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学術会議の任命問題、静岡県知事の「教養レベル」発言は「上から目線」だったのか

この点、今回の菅政権による学術会議の会員任命見送り問題についてもこの「真理」の観点から理解することが可能です。

ここまで長々と説明してきたように、今回菅首相が学術会議から推薦された会員候補者10名のうち6名の学者を任命しなかったことは、日本学術会議法や憲法の趣旨や目的に照らしてどの角度から検証しても整合性が取れず、法の趣旨や目的と矛盾し普遍性を持ちませんから、そこに違法性があったことは「真理」の観点から検証していけばおのず明らかにされたはずです。

これはイデオロギーからそれが「間違いだ」と言っているわけではなくて、「学問」的見地から日本学術会議法や憲法の趣旨・目的に立ち返って検証した結果、菅政権による任命の見送りが日本学術会議法や憲法の「真理」と矛盾し普遍性を持たないことを発見できるからこそ、それを「違法だ」と言っているわけです。

菅内閣と自民党が日本学術会議法や憲法の「真理」を理解し「真理」に立ち返って検証する作業を行っていれば、たとえ菅政権が「6名の学者を任命したくない」と考えても、学術会議から推薦された会員を任命しないことが日本学術会議法や憲法の趣旨・目的と整合しないことに到達できるので、その違法性に気が付いて学術会議から推薦された105名をそのまま機械的に任命していたはずです。

また、先ほど説明したように、学術会議に推薦された会員を任命しないことは「学問の自由」や「表現の自由」という民主主義の実現に不可欠な基本的人権を制限する作用を持ちますから、自由と民主主義が人類の長い歴史の中で大きな犠牲を払いながらようやくたどり着くことのできた国家統治の基本原理である以上、その己の行為が何を及ぼすのか「真理」に立ち返って考えればおのずと理解できたはずなのです。

しかし今回、菅政権はそれをしなかったわけですから、菅政権とそれを支える自民党が「真理」を理解していないか、もしくは「真理」を理解しようという姿勢すら持ち合わせていないのか、あるいはその「真理」を理解していながらその「真理」を捻じ曲げて国民を支配しようとしているのか、いずれかであることが強く推測されるのではないでしょうか。

菅政権は、日本学術会議法の第7条に「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命」と規定されていることを根拠に「じゃあ内閣総理大臣に任命権があるんだから学術会議の推薦に基づかなくったっていいじゃないか」という理屈で任命しなかった取り扱いを正当化しているのでしょうから、「真理」から検証する作業をせず、法律の文面や自分らのイデオロギーだけで日本学術会議法や憲法を解釈した(解釈を捻じ曲げた)のでしょう。だからその違法性を認めずに違法な権力を行使しその説明もできないわけです。

ところで、静岡県知事の「教養レベル」発言に話を戻しますが、静岡県知事はおそらくこの「真理」を「尊重(探究)する意識の高低」のことを「教養レベル」と述べているのだろうと思います。

「教養」と聞くと、たとえばクイズ番組で正解答を連発するようなたくさんの知識を持っている知識の「総量」の多い人のことを思い浮かべますが、本来的な意味はそうではなくて、その正解答のその元にある本質まで遡ってその「真理」を理解しているのか、また一見して正しいと思われる道徳や倫理をその本質まで遡ってそこに哲学的命題に矛盾しない「真理」を見出すことができているのか、それが「教養」という言葉の本来的な意味合いだと思います。

ソクラテスが「無知の知」をもって事物の本質まで遡って疑問を追求し議論を繰り返したのは、それが正しいと思えるものであっても批判的精神から疑問をもって事物の本質や普遍性を追求しないと「真理」までたどり着くことが出来ないからであって、それがすなわち「真理の探究」であり、そうして得られる「真理」の総体が「教養」と呼ばれているのではないでしょうか。

