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学術会議の任命問題、静岡県知事の「教養レベル」発言は「上から目線」だったのか

(3)菅首相が「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点」で任命しなかった理由を説明しなければならない理由

以上で説明したように、平成30年の内部文書は「内閣総理大臣に日本学術会議法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えない」と結論づけていますが、その論拠とした憲法と日本学術会議法の各条文の解釈を誤ったところに違法性がありますから、この平成30年の内部文書の内容をもって、学術会議から推薦された会員候補105名のうち6名を任命しなかった菅首相の今回の問題は、明らかに違法だったという結論になります。

もっとも、学術会議で内閣総理大臣の任命拒否権を認めることが憲法や法の趣旨に違反すると考えても、内閣総理大臣の任命拒否権を認める余地が全くないわけではありません。

前述したように、日本学術会議法は第25条で「病気その他やむを得ない事由」による会員の辞職を、第26条で「会員として不適当な行為があるとき」における会員の退職をそれぞれ規定し、学術会議の同意又は申出を要件として内閣総理大臣が会員の辞職を承認しまたは退職させることを認めていますから、この2つのケースに限って内閣総理大臣の任命拒否権を認めることは、必ずしも日本学術会議法の趣旨や目的を逸脱するとまでは言えない面があるからです。

法第25条と26条が学術会議の同意や申出を要件として内閣総理大臣が会員の辞職を承認し退職させることを認めている趣旨からすれば、法第7条と17条に基づいて学術会議から会員候補者が推薦されたとしても、その推薦された会員に「病気その他やむを得ない事由」があったり「会員として不適当な行為」がある場合に限って、内閣総理大臣がその任命をしない取り扱いも認められる余地はあるものと考えられるでしょう。

しかし、仮にこうした解釈をとるとしても、その推薦された会員を任命しないことができるのは「病気その他やむを得ない事由」または「会員として不適当な行為」があった場合に限られるわけですから、内閣総理大臣がその任命をしない場合には、その任命しない会員に「病気その他やむを得ない事由があること」または「会員として不適当な行為があること」について第三者的立場からも明らかにそれがあると判断できる程度の説明はなされなければなりません。

ですから、菅首相が「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点」から学術会議から推薦された会員候補者105名のうち6名の任命をしないというのであれば、なぜその6名を任命しないのか、その理由を具体的に説明しなければならないのです。

こうした理由があることから、学者や専門家が菅首相に対して「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点などという曖昧なものではなく何を理由に任命を見送ったのか説明せよ」と説明責任を追及しているわけです。

そしてこの場合、仮に菅首相がその6名を任命しなかった理由を答えないというのであれば、それは「病気その他やむを得ない事由があること」または「会員として不適当な行為があること」以外の理由で任命しなかったことが強く推定される(※仮にこのどちらかの理由で任命しなかったのであれば、それを正直に言えば済む話だから)ことになりますが、この2つ以外の理由で任命拒否権を行使することはできませんので「理由を答えない」こと自体が違法性の根拠となります。

ですから、菅首相がこのまま説明責任を果たさないのであれば、菅首相が今回行った学術会議の任命問題については憲法および学術会議法の趣旨を逸脱した違法な取り扱いだったことを菅首相自ら説明責任を果たさないという不作為の態様を持って認めることになりますので、菅政権はその違法な権力行使の責任を取らなければならないということになるわけです。

なお、今回の件で菅首相に説明責任が生じる理由の詳細は『菅首相に学術会議の任命拒否で説明が求められるのはなぜなのか』のページでより詳しく解説しています。

(4)菅首相の学術会議任命問題が「学問の自由」や「表現の自由」の侵害につながる理由

なお、ここまで説明してきた菅政権の学術会議任命に係る問題に関しては、以上とは別に「学問の自由」や「表現の自由」など基本的人権の側面からもその違法性を指摘することができます。

日本国憲法第23条

学問の自由は、これを保障する。

日本国憲法第21条第1項

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

菅政権は平成30年の内部文書で「確認した」とする「内閣総理大臣に日本学術会議法第17条による推薦のとおりに任命すべき義務があるとまでは言えない」との解釈を持ち出し、「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点」などという曖昧模糊とした判然としない理由で学術会議から推薦された会員候補105名のうち6名を任命しませんでしたが、仮にこれがその学者の研究内容や研究発表(論文等)の内容、あるいは教授内容など学問の内容について内閣総理大臣が判断し「この学者は学術会員として不適任」との判断を下した結果であれば、内閣総理大臣が学問(研究・発表・教授)の内容にまで首を突っ込んで「任命しない」という権力を行使したことになるからです。

