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日本国憲法の平和主義は他国の平和主義とどこが違うのか

日本国憲法の基本原理は「国民主権」「基本的人権の尊重」と「平和主義」の3つ(いわゆる憲法の三原則)と言われています。

このうち「平和主義」については、それを具現化する憲法9条で「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権の否認」の3つが規定されていることから、世界でも類を見ない日本独自の「平和主義」だと言われることもあります。

しかし、憲法で「戦争を放棄」し、その基本原理として「平和主義」を採用しているのは何も日本だけではありません。

ドイツやフランス、イタリアや韓国などの憲法にも日本と同じように戦争放棄条項が置かれていますし、1928年に採択されたパリ不戦条約や1945年に採択された国連憲章などにも同様に紛争の平和的解決が謳われていますから(※芦部信喜著 高橋和之補訂 憲法(第6版)岩波書店54頁参照)、すべての国連加盟国では「戦争放棄」と「平和主義」に立脚して国の安全保障を確保することが義務付けられているといえます。

では、日本国憲法の「平和主義」と世界各国の「平和主義」とでは、具体的にどこが異なるのでしょうか。

日本国憲法の「平和主義」の神髄がどこにあるのか、問題となります。

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世界の「平和主義」は「自衛戦争」を許容する平和主義

先ほど述べたように、世界にも「戦争放棄」を規定して「平和主義」を憲法の基本原理として採用している国は多くありますし、国連憲章などでも「戦争の放棄」や「平和的手段による紛争の解決」が義務付けられていますから、これらの事実を踏まえれば国連に加盟するすべての国が「戦争放棄」の理念を採用し「平和主義」に立脚して国の安全保障を確保する国家運営を行っているとも思えます。

しかし、これらの平和主義を採用する国で放棄されたのはあくまでも「侵略戦争」だけであって「自衛戦争」までもが放棄されているわけではありません。

つまり、これらの国々は「戦争」を放棄して「平和主義」に立脚してはいますが、自衛権の行使としての自衛戦争は一切放棄していないのです。

これは、国連憲章を見ても分かります。国連憲章では、第1条で平和の維持と平和的手段による紛争解決を、また第33条1項でも紛争の平和的解決を加盟国に義務付けていますから、国連に加盟するすべての国々は「平和主義」に立脚して国の安全保障を確立させることを求められているといえます。

【国連憲章第1条(目的)第1項】

国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。

【国連憲章第33条(紛争の平和的解決)1項】

いかなる紛争でも継続が国際の平和及び安全の維持を危うくする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。

※出典:国連憲章テキスト | 国連広報センターを基に作成

しかし、その一方で国連憲章には第51条で加盟国に個別的自衛権の行使や集団的自衛権の行使を容認する規定が置かれています。

【国連憲章第51条】

この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

※出典:国連憲章テキスト | 国連広報センターを基に作成

ですから、国連加盟国には「侵略戦争」が禁じられることになりますが、他国から攻撃を受けた場合の自衛権の行使としての武力行使、すなわち「自衛のための戦争」は許容されていると言えます。

つまり、世界の国々の採用した平和主義は「侵略戦争を放棄しただけ」で「自衛戦争は許容する」平和主義と言えるのです。

日本の「平和主義」は「自衛戦争をも放棄」する平和主義

これに対して日本の平和主義は「自衛戦争をも」放棄しているところにその特徴があります。

憲法9条で放棄された自衛戦争

憲法9条の戦争放棄規定が「侵略戦争」だけを放棄したものなのか「自衛戦争をも」放棄したものなのかという点には解釈に争いがある部分もありますが、通説的見解では憲法9条の戦争放棄は「自衛戦争も放棄している」ものと解釈されています。

【日本国憲法9条】

第1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

条文上の文言からすれば憲法9条の1項では侵略戦争だけが放棄され自衛戦争は放棄されていないと考えられますが、9条2項で陸海空軍その他の戦力の保持が禁止されたうえ交戦権も放棄されていますので、戦力も交戦権も否定されれば事実上「戦争」自体ができません。

ですからたとえ1項で放棄されたのが「侵略戦争」に限られているとしても結局は2項で「自衛戦争も放棄されている」と考えるのが憲法9条の解釈として妥当です。そのため憲法学の世界では「憲法9条は自衛戦争も放棄している」という解釈が通説的な見解として採用されているのです (※詳細は→憲法9条の「戦争放棄」解釈における3つの学説の違いとは?) 。

もちろんこの解釈は憲法学の世界だけの解釈ではありません。日本政府の見解も従来からこの「9条2項で自衛戦争も放棄されている」という解釈に変わりありません 。

この点、なぜ現在の日本で自衛隊の運用が認められているのかという点に疑問を持つ人もいるかもしれませんが、自衛隊が認められているのは、歴代の政府が自衛隊の戦力を憲法9条2項の”戦力”ではなく「自衛のための必要最小限度の実力」と解釈しているからです。

