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明治憲法(大日本帝国憲法)と日本国憲法の根源的な違いとは何か

現行憲法である日本国憲法は先の戦争に負けた後、形式的には明治憲法(大日本帝国憲法)の改正手続きを経る形で1947年の5月3日に施行されています。

ですから当然、現行憲法が施行された1947年5月3日の前日までは明治憲法(大日本帝国憲法)の法規範によって国政は運営されていたわけですが、現行憲法である日本国憲法と明治憲法である大日本帝国憲法が具体的にどのように違うのかという点について理解していない人も多いように思います。

では、現行憲法と明治憲法(大日本帝国憲法)は具体的にどこが違い、現行憲法はどのような点で明治憲法とその原理原則が異なっているのでしょうか。検討してみましょう。

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現行憲法が明治憲法(大日本帝国憲法)と違う3つの点

前言を翻すようで恐縮ですが、現行憲法と明治憲法(大日本帝国憲法)の違いと言ってもそれをすべて挙げることはネット記事の都合上差し支えがありますので、ここでは現行憲法と明治憲法で大きく違う3つの代表的な点に絞って解説していくことにしましょう。

(※深く知りたい人はネット記事など探さず専門書で学習してください)

(1)明治憲法(大日本帝国憲法)では「天皇」に置かれていた「主権者」たる地位が現行憲法(日本国憲法)では「国民」に変更されたこと

現行憲法である日本国憲法が明治憲法(大日本帝国憲法)と大きく異なる点として最初に挙げられるのが、「天皇主権主義」を採用していた憲法が「国民主権主義」を採用する憲法に変更された点です。つまり、国の主権者が「天皇」から「国民」に変更されたという点です。

明治憲法では天皇を「神聖」なもの「侵すべからざる」ものと定義したうえで、「統治権を総攬」するものとして国を統治(政治)する権限、すなわち「主権」が天皇にあることが明文の規定で明確化されていました。

【大日本帝国憲法(抄)】

第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
(以下省略)

明治憲法では、絶対的・普遍的・不可変的な存在とされた天皇が主権者であるとされていたわけです。しかし、その絶対化された天皇の主権(統治権の総覧者たる地位)が一部の国家指導者や軍人などに利用され、またそれに少なからぬ国民が同意を与えて(もちろん天皇もその同意を与えた一人だったわけですが…)迎合・熱狂し、先の不毛な戦争が引き起こされてしまいました。

明治憲法(大日本帝国憲法)でも一応は議会制民主主義の体裁だけは整えられていましたが、主権は国民になく天皇にありましたから、それは外見上の見せかけに過ぎない民主主義であり、その憲法上における民主主義の欠陥が軍国主義を拡大させてしまったのです。

そのため現行憲法では、そのような権力者の暴走や専制的な政治を防ぐ目的から、憲法前文で「ここに主権が国民に存することを宣言し…」と宣言しただけでなく、それが「人類普遍の原理」として不可侵なものとして定義したうえで、第1条で天皇の地位さえも「主権の存する日本国民の総意に基く」とすることで天皇の神格化を否定し国民主権原理を採用することを明確にしています(※参考→憲法1条の「天皇の地位は…国民の総意に基づく」の総意とは何か)。

【日本国憲法前文※前半部分のみ抜粋】

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(以下省略)

【日本国憲法第1条】

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

このように、現行憲法では、天皇主権主義を採用し天皇を絶対的・普遍的な存在としていた明治憲法とは異なり、明確に主権が国民にあることを宣言し、その国民主権原理こそが「人類普遍の原理」であり絶対的・普遍的なものであることを明確に規定したところが大きな特徴であり、明治憲法と根本的に大きく異なっていると言えます(※なお「明治憲法でも主権者は国民だったはずだ」という意見については→大日本帝国憲法でも国民主権だった…が間違っている理由)。

(2)明治憲法で不十分だった基本的人権の保障が確立されたこと

明治憲法(大日本帝国憲法)から現行憲法への改正で大きく変更された点の2つ目は、基本的人権の保障が確立された点です。

この点、基本的人権については明治憲法(大日本帝国憲法)においても「第2章 臣民権利義務」以降の条文で一定の保障は明文化されていましたから、明治憲法でもその範囲で基本的人権の保障は確立されていたということもできます。

しかし明治憲法では、その基本的人権の保障については「法律ノ定ムル所ニ従ヒ…」「法律ノ範囲内ニ於テ…」「法律ニ依ルニ非スシテ…」あるいは「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」などと法律や臣民義務の留保が付けられており、また「天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とすることで戦争等が発生した場合は天皇の名において自由に基本的人権の制限が可能なものとされていました。

これは、明治憲法における人権が「天皇によって臣民に与えられるもの」に過ぎないと考えられていたからです。

【大日本帝国憲法 前文】

(中略)
朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
(後略)

つまり、明治憲法で保障された基本的人権は国家権力が法律を整備し、または国家権力が天皇大権を利用すれば、天皇の名の下にいくらでも制限することができる不十分なものだったわけです。

【大日本帝国憲法※第2章のみ抜粋】

第2章 臣民権利義務
第18条 日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第19~21条 (省略)
第22条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
第23条 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
第24条 日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルルコトナシ
第25条 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルルコトナシ
第26条 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルルコトナシ
第27条 1項 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
    2項 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得
第31条 本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第32条 本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス

