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自民党憲法改正案の問題点:第102条|国民を縛り天皇を縛らない憲法

憲法改正に執拗に固執し続ける自民党が公開している憲法改正草案の問題点を一条ずつチェックしていくこのシリーズ。

今回は、憲法尊重擁護の義務について規定した自民党憲法改正草案第102条の問題点を考えてみることにいたしましょう。

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憲法尊重擁護の義務に大きな変更を加えた自民党憲法改正草案の第102条

現行憲法は第99条に天皇や国会議員などが憲法を尊重し擁護すべき義務に関する規定を置いていますが、自民党改正案ではこの条文が第102条として規定されています。

もっとも、その内容に大きな変更が加えられているため注意が必要です。

では、具体的にどのような変更が加えられているのか、その条文を確認してみましょう。

日本国憲法第99条

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

自民党憲法改正草案第102条

第1項 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
第2項 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

条文を見てもわかるように、大きく変更された部分は2つあります。

1つ目は、第1項で憲法を尊重し擁護する義務の対象に「国民」が追加されている部分。

2つ目は、憲法を尊重し擁護する義務の対象から天皇と摂政が除かれている部分です。

では、こうした変更は具体的にどのような問題を生じさせるのでしょうか、検討します。

憲法尊重擁護義務に変更を加えた自民党憲法改正草案第102条の2つの問題点

今述べたように、自民党憲法改正草案第102条は憲法尊重擁護義務の対象に「国民」を新たに加える一方で「天皇」と「摂政」をその対象から除外していますが、その変更によって生じる問題としては次の2つが考えられます。

(1)「国民」に憲法尊重擁護義務が課せられると何が問題か

前述したように、自民党憲法改正草案第102条は第1項を新たに設けて「国民」に憲法を尊重し擁護させることを義務付ける規定を置いています。

しかし、これは大きな問題です。なぜなら、憲法は本来「国家権力の権力行使に歯止めを掛けるためのもの」であって「国民の権利行使に歯止めを掛けるためのもの」ではないからです。

そもそも我々人間は、一人では生きていくことが困難であることから自分の自由と財産を守るために「社会」を形成しその共同体の中に所属して生きていきますが、その所属した共同体に一人一人が本来的に保有している権限(行政権・立法権・司法権のいわゆる三権(統治権))を移譲する契約を結びます。この契約が社会契約であり、その契約によって形成される権限の総体が「国民国家」と呼ばれる国家概念となります。

このような社会契約によって形成された国民国家では、その権限の委譲を受けた国家権力が権限を濫用し、国家を形成する国民の自由や権利を侵害する方向に作用する危険性があります。国家権力は立法府の権限によって法律を制定し、その法律の支配力によって国民の権利を奪い、また国民に義務を課すことができるため、ひとたび国家権力が暴走すれば法律を制定することでいくらでも国民の自由や権利を侵すことができるからです。

そのため、国家権力に権限を移譲しようとする国民は、国家権力の暴走を防ぐために、あらかじめ国家権力に「歯止め」をかけておこうと考えます。その手段が「憲法」という法です。

国民が国家権力に権限を移譲する際に「この規定に反する法律は作っちゃだめですよ」「この規定に違反しない範囲でだけ法律を作る権限を移譲しますよ」という決まりを憲法という法典に記録し、その憲法に記録(規定)された制限の範囲内に限って、国民が保有する権限を国家権力に移譲するわけです。

こうした思想が憲法の根底にあるからこそ「憲法は国家権力の権力行使に歯止めをかけるためのもの」と言われているわけですが、このように考えた場合、人が社会契約を締結して国家に権限(※統治権…行政権・立法権・司法権のいわゆる三権)を委譲し憲法を制定する目的が、あくまでも個人の自由と財産を国家に守らせるためであることが分かります。

人は、自分の自由と財産を「国家に守らせる」ために他者と社会契約を結んで国家を形成し、その権限を委譲した国家が権限を濫用しないように憲法を制定して「歯どめ」を掛けようとするのです。

