憲法改正の議論になると「オーストラリアでも戦後に5回も憲法が改正されてるんだから日本で一度も改正されてないのはおかしい!」と主張して日本における憲法改正を正当化する人が必ずと言っていいほど出現します。
オーストラリアでは戦後に5回にわたって憲法が改正された事実がありますので、その事実だけをとらえて「外国は何回も改正してるから日本も憲法を改正すべきだ」という理屈です。
しかし、この主張には到底同意できません。
なぜなら、確かにオーストラリアでは戦後、憲法が5回にわたって改正されている事実がありますが、その内容は「統治機構(日本でいえば国会・内閣・裁判所・地方自治といった国の統治に関する機関のこと)」に関する細かな修正と、これまで差別されてきた先住民(アボリジニ)の権利拡充の必要性からなされた改正であって、自民党が予定しているような「国民主権」「基本的人権」「平和主義(9条)」という憲法の基本原則にかかる改正とはその性質がまったく異なるからです。
オーストラリアにおける5回の憲法改正のうち3回は「統治機構」に関する細かな修正
オーストラリアで戦後(1945年以降)具体的にどのような内容の憲法改正が行われたのかという点は、国会図書館が作成しウェブ上でも公開している「諸外国における戦後の憲法改正(第5版)」に詳しく挙げられています。
この点、この「諸外国における戦後の憲法改正(第5版)」を確認すると、オーストラリアでは以下のような改正を経て現在に至っているのがわかります。
【戦後(1945年以降)のオーストラリアにおける憲法改正の状況】
- 連邦議会の立法権限への各種社会福祉事業の追加(1946年改正)
- 先住民に対する差別的規定の廃止(1967年改正)
- 上院の欠員補充(1977年改正)
- 裁判官の退職規定の追加(1977年改正)
- 特別地域の有権者への憲法改正投票権の付与(1977年改正)
※出典:国会図書館作成:諸外国における戦後の憲法改正(第5版)(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10249597_po_0932.pdf?contentNo=1&alternativeNo=)10頁を基に作成。
自民党が予定しているのは「国民主権」「基本的人権」「平和主義」という「国の原則」を変更する憲法改正
以上のように、オーストラリアでは戦後(1945年以降)5回の憲法改正が行われていますが、1967年の「先住民に対する差別的規定の廃止」を除く4回は「統治機構」に関する部分の修正(追加)にすぎません。
しかし、今の日本で自民党を中心とした与党が目指しているのは「統治機構」の部分にとどまらない、「国民主権」「基本的人権」「平和主義(憲法9条)」という「国の原則」を「後退(制限ないし縮小)」させることを目的とした改正です。
自民党が予定している憲法改正についての具体的な内容については自民党がウェブ上で公開している憲法改正案(日本国憲法改正草案(平成24年4月27日(決定))|自由民主党憲法改正推進本部)を見てもらえばわかりますが、その内容はほぼ全てが「国民主権」や「基本的人権」「平和主義」という憲法の三原則を後退(縮小ないし制限)するものになっています。
たとえば、現行憲法では日本国の元首は内閣総理大臣と解釈されますが(芦部信喜「憲法(第六版)」47~48頁参照(※参考文献))自民党の憲法改正案では「天皇」を元首とするものとされていますので(自民党改正案第1条参照)、その点で国民主権が後退(ないし制限)を加えられる余地が生じます(※この点の詳細は『憲法を改正すると国民主権が後退してしまう理由』のページで詳しく論じています)。
また、たとえば現行憲法では「基本的人権」は「公共の福祉」に反して濫用することが禁止されているだけですが(日本国憲法12条)、自民党の改正案では「公益及び公の秩序」に反して濫用することが禁じられるものに変更されていますので、「公益(国の利益)」すなわち政権与党(つまり自民党)の不利になる言論や表現も政府の権限によって自由に制限がかけられることになってしまいます(自民党改正案12条参照)。
もちろん、メディアが盛んに取り上げている憲法9条の改正も、それが自衛隊を明記するものであれ、国防軍を明記するものであれ、9条2項を削除するものであれ、自衛戦争をも放棄した現行憲法から自衛戦争を許容する憲法に改正することになる点を考えれば、国家権力に掛けられた制限を緩和する点で「平和主義の後退」といえるでしょう。
このように、政府が憲法改正案として公表している自民党が作成した憲法草案では、憲法の「統治機構」の部分にとどまらず「基本的人権の尊重」や「国民主権」「平和主義」といった国の根幹(日本国憲法の三原則)に関わる条項までも改正しようとしているわけで、「統治機構」の部分だけを改正したオーストラリアとはそもそも事情が異なります。
ですから、オーストラリアにおいて「統治機構」に関する憲法の改正が行われていることは、日本における「基本的人権」や「国民主権」「平和主義」など憲法の三原則を含む憲法改正を正当化させる根拠とはならないといえるのです。
「先住民の差別規定の削除」はそもそも日本では必要ない
なお、オーストラリアでは1967年に「先住民(アボリジニ)に対する差別的規定の廃止」という人権に関する憲法改正が行われていますので、この改正の事実を理由に「オーストラリアでは憲法の人権規定が改正された事実があるんだから日本も憲法の人権規定を改正してもいいんだ」と言う理屈も一応は成立することになります。
しかし、これも日本の憲法改正を正当化する理由にはなり得ません。
なぜなら、日本ではそもそも憲法上に先住民を差別する規定は存在しませんし、仮に国内で先住民の権利が侵害されている事実があったとしても、憲法14条で「法の下の平等」が保障されている以上、それは憲法ではなく「立法(法律)」や「行政」の問題であって憲法改正の議論には一切つながらないからです。
このオーストラリアにおける1967年改正の「先住民(アボリジニ)に対する差別的規定の廃止」とは、具体的には連邦議会の特別法の制定対象から先住民を除外する規程と人口算定にあたり先住民を除外する規定を削除した改正になりますが(※国会図書館作成「諸外国における戦後の憲法改正(第5版)」10頁参照)、これはオーストラリアが第二次大戦で戦勝国であったがゆえに戦前の憲法がそのまま継続して運用されていたため、従前から規定のあった先住民の差別規定を削除する要請に迫られて改正が行われたにすぎません。
しかし、戦後に近代的な思想を多く受け入れて作成された日本の憲法では、その先進性ゆえにそもそもそのような差別規定はもともと存在しませんし、日本ではそもそも憲法14条において全ての国民に「法の下の平等」が確保されていますから、仮に国内における先住民(たとえばアイヌの人とか)や移民(帰化した人)に「不平等」が生じていたとしても、それは「立法(法律)」や「行政」の問題になり、その是正は「憲法」ではなく「法律(立法)」や「行政」に委ねられることになります。
すなわち、オーストラリアにおける1967年の憲法改正はオーストラリア固有の事情によるものであって、事情の異なる日本の憲法改正議論とは全く性質が異なるものですから、日本の憲法改正を正当化する理由にはなり得ないのです。
ですから、その点でもやはりオーストラリアの憲法改正の事実は日本の憲法改正議論においてそもそも比較対象にはなりえないわけですから、「オーストラリアでは5回も憲法が改正されてるんだから日本も改正するべきだ」という主張は「詭弁」以外の何物でもないといえるのです。