このサイトでは「憲法を学んだことのない人」のことを「憲法道程」と呼んでいますが、その「憲法道程」が憲法を学ばないままの状態で時を過ごしたとしても、近い将来必ず憲法改正の国民投票の日は訪れることになるでしょう。
しかし「憲法道程」が「憲法道程」のままの状態で憲法改正の国民投票に挑むことは、『日本国民は「憲法道程の憲法論議」をいつまで続けるのか?』のページでも解説したとおり、仮にその結果が「憲法を改正する」ものであれ「憲法を改正しない」ものであれ、将来の日本国と日本国民に本来意図しない災いを生じさせる危険性を伴うのが現実です。
そのため「憲法道程」は真摯に憲法を学んで憲法の正しい知識を得ることが必要になると考えるわけですが、現在の日本では憲法改正の国民投票がそう遠くない将来に行われる蓋然性が高くなっているにもかかわらず、ほとんどの日本国民は自ら能動的に憲法を勉強し「憲法道程」を卒業しようとしないのが実情のようです。
では、現在の日本国民の多くがそうであるように「憲法道程」が憲法を学ばずに「憲法道程」のままで居続けることは、そもそもどのような問題があるといえるのでしょうか?
「憲法道程」が「憲法道程」のままであることによって、具体的にどのような不利益がこの国と将来の日本国民に及ぼされる危険性があるといえるのか、考えてみます。
「憲法道程」は何が問題なのか?
「憲法道程」が「憲法道程」であることによって生じる具体的な問題としては、主に次の3つが代表的なものとして挙げられます。
(1)「憲法道程」が「憲法道程」のまま不確かな知識で憲法を論じても憲法の議論は一向に進歩しない
「憲法道程」が「憲法道程」のままでいることの問題としてまず最初に挙げられるのは、「憲法道程」が「憲法道程」のままの状態でいくら熱心に「憲法論議」を重ねても、憲法に関する議論が先に進まないという点です。
憲法の改憲議論に少なからず興味を持っている人であれば、仲間内や職場の同僚であったり、ツイッターなどのネット上で憲法に関する自分の意見を表明する機会があると思いますが、そこで語られる「自分の意見」はおそらく、テレビの討論番組や雑誌の討論記事などで仕入れた憲法知識が基になっているのではないかと思います。
しかし、『日本国民は「憲法道程の憲法論議」をいつまで続けるのか?』のページでも述べているように、テレビの討論番組や雑誌の討論記事で語られる憲法論はその論者や放送局、出版社等の主観的または意図的な言動が含まれる「エンターテイメント的要素を多分に含む」意見によって形作られているものにすぎません。
そこから得られる憲法知識は「エンターテイメント的要素を多分に含む不確かな憲法知識」以上のものではなく、そのような議論をいくら視聴(購読)したところで「正確な憲法知識」が身に付くことはないのです。
そのようなところから仕入れた「不確かな憲法知識」を基にいくら憲法を議論しても、建設的な議論ができるわけがありません。
憲法の議論を建設的なものとするためには「正しい憲法知識」を基に議論を重ねなければ、時に矛盾した結論に至ったり、時に堂々巡りの不毛な議論を繰り返すことになってしまい、はっきり言って時間の無駄でしかないからです。
この点、「正しい憲法知識」を得るのは非常に簡単です。
なぜなら、憲法の議論は戦後の長い時間をかけてその専門家である憲法学者が様々な論点について様々な学説を論じ続けてきた歴史があるからです。
その憲法上の論点や学説の対立等は憲法の専門書に書いてありますから、専門書を読むなどして憲法を学びさえすれば「正しい憲法知識」を身につけることは容易なのです。
にもかかわらず、「憲法道程」の皆さんは、その「正しい憲法知識を学ぶ」という作業を怠って、ただ漫然とテレビの討論番組やネットや雑誌の討論記事といったメディアが垂れ流す「不確かな憲法知識」を鵜呑みにして、ただ延々と不毛な「憲法道程の憲法論議」を繰り返しているわけです。
「憲法道程の憲法論議」で議論されている内容などとっくの昔に憲法の専門家が議論してその答えを専門書にわかりやすく文章化しているのですから、それを無視して延々と「憲法道程」が乏しい知識で議論するのではなく、その専門家が書いた専門書で勉強し、そのうえでさらに深い議論を重ねなければ、いつまでたっても憲法の議論は先に進みません。
そのような「憲法道程の憲法論議」がいかに無駄で生産性のない議論であるかという問題に、なぜ誰も気づかないのでしょうか。
