2021年10月31日(日曜日)は衆議院議員選挙および最高裁判所裁判官国民審査の投票日です。民主主義を実現するためには主権者の投票が不可欠となります。10月31日(日曜日)は必ず投票所に行きましょう。

自民党憲法改正案の問題点:第26条3項|国防の為の教育環境整備

憲法の改正に執拗に固執し続ける自民党が公開している憲法改正草案の問題点を一条ずつチェックしていくこのシリーズ。

今回は、「教育を受ける権利、教育の義務」に関する憲法第26条に「国による教育環境の整備」の規定を新設した自民党憲法改正草案の第26条3項の問題点について考えていくことにいたしましょう。

「国による教育環境の整備」に関する規定を新設した自民党憲法改正草案の第26条3項

今述べたように、自民党憲法改正草案の第26条は3項に「国による教育環境の整備」に関する規定を新設しています。

具体的にどのような規定が新設されたのか、現行憲法の第26条と比較したうえで、自民党改正案の条文を確認してみましょう。

日本国憲法第26条

第1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
第2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

自民党憲法改正草案第26条

(教育に関する権利及び義務等)
第1項 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
第2項 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
第3項 国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

このように、第1項と第2項は若干の文言の変更があるもののほぼ現行憲法の条文が引き継がれていますが、自民党改正案は第3項に「国による教育環境の整備」に関する努力義務の条文を新設しています。

では、こうした条文の新設は具体的にどのような問題を生じさせ得るのでしょうか。

「教育環境の整備」を国に努力義務として課した自民党憲法改正草案第26条の問題点

このように、自民党は「教育を受ける権利(第1項)」と「教育を受けさせる義務(第2項)」を規定した憲法第26条に第3項として「国による教育環境の整備」にかかる努力義務の規定を新設しました。

この規定からは様々な問題を指摘できると思われますが、ここでは次の2点についてその問題点を指摘しておきましょう。

(1)教育を「国の未来を切り拓く」ためのものと考える思想は戦前の全体主義に親和性を持つ

この点、まず指摘できるのが、教育は「国の未来を切り拓く」ためにあると考える自民党の思想が全体主義に親和性を持ってしまうという点です。

ア)教育は「国の未来を切り拓く」ためにあるのではない

自民党憲法改正草案第26条3項は「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み」と規定していますから、自民党は教育を「国の未来を切り拓くために不可欠なもの」と理解していることがわかります。

しかし、教育は自民党が言うように「国」の発展や存続のためにあるのではありません。

なぜなら「国」は、個人の自由(安全)と財産を守るために形成されるものであって、そこで行われる教育は「個人が人格を形成し、社会において有意義な生活を送るために不可欠の前提をなす(※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法」岩波書店264頁)」ものと言えるからです。

そもそも人は一人では生きていけないので複数が集まって社会を形成しますが、その社会を形成する際に自分が本来的に持っている権限を社会に移譲する契約を結びます。その契約がいわゆる「社会契約」であって、その社会契約によって形成される共同体の概念がいわゆる「国民国家」と呼ばれる国家概念です。

つまり、人が「国家」を形成するのは、自分の自由(安全)と財産を守るためであって、「国家」に自分の自由(安全)と財産を守らせるために他者と社会契約を結ぶのです。

そうであれば、「教育」も「国」のためではなく「個人」のためになければなりません。「国」は「個人」のために創設されるものであって、「個人」が「国」のために存在するわけではないからです。

「国」というものは個人の自由(安全)と財産を守るために形成されるものなのですから、そこで行われる教育も「国」のために行われるものではなく「個人」のために行われるのは当然の帰結なのです。

自民党はおそらく、「国民(個人)」が「国」のため奉仕する存在であると勘違いしているのでしょう。だから教育を「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないもの」などと捻じ曲げて理解してしまうのです。

教育は、その教育を受ける「個人」が自らのアイデンティティーを形成し、よりよく生きるために必要とされるものであって、それはその「個人」の自由と安全を確保させるためにあるのですから、決して「国」のために存在するものではないのです。

イ)教育を「国の未来を切り拓くため」に利用するなら全体主義に傾斜する

ところで、こうして教育を「国の未来を切り拓くために不可欠なもの」ととらえる自民党の思想は全体主義に傾斜します。

なぜなら、全体主義は共同体全体の発展に価値を認め、個人の価値を全体への献身に求める思想だからです。

全体主義と個人主義が相対する概念であることは『自民党憲法改正案の問題点:第13条|個人を「人」にして支配』や『自民党憲法改正案の問題点:第24条1項|家族制度と忠孝の復活』のページでも解説しましたが、個人主義が「共同体各個人の発展に価値を認め、全体の価値を各個人への献身に求める」ものである一方、全体主義は「共同体全体の発展に価値を認め、個人の価値を全体への献身に求める」と考えるところに根源的な違いがあります。