内閣総理大臣が学問の内容にまで踏み込んで権力を行使し、特定の学者を会員から排除したということになれば、学問に携わる学者は、政府(国家権力)に不都合な学問(研究・発表・教授)をすれば政府から排除されるとの不安からさまざまな場面で学問(研究・発表・教授)に躊躇するようになるでしょう。

政府に批判的な学問(研究・発表・教授)が排除されるとなれば、政府を批判する学問は控えられ、政府の方針と整合しない研究は敬遠される一方で、政府の方針に合致する学問や研究にだけ学者が集中することになるかもしれません。政府に批判的な学問が排除されるとなれば補助金や助成金の削減も危惧されますから、そうした懸念を抱く学者は思想的・学術的な立場に関係なくたとえ政府に批判的な意見を持っていたとしても政府に否定的な意見は慎むようになるでしょう。

そうして学問の自由は歪められていくのです。

もちろん、学術会議の会員から排除されたとしても、それをもって学者の研究そのものが制限されるわけではありませんから、その意味では学問の自由は侵害されていないと考えて「自分の金で研究すればいいだろ」などと思う人もいるかもしれません。

しかし、「政府が特定の学者(学問)を排除した」という事実は学問を志す学者に少なからぬ萎縮的効果を及ぼしますから、その萎縮的な作用を及ぼすこと自体が「学問の自由」を制限することになるのです。

これは「表現の自由」においても同様です。「学問の自由」は「学問研究の発表の自由」も含みますから、それは当然「表現の自由」が制限されたということです。

そうでなくても、政府が任命拒否権を行使し学問の内容にまで踏み込んで特定の学問的あるいは思想的見解を持つ学者を排除したということになれば、報道や芸術など表現行為の内容にも国家権力が踏み込んでくることが懸念される結果、表現者にも萎縮的効果を及ぼすでしょう。

しかし、憲法が「学問の自由」や「表現の自由」を保障しているのは、それが民主主義の実現に不可欠な基本的人権だからです。

学問の目的は「真理の探究」にありますから、「真理」に矛盾する政策を政府がとっているときには「真理を探究」する学問の立場から政府を批判しなければなりませんし、「真理」が不確かな事象で政府が迷う場合には学問の立場から専門家に学術的知見で助言等をしてもらい、政治(統治)が「真理」から外れてしまわないように導いてもらわなければなりません。

「学問の自由」が制限されるようになれば、政府は科学的見地から「政治的真理」を追究することをせず、ただ政治家の持つイデオロギーを絶対的に正しいと思い込んで政治を遂行していきますから、民主主義の「真理」の実現も困難になっていきます。そうした「真理」を無視した政治の暴走が、過去の過ちを犯してきたのではないでしょうか。

だからこそ「学問の自由」は民主主義の実現に不可欠な基本的人権と言えるのです。

「表現の自由」も同じです。「表現の自由」が国家権力によって制限されれば、国民は自由な表現(言論)が妨げられることになる結果、政府が垂れ流す表現(言論)、政府に迎合的な表現(言論)だけにさらされることになりますが、そうなれば主権者である国民の政治的意思決定は歪められ民主主義は機能不全に陥ってしまうでしょう。

このように、菅政権は学術会議から推薦された会員について「内閣総理大臣に推薦の通りに任命すべき義務があるとは言えない」との解釈を持ち出し「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点」などと訳の分からない説明で6名の任命を見送りましたが、これが日本学術会議法に違反する違法な行為と言うだけではなく、「学問の自由」や「表現の自由」という自由や民主主義の実現に不可欠な基本的人権をも制限する極めて危険な蛮行であることを、十分に認識する必要があります。

※内閣官房参与の学者と学術会議の学者の違い

なお、学術会議に政府(国家権力)からの高度な独立性が求められることに関連して「政府を批判する学者が学術会議にいたら政府は思うように政策を実行できないじゃないか」「学術会議は国から税金をもらってるんだから政府に批判的な学者を学術会議から排除するのは当然じゃないか」などと主張する人がいますが、こう考える人は政府(内閣)の内部に招聘されて政権中枢から政治に関与する学者(X)と、政府から独立した立場から政府に勧告や答申を行って政治を補助(監視)する学術会議の学者(Y)の違いをよく理解していないのだと思います。

