憲法が時代に合っていない…時代に合わせて…が詭弁と言える理由

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憲法9条の改正に賛成する人の中に「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」と主張して憲法改正を正当化する人が多くいます。

憲法は「国家権力」が暴走しないようその権力の行使を制限し「歯止め」をかけるものですが、時代が変化して国家権力の行使を必要とする場面が増えれば、かえってその「歯止め」が邪魔になり国民が不利益を受けてしまうことになりかねません。

そのため、憲法制定当初と現在を比較して現在の方が「国家権力の行使の必要性が増している」と考える人の一部では、「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」と主張して憲法の改正を積極的に推し進めようとしているのです。

しかし、このような「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」とか「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」といった主張は、憲法の改正を正当化する根拠として主張する場合には、端的に言って「詭弁」の域を出ない噴飯ものの屁理屈といえます。

なぜなら、「憲法は時代に合わせて変えるべき」「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」という主張は憲法改正に賛成する人の多くが憲法改正の根拠とする「押しつけ憲法論」と整合性を持ちませんし、憲法制定当時と現在の世界情勢を冷静に比較すれば「国家権力行使の必要性」が増しているどころかむしろその必要性は減少しているといえるからです。

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「憲法は時代に合わせて…」「時代に合っていない憲法は…」という主張は彼らの主張する「押し付け憲法論」と矛盾する

先ほど述べたように、憲法改正に賛成する人の中に「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」とか「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」などという主張を展開して、憲法改正の必要性を正当化しようとしている人が多くいます。

この「憲法は時代に合わせて変えるべき」「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」という主張は、憲法が制定された当時の社会情勢や世界情勢と現在の社会情勢や世界情勢を比較して「憲法が時代に合っていない」から憲法を改正しろと言っていることになりますが、そうであれば憲法が「制定された当時は時代に合っていた」と考えていることが前提となります。

憲法が「制定された当時から時代に合っていなかった」と考えているのであれば、社会情勢や世界情勢などによる時代の変化があろうとなかろうと「時代の変化の有無にかかわらず憲法は改正すべき」と主張しなければならないからです。

ですから、「憲法は時代に合わせて変えるべき」「時代に合っていない憲法は改正すべき」と主張する人達は、現行憲法が施行された1947年(昭和22年)5月3日の当時は憲法は「時代に合っていた」けれども、時代の経過とともに社会情勢や世界情勢が変化したから「時代に合わせて変えるべきだ」と主張していることになるわけです。

しかし、そうであれば、憲法改正を積極的に推し進める政治家や(自称)知識人らがよく主張している「押しつけ憲法論」と整合性がとれません。

「押しつけ憲法論」とは、現行憲法が連合国軍総司令部のGHQが作成したGHQ草案の影響を受けていることや当時の日本が事実上軍事的に連合軍に占領されていたことを根拠にして「現行憲法はアメリカ(または占領軍)に押し付けられた」と解釈して憲法の正当性を否定する理屈のことを言いますが、この「押しつけ憲法論」は現行憲法が「制定された当時における憲法の正当性そのもの」を否定していますので、この「押し付け憲法論」を主張する限り憲法制定当時の憲法を肯定することはできないからです。

「押しつけ憲法論」では、アメリカや連合国に憲法を「押し付けられた」ことをもって憲法の正当性を否定しその改正の必要性を正当化しようとしますから、「憲法制定当時にその憲法が時代に合っていた」ことを認めてしまうと自己矛盾に陥ってしまいます。

ですから、「押しつけ憲法論」を主張する限り「制定当時にその憲法が時代に合っていた」ことが前提となる「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「時代に合っていない憲法は改正すべき」などという理屈は到底認められるものではないのです。

そうであれば「憲法は時代に合わせて変えるべき」「時代に合っていない憲法は改正すべき」と主張して憲法改正を正当化しようとする人は「現行憲法はアメリカに押し付けられたものだから改正すべきだ」と主張することはできませんし、またその逆に「現行憲法はアメリカに押し付けられたものだ」と主張して憲法改正を正当化しようとする人も「時代に合わなくなった憲法は変えるべき」とは口が裂けても言えないはずです。

しかし、憲法の改正を積極的に推し進めている政治家や(自称)知識人、タレントやそれに無批判的に迎合している人たちは、その矛盾に気付くこともなく「現行憲法はアメリカに押し付けられたものだ」といいながら「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」とか「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」などと口をそろえて主張しているわけですから、呆れるほかありません。