つまり全体主義は、個人よりも全体に価値を認め、その全体の発展のために個人に献身を求めるところに大きな特徴を持つわけです。

この点、先ほどから説明しているように、自民党改正案は本来「個人」のために行われる教育を「国の未来を切り拓くために不可欠なもの」ととらえてその目的を「国」の発展に置いていますから、教育を「個人のため」ではなく「国」という「全体の(発展の)ため」に用いようとしている点で全体主義と親和性を持っていると言えるのです。

しかし先の戦争は、忠孝の道徳観念を基礎にした教育制度の下で国家や天皇への報恩に価値を見出し、国全体を全体主義的な体制に誘導したことが軍国主義を制御不能なまでに拡大して敗戦まで突き進んだのですから、個人の自由を抑圧し個人の価値を全体への献身に強制させる全体主義への回帰を図るべきではありません。

全体主義は必然的に戦前・戦中と同じように、個人の命を軽視し国民に国家への奉仕を強制しますから、全体主義と親和性を持つ条文を憲法に明記することは、先の戦争における失敗を繰り返す危険性がある点で問題があると言えるのです。

(2)第3項が自民党の望む教育のための環境整備に利用される危険性

また、そうした全体主義と親和性を持つ思想を国民に教育するための環境整備にこの自民党憲法改正草案の第26条が利用されてしまう点でも危険性があると言えます。

なぜなら、「国の未来を切り拓く」ための「教育環境の整備に努めなければならない」との規定が憲法に条文として置かれれば、「国の未来を切り拓く」ための教育環境を「整備しないこと」が憲法違反となってしまうので、国はその改正案第26条3項の規定を根拠に、全体主義と親和性を持つ「国の未来を切り拓く」ための教育環境を整備することができるようになるからです。

A)自民党憲法改正草案の第26条3項の下では「国の未来を切り拓く」ための教育環境の整備が合憲とされてしまう

この点、現行憲法にはこうした規定は存在しませんから、国が全体主義と親和性を持つ思想を国民に教育するための環境を整えることはできません。

特定の思想に誘導する教育環境を整えれば「思想良心の自由(憲法第19条)」や「学問の自由(憲法第23条)」の問題となり、人権侵害となってその環境整備が違憲性を帯びてしまうからです。

日本国憲法第19条

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

日本国憲法第23条

学問の自由は、これを保障する。

しかし、自民党憲法改正草案の第26条3項のように「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」などという条文を置いてしまうと、その環境を整備しないことが憲法違反となってしまいますから、国は「国の未来を切り拓く」ための教育環境を整備しなければ憲法違反になってしまいます。

そうなると、「国の未来を切り拓く」ための教育環境を整備すること自体が「合憲」と判断されるので国は「国の未来を切り拓く」ための教育を行う学校を整備したり、既存の学校に「国の未来を切り拓く」ための教育を強制させることも憲法で認められることになってしまうでしょう。

また、仮に学校が「国の未来を切り拓く」ための教育に反対する場合には、その学校や教師に対して「国の未来を切り拓く」ための教育を行うよう、強制させることもできるようになってしまうのです。

仮にそうなれば、「学門の自由」は形がい化してしまいますから、国の教育環境は全て「国の未来を切り拓く」ためのものとして統一されていくことになるでしょう。

つまり、戦前のように国民全体に国家のために奉仕を求める教育環境を整備することも憲法で認められるようになるわけです。

B)具体的にどのような教育環境が整えられていくか

この点、具体的にどのような「国の未来を切り拓く」ため教育環境が整備されていくかという点が問題となりますが、例えば次のようなものを強制する教育環境が整備されるケースが考えられます。

a)日の丸・君が代の強制

まず考えられるのが「日の丸」や「君が代」を「尊重させる」ような教育環境の整備です。

自民党憲法改正案が第3条で国旗を「日章旗(日の丸)」と、国歌を「君が代」と指定し、それを「尊重」することを国民に義務付けている点については『自民党憲法改正案の問題点:第3条|国旗国歌の強制で天皇の国に』のページで解説したとおりですが、こうした条文が明文化されている以上、自民党憲法改正案が国民投票を通過すれば、それ以降の日本国民は「日の丸」と「君が代」を「尊重」することが”憲法”で義務付けられることになります。

それが憲法で義務付けられるということは、憲法が国の最高法規である以上、「日の丸」や「君が代」を「尊重しないこと」が違法性を帯びるということですから、法律や国の制度、行政の措置の全てが「日の丸」や「君が代」を「尊重させる」ために整備されなければならなくなってしまいます。

