広告

自民党憲法改正案の問題点:第36条|拷問と残虐な刑罰の容認

憲法改正に執拗に固執し続ける自民党が公開している憲法改正草案の問題点を一条ずつチェックしていくこのシリーズ。

今回は、「拷問及び残虐な刑罰の禁止」を規定した自民党憲法改正草案第36条の問題点を考えてみることにいたしましょう。

広告

拷問及び残虐な刑罰の禁止規定から「絶対に」を削除した自民党憲法改正草案第36条

現行憲法の第36条は公務員による拷問と残虐な刑罰を禁止する規定ですが、この規定は自民党憲法改正草案第36条にもそのまま引き継がれています。

もっとも、文章に変更がなされていますので注意が必要です。具体的にどのような変更がなされているのか、双方の条文を比較して確認してみましょう。

日本国憲法第36条

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

自民党憲法改正草案第36条

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

このように、自民党憲法改正草案第36条は、現行憲法が公務員による拷問と残虐な刑罰について「絶対に」禁止するとしているところから、その「絶対に」の部分をあえて外したところが異なります。

では、このように「絶対に」の文言を削除することは具体的にどのような問題を生じさせるのでしょうか。検討します。

自民党憲法改正草案第36条は「公益及び公の秩序」の要請があれば拷問も残虐な刑罰さえも許容する

この点、結論から言えば、自民党憲法改正案第36条が国民投票を通過すれば、公務員による拷問と残虐な刑罰が許容されるようになります。

なぜなら、自民党憲法改正案は第12条において「公益及び公の秩序」の要請があれば国民の人権を制限することを許容しているので、第36条から「絶対に」を削除したことで「例外的に」その公務員による拷問と残虐な刑罰を「公益及び公の秩序」の要請の下で許容することができるようになるからです。

(1)「絶対に」を削除すれば、例外的に公務員による拷問と残虐な刑罰を合憲とする解釈が成立することになる

先ほど引用したように、自民党憲法改正草案第36条は現行憲法の同条が公務員による拷問と残虐な刑罰を「絶対に」禁止するとしている部分から、その「絶対に」を削除して単に「禁止する」とだけ規定しています。

こうした変更がなされた場合、改正後の条文は公務員による拷問と残虐な刑罰を「例外的には認める」との解釈も成立するようになります。

なぜなら、法が改正された場合には、従前の規定からどの文言が除かれどのような文言が追加されたかという経緯も考慮して解釈しなければならないからです。

先ほど挙げたように、自民党憲法改正草案第36条は

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。

と規定されていますので、この文面だけを読めば文理的には公務員による拷問と残虐な刑罰は絶対的に禁止されると解釈することももちろん可能です。

しかし、「絶対に」という文言をあえて条文に置くことで絶対的に拷問と残虐な刑罰を禁止していた現行憲法の規定から、わざわざその「絶対に」の文言を削除したのであれば、その『自民党改正案がわざわざその「絶対に」の文言を削除した』という事実を無視することはできませんので、その『自民党改正案がわざわざその「絶対に」の文言を削除したのはなぜなのか』という点も考慮してその解釈を考えなければならなくなってしまいます。

そうすると、常識的に考えれば公務員による拷問と残虐な刑罰を「絶対に」は禁止しない趣旨で「絶対に」を削除したと考えるのが自然とも言えますから、改正後の憲法第36条は「例外的には公務員による拷問と残虐な刑罰を許容する」とする解釈も成立することになってしまいます。

つまり、この自民党憲法改正案第36条が国民投票を通過すれば、制憲権を持つ国民が、公務員による拷問と残虐な刑罰を「絶対に」は禁止しない趣旨で「絶対に」の文言を憲法第36条から削除したという解釈が成り立つようになってしまうので、政府は憲法第36条が公務員による拷問と残虐な刑罰を「例外的には許容する」趣旨であると解釈することもできるようになるわけです。

(2)自民党憲法改正草案の下では「公益及び公の秩序」の要請があれば例外的に公務員による拷問と残虐な刑罰も認められるようになる

このように、自民党憲法改正草案の第36条が国民投票を通過すれば、公務員による拷問と残虐な刑罰を「例外的には許容する」という解釈も違憲とは言えなくなりますから、仮に政府がそうした解釈をとることになれば、改正後の日本では公務員が拷問や残虐な刑罰を国民に科すことも「例外的には」認められるようになります。

この点、具体的にどのようなケースで国民に拷問や残虐な刑罰が科される可能性があるかという点に疑問が生じますが、たとえば「公益及び公の秩序」の要請があるようなケースが考えられます。

