定しているからです。

人の容姿を揶揄して笑う人は、その笑う相手の容姿が「人と違う」とか「あるべきものがない」と認識し、相手の容姿が自分より「劣っている」という『差』を揶揄して笑うわけですから、笑う対象となる相手がその容姿を揶揄するジョークに「言葉」で抗議すれば、その相手がその「劣っている」容姿の『差』を認めたことの証左となります。

つまり、容姿を揶揄して笑う人は、相手が「言葉」で抗議したり不快に感じるリアクションをとること自体が、自分が発した容姿を揶揄するジョークの要素となっている「劣っている」という『差』を証明することになるので、「言葉」で抗議されることも含めてエンターテインメントとして消費しようとしているわけです。

そうであれば、「言葉」で抗議すればするほど、その”エンターテインメント性”は完成していきますから、「言葉」で抗議することが身を護ることにはつながりません。「言葉」で抗議すればするほど、容姿を揶揄するジョークのエンターテインメント性は強化されるからです。

揶揄された相手が不快に感じて「言葉」で怒れば怒るほど、面白がって笑うでしょう。

そして仮に、その容姿を揶揄するジョークを発した人間が「言葉」で怒る相手を見て笑った時点で笑われた側の人間が手を出せば「いかなる暴力も許されない」と言われて「暴力だ」と非難されてしまいます。それでどうして「言葉で対応しろ(身を護れ)」が成立するのでしょうか。

そうして笑われてしまえば、もはや「言葉」は何の意味もなくなってしまいますから、事実上「言葉」で身を守ることはできないのです。

他方、「言葉で抗議して通じない相手は無視すればいい」という意見もあるかもしれません。

この点、たしかに無視すれば、その『差』を認めたことにはならないので笑う側のエンターテインメント性は不十分になりますから、容姿を揶揄するジョークを黙殺して無視するという方法も一つの方法としてはあるかも知れません。

しかし、容姿を揶揄された側が無視して沈黙するということは、その心を傷つけられる状況を受け入れて、ただただ我慢するということに他なりません。相手の笑い声を聞かされる状態は、針の筵に座らさせられているのと同じなのですから、それは身を守ることにはならないのです。

容姿を揶揄して笑う相手を「無視してその場をやり過ごせ」という人は、滅多打ちで殴られようと、滅多切りに斬り刻まれようと、抵抗せずに我慢しろと言っているのと変わらないことに気づいているのでしょうか。

実際、今回の事案でも、容姿の揶揄に言葉で抗議することなく沈黙をもって対応したジェイダ・ピンケット・スミスの表情は不快げに硬化したように見えますが(先に挙げたツイートのABC Newsの動画を見てください)、そうした彼女の気持ちを顧みることなく、映画関係者が列席した会場からは、その容姿を揶揄するジョークに喜ぶ笑い声が聞こえます。

おそらく当時の彼女は、自分の容姿を揶揄するジョークに笑う会場からの歓声に、針の筵に座らされたような気分だったのではないでしょうか。

この点、彼女は脱毛症を公表しその病を「気にしない」と自分でも公言しているではないか、という人もいるかもしれませんが、自分でその容姿を「気にしない」ことは、人からその容姿を揶揄されて笑われることを「気にしない」と同義ではありません。

容姿に特徴を持つ人が自らの容姿を「気にしない」と公言した事実は、その容姿の特徴を揶揄して笑う人の免罪符にはならないのです。

しかも、その冗談に当初は笑ったウィル・スミスが(おそらく妻のジェイダが不快に感じている表情を見て笑ってしまった過ちに気づいたのでしょう)壇上に上がってクリス・ロックを平手打ちしてから座席に戻って「言葉で」(Fワードも使いながら)抗議した際、クリス・ロックが「TV史上最高の場面」などと冗談で締めくくろうとしましたが、その冗談にも会場は再び大きな笑い声をあげています。

つまり「言葉」で抗議したとしても、容姿を揶揄するジョークに笑い声をあげたほとんどの人は、その自分たちの「笑い声」が人の心を傷つける可能性に思い至らないまま、クリス・ロックの重ねるジョークに再び笑い声をあげていたわけです。