一方、現行憲法である日本国憲法は憲法前文の前半部分で「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し…」と述べることで基本的人権の尊重が憲法の基本原理であることを宣言したうえで、憲法第11条で「侵すことのできない永久の権利として、現在および将来の国民に与へられる」と規定することで、その基本的人権が国家権力や憲法によって保障されるものではなく「人がただ生まれただけ」で保障されるものであるという自然権思想を基礎に持つことを明確に明文化しています。

【日本国憲法第11条】

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

すなわち、明治憲法では「天皇から与えられるもの」に過ぎず国家権力が恣意的に制限することができていた不安定な基本的人権を、現行憲法の日本国憲法では「ただ生まれただけで与えられるもの」という自然権思想に立脚し「人類普遍の原理」であり「侵すことのできない」かつ「永久の権利」と定義して、絶対的・普遍的なものとすることで基本的人権の不可侵性を確立させたわけです。

このように、現行憲法の日本国憲法では、明治憲法で不十分だった基本的人権の保障を絶対的に侵すことができない権利として定義し、その人権保障(基本的人権の尊重)を確立させたところに大きな特徴があると言えます。

(3)明治憲法にはなかった平和主義が実現されたこと

現行憲法と明治憲法の大きな違いとして挙げられる3つ目は、現行憲法では明治憲法になかった平和主義の理念が明確に宣言されているという点です。

明治憲法では安全保障の手段は「軍」にその重点が置かれていただけでなく、その軍の統帥権が主権者であるところの天皇に置かれていましたから、軍部(参謀本部、軍令部)が輔弼や”統帥権の独立”の名の下にその天皇が有していた統帥権を利用して陸海軍を操ることができました。

【大日本帝国憲法第11条】

天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

大日本帝国憲法第55条

第1項 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
第2項 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

そうした憲法上の欠陥が国家権力を掌握した指導者や軍人に利用され、また少なからぬ国民がそれに熱狂・迎合しその権力行使に同意を与えた(もちろん天皇もその同意を与えた一人ですが…)ことで天皇の名において東アジアと太平洋に軍隊を派遣し侵略の戦果を拡大させてしまったのが先の戦争です。

戦後の日本では、そのような過ちを繰り返さないことが求められましたから、憲法前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」と述べることで憲法の基本原理として平和主義を採用することを宣言したうえで、憲法9条で「戦争をするな(戦争放棄)」「陸海空軍その他の戦力を持つな(戦力の不保持)」「交戦権を使うな(交戦権の否認)」と規定することで国家権力に歯止めをかけることにしました(※参考→憲法9条が戦争を放棄し戦力の保持と交戦権を否認した理由)。

また、憲法前文において諸外国と信頼関係を築くことを求める国際協調主義に立脚することを宣言し、中立的な立場から国際社会に向けて平和構想の提示や紛争解決のための提言、貧困解消などの積極的な協力など、世界平和の実現に向けた能動的な努力を続けることを要請し、そういう積極的な外交努力によって国民の安全保障を確保することを求めています(※参考→憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由)。

これは、戦後の日本が武力(軍事力)ではなく、積極的な外交努力によって日本を他国から「攻められない国」に、他国から「武力によって紛争解決を図られないような国」にしていくことで国民の安全保障を確保することを述べたものであり、これこそが現行憲法における平和主義の根源的な思想と言えるでしょう。

つまり、明治憲法では「他国が攻めてきたらどう反撃して国を守るか」という「対症療法的」な視点から軍事力と神格化された天皇の統帥権を用いて実現しようと考えられていた国の安全保障理念が、現行憲法の日本国憲法では「他国から攻めてこられないような国にするにはどうするか」という「原因療法的」な視点から武力(軍事力)の一切を否定し、国際社会と信頼関係を築く国際協調主義に立脚した平和への努力によって国民の安全保障を確保しようとする平和主義に大きな転換が図られたわけです(※参考→『憲法9条が戦争を放棄し戦力の保持と交戦権を否認した理由』『日本国憲法の平和主義は他国の平和主義とどこが違うのか』)。

このように、現行憲法と明治憲法では、その平和を求める思想に根本的な違いがあり、明治憲法ではもっぱら「武力(軍事力)」によってその実現が望まれていた反面、現行憲法では「国際社会における信頼構築と世界平和実現への積極的な外交努力」によってその実現が要請されている点に大きな違いがあると言えます。

明治憲法(大日本帝国憲法)と現行憲法(日本国憲法)を「憲法の違い」として論じることに意義はない

以上で説明したように、現行憲法(日本国憲法)は、憲法の三原則として採用された「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三つの基本原理がすべて明治憲法(大日本帝国憲法)にはなかったものであり、憲法の基本原理が180度転換されたものであることが分かります。

もっとも、憲法という法典は、国民を縛るためのものではなく、国家権力を縛るためのものであって国民が国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのものに他なりませんから(※参考→憲法は何を目的として改正されるべきなのか)、国民の権利と自由を抑制するために作られた明治憲法(大日本帝国憲法)は外見的に憲法の体裁を整えていただけであって、実質的には本来の意味での「憲法」ではなかったとも言えます。

憲法が国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのものであることを考えれば、明治維新は単なるまやかしで、明治憲法(大日本帝国憲法)は「憲法」などではなく薩長幕府が作った武家諸法度に類似する法規範に過ぎず、先の戦争が終結したときにようやく昭和維新が成立し、1947年5月3日の現行憲法施行によってはじめて日本で「憲法」が制定され議会制民主主義が実現されたと考える方が正確なのかもしれません。

そのように考えれば、明治憲法(大日本帝国憲法)と現行憲法(日本国憲法)を「憲法の違い」という側面で比較して論じることはあまり意味のないことのようにも思えます。

憲法の制定過程
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