なぜなら、自民党憲法改正草案はその第12条で「公益及び公の秩序」の要請の下で国民の基本的人権を制約することを認めているからです。

憲法で保障される基本的人権は人間本来の目的である自由を確保し民主主義を実現していくために不可欠なものですから、国家権力がこれを制限することを認めるべきではありません。

しかし、個人は社会的関係の中で存在するものですから、その国民に保障される人権も無制約なものではなく、他者の人権との関係で制約が求められることはあり得ます。

そのため現行憲法の第12条は基本的人権が「公共の福祉」の要請によって制約され得ることを認めているのですが、自民党憲法改正案の第12条はこの「公共の福祉」の部分を「公益及び公の秩序」に変えています(※詳細は→自民党憲法改正案の問題点:第12条|人権保障に責務を強要)。

つまり、自民党憲法改正案が国民投票を通過すれば、国家権力が「公益及び公の秩序」の要請を根拠に国民の基本的人権を制約することも認められるようになるわけです。

しかし、「公益」とは「国の利益」、「国」とはその運営をゆだねられている「政府」のことであって「政府」を形成するのは政権与党、現状では自民党ということになりますから、「公益の要請があれば権利行使は制限され得る」という文章は「自民党の利益のためなら権利行使は制限され得る」という意味になってしまいます。

また、「公の秩序」とは「現在の一般社会で形成される秩序」という意味になりますが、その「現在の一般社会で形成される秩序」は現在に生きる多数派の一般市民によって形成され、その現在の多数派は自民党ということになりますので、「公の秩序の要請があれば基本的人権は制約され得る」との文章は「自民党の秩序のためなら基本的人権は制約され得る」という意味になってしまいます。

つまり、「公益及び公の秩序」という文章は「自民党の利益」及び「自民党の秩序」と同義なのです。

そうなると、憲法第36条が規定した「公務員による拷問と残虐な刑罰の禁止」もそうした刑罰等から国民の自由と生命を守るための「人身の自由」という基本的人権の一つなのですから、自民党憲法改正草案第36条が国民投票を通過すれば、その人権も「自民党の利益」や「自民党の秩序」の要請があれば政府(自民党)が自由に制限できるようになってしまいます。

つまり、自民党憲法改正草案第36条が国民投票を通過すれば、政府(自民党)が「自民党の利益」や「自民党の秩序」の要請があると判断する限りにおいて、国民に対して公務員による拷問や残虐な刑罰を加えることもできるようになるわけです。

そうなれば、たとえばアメリカ軍がキューバのグアンタナモに設置した収容所においてCIA(アメリカ中央情報局)が拘束した容疑者に対して実施した拷問を用いた非人道的な尋問なども、政府(自民党)が「公益及び公の秩序のために必要だ」と判断すれば、この日本において”法的に”許されることになってしまいます。

自民党憲法改正案は第9条で自衛権を明記し、第9条の2で国防軍を明記することで戦争ができる国にしていますが(※自民党憲法改正案の問題点:第9条|自衛の為なら戦争できる国に、※自民党憲法改正案の問題点:第9条の2|歯止めのない国防軍)、そうして可能になった戦争で拘束した”敵国”の兵士や国民を拘束して拷問や残虐な刑罰を加えることも、憲法で許されることになるのです。

もちろん、こうした拷問や残虐な刑罰は日本が戦争する”敵国”の国民だけが対象となるのではありませんから、日本国民に対しても同様にそれは許容されることになるのは当然です。

政府(自民党)が「自民党の利益」や「自民党の秩序」のために必要だと判断しさえすればそれは「公益及び公の秩序」の要請となってしまいますから、たとえば自民党を批判する言動を繰り返す国民を拘束したような場合にも、政府(自民党)が「公益及び公の秩序のために必要だ」と判断するだけで、その拘束した国民を拷問に掛けたり、残虐な刑罰を科すこともできるようになってしまうのです。

自民党憲法改正草案第36条は公務員が拷問と残虐な刑罰をできるようにするための規定

以上で説明したように、自民党憲法改正草案第36条は現行憲法の同条から「絶対に」の文言を削除することで公務員が例外的に拷問や残虐な刑罰をできるような構造にしている点が大きな特徴です。

具体的には、仮に自民党憲法改正草案第36条が国民投票を通過するようなことがあれば、「公益及び公の秩序」の要請の下で「自民党の利益」や「自民党の秩序」のために、国民や外国人に拷問や残虐な刑罰を加えることもできるようになるわけです。

こうした拷問や残虐な刑罰を可能にしなければならない理由がどこにあるのか、拷問や残虐な刑罰を許容しなければならない必要性が存在しうるものなのか、国民は十分に考える必要があるでしょう。