仮にそのウィル・スミスの「言葉」の抗議によって、容姿を揶揄するジョークに笑った人たちが、そのジョークで笑うこと自体が人の心を傷つけてしまう恐れがあることに気づいていたなら、クリス・ロックの「TV史上最高の場面」とのジョークに再び笑い声をあげることなどできないはずです。

そうであれば、あの場で再び笑い声をあげた会場の人たちは、「言葉」の抗議などまったく意に介していなかったはずですから、彼らが再び笑い声をあげた事実は、容姿を揶揄するジョークから「言葉」で身を守ることなどできないことの証左とも言えるのではないでしょうか。

「いかなる暴力も許されない」という人は「言葉」で対応しろと言いますが、容姿を揶揄するジョークに「言葉」で対応して、傷つけられる心を守ることなどできません。

しかし、仮に「拳の暴力」で制圧する正当防衛が許されるなら、拳で黙らせることで容姿を揶揄するジョークを発する口を封じることができますし、容姿を揶揄するジョークに抗議する自分の様を見てニヤつく顔を殴りつけてそのニヤけた顔を真顔にさせることで、自分の心を「笑い」で傷つけようとする行為から、少なくともそれ以降に傷つけられることを防ぐことができます。

その「拳の暴力」による正当防衛を許さず「言葉で対応しろ」という人は、その容姿を揶揄するジョークにただ黙って耐えろと言っているのと同じなのですから、それがどれほど容姿を揶揄するジョークに笑われる側に負担になるか、気づくべきではないでしょうか。

ウ)「言葉の暴力」を侮辱罪で訴えることは心の傷を深くする

また、容姿を揶揄する「言葉の暴力」に対する「拳の暴力」による正当防衛を認めるべきだという私のような意見に対しては、「言葉の暴力」は侮辱罪にあたるのだから警察に被害届を出すなり民事で訴えるなりして「拳の暴力」以外の方法で身を護ることができるではないか、という反対意見もあるかも知れません。

しかし、そうして司法を利用して「言葉の暴力」を受けた側が被害回復を図るためには相当な労力を必要としますし、司法を利用するためには、その容姿を嘲笑された「言葉」を自らの口から発して警察関係者や訴訟を依頼する弁護士や、法廷でその違法性を判断する裁判官に伝えなければなりません。

ですがそれは自らの心を傷つけなければならない大変な作業です。容姿を揶揄する冗談がその揶揄された人の心に深刻な傷を刻むことはこれまで散々繰り返してきましたが、その心を傷つける冗談を、自分の口から何度も何度も発して警察官や弁護士や裁判官に伝えなければならないのです。

それは拷問や虐待と言っても言い過ぎではないくら痛みを伴うものであって、その拷問や虐待を延々と自ら受け続けなければならないのです。

侮辱罪で訴えろという人は、容姿を揶揄された被害者に、自ら拷問や虐待を加えろと言っているのと変わりません。その点を十分に考える必要があるのではないでしょうか。

エ)「言葉の暴力」に対する「暴力」も正当防衛なら認められるべき

こうして考えれば、容姿を揶揄する言葉の暴力から「拳の暴力」による正当防衛以外で身を護る方法は、現実問題として存在しないのが分かってもらえると思います。

もちろん、容姿を揶揄する言葉の暴力で笑う人を「拳の暴力」による正当防衛で制圧したとしても、傷つけられた心が癒されることはありません。

しかし「拳の暴力」による正当防衛が認められるなら、少なくともその正当防衛の瞬間以降は「笑われる」ことで心を傷つけられることから逃れられることができるのですから、「言葉の暴力」に対する「拳の暴力」による正当防衛も、過剰防衛とならない範囲で認められるべきです。

以上が、私の意見です。

【4】表現行為の幅が狭められるのを嫌うエンタメ業界はウィル・スミスを非難したがる

ところで、今回のウィル・スミスの件でメディアの報道の仕方を見ていると、暴力を用いたウィル・スミスを非難する意見の多さが気になります。

日本では容姿を揶揄するジョークを「言葉の暴力」として非難する言論もあるにはありますが、ワイドショーなどではウィル・スミスを非難するコメントか「どっちもどっち論」でしたり顔をするコメントが多いですし、アメリカでは日本以上にウィル・スミスを非難する報道が圧倒的に多い印象です。