たとえ話として適当ではないかもしれませんが、例えばラーメンの作り方さえ知らないずぶの素人が「ラーメン店を開きたい」と考えた場合、ラーメンの専門店に弟子入りしてラーメンの作り方を基礎から学ぶのが普通です。
この点、ずぶの素人がテレビのグルメ番組やグルメ雑誌の記事、ネットにあげられているレシピなどを参考に、独学でラーメンの作り方を試行錯誤していくことも不可能ではありませんが、そのようにして全くのゼロからラーメンの作り方を学ぶより、ラーメンの専門家に師事した方がラーメンに関する正確な知識と技能をより短期間で習得することができるので、普通は有名ラーメン店などに修行に入るわけです。
もちろん「どんなラーメンが美味しいか」は個人個人で異なりますから、その弟子入りしたラーメン店の味が必ずしも自分が理想とするラーメンの味と一致するわけではないかもしれません。
しかし、ラーメンの専門家から正しい知識と技能を学んだうえで、自分のラーメン店を開業した後に「自分がおいしいと思うラーメン」を作って客に提供すれば足りるわけですから、ラーメンの職人さんのほとんどは、まず最初にラーメン店で修業を始めるのです。
このように、ラーメンのずぶの素人がラーメン店を開業しようと考える場合は、自分が「ラーメン道程」であることを真摯に受け止めてラーメンの専門家に師事するのが普通なのに、なぜか憲法のずぶの素人である「憲法道程」が憲法を論じる場合には、憲法の専門書を読むなどして「正しい憲法知識」を身に付ける努力をしないまま、ただ漫然とテレビの討論番組やネット・雑誌の討論記事で表現される「不確かな憲法知識」だけを基礎知識として延々と不毛な憲法論議を続ける状況が何年も続けています。
ラーメンの作り方を学びたいと思う人がラーメンの専門家に師事するように、憲法を学んだことのない「憲法道程」も憲法の専門書を読むなどして勉強すれば自分の頭だけで考える場合より格段に速くより深く「憲法の正しい知識」を吸収できるのに、それをせずにただ延々と「憲法道程の憲法論議」を繰り返している今の日本の現状が、はなはだ疑問なのです。
(2)「憲法道程」のままでは誤った憲法知識を植え付けられてしまう危険性がある
「憲法道程」が「憲法道程」であることの問題点の2つ目は、「憲法道程」であるがゆえに、憲法の専門家と称する「知識人」たちに「誤った憲法知識」を植え付けられてしまう危険性があるという点です。
先ほども述べたように、テレビの討論番組やネット・雑誌の討論記事には憲法学者や大学教授、弁護士や元裁判官、政治家や作家など一般的に「憲法知識があると認識されている人々」が論客として登壇し熱い議論を繰り広げるわけですが、彼らは「(自称)憲法の専門家」ではあっても、その議論の場では自分の主義や主張を基に憲法上の論点を論じているにすぎません。
もちろん、その彼らはそれ相応の憲法知識を有していますのでその議論の内容には「正しい憲法知識」も少なからず含まれているでしょうが、その議論の場は「客観的な憲法の講義を行う場」ではなくて「あくまでも主観的な主義主張をぶつけ合う議論の場」にすぎないわけで、そこで展開される憲法論議はあくまでも「その論者が考える主観的な意見」を超えるものではありません。
論者によっては時に「過激な主張」を展開する人もいますし、つい怒りに任せて「まともな憲法論の議論では採用されないような主張」を口走ってしまう人もいますし、中には自分の意見を正当化させるため「まともな憲法論では一蹴されるような論拠として成り立たない主張」をさも通説的な主張のように展開することもあるわけです。
しかし、そのような「主観的な意見」であっても「憲法道程」である皆さんは「正しい憲法知識」を有していないので、その意見が理論的に矛盾することであったり憲法論的に成り立たない主張であることに気付くことができません。
問題はそこです。
「憲法道程」が「憲法道程」のままいたのでは、メディアが垂れ流す「さも正しい憲法知識」に見せかけた「必ずしも正しいとはいえない憲法知識」を「正しい憲法知識である」と誤解して、その「誤った憲法知識」が脳に刷り込まれていくことになる危険性があるのです。
たとえば、テレビの討論番組などでは「改憲論者」がよく使う論拠に「憲法はアメリカ(連合国)に押し付けられたものだから改正すべきだ!」といういわゆる「押しつけ憲法論」がありますが、まともな憲法論の議論の場では日本国憲法は国際法的に考えても国内法的に考えても「強制的要素はあったとしても、憲法自立性の原則は法的に損なわれていない」と解釈されていますので(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店27頁参照)、そういった「押しつけ憲法論」は「改憲」を肯定する主張の論拠としてはもはや成り立たちません。