そうであれば、その憲法を「国民の権力行使に歯止めを掛けるためのもの」にしてはなりません。

憲法を「国民の権利行使に歯止めを掛ける」ものにしてしまえば、人が社会契約を結んで国家を形成した意味がなくなるからです。

それにもかかわらず、自民党憲法改正草案第102条は「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」と規定して、国民が憲法で定められた範囲を超えて自由や権利を行使しないよう国民に歯止めを掛けてしまっているのですから、それでは本末転倒でしょう。

憲法は、「国民が国家権力の権力行使に歯止めを掛けるため」に制定するものなのに、自民党案では「国民の自由と権利に歯止めを掛けるため」のものにされているからです。

この憲法改正案が国民投票を通過してしまえば、憲法は国民の自由や権利を制限するために使われることになりますから、国家権力は行政・立法・司法のあらゆる権力を使って国民の行動を制限することができるようになってしまうでしょう。

ところで、こうした発想は明治憲法(大日本帝国憲法)と全く同じです。

明治憲法(大日本帝国憲法)でも基本的人権の保障はありましたが、それは天皇大権や法律の留保の下に認められるものに過ぎず、国家権力が天皇大権を利用するか法律を整備すれば、国民の自由や権利を自由に制限することができました。

戦前の明治憲法(大日本帝国憲法)も自民党改正案と同じように、「国家権力の権力行使に歯止めを掛けるためのもの」ではなく「国民(明治憲法では臣民)の権利行使に歯止めを掛けるためのもの」に過ぎなかったわけです。

しかし明治憲法(大日本帝国憲法)がそうした憲法であったことが、国民の自由や権利を制限する国の命令や立法を可能にさせ、玉砕や特攻など国民の命を国益に劣後させる施策を正当化させることにつながっていき、周辺諸国も巻き込んで国土を焦土と変えました。それが先の戦争です。

そうした反省があったことから戦後に制定された現行憲法では、明治憲法では国民の自由や権利を制限する側にあった天皇や国務大臣・議員等の公務員の全てに憲法を尊重し擁護することを義務付け、しっかりと国家権力に歯止めを掛けました。それが現行憲法なのです。

そうした反省を忘れ、国家権力ではなく国民の側を憲法に従わせようとする自民党憲法改正草案第102条は、憲法の人権思想を明治憲法(大日本帝国憲法)に戻すのと何ら変わりません。

ちなみに明治憲法(大日本帝国憲法)の上諭(※現行憲法の前文の部分)には、自民党憲法改正草案第102条1項と同じように、国民(明治憲法は欽定憲法であったため臣民)に対して憲法に永延に従順する義務を負わせる文章が置かれていましたので、自民党憲法改正草案第102条が明治憲法(大日本帝国憲法)と同じ思想を持っていることが分かるでしょう。

大日本帝国憲法:上諭(抄)

(中略)現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ(後略)

※出典:大日本帝国憲法|国会図書館

自民党憲法改正草案第102条は、憲法を国民の自由や権利を制限する法規範に変えることに同意するのか否かが問われていますので、その点を十分に理解したうえで賛否を判断することが必要です。

(2)「天皇」と「摂政」が憲法尊重擁護義務から除外されると何が問題か

2つ目の問題は、自民党憲法改正草案第102条の第2項が、憲法尊重擁護義務の対象から天皇と摂政を除外している点です。

現行憲法の第97条では憲法尊重擁護義務の対象に「天皇」と「摂政」が含まれている一方で、自民党憲法改正草案第102条では「天皇」と「摂政」の文言が削除されていますから、これが国民投票を通過すれば、「天皇」と「摂政」は憲法を尊重し又は擁護しなくてもよくなってしまいます。