また先日、ウィル・スミスがアカデミー会員を辞任したという報道もありましたが、アカデミー賞を主宰する映画芸術科学アカデミー(AMPAS)は今回の件でウィル・スミスの調査を開始したとの報道もありましたから、映画アカデミー(AMPAS)を含むアメリカの映画業界やメディア関係者の間では、ウィル・スミスを非難する声が相当に多いのではないでしょうか。

この点、ではなぜ映画業界やメディア関係者がウィル・スミスを非難したがるのかという点に疑問がわきますが、それはもちろん、映画業界やメディア側としては表現の自由が狭められるのが困るからでしょう。

今回の件ではクリス・ロックの容姿を揶揄するジョークがそもそもの発端で、しかもその容姿を揶揄するジョークは人の心を傷つける「言葉の暴力」なのですから、仮にウィル・スミスの「暴力」を責めて非難するにしても、クリス・ロックも同様に非難して処分するのが筋でしょう。

また、そもそも今回の件では容姿を揶揄するジョークを放ったクリス・ロックを壇上から降ろすことなくプレゼンターを続けさせた主催者の映画アカデミーにも責任がありますし、その容姿を揶揄するジョークに笑い声をあげた会場の俳優たちや映画関係者も同様に、その容姿を揶揄するジョークで人の心を傷つけた点で責められてしかるべきと言えます。そうであれば、主催者の映画アカデミーだけでなく会場に臨席した映画関係者のほとんどもウィル・スミスと同様に処分しなければ矛盾してしまうでしょう。

この点、容姿を揶揄されたジェイダ・ピンケット・スミス本人が不快に感じていないなら被害者はいないのだから、暴力を行使したウィル・スミスだけを処分するのが妥当ではないか、という意見もあるかも知れません。

しかし、容姿を揶揄するジョークが公の会場でメディアを通して配信されれば、それを観た視聴者は「ジョークを使えば人の容姿を笑ってもかまわないのだ」と受け取ってしまうので、その容姿を揶揄するジョークが社会一般で普遍化されてしまいます。

仮にそうなれば、容姿に特徴を持つ人たちは、それ以降その容姿を揶揄するジョークによって攻撃対象にされ、心を傷つけられながら生きていかなければならなくなるのですから、本件でジェイダ・ピンケット・スミスが不快に感じたか否かは問題ではありません。

容姿を揶揄するジョークを許容してその容姿を持つ人を笑い者に仕立て上げ、その容姿を「笑ってよいのだ」とする価値観を世界に配信した主催者の映画アカデミーや映画業界、またその価値観に同意した映画関係者やメディアの在り方が問われているのです。

ですがもちろん、映画業界やメディアは映像や言論など「表現」行為で利益を得ているのですから、その表現行為が狭められることになる「容姿の表現」の非難は最小限に抑えなければなりません。

映画業界やメディアとしては、容姿を揶揄する表現行為が一般社会で広く許容される方が作品の幅が広がりますので、容姿を揶揄するジョークに寛容である方が、自分たちの利益につながります。

そのため、今回の件では容姿を揶揄するジョークを放ったクリス・ロックの責任は有耶無耶にして、「拳の暴力」を行使したウィル・スミスだけをスケープゴートに仕立て上げて排除しようとしているのではないでしょうか。

もちろん、先ほども述べましたがウィル・スミスも当初は妻のジェイダの容姿を揶揄するジョークに笑い声をあげた一人で「加害者」なのですから、「拳の暴力」による正当防衛が認められると考えてもウィル・スミスを称えることは間違っています。

しかし、ウィル・スミスだけを非難してクリス・ロックの容姿を揶揄するジョークを一切免罪するという映画業界やメディアの姿勢には、納得できないものを感じてしまいます。

【5】容姿を揶揄して笑う人・笑わない人の5つのタイプ

ここまで長々とウィル・スミス平手打ち事件について私見を述べてきましたが、容姿を揶揄して笑う人と笑わない人のタイプについては次の5つに分かれると思いますので、最後にそのタイプの違いについて簡単に述べておきます。