たとえば小泉政権時の竹中平蔵氏や菅内閣で内閣官房参与に任命された高橋洋一氏などは政権の中枢から学問的知見を政治に反映させるために招聘された学者となりますので、彼らは前者の学者(Xの学者)です。Xの学者は政府が彼らの学問的知見を政治に反映させるために招聘されますので、彼らはそもそも政府と親和性を持っています。だから彼らは基本的に政府に批判的な意見を述べないわけです。

しかし、彼らも神ではありませんから場合によっては間違った政策(学問的知見)を政府に提言するかもしれませんが(※竹中平蔵氏や高橋洋一氏の政策が間違っているという意味ではありません)、仮にそうした場合には、学問の専門家が政府とは独立した立場から学問的知見をもって批判的な意見を述べることでXの学者と政府に再考を促す必要があります。そのために学術会議というYの学者が必要となるのです。

Yの学者はそもそも学問的見地から政府に批判的な意見を述べることで政府を監視する役割が期待されているのですから、Yの学者をXの学者と混同して「政府に批判的な意見を述べる学者は学術会議の会員に任命されるべきではない」と主張するのは的外れなのです。

ちなみに、こうしてXの学者とYの学者を混同して学術会議の会員からYの学者を排除していくと、学術会議の会員までXの学者で占められることになり、政府に都合の良い意見しか述べない御用学者ばかりが政治に関与することになりかねません(※Xの学者のすべてが御用学者だという意味ではありません)。

仮にそうなれば主権者である国民は学問的見地から政府を批判することが出来なくなってしまいますので政府の暴走に歯止めがかからなくなってしまうのです。その結果が先の戦争です。

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静岡県知事の「教養レベル」発言が炎上してしまった理由

以上が、今回問題となっている菅政権の学術会議の会員任命問題の概略です。

ここまで長々と駄文を連ねるつもりではなかったのですが、菅政権が日本学術会議法の法解釈だけでなく憲法の解釈をも誤り、それを正当化するために法解釈の変更をしておきながら「確認した」などと誤魔化したうえ、「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点」などと曖昧模糊とした訳の分からない言い訳で説明責任を果たさない結果、論点がややこしくなりすぎていたため長文での解説になってしまいました。私が悪いわけではありません。

ところで、ここからが本題です。静岡県知事の「教養レベル」発言がなぜ炎上してしまったのかという点です。

なお、静岡県知事は2020年10月16日にこの「教養レベル」発言を公式に撤回し謝罪しています。以下の文章は、この発言を聞いた当時の私がその発言についてどう感じたかという点の感想としてお読みください。

静岡県知事の「教養レベル」発言の趣旨

この点、まず静岡県知事の「教養レベル」発言の趣旨を検討しますが、これはあくまでも私の個人的な想像になりますけれども、おそらく「真理」の観点からの評価を述べたものではないでしょうか。

「真理」とは物事の本質を指し矛盾がない普遍的なものをいいますが、「真理」を発見し探求する手段が「学問」です。学問の目的が「真理の探究」にあると説明されるのはそのためです。

たとえば数学の世界では円周率について「3.1415926545……」という具合に延々と計算を続けていますが、それは円周率の「真理」が解明されていないのでその円周率の「真理」を探究するために延々と計算を続けているわけです。つまり数学の目的は「真理の探究」です。

また、例えば歴史学では過去の遺物を調査し、そこにどのような歴史的事実が「真実」としてあったかを議論しますから、それも過去の「真実(真理)」を探求するための学問と言えます。つまり歴史学の目的も「真理の探究」にあるわけです。

ダ・ヴィンチのモナリザやミケランジェロが描いたシスティナ礼拝堂の天井画にも同じことが言えます。これらの芸術作品が長い年月にわたって人々を魅了し続けているのは、そこに「女性(母性)の本質(真理)」や「神の本質(宗教の真理)」を観ることができる(描かれている)からに他なりません。ですから、芸術を学問的見地から考察した場合の目的も「真理の探究」と言えるでしょう。

このように、学問の目的はおしなべて「真理の探究」にあるわけですが、「真理」を探究するためには物事の本質まで立ち返ってそこに普遍性があるのかを追求しなければなりません。そのためにはそこにある事象事物に疑問を持ち批判的立場から本質や普遍性と矛盾する点がないのかを議論し検証しなければなりませんから、批判的精神を忘れず常に疑問を持ち続けることは「学問」にとって不可欠な要素と言えます。

ですから、学者が政治を批判することがあるとしても、それはあくまでも学問的見地からその政治が「真理」と矛盾し普遍性と整合しないことを発見したからであって、自身のイデオロギーから批判しているわけではないのです。