天皇(摂政も同じ)が憲法に縛られない存在となってしまうのです。

そうなれば、もはや天皇を法的に縛るものは何もありませんから、天皇はどんなことでも法的に縛られることなく自由にできることになってしまうでしょう。

もちろん、天皇が憲法に縛られないとしても、天皇がたった一人で権力を行使して国家権力の全権を掌握し、行政権力を自由自在に動かしたり、独裁者となって国民を抑圧することは現実的には難しいかもしれません。

しかし、時の権力者が天皇の権威を利用して国政を操作しようとする場合には、都合の良い操り人形となり得るでしょう。考えられるのは、戦前の明治憲法(大日本帝国憲法)と同じように、国家指導者が天皇の権威と権力を利用して、国政を恣意的に操作するような事態です。

戦前の日本では明治憲法(大日本帝国憲法)が施行されていましたが、明治憲法(大日本帝国憲法)は欽定憲法で天皇が臣民(国民)の権利を制限し義務を課す最高法規でしたので、国家元首であった天皇に統治権を総攬する権能と軍を動かす統帥権が置かれていました(帝国憲法第4条、同11条)。

大日本帝国憲法第4条

天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

同第11条

天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

※出典:大日本帝国憲法|国会図書館

もちろん、そうは言っても明治憲法も一応は立憲君主制の建前がとられていて、帝国憲法第4条が規定するように天皇も「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と規定されることで憲法に縛られる存在でしたから、天皇が好き勝手に主権を行使したり軍を動かすことができるわけではありません。

明治憲法でも一応は立憲主義の建前があり、天皇が統治権や統帥権を行使するにしても、国務大臣の輔弼が必要とされていましたから、天皇が統治権を行使したり軍隊を動かすに際しては、内政や外交に関しては内閣の輔弼が、軍については陸海軍部の補翼(助言)に基づかなければならなかったわけです。

しかしそうした憲法上のシステムが、当時の国家指導者や軍人によって都合よく利用されることになり、輔弼(補翼)の名の下に天皇の下にあった統治権や統帥権が利用されて行政や軍隊の恣意的な運用を許すことになりました。

もちろん、当時の昭和天皇も時の内閣や軍部の意向に能動的に合意した部分はありますから政治責任は免れませんが、当時の国家指導者や軍人が天皇大権を利用したり法律を整備することで国民の世論を全体主義的な方向に誘導することを容易にし、戦争を正当化させることにつながって国を焦土と変えることになったのです。

それが先の敗戦です。

具体的には、「統帥権干犯」「統帥権の独立」の論法で軍部が天皇の統帥権を濫用していったのですが、そうした濫用が認められてしまう憲法上の欠陥が、先の敗戦を招いてしまったわけです(※なお、この「統帥権干犯」「統帥権の独立」については『菅首相は憲法15条1項を振りかざして関東軍になろうとしている説』のページで少し詳しく解説しています)。

つまり、明治憲法(大日本帝国憲法)でさえ天皇は憲法に縛られる存在だったにもかかわらず、時の権力者や軍部によってその権威や権能が濫用されてしまう事態を招いてしまったわけです。

そのため現行憲法では、天皇(摂政も含む)から統治権(主権)を取り上げて象徴としたうえで、主権(統治権)を持たない天皇でさえも憲法に縛られることを憲法第97条に明記して、国家権力が暴走して天皇の権能を濫用する危険を排除しているのです。

それにもかかわらず、自民党憲法改正草案の第102条は天皇と摂政を憲法尊重擁護義務から除いてしまっています。しかしこれでは、時の権力者が傀儡的に天皇の権威や権限を利用することもできるようになってしまうでしょう。

自民党憲法改正草案第102条の第2項は、憲法尊重擁護義務から天皇と摂政を除くことで明治憲法(大日本帝国憲法)よりもはるかに容易に、一部の国家指導者や、あるいは自民党憲法改正案第9条の2が予定している国防軍の軍人が、天皇の権威や権能を都合よく利用して、国政を誘導することができる点で極めて危険です。

そうした危険な条文に変えなければならない理由がいったいどこにあるのか、国民は冷静に判断することが必要でしょう。