なお、今回のウィル・スミスの件でメディアに出た著名人の記事やコメントのうち気になるものを、いくつか抜粋して、そのタイプに当てはめて見解を述べておきます。

【容姿の特徴を持つ人に対して人がとる5つのタイプの行動】

あくまでも私見ですが、私は、人の容姿を揶揄して笑う人と笑わない人は次の5つのタイプに分かれると考えています。

  • A)容姿を揶揄して本人の前で笑う人
  • B)本人の前で容姿を揶揄しないが陰で揶揄して笑う人
  • C)容姿を揶揄しないが容姿の揶揄に笑う人(心の中で笑う人も含む)
  • D)「容姿の揶揄は良くない」と揶揄された容姿を大声で広めてよろこぶ人
  • E)容姿の特徴を持つ人の辛さを理解して容姿の揶揄から一線を画す人

A)容姿を揶揄して本人の前で笑う人

まず今回の件におけるクリス・ロックはタイプ的には「人の容姿を揶揄して本人の前で笑う人」として「A」のタイプに含まれます。

このタイプは、本人の目の前で容姿を揶揄して笑いますから、直接的に人の心を傷つけます。

ただし、このタイプは容姿を揶揄された側が心に深刻な傷を負う可能性があることに気づいていませんので、悪気がない点で情状酌量の余地はあるかも知れません。端的に言って「幼稚」な人なのでしょう。

たとえば、人の容姿を揶揄して笑いをとるのを得意とするお笑い芸人などが代表的です。『お笑い芸人の「ハゲ・デブ・ブス」は表現の自由で保障されるか』のページで言及したお笑い芸人もこの部類に入ります。

なお、4月3日にフジテレビで放送された『ワイドナショー』番組内でも、あるタレントがこの件に関して

  • 「いつまでもこの話が続くことで、一番きついのは奧さんですよね」
  • 「結果論になってしまいますが、こんなことになるくらいなら、ウイル・スミスさん、後で、楽屋でも話し合うなりなんなりしたらよいとなってしまう」

と述べたそうですが(松本人志「同じ立場なら…」ウィル・スミスのビンタ騒動に「同じようなことにいっているかも」|日刊スポーツ)、そのタレントは公共の電波で散々人の容姿を揶揄する笑いを提供してきた人間です。その当人が「一番きついのは…」とコメントするのはどういう了見なのでしょうか。

そのお笑いタレントがこれまでテレビ放送で拡散させてきた容姿を揶揄する「お笑い」は、たとえ揶揄される側と合意の上での番組内での「ネタ」であったとしても、その容姿を揶揄する「お笑い」がテレビを通じて社会に拡散させることで、それを真似して数多くの人たちが、同じ容姿を持つ人たちを揶揄して「笑い」の対象として消費してきたはずです。

そのお笑いタレントは「一番きついのは奥さん…」などと言いますが、その「きつい」思いを強いられてきた被害者をテレビを通じて量産させてきたのはそのタレント自身なのです。

その加害者たる張本人が、さも傷つけられる側の気持ちを理解しているかのように「一番きついのは…」などと軽々しくコメントするのはいただけません。

また、このお笑いタレントは「後で、楽屋でも話し合うなりなんなりしたらよいとなってしまう」とも述べたそうですが、今説明したようにこの人は容姿を揶揄する「言葉の暴力」を「お笑い」の名の下に社会に拡散させてきた張本人です。

このタレントは「後で…話し合うなりなんなりしたらよいとなってしまう」と言いますが、容姿を揶揄する「言葉の暴力」を社会に拡散させることで不特定多数の人の心を散々傷つけてきた張本人が「後で話し合うなりなんなりしたらよいとなってしまう」とはどういう了見なのでしょうか。

それではまるで、通りすがりに殴りつけておいて「文句があるならあとで話し合えばよいではないか」と自分の暴力を正当化しているのと変わらないのではないでしょうか。

どういう神経を持てば「言葉の暴力」で人を傷つけた側の人間が、その被害者に向けて「後で話し合うなりなんなりしたらよい」と言えるのか、私には皆目わかりません。

この「A」のタイプの人がお笑い芸人や言論人として地位を築いてしまうと、テレビや論壇等で人の揶揄するジョークを披露して、それを公共の電波や論壇、ネット上で拡散させることで「その容姿は揶揄して笑っても良いのだ」との価値観を社会で一般化させてしまうことになり、同じような容姿を持つ不特定多数の人々が幸福追求権を侵害されたうえその容姿を「笑われる」客体としてピエロを演じて生活することを強いられることで、生きづらい人生を強制させられてしまいます。