もっとも、この「押しつけ憲法論」は、ポツダム宣言を受諾した以上民主的新憲法の制定が不可欠であったことや現行憲法が帝国議会で圧倒的多数の賛成をもって可決されていること、極東委員会から再検討する機会を与えられながらそれをしなかったこと、施行されて以降憲法の基本原理が国民に定着しているという事実があることなどの理由から、憲法学の世界では否定的に解釈されていますし(芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第6版)」27~29頁参照)、衆議院の憲法審査会でも「日本国民の意思も部分的に織り込まれたうえで、制定された憲法であるということも否定できない」と結論付けていますので(「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院23頁参照)、憲法をまともに学習した人からすれば「押しつけ憲法論」を主張すること自体が噴飯ものといえます。

憲法制定当時と比較して今の方が国家権力行使の要請は格段に低い

先ほど述べたように、憲法は「国家権力」が暴走しないようその権力の行使を制限し「歯止め」をかけるものですから、憲法改正に賛成する人たちは憲法にかけられた「歯止め」を緩めようとしていることになります。

つまり、憲法の改正に賛成している人達は、憲法制定当初と現在を比較して現在の方が「国家権力の行使の必要性が増している」と考えているからこそ、その憲法にかけられた「歯止め」を緩めるために「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」「時代に合っていない憲法は改正すべきだ」と主張して憲法の改正を積極的に推し進めようとしているわけです。

では、本当に彼らが言うように、憲法制定当初と現在を比較して現在の方が「国家権力の行使の必要性が増している」といえる事実があるのでしょうか?

憲法制定当初と現在を比較して「国家権力行使の要請が増している」という事実が存在しなければ、そもそも国家権力にかけられた「歯止め」を緩めるために憲法を改正する必要性自体が生じないと考えられるため問題となります。

(1)インターネットの普及で生じたグローバル化によって国家による権力行使の要請は相対的に減少している

憲法制定当時(1947年)と比較して大きく変わっているのは、おそらくインターネットが普及した点にあるでしょう。

2000年代に入って世界に普及したインターネット環境は、国境を越えて個人が直接つながることでグローバル化を急速に加速させてきました。

世界に広がるグローバル化の波は、国家を経由せず個人が直接トレードを行うことによって収入の世界的な均衡化を加速させますが、仮想通貨の普及が進めば今後もより一層その波は高くなるでしょう。

また、2011年にチュニジアから北アフリカ・中東各国に広がったジャスミン革命(アラブの春)は、国家権力による情報統制や抑圧がSNSなどを駆使した個人間の情報拡散能力には到底あらがえないことを証明しました。

2000年代に入って暴露されるようになったウィキリークスやパナマ文書などの情報も、インターネットが普及したことによって爆発的に世界に拡散され、国家権力やそれに帰属する権力者またはそのおこぼれにあずかろうとする一部の支配者層の権力行使を制限しています。

これらの事実を踏まえれば、インターネットの普及は国家権力の行使を抑制する方向で影響を与えていると言えるでしょう。

ネット環境は、国家間の垣根を越えて個人の間でヒト(情報)・モノ・カネのトレードを可能にするツールなのですから、ネット環境が充実すればするほど国家の役割やその要請は相対的に低くなると言えるのです。

(2)世界の紛争は国家間の戦争から民族や宗教に関する紛争にシフトしている

世界で生じる戦争も、憲法制定当時(1947年)と比較して大きく様変わりしました。

先の戦争が終結した1945年以降も、朝鮮戦争やベトナム戦争、イランイラク戦争や中東戦争、あるいはフォークランド紛争やキューバ危機など、冷戦構造や国家間の対立軸を中心にした国と国との戦争が生じていますが、ソ連が崩壊し冷戦が終結した1990~91年以降は国家間の戦争というよりも民族や宗教、イデオロギーなど国家とは違ったカテゴリーにおける国家との対立軸において紛争が生じるようになってきているからです。

冷戦終結以降に生じたユーゴスラビアやアフリカ諸国、シリアなどでの内戦、イスラム過激派による世界的なテロ、あるいは先ほど挙げたアラブの春に関連するチュニジアやエジプト、リビアなどでの革命は、いずれも国家間の戦争ではなく、これまで国を支配してきた国家権力に対して民族や宗教、イデオロギーを中心とした個人が「NO」を突き付けたことによる紛争といえます。

このような紛争に対しては、国家を中心とした国の安全保障施策は有効に機能しません。民族や宗教、イデオロギーは、国家権力が支配できる国境を越えて存在しますので、国家権力の行使をいくら強化しても、その反抗を抑止することはできないからです。