しかし、「憲法道程」の人はその問題点に気付かないので、「憲法はアメリカに押し付けられたのか…じゃあ改憲すべきだ」と安易に「改憲」の思想に染められてしまうでしょう。
また、たとえばテレビの討論番組などで「9条の護憲論者」が「9条の改憲論者」から「じゃあ外国が攻めてきたらどうするんだ?」と問われた際に「安保条約があるからアメリカに頼めばいいだろ」とか「日本は平和主義だから外国が攻めてきたら抵抗せずに受け入れるんだ」と主張するケースがありますが、憲法の9条はそのような何もしないでただ漫然と平和を希求するような「消極的平和主義」を基礎とするものではなく、外国が攻めてこないように外交等の武力を用いない方法で国際社会に積極的に働きかけて自国の安全を確保することを要請する憲法前文の「積極的平和主義」を基礎としていると解釈されているわけですから(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店56頁参照)、「改憲論者」が「外国が攻めてきたらどうする?」という質問すること自体がそもそも「(憲法前文の)積極的平和主義」を正しく理解していないといえますし(※「積極的平和主義」は”攻められたらどうする”とう議論ではなくて”責められないためにどうする”という議論だからです)、「責めてきたら何もせず領土を明け渡す」と答える「護憲論者」もまた「積極的平和主義」を正しく理解していないということになります。
しかし、「憲法道程」の人は9条における「消極的平和主義」と「積極的平和主義」の違いすら知らないので、「外国が攻めてきたらどうする」という質問と「攻めてきたら領土を明け渡す(アメリカに守ってもらう)」といった回答を聞くことによって、憲法9条が「積極的平和主義」と解釈されているにもかかわらず「消極的平和主義に基づいた憲法知識」を頭に刷り込まれることになるわけです。
その結果、本来は「積極的平和主義を基礎とする9条を改正するか改正しないのか」を議論しなければならないのに、「消極的平和主義を基礎とする9条を改正するか改正しないか」といった論点のズレた話になってしまい、全くもって無意味で不毛な議論を延々と続けているのが今の日本の現状なのです。
(3)影響力のある「憲法道程」がメディアで発言すると「憲法道程の不確かな知識」がさも正論のように広まってしまう
(2)と若干重複する部分がありますが、「憲法道程」が「憲法道程」のままである場合において、その「憲法道程」がメディア等で影響力のある存在であった場合に「不確かな憲法知識」を拡散させてしまうという点も大きな問題です。
たとえば、(2)でも述べたように、9条の「平和主義」はただ漫然と平和を希求するような「消極的平和主義」ではなく、外国が攻めてこないように外交等の武力を用いない方法で国際社会に積極的に働きかけて自国の安全を確保しようと考える「積極的平和主義」を基礎にしていると解釈されているわけですが、憲法をきちんと学んだことのない「憲法道程」がメディア上で「外国が攻めてきたらどうする?」と質問された際に、「攻めてきたら領土を明け渡す(またはアメリカに守ってもらう)」などと「消極的平和主義」に基づいた回答をしてしまうと、その「憲法道程」の発言によってあたかも「憲法9条が消極的平和主義を基礎にするもの」であるかのような印象を世間一般に与えてしまうことになります。
しかし、憲法9条は「積極的平和主義」を基礎にしているわけですから、そのような「憲法道程」の「消極的平和主義」を基礎とした意見は9条の解釈を間違った「不確かな憲法知識」にすぎません。
そのような「不確かな憲法知識」が世間に拡散されてしまうことは、不要な議論を巻き起こすだけでなく、本来なされるべき「積極的平和主義を基礎とする9条を改正するかしないか」という議論が遅々として進まず貴重な時間が費やされてしまうという有害な結果を生じさせてしまいますので問題となるのです。
※もちろん、憲法では言論の自由が保障されていますので、「憲法道程」が「不確かな憲法知識」に基づいた主義主張をメディア上で発言することも許容されますが、「憲法道程」の人がメディアで発言する権限を有していたり、ツイッターなどで多数のフォロワーを抱えている場合には、こういった問題が内在していることも心の奥にとどめたうえで「憲法道程