このように「教養」を「真理」と置き換えて考えれば、静岡県知事の「教養レベル」発言の趣旨も何となく理解できるような気がします。

静岡県知事は聞くところによると学者出身の知事らしく、学問の目的である「真理の探究」を繰り返して生きてこられたはずですから、今回の学術会議に関する問題も「真理」に立ち返ってその違法性を検証したはずです。

静岡県知事は、菅首相の「学歴の高低」や「知識の総量」などの”レベルの低さ”を「教養レベル」と言っていたのではなくて、事物事象の「真理」に立ち返って検証する精神の希薄さ、「真理」を軽視し自分たちのイデオロギーを「真理」より優先させたこと、「真理」を尊重する意識の低さを「教養レベル」という言葉で表現していたような気がするのです。

(※なお、繰り返しますが静岡県知事は2020年10月16日にこの「教養レベル」発言を公式に撤回し謝罪しています)

静岡県知事の「教養レベル」発言を批判する主張の趣旨

一方、静岡県知事の「教養レベル」発言を批判する人たちは、その「教養レベル」を「学歴の高低」や「知識の総量」などの意味として受け取って、それを批判していたように思えます。

たとえば冒頭で紹介したような「学歴差別だ」とか「上から目線だ」とか「(教養のレベルが低いという)レッテル貼りだ」とか「自分の意見と違うからといって教養がないなどと言うべきじゃない」などという批判は、静岡県知事の「教養レベル」発言を、菅義偉という個人の「学歴の高低」や「知識の総量」のことだと受け取り、その「レベルが低い(劣っている)」と言われたことが、なんだか自分の「学歴」や「知識の総量」をも馬鹿にされたように感じたところから発せられたのではないでしょうか。

しかし、仮に静岡県知事が「学問」の本質に立ち返ってこの問題を考察し「真理の探究」の側面から菅政権の態様を検証した結果として「真理を探究(尊重)する意識の高低」を「教養レベル」という言葉で説明したのであったとすれば、それは静岡県知事とその発言を批判している人たちの間で、その言葉のその本質的な部分でズレが生じているような気がします。

もしかしたら、「(菅首相は)学問された人ではない。単位を取るために大学を出られた」という部分で「学歴差別」と受け取られたのかもしれませんが、これも「真理を探究(尊重)する意識の高低」を言っているに過ぎないと思います。

先ほど説明したように学問の目的は「真理の探究」ですから本来であれば大学は「真理を探究する場」となるはずですが、学校教育は基本的に「○○と聞かれた場合は○○と答える」「○○が提示された場合は○○を用いて回答を導く」というように、「設問→回答」の繰り返しで完結し、事物の本質まで立ち返って「真理を探究」することまではしないのが通常でしょう。

たとえば、法律の勉強であれば「○○の論点を聞かれた場合は○○の学説や○○の判例を持ってきてそこで示された○○の定義に当てはめて○○という結論を導く」というのを繰り返し反復練習し、それが身につけば大学の単位は取れますし資格試験も合格できますので、学者を志す人はともかくとして一般の学生が「法の真理」にまで掘り下げて勉強することはないと思います。

もちろん、すべての学生が「真理」に立ち返って勉強しないわけではなく、「真理」を深く追求して勉強を頑張っている人もいるでしょうし、経験したことのない問題が提示されたケースでは「メソッド」に頼るより「真理」に立ち返った方が早く正解を導くことができるので「真理の探究」を意識して勉強している人もいるでしょうが、私も含めて多くの人はそうではないのが実情でしょう。

もちろんそれはそれで構わないわけですが、今回の学術会議の問題のように日本学術会議法や憲法の趣旨や目的にまで立ち返って違法性の有無を検証する必要が求められるケースでは、学問の目的である「真理の探究」にどれだけ真摯でいられるかという点がとても重要になってきます。

