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自民党憲法改正案の問題点:第25条の2|エセ環境権で環境を破壊

憲法の改正に執拗に固執し続ける自民党が公開している憲法改正草案の問題点を一条ずつ指摘していくこのシリーズ。

今回は、「環境保全の責務」として新設した自民党憲法改正草案の第25条の2の問題点を考えてみることにいたしましょう。

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「環境保全の責務」を新設した自民党憲法改正草案の第25条の2

自民党憲法改正案の第25条の2は現行憲法にはなかった「環境保全の責務」を国に課す条文を新設しています。

具体的にどのような規定が新設されたのか条文を確認してみましょう。

自民党憲法改正草案第25条の2

(環境保全の責務)
国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

条文は”見出し”の部分で「環境保全の責務」と述べられているように、国に対して「国民と協力して」環境保全に努める義務を規定しています。

この条文に関しては自民党が作成している憲法改正草案のQ&Aでも触れられていますのでその説明の部分も確認しておきましょう。

日本国憲法改正草案では、「新しい人権」(国家の保障責務の形で規定されている者を含む。)については、次のようなものを規定しています。

(1)※当サイト筆者省略
(2)※当サイト筆者省略
(3)環境保全の責務(25条の2)
国は、国民と協力して、環境の保全に努めなければならないこととしました。
(4)※当サイト筆者省略

なお、(2)から(4)までは、国を主語とした人権規定としています。これらの人権は、まだ個人の法律上の権利として主張するには熟していないことから、まず国の側の責務として規定することとしました。

※出典:日本国憲法改正草案Q&A|自民党 15頁を基に作成

Q&Aでは、「まず国の側の責務として規定することとしました」と述べていますが、「新しい人権」については、次のようなものを規定しています」と説明していますので、自民党はこの「環境保全の責務」の規定が外見的には「国の責務」の形式をとっているものの実質的には「新しい人権」として規定したものと理解していることがわかります。

では、こうして規定された「環境保全の責務」からは具体的にどのような問題を提起できるのでしょうか。検討してみましょう。

「環境保全の責務」を規定した自民党憲法改正草案第25条の2の問題点

このように、自民党憲法改正案の第25条の2は「環境保全の責務」を規定していますが、この規定からは次の2つの問題を指摘できると考えます。

(1)「環境権」を「人権」ではなく「国の責務」として規定したことで「国の裁量で環境を保全しないこと」が憲法で許されることになってしまう

この点、まず指摘できるのが、「環境権」を「人権(新しい人権)」としてではなく「国の責務」と規定したことで、「環境を保全しないこと」が許されてしまうという点です。

なぜなら、「環境を保全すべき責務」として憲法に規定してしまえば、その環境保全のための責務は努力義務にとどまるので、国が裁量で環境を保全しないことが憲法で許されることになるからです。

ア)「新しい人権」としての「環境権」とは

ところで「新しい人権」が何かがわからない人もいるかもしれませんのでその点を簡単に説明しておきましょう。

この点、ここで言う「新しい人権」とは、憲法には明文として規定されていないものの社会の変革にともなって保護に値すると考えられるようになった法的利益のことを言います。

日本国憲法には第3章第10条から基本的人権に関する規定を置いていますが、そこで規定された人権は歴史的に国家権力によって侵害されることの多かった重要な権利や自由を列挙したものに過ぎず、すべての人権を網羅的に揚げたものではありません(※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法」岩波書店118頁参照)。

そのため、憲法に明文の規定のなかった権利や自由などであっても、個人としての生存に不可欠な権利や自由として保護に値すると考えられる法的利益を「新しい人権」としてとらえ、具体的権利として保障する必要があると考えられているわけですが、その「新しい人権」の一つに「環境権」があります。

「環境権」が新しい人権として認知されるようになったのは、高度経済成長期における環境破壊が遠因としてあります。高度経済成長期には大気汚染や河川の汚染、公害なども多発しましたから「環境権」を新しい人権として認知し、それを人権として保障することで国民の健康被害を減らしていこうとの要請からその必要性が望まれるようになりました。

この「環境権」は、概念としては「健康で快適な生活を維持する条件としての良い環境を享受し、これを支配する権利」などと説明され、その対象は大気や水、日照など自然的な環境に限定する考え方と、公園や学校など文化的・社会的環境まで含める考え方で解釈が分かれますが、前者の自然的環境に限るとの考え方が多数説的見解として採用されているようです(※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法」岩波書店262~263頁参照)。