つまり、冷戦構造が終結した世界では、国家権力にかけられた「歯止め」を緩めることでその権限を強化し国と国との対立軸を中心に国の安全保障を確保するという要請は以前よりも格段に低くなっていて、そのような国家や国境という「国」の安全保障ではなく、民族や宗教、イデオロギーといった「個人」を中心に国民の安全保障を確保することが求められていると言えるのです。

(3)日本の安全保障も武力(軍事力)を用いた国家権力の行使拡大は求められていない

このように、世界的に考えれば、国家権力行使の要請は、終戦直後の1945年当時または冷戦が終結する前と比較して各段に低くなっているということが言えます。

つまり、今の世界では、国家権力にかけられた「歯止め」を緩めるよりも、むしろその「歯止め」を強化することで「個人」の自由や権利を拡大させる方向にシフトしている、もしくはその「歯止め」をできるだけ強化することを求めて「個人」が「国家権力」と必死に闘っているということが言えるのです。

ところで、憲法改正に賛成する人たちの多くは、憲法9条を改正して「国防軍(または自衛隊)」や「交戦権(自衛権)」を憲法に明記することを求めていますが、それらは国の安全保障に関連して「武力(軍事力)」を用いた国家権力の行使を積極的に要請するものであるといえます。

憲法に国防軍や交戦権を明記するのは、国の安全保障を確保するための手段として国家権力に国防軍や交戦権という「武力(軍事力)」を与えるものだからです。

「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」と主張して憲法9条を改正するよう要求している人たちは、世界では国家権力の行使の要請が低くなっているにも関わらず、日本ではその逆に国家権力の行使の要請が高くなっていると考えているからこそ、国家権力にかけられた「歯止め」を緩めて憲法9条を改正し国防軍や交戦権といった「武力(軍事力)」を国家権力に与えようとしているわけです。

では、日本の安全保障は終戦直後と比較して本当に「武力(軍事力)」を用いた国家権力の行使の要請が高くなっていると言えるのでしょうか?

この点、ロシアとの関係では北方領土問題は依然解決していませんし、尖閣諸島では中国の影響力が増しているということもできますから、この日本国という「国」においてロシアや中国という「国」との対立軸における安全保障の重要性が高まっている点を考えれば、憲法制定当時(1947年)と比較して国家権力における権力行使の要請は高くなっているようにも思えます。

しかし、実際はそうではありません。

なぜなら、歴代の政府は、憲法9条や憲法の平和主義の理念を捻じ曲げて解釈し、もっぱら憲法が本来予定していない自衛隊や日米安保条約という武力(軍事力)を用いて国の安全保障を確保しようとしてきたからです。

憲法9条があるのに北方領土が返還されない本当の理由』や『憲法9条があるのに尖閣諸島を狙われる本当の理由』のページでも説明したように、憲法9条は憲法前文の平和主義と国際協調主義を具現化する規定であり、憲法の平和主義は本来的に武力(軍事力)を用いない方法によって国際的な平和構想の提示や紛争解決のための提言など積極的な外交活動を行い世界の平和を実現することで日本の安全保障を確保しようという考え方に基づくものですから、この理念こそが憲法の平和主義の神髄と言えます。

つまり、憲法の平和主義は、北方領土や尖閣諸島など国家間の紛争解決は自衛隊や安保条約という武力(軍事力)によってではなく、外交的な交渉や紛争解決に向けた提言を駆使することによってのみ解決を図ることを求めているということができ、その外交交渉や紛争解決の提言によってしかその領土問題は解決できないという信念を基礎に置いているということができるわけです。

にもかかわらず、歴代の政府はその憲法が本来的に求めている要請を無視して、憲法の平和主義が本来的に予定していない自衛隊と安保条約という「武力(軍事力)」を拡充することで国の安全保障を確保しようとしてきました。

もちろんそれは、歴代の政府がアメリカとロシア・中国の覇権争いの狭間において、そうすることが費用対効果の面を考えて日本の安全保障に最大の効果を及ぼすと確信したからに他なりませんが、北方領土は今もって返還されず、尖閣諸島周辺では中国が影響力を拡大しようとしているわけですから、その歴代の政府がとってきた安全保障施策が有効に機能していないことは明らかでしょう。

つまり、北方領土や尖閣諸島の問題が解決しないのは、何も憲法9条の戦争放棄の規定や憲法前文の国際協調主義と平和主義の理念に問題があるからではなく、歴代の政府が憲法の平和主義を捻じ曲げて解釈し、憲法が本来的に予定していない自衛隊や安保条約という武力(軍事力)によってのみ北方領土や尖閣諸島の問題を解決しようとしてきた結果であり、その歴代の政府の安全保障施策の破綻が招いたのが、現在の北方領土や尖閣諸島の問題といえるのです。