それは倫理的にも社会的にも有害無益なのですから、そうした人は公の舞台から速やかに退場してくれることを切に願います。

B)本人の前で容姿を揶揄しないが陰で揶揄して笑う人

「A」のように自分から人の容姿を揶揄して笑いをとろうとしない一方、陰に隠れて容姿を揶揄して笑うタイプも多くいます。

このタイプは直接的にはその容姿を揶揄された相手が心を傷つけられることはありませんので「A」のタイプほど害悪はありませんが、その容姿の特徴を持つ人を、自分が嘲笑してエンターテインメントとして消費するための対象と考えている点は「A」と変わりませんから、倫理的な罪は「A」と変わりません。

また、仮に本人の前で嘲笑しなかったとしても、陰でその人の容姿を揶揄して笑うことで、その容姿の揶揄を聞いた人がさらにその容姿の揶揄を拡散し、巡り巡って他の誰かがその揶揄された本人に直接その容姿を揶揄してその人の心を傷つける可能性もありますから、その容姿の揶揄という心を傷つける表現を拡散することで、その容姿の特徴を持つ人の心を積極的に傷つけていることになります。

そうであれば、間接的にはその容姿の特徴を持つ人の心を積極的に傷つけているのと何ら変わりませんから、「A」のタイプ程ではないにしても、社会的害悪度はかなり高いように思います。

C)容姿を揶揄しないが容姿の揶揄に笑う人(心の中で笑う人も含む)

圧倒的に多いのが、自分から能動的に人の容姿を揶揄して笑うことはないものの、容姿を揶揄するジョークに笑うタイプです。今回のウィル・スミスの件でもクリス・ロックの容姿を揶揄するジョークに会場から多くの笑い声が聞こえてきましたが、その笑った多くの映画関係者もこの「C」のタイプに含まれるでしょう。

容姿の揶揄に当初は手を叩いて笑ったウィル・スミスもこの「C」に入ると言っていいでしょう。

このタイプは自ら積極的に容姿の揶揄で他者の心を攻撃したり、その容姿の揶揄を社会で拡散させて間接的にその容姿を持つ人の心を傷つけるわけではないので「A」や「B」ほど深刻な害はありませんが、容姿を揶揄する冗談に笑うことで、その笑われた側の人の心を深く傷つけますから、他者の心を傷つけることに積極的に加担して傷つけられる人の心を自身が笑うためのエンターテインメントとして消費している点で、倫理的に悪と言えます。

また、仮に声を出して笑わなくても心の中で笑うなら声に出して笑うのと倫理的な悪の度合いは変わりませんし、仮にその心の中の笑いが表情に出てニヤつけば、その容姿を揶揄された側の心を傷つけますので人の心を傷つける醜悪さは前述した「A」や「B」とさして変わりません。

この「C」のタイプは「A」や「B」と異なり、自ら人の心を傷つける容姿の揶揄を生み出すことはありませんが、誰かが生み出した容姿の揶揄に便乗して積極的にエンターテインメントとして消費して、その容姿を揶揄する冗談で「笑っていいのだ」という価値観を世間で共有し拡散していることで積極的に人の心を傷つけていますので、倫理的には「A」や「B」と同様に、悪と言えるでしょう。

タイプ的にはこの「C」の人が最も多いのではないでしょうか。

D)「容姿の揶揄は良くない」と、その容姿の揶揄を大声で広めて喜ぶ人

最も害悪が大きいのが、「容姿の揶揄は良くない」と言いながら、その容姿を揶揄する冗談を積極的に広めて喜ぶ「D」のタイプです。

このタイプは、容姿を揶揄する冗談で人の心を傷つける人に対して「容姿を揶揄するのは良くない」と注意しますので、一見すると容姿を揶揄された側の人の立場に立っているかのように見えますが、その容姿を揶揄する冗談を積極的に反芻して「容姿を○○と揶揄して笑うのは良くない」と盛んに吹聴してその揶揄された容姿の特徴を拡散し、人の心を傷つけることに喜びを感じる点が特徴です。

具体的には、たとえば私が中学生の頃同じクラスの同級生に幼少時の重度の火傷で身体的な特徴を持つ女子生徒がいて普段は目立たないようにその火傷の特徴を隠していたのですが、音楽の授業中に行われたペーパーテストの最中にその特徴をたまたま見つけた音楽の女性教師が教室中に響き渡る大声で「あなたこの傷どうしたの?」「あらそう、火傷なの。かわいそうに。もっとちゃんと隠さないとだめでしょ」などと言い、教室中からクスクスと笑い声が起きたことがあったのですが、この女性教師のようなバカが「D」のタイプに分類されます。