イ)「環境権」を規定するのなら基本的人権として規定すべき

このように、「環境権」は大気汚染や環境破壊などから国民の生命を守るために必要不可欠な基本的人権と認識されているわけですが、自民党はこれを「環境権」という”人権”としてではなく「国の責務」として25条の2に規定しています。

この点、自民党はQ&Aで「まだ個人の法律上の権利として主張するには熟していない」からあえて「国の責務」として規定したなどと述べていますが、高度経済成長期の環境破壊の頃からそうした権利の必要性は問われていて公害などによる人的被害も多く出ているのですから(例えば水俣病や四日市ぜんそくなど)、法律上の権利として主張するのに「熟していない」わけがありません。

また、諌早湾の干拓の問題や辺野古における新基地建設などで環境破壊が大きな議論を呼んでいますし、地球温暖化問題は世界的にも喫緊の環境課題として議論が急がれている状況があるわけですから、「人権として主張するには熟していない」などと呑気な事を言っている場合ではないでしょう。

こうした環境破壊の現状を踏まえれば、しっかりと「環境権」という基本的人権として憲法に明確に規定すべきなのです。

ウ)「人権」ではなく「国の責務」として規定すると努力義務にすぎなくなるので政府が保全すべき環境を恣意的に選別できてしまう

ではなぜ「人権」として規定しなければならないかというと、それは「国の責務」として規定しただけでは、環境を保全するか否かは国の努力義務にとどまってしまうからです。

自民党憲法改正案の第25条の2のように「国の責務」という形で憲法に規定してしまうと、その保全義務は単なる「努力義務」として留められてしまうため、国(政府)が「これは環境を保全するべきだ」と判断した部分だけが保全の対象とされ、そう判断されない部分は保全の対象から恣意的に排除されてしまいます。

つまり、「人権」としてではなく「国の責務」として規定してしまうと、その破壊される環境を保全すべきか否か、またその環境保全の程度は政府が判断できるので、国が裁量でその環境を保全する程度を判断すること自体が憲法で許されることになる結果、環境破壊がより酷くなる懸念が生じ、有効性に問題が出てしまうのです。

たとえば、辺野古の米軍基地新設ではサンゴなど自然環境の破壊が大きな議論を呼びましたが、こうしたケースで仮に「環境権」として憲法に規定があれば、人権侵害として工事をストップさせることもできますが、自民党案のような「国の責務」として規定しただけでは努力義務にとどまるので政府が「環境保全はこの程度で十分だ」と判断すれば、その政府の裁量が憲法で認められてしまうので、かえって環境破壊を止めることが出来なくなってしまうのです。

というよりも、おそらく自民党は、そうして環境を保全しなくても国の裁量として認める余地を憲法で根拠づけるために、わざわざ「国の責務」として憲法に規定したのでしょう。

「環境権」を規定するのであれば、しっかりと「環境権」という基本的人権として規定すべきであって、国側の裁量次第で恣意的に保全するかしないか判断できる余地を憲法で保障してしまう場合には、環境保全としては効果は少なく、その逆に環境破壊を深刻化させてしまう点で有害無益です。

環境保全を「人権」としてではなくあえて「国の責務」として規定した自民党憲法改正案の第25条の2は、国の裁量による環境破壊を憲法で保障することになってしまうわけですから、大きな問題があると言えるのです。

(2)「国民と協力して」と規定されたことで、国民に環境保全のための「協力が義務付けられる」危険性

次に指摘できるのが、条文に「国は、国民と協力して…その保全に努めなければならない」と規定されたことによって、国だけでなく「国民にも国と協力して」環境の保全に努めることが義務付けられてしまう点です。

A)「国は国民と協力して…努めなければならない」との規定は「国民は国と協力して…努めなければならない」と同義

上で引用したように、自民党憲法改正案の第25条の2は「国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。」と規定されていますから、この条文自体の名宛人は「国」なので環境を保全する義務を課せられるのは「国」であって「国民」ではありません。

しかし、「国は、国民と協力して」と規定されていますので、国が環境を保全しようとするときは、「国民と協力」しなければなりません。

そうすると、国が環境を保全しようとする場合に「国民と協力しないこと」が憲法違反となってしまいますから、環境を保全しようとする国から協力を求められれば、国民も必然的に協力しなければならなくなってしまいます。