このように考えれば、憲法の改正に賛成する人たちが言うように「憲法は時代に合わせて変えるべき」とか「時代に合っていない憲法は改正すべき」という理屈を根拠に、国家権力に国防軍と交戦権を与えるために憲法9条の改正を求めていることが如何に実効性のない無意味なものであるかが分かるでしょう。

北方領土や尖閣諸島の問題が解決しないのは、歴代の政府が憲法の要請を無視し、憲法が本来的に予定していない武力(軍事力)によってもっぱら国の安全保障を確保しようとしてきたことが原因なのですから、これから憲法9条を改正し国防軍(または自衛隊)や交戦権(自衛権)を明記して国家権力に武力(軍事力)を与えたところで、北方領土や尖閣諸島の問題が解決するはずがありません。

北方領土や尖閣諸島の問題を解決しようと思うのであれば、国家権力の「歯止め」を緩めて「武力(軍事力)」による権力行使を拡大するのではなく、むしろ国家権力の「歯止め」を厳しくしたままで、憲法の平和主義の要請にしたがって国際的な平和構想の提示や紛争解決のための提言など積極的な外交活動を行うことで北方領土や尖閣諸島の問題の解決を図り、日本の安全保障を確保することが求められるはずです(※具体的には→『憲法9条の戦争放棄だけが北方領土の問題を解決できる理由』『憲法9条の戦争放棄でしか尖閣諸島の問題を解決できない理由』)。

ですから、北方領土や尖閣諸島の問題が歴代の政府の自衛隊や安保条約という武力(軍事力)を用いた安全保障施策によって解決できなかったことを考えれば、日本の安全保障は憲法制定当時と比較して武力(軍事力)を用いた国家権力の行使の要請が高くなっているなどとは到底言えないのです。

時代に合ってないのはむしろ武力(軍事力)を用いた安全保障施策

以上で説明したように、世界的に考えれば、国家権力の「歯止め」を緩めて権力行使を要請する方向ではなく、むしろその逆に国家権力の「歯止め」を厳しくして国家権力の介入を最小限にとどめることで個人や民族あるいは宗教等の自由を拡大する方向で時代は進んでいるといえます。

そして日本の安全保障においても、これまでの歴代政府の安全保障施策と現在の日本が置かれている国際状況を考えれば国防軍や交戦権といった「武力(軍事力)」を用いた安全保障の手段は機能しないことが明らかとなっているわけですから、国家権力にかけられた「歯止め」を緩めて武力(軍事力)の行使を容認するよりも、むしろ武力(軍事力)によらずに中立的な立場における外交や国際的な提言を今まで以上に積極的に行うことで国の安全保障を確保することが要請されているといえます。

そうであれば、憲法9条の改正に賛成する人たちが言うように、憲法9条に国防軍(または自衛隊)や交戦権(自衛権)あるいは集団的自衛権の行使などを明記する憲法改正は、「時代に合っていない」どころか「時代に逆行」する改正であるとさえいえるでしょう。

「憲法9条では国を守れない」が間違っている理由』のページなどでも述べていますが、現在の国の安全保障がうまく機能していないのは憲法9条の戦争放棄や憲法の平和主義の理念そのものに問題があるわけではなく、歴代の政府が憲法の平和主義が要請している「国際的な平和構想の提示や紛争解決のための提言」など積極的な外交活動を行うことを怠って、もっぱら憲法が本来的に予定していない自衛隊や安保条約という「武力(軍事力)」に頼って国の安全保障を確保してきたその施策が限界にきているところにあります。

憲法9条の改正に賛成する人たちは「憲法は時代に合わせて変えるべきだ」とか「時代に合わなくなった憲法は改正すべきだ」などという主張しますが「憲法9条が時代に合わなくなった」のではなく、むしろ自衛隊(国防軍)や安保条約という「武力(軍事力)を用いた安全保障政策が時代に合わなくなってきているだけ」なのではないでしょうか。

ですから、これらの事実を一切顧みることなく、ことさらに「憲法は時代に合わせて変えるべき」などとあたかも「憲法9条が時代に合っていない」かのような印象操作を行って憲法改正を正当化しようとする主張は「詭弁」といえるのです。

なお、「憲法は時代に合わせて変えるべき」や「社会の変化に応じて憲法は改正すべき」といった主張には、ファシズムや極右思想を招き入れる危険性があることも認識しておく必要があります(※詳細は→憲法を「時代に合わせて」改正するとファシズムや差別を招く理由)。