自衛隊は戦闘機や戦車やイージス艦といった世界の常識からすれば軍隊に紛れもない戦力を保有していますが、これらの戦力が「9条2項の戦力」ではなく「必要最小限度の実力」であれば、たとえ戦闘機からミサイルを投下しても戦車から砲弾を発射してもその戦力の行使は「必要最小限度の実力の行使」となり「9条2項の戦力の行使」にはなりません。

つまり自衛隊の戦力は「9条2項の戦力」ではなく「必要最小限度の実力」なので自衛のための戦力行使は「自衛戦争」ではなく「自衛のための必要最小限度の実力の行使」にしかならないので憲法上「違憲ではない」と言えます。これが歴代の政府が取ってきた自衛隊の解釈です。

もちろんこの理屈は常識的に考えればただの「屁理屈」に過ぎないので裁判になれば明らかに「違憲」判決が出るはずなのですが、裁判所は意図的に自衛隊の違憲性の判断を避け続けていますし(長沼事件:札幌高裁昭和51年8月5日、最高裁昭和57年9月9日 :憲法判例百選Ⅱ有斐閣参照)、理屈としてもいちおう筋が通っているので今のところは憲法上「違憲とは判断されていない」として自衛隊の運用が認められているということになります。

憲法前文で放棄された自衛戦争

このように、憲法9条の解釈から日本国憲法の「平和主義」が自衛戦争をも放棄していることは明らかと言えますが、この解釈は憲法9条からだけ導かれるわけではありません。

憲法の9条は憲法の前文で宣言された平和主義思想を具現化するための規定ですから、憲法前文の文章からもこの「自衛戦争の放棄」の思想は読み解くことができます。

具体的には、憲法前文の前半部分の文章がそれにあたります。

【日本国憲法:前文※前半部分のみ抜粋】

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(以下省略)

憲法前文の前半部分では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…」とありますから、日本国憲法の「平和主義」が満州事変から対中、対米戦争へと戦火を拡大した太平洋戦争(第二次世界大戦・大東亜戦争とも呼ばれます)の反省をその基礎に置いているのは明らかでしょう。

そしてそれらの侵略戦争は、ソ連(ロシア)やアメリカの脅威に対抗するためという大義名分によって始められ「自衛戦争」の名の下に行われたものでしたから、当時の日本人は「自衛戦争」という大本営発表に踊らされて多大な犠牲を強いられたとも言えます。

つまり現行憲法を制定した80年前の日本人は、過去の戦争が「自衛戦争」の名の下に行われ多大な代償を払わされたことへの反省から自衛戦争をも放棄する文章を憲法前文に挿入し、それを具現化する規定として9条に戦争放棄と戦力不保持、交戦権否認の条項を制定したと言えるわけです。

なお、この点は明治憲法の改正案として帝国議会の衆議院に憲法草案を提出した当時の吉田茂の国会答弁でも同様に説明されています。

【昭和21年6月26日衆議院本会議における吉田茂首相の答弁より引用】

「次に自衛権に付ての御尋ねであります、戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります、従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります、満洲事変然り、大東亜戦争亦然りであります、今日我が国に対する疑惑は、日本は好戦国である、何時再軍備をなして復讐戦をして世界の平和を脅かさないとも分らないと云うことが、日本に対する大なる疑惑であり、又誤解であります、先ず此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思うのであります、又此の疑惑は誤解であるとは申しながら、全然根底のない疑惑とも言われない節が、既往の歴史を考えて見ますると、多々あるのであります、故に我が国に於ては如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依って全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意を先ず此の憲法に於て表明したいと思うのであります(拍手)」

※出典:衆議院本会議 昭和21年6月26日(第6号)|衆議院憲法審査会を基に作成(※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています)

吉田は、1946年6月26日の衆議院本会議でこのように答弁し、過去の日本が自衛戦争の名の下に侵略戦争を繰り返す好戦国家であると世界から認識され、そう思われても仕方ない事情が過去の日本にあったことを認めたうえで憲法9条で「自衛戦争をも放棄」することが必要になった旨説明し国会の承諾を得ています。

ですから、憲法9条が自衛戦争の名の下に侵略戦争を繰り返した過去の反省を基礎において「自衛戦争をも放棄」することになったことは明らかと言えるのです。

「自衛戦争をも放棄」して国民の安全保障を図るのが日本国憲法の平和主義

このように、現行憲法を制定した当時の日本は、過去に日本が自衛戦争の名の下に侵略戦争を繰り返したと世界から認識されてきた事情があり、その疑惑を払しょくする必要があったこと、また当時の国民が自衛戦争の名の下に行われた戦争によって多大な犠牲を強いられたことへの反省と世界最初の平和国家となって世界を先導する理念から自営戦争をも放棄する憲法の平和主義思想と憲法9条の戦争放棄規定にたどり着いたことが分かります。

ですから、日本における平和主義が「自衛戦争をも放棄している」のに対して、他国の平和主義は「侵略戦争しか放棄していない」というところに違いがあるといえます。つまり、日本は侵略戦争だけでなく自衛戦争もすることができませんが、諸外国は侵略戦争が禁止されているだけで自衛のための戦争はいくらでもできるという点が大きく異なるわけです。