菅政権や自民党のように「学問」を軽視し「真理の探究」の重みがわからない人たちがその適法性を検証すると日本学術会議法や憲法の「真理」まで遡って検証しようとしなくなりますから、その法律の文面だけを読んで「こう書いてるからこう解釈してもいいじゃん」と安直に解釈を出して法の趣旨や目的を捻じ曲げてしまうわけです。それが今回の問題の本質なのかもしれません。

静岡県知事の意図としては、菅義偉という個人の「学歴」や「知識の総量」が低いという趣旨で「学問された人ではない。単位を取るために大学を出られた」と言ったのではなくて、「真理を探究(尊重)する意識の希薄さ」「真理を探究することへの尊敬のなさ」を表現する手段として「学問された人では」「単位をとるために大学を」という言葉を選んだだけなのではないでしょうか。

(※なお、繰り返しますが静岡県知事は2020年10月16日にこの「教養レベル」発言を公式に撤回し謝罪しています)

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最後に

以上で述べてきたように、学問の目的である「真理の探究」から考えれば、今回の静岡県知事の「教養レベル」発言に学歴差別や人格攻撃の意味は含まれていなかったのだろうと思います。

もっとも、こうして文章にする過程で改めて「教養レベル」の発言を考えると、「レベル」という文言が相対的な評価の基準を連想させるので、その点で聞き手が知事から蔑まれた印象を受けたのであれば「レベル」という文言は使わない方が良かったような気もします。

しかし、今回の件では菅政権(平成30年の内部文書を作成した当時の安倍政権も含みます)とそれを支える自民党が日本学術会議法や憲法の「真理」を軽視して法の趣旨や目的を捻じ曲げてしまっただけでなく、民主主義の実現に不可欠な「学問の自由」や「表現の自由」という基本的人権を破壊する取り扱いをしたところが問題なのですから、それは学問の目的である「真理の探究」とそれによって導かれる「真理」をないがしろにしたということであって「教養」の問題そのものと言えるのではないでしょうか。

もちろん、静岡県知事は2020年の10月16日にこの「教養レベル」発言を公式に謝罪し撤回していますので「教養レベル」という文言が誤解を招く表現だったところに問題はあったのかもしれませんが、「教養レベル」という言葉を選択したこと自体には差別や侮辱、誹謗中傷の意図はなかったのではないかと私は思います。

ちなみに、以上はあくまでも私個人が静岡県知事の発言の趣旨を勝手に考察してたどり着いた見解(妄想)にすぎませんから、静岡県知事ご本人にこの記事を読まれたら「そんなこと思ってねーよ」と怒られるかもしれません。

仮にそうなった場合には、それは私が静岡県知事の「教養レベル」発言の「真理」を探究することが出来なかったということですから、その事実をもって「大浦崑という人物の教養のレベルが図らずも露見したということ」が証明されることになりますが、こんな記事など読むはずがありませんので、私の「教養レベルが図らずも露見」してしまうことは「総合的・俯瞰的な観点」から考えてありえないと思います。


なお、この記事を書き終わっていったん記事を公開し、オンライン上で表示状態をチェックしている最中にツイッターを確認すると、静岡県知事が「教養レベル」発言について公式に謝罪し撤回したというニュースが流れてきました。

静岡知事が「教養レベル露見」発言を撤回 菅首相に謝罪の意 – 産経ニュース

撤回した理由は「発言後に、菅首相が直接、会員候補の人選の起案をしていなかったことが判明したため」としていますので、菅首相が推薦名簿を決裁する前に6人がすでに除外されていたとの報道があったことを受けて菅首相個人を評価する部分の発言について謝罪し撤回したものと思われます。

学術会議問題「会長が会いたいなら会う」 菅首相 [日本学術会議]:朝日新聞デジタル

もっとも、この記事は「教養レベル」発言のあった当時の発言の意図を考察したものですので、発言が撤回された事実と矛盾する部分を一部修正し、一部説明やその後に記者会見等で述べられた見解等を付け加えた部分はありますが、基本的には記事作成当初のまま公開しています。