そうなると当然、教育においても「日の丸」や「君が代」を「尊重させる」カリキュラムを組まなければなりませんから、教育環境もそれを「尊重させる」ために必要な整備がなされていくでしょう。

具体的には、学校に対して「日の丸」の掲揚や「君が代」の斉唱を義務付けたりするだけでなく、「日の丸」の掲揚時に起立しなかったり、「君が代」の斉唱を拒否する教師に懲戒処分を課すことも認められるようになるわけです。

しかしそれは、『自民党憲法改正案の問題点:第3条|国旗国歌の強制で天皇の国に』のページで解説したように個人の思想・良心に国家権力が教育をもって介入するということですから、基本的人権の観点から大きな問題があると言えます。

b)「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」ための教育

また、自民党憲法改正案はその前文で「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」などと述べていますから、そうした「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」ことを奨励する教育環境も整備されていくことも予想されます。

この点、「国と郷土を…守る」手段は必ずしも武力(軍事力)に限られませんが、自民党改正案は9条の2に国防軍の条文を新設していますので、自民党憲法改正案の下では「軍事力で国を守ること」は当然の前提と考えられます。

つまり自民党改正案の下では「軍事力で国を守る」のは9条の2の条文から当然なので、前文の趣旨も踏まえれば、国が国民に「軍事力で国を守らせる」教育環境を整備することも、憲法で許されることになるわけです。

そうなれば、学校教育で国防のための軍事教育を行う環境を整備することも認められるようになるでしょう。

しかしそれは、戦前のような軍国主義的な教育体制の整備が憲法で認められるということですから、個人の尊厳と平和主義の基本原則を破壊し、先の戦争の過ちを繰り返す危険性を生じさせる点で問題があると言えます。

c)「忠孝」の教育

戦前に行われた「忠孝」の道徳観念を植え付ける教育環境が整備されてしまう懸念についても指摘できます。

自民党憲法改正草案が「家族」の尊重を義務付けて「忠孝」の道徳観念を普遍化させようとしていることは『自民党憲法改正案の問題点:第24条1項|家族制度と忠孝の復活』のページでも解説しましたが、そうした教育を普及させるためには教育環境を整備することは不可欠です。

そのため自民党は第26条3項のような規定を新設して、「忠孝」の教育ができる環境を整備できるようにしたのでしょう。

「忠孝」は、国家や国家元首(自民党改正案の下では天皇)、親に忠誠を誓い、その国家や天皇や親の恩に報いることに最大の道徳的価値を見出しますから、その道徳観念は国民に「国」への奉仕を求める「国の未来を切り拓く」と親和性を持ちます。

具体的には、戦前と同じように、学校教育で「国家」や「天皇」などに忠誠を尽くさせるような道徳授業を強制したり、そうした教材を使用することを学校や教師に強制することもできるようになるわけです。

しかし「忠孝」の道徳を基にした教育は、先の戦争において結果的には国民に対して「国家」に命をささげることに最大の価値を認めることになり、最終的には国家指導者に玉砕や特攻など国民の命を軽視した作戦までを正当化させる思想にまで昇華させてしまいましたから、過去の反省を踏まえるならそうした教育環境を整備すべきではありません。

また、そもそも道徳観念を国民に教育すること自体、個人の思想や良心に国家が介入するということですから、人権の観点からも問題を指摘できるでしょう。

こうした様々な問題を考えれば、「忠孝」の教育環境を整備することも合憲とされてしまう自民党憲法改正草案の第26条3項のような条文は憲法に規定すべきではないと言えるのです。

「国の未来を切り拓く」ための教育環境の整備は戦前の失敗を繰り返す

以上で説明してきたように、自民党憲法改正草案の第26条3項は「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない」と新たな規定を設けていますが、こうした国に「国の未来を切り拓く」ための「教育環境を整備する努力義務」を課してしまうと、他の改正条項と相まって、戦前の明治憲法(大日本帝国憲法)の下で実現されていたような、国民に「国家」や「天皇」に忠誠を誓わせる教育環境を整備することも可能になってしまいますので、大きな問題があると言えます。

戦前のような全体主義と親和性を持つ思想を教育環境を整備することで具現化させることは、先の戦争でこの国が侵した様々な失敗を繰り返すことにつながりますので大変危険です。

先の戦争の反省から制定された現行憲法を破棄して、「国の未来を切り拓く」ための教育環境の整備を合憲としてしまう危険な条文を新設する必要性がどこにあるのか、冷静に考える必要があるでしょう。