ところで、この自衛戦争をすることができるかできないかという点は当然、国の安全保障施策にも違いを生じさせます。

諸外国では「自衛戦争」は放棄されていないので自衛戦争を行うための軍事力の保有や交戦権(個別的自衛権・集団的自衛権の行使)が認められる結果、国の安全保障は軍事力という武力によって確保されるのが基本ですが、日本では自衛戦争が放棄されているので(軍事力)によって国の安全保障を確保することができないからです。

では、日本が具体的にどのように国の安全保障を考えているかと言うと、日本国憲法では国の安全保障は外交や国際的な提言などによって確保することを要請しています。

憲法の前文では、以下のように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べられていますので、日本国憲法が国際社会と信頼関係を築き、その国際社会との協調関係のうえで国家間の紛争解決を求めていることが分かります。

【日本国憲法:前文】

…(中略)…日本国民は…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて…(以下省略)

また、その文章の後には「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と述べるだけでなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」と述べて「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」とも宣言していますから、憲法が、日本の安全保障のために日本だけでなく、世界の国民が紛争や貧困から免れることをも要請していると言えます。

ではなぜ日本の憲法が日本国民だけでなく他国の国民が紛争や貧困から免れることまで要請しているかというと、それが日本の安全保障に最大の効果を及ぼすと考えられているからです。

世界の国で生じる紛争はおしなべて「専制と隷従、圧迫と偏狭」また「恐怖と欠乏」に由来する対立が発端となりますから、世界から紛争の種となるそれらをなくすことに尽力してゆけば、そもそも「日本を侵略しよう」「日本を武力(軍事力)で攻撃しよう」と考える国を無すことで戦争の種になる危険を未然に防ぐことができるかもしれません。だからこそ日本の憲法は世界のすべての国から紛争や貧困から無くす努力をすることを要請しているのです。

つまり、日本国憲法は国際的に中立的な立場から諸外国と信頼関係を築き、国際社会に向けた積極的な平和構想のための提示や紛争解決の為の提言、また貧困解消のための援助や協力など能動的な外交努力を重ねて世界平和の実現のために尽力することの中に日本の平和が実現できるという確信を基礎にしているわけです。

明治憲法(大日本帝国憲法)では「他国が攻めてきたらどう反撃して国を守るか」という「対症療法」的な視点から国の安全保障を考えていたものが、日本国憲法では「他国から攻めてこられないような国にするにはどうすればよいか」「他国が攻めてこようと思わない国にするにはどうすればよいか」という「原因療法的」な視点から国民の安全保障を考え、諸外国と信頼関係を築いたうえで、中立的な立場から積極的な外交努力を重ねることで日本だけでなく世界の平和実現のための努力を続けることの中に日本の安全保障を確立しようとするところに大きな特徴があるといえます。

ちなみに、この点は吉田茂も帝国議会で同じように説明していて、自衛戦争は侵略戦争があることを前提としなければならないので自衛戦争を認めること自体が侵略戦争を認めることにつながり有害無益とさえ言いきっていますので、自衛戦争を放棄するだけでなく軍備を撤廃し交戦権も否定して平和外交に徹するのが国家の安全保障のために最善最適な策だと考えていたことが分かると思います。

【昭和21年6月28日衆議院本会議における吉田茂首相の答弁部分より引用】

「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります(拍手)近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行はれたることは顕著なる事実であります、故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります、又交戦権抛棄に関する草案の条項の期する所は、国際平和団体の樹立にあるのであります、国際平和団体の樹立に依って、凡ゆる侵略を目的とする戦争を防止しようとするのであります、併しながら正当防衛に依る戦争が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならぬのであります、故に正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むると云うことは、偶々戦争を誘発する有害な考えであるのみならず、若し平和団体が、国際団体が樹立された場合に於きましては、正当防衛権を認むると云うことそれ自身が有害であると思うのであります、御意見の如きは有害無益の議論と私は考えます(拍手)」

※出典:衆議院本会議 昭和21年6月28日(第8号)|衆議院憲法審査会を基に作成(※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています)

日本国憲法の平和主義は他国の平和主義とどこが違うのか

以上のように、諸外国が単に侵略戦争だけを放棄して自衛戦争を放棄していないのに対して、日本は「自衛戦争をも」放棄している点がその平和主義思想の大きな違いと言えます。

また、諸外国では国家の安全保障がもっぱら軍事力という武力の行使に委ねられているのに対して、日本では諸外国と信頼関係を築くことで平和的な外交手段によってのみ国の安全保障を確保することが求められている点も大きな違いといえるでしょう。

そして、日本の平和主義の最も特異な点は、日本の安全保障だけでなく、世界の安全保障を確保することも求めていて、その世界平和の実現のために尽力することの中に日本の安全が確保できるという信念に基礎づけられているところに最も表れています。

先ほども述べたように、日本の憲法は世界から紛争と貧困の種を除去する努力を重ねることが日本の安全保障にとって最大の効果があり、そのためには戦力の保持や交戦権を認めること自体が有害無益という確信に基礎が置かれていますので、9条で自衛戦争を放棄するだけでなく、戦力の不保持を宣言し、交戦権も明確に否定していると言えるのです。