今回のウィル・スミスの件では、文藝春秋社が某ライターが書いた「脱毛症はかなり大変な症状をともなう病気」「問題は、そういうデリケートな病気を公然とイジることの是非」「本来は、男性でも女性でも、容姿や病気など、本人のせいでないことを笑いのネタにすることがあってはならない」と殊勝なことを言いながら「○○のおっさん」「(脱毛症は)人生の惨状」「○○散らかして」などと脱毛症の容姿を揶揄する表現を多数利用するコラムをネット上に掲載してアクセス数を稼いでいましたが(※注1)、こうした記事で小銭を稼ぐ文筆家やそれを掲載して利益を得ようと考えるメディアや出版社も、この「D」のタイプにあたるのかもしれません。

※注1
 「○○」の部分は容姿の揶揄の具体的な表現となるのであえて伏字にしています。
 引用元の記事は『ウィル・スミスの殴打事件が図らずも投げかけた「おっさんと頭髪」の問題|文春オンライン』(https://bunshun.jp/articles/-/53170)です。記事の記述を引用しているため著作権法の観点から引用元のURLを表記しておきますが、リンクを張ってしまうと容姿の揶揄の拡散に手を貸すことになるのであえてリンクを外しておきます。

この「D」のタイプは容姿を揶揄することが悪だと認識しているので自ら容姿を揶揄して笑うことはありませんが、容姿を揶揄して笑うことが人の心を傷つけてしまうことを十分に認識したうえで「その容姿を○○と揶揄するのはダメですよ」と注意する体を装ってその「揶揄される容姿の特徴」と「容姿の揶揄」を社会に拡散させることに喜びを感じますからもしかしたらサディストの傾向があるのかもしれません。

このタイプは「容姿を揶揄するな」と言いながら「容姿を揶揄」される具体的な身体的特徴と、その身体的特徴を笑うために利用する「容姿の揶揄の具体的な用法」を例示して世間に広く広めていきますので、自分を安全地帯においたまま人の心を傷つける点で直接的に容姿を揶揄して笑う「A」のタイプよりも狡猾ですし、善意を装って揶揄される身体的特徴と容姿の揶揄の具体的用法を広めることで容姿を揶揄される人の心を深く傷つけていきますので「A」のタイプよりも大きな被害を及ぼします。

「A」のタイプは容姿を揶揄することが揶揄された側にどれほど深刻な心の傷を与えるか思い至らない点で知能が低いだけということも言えるので情状酌量の余地はありますが、この「D」のタイプのサディストは容姿の揶揄がどれほど人の心を傷つけるか十分に認識したうえで、「容姿を揶揄するな」という立場に立つことで非難の矛先が自分に向かないようにしておいて「容姿を揶揄」することに喜びを感じますから、狡猾な知能犯的要素を持つ点で「A」以上に極めてタチが悪いと言えるのではないでしょうか。

「A」「B」「C」のタイプはバカなだけとも言えるのでまだ可愛げがあるとも言えますが、この「D」のタイプはその可愛げすらなく善人を装って攻撃している点で唾棄すべき存在と考えます。

E)容姿の揶揄から一線を画して容姿を揶揄せず笑いもしない人

上記のABCDとは一線を画して容姿を揶揄することもなく容姿の揶揄に笑わない人も一定数います。

このタイプは自分の容姿に何らかの特徴を持つ人か、過去に容姿を揶揄された経験があってその心の痛みが分かる人か、過去に他人の容姿を揶揄して傷つけてしまったことを後悔して二度と同じ過ちを繰り返さないと真摯に反省している人か、人の心の痛みを理解できる人でしょう。

このタイプの人は数は少ないですが、このタイプの人が社会の倫理を支えているとも言えます。

最後に

長々と容姿を揶揄する問題について書いてしまってとりとめのない文章となってしまいましたが、人の容姿を揶揄する冗談は、その揶揄された側の人が時には命を絶ってしまうほどの深刻なダメージを与えます。

そうした愚かな倫理悪に染まってしまう人が一人でも少なくなることが今後の世界には必要でしょう。