仮に国民が「国と協力しない」と言いだせば、国が憲法第25条の2に違反することになって違憲状態に陥ってしまうからです。

ですから、条文には「国は…努めなければならない」と規定されていますが、実質的には「国民は…努めなければならない」と同義なわけです。

B)原発の事故処理を国民に強制することも憲法第25条の2で合憲となる

この点、具体的にどのようなケースで国民に「国と協力して」環境を保全する義務が課せられる懸念が生じるかというと、たとえば原発事故のようなケースです。

東日本大震災では福島の原発で大きな被害が生じ、今なお放射能汚染が深刻ですが、こうした環境破壊が生じている状態において、自民党憲法改正案の第25条の2が国民投票を通過したとなれば、国には「国民と協力して」その放射能汚染の除去に取り組むべき責務が課せられることになります。

もちろんそれは先ほど説明したように努力義務に過ぎないわけですが、政府がその汚染除去が必要だと判断すれば、政府は「国民と協力して」その放射能汚染の除去に努めなければならないわけです。

そうすると、先ほど説明したようにその場合の国は放射能汚染を除去するために「国民と協力」しなければならず「国民と協力せずに」放射能汚染を除去することが憲法違反になってしまいますから、その反射的効果として国民にも「国と協力して」放射能汚染を除去する作業に従事することが義務付けられることになってしまいます。

つまり自民党憲法改正案の第25条の2が国民投票を通過すれば、国(政府)が国民に放射能汚染の除去作業を義務付けても、それは憲法上の要請として認められることになるのです。

そうなると、自民党憲法改正案の下では、国は国民を放射能汚染の除去に強制的に駆り出すこともできるようになりますから、被爆しようが何しようが、国から指示されれば汚染地区に駆り出されて汚染作業を強制させられても、国民は拒否できなくなってしまうでしょう。

C)生存権は「公益及び公の秩序」で制限されるので国民は拒否できない

この点、憲法は第25条で生存権を保障していますから、自民党憲法改正案の第25条の2が国民投票を通過して国民に環境保全への協力が義務付けられるとしても、人体に有害な作業を強制すれば生存権の侵害として憲法違反となるので放射能汚染の除去に駆り出されるわけがない、と考える人もいるかもしれませんがそうはいきません。

自民党は憲法改正案の第12条で「公益及び公の秩序」を理由に基本的人権を制約することを許容しているからです。

この点は『自民党憲法改正案の問題点:第12条|人権保障に責務を強要』のページで詳しく解説していますのでここでは改めて触れませんが、自民党憲法改正案第12条は「公益及び公の秩序」の要請があれば国民の人権を制限することを認めていますので、放射能汚染の除去が「公益」にとって有益であると政府が判断すれば、それを国民に強制しても第25条2の「環境保全の責務」との合わせ技で憲法違反とは言えなくなってしまうのです。

もちろんこうした問題は原発事故の処理だけではありません。土砂災害や洪水、地震などの被害が出た場合なども、政府が望めばいくらでも「環境保全のため」という理由で国民は駆り出されることになるのです。

また、これは環境保全のための労働だけではありません。財産の提供なども「国と協力すること」が義務付けられることになりますから、たとえば国が環境保全のために必要だと考える土地が民間所有であった場合には、対価は支払われるでしょうが、国から譲渡の申し入れがあれば国民はそれを拒否できなくなってしまいます。

このように、「国民と協力して」と規定した改正案第25条の2は、国民にも「国と協力すること」を義務付けているだけでなく、環境保全を名目に国民を危険な環境保全作業に強制的に徴用することが可能で、国民の財産をも環境保全のために供出させることもできる構造にしている点で大きな問題があると言えるのです。

自民党憲法改正案の第25条の2は環境にも国民にも有害でしかない

以上で指摘したように、自民党憲法改正案第25条の2は国に対して「環境保全の責務」を課していますが、「環境権」という基本的人権として規定しなかったことから政府の裁量で環境を保全しないことが憲法で許されることになる結果、環境破壊が今まで以上に広がる危険を指摘できます。

また、条文が「国民と協力して」と規定されている反射的効果として国民にも「国と協力して」環境保全に努めることが義務付けられる結果、国民が危険な環境保護活動に駆り出されてしまう懸念もありますからその点でも大きな問題があると言えます。

自民党憲法改正案の第25条の2は、環境の保全を謳って新たに条文を設けましたが、こうした「エセ環境権」を規定してしまうと、それが憲法上の根拠となって国の裁量による環境破壊を誘発し、国民を環境保全に「協力させる」ことを法的に正当化させて国民の健康まで害される危険があります。

こうした規定は、自然環境にも国民にも有害無益なだけですから、その点を十分に考えて賛否を判断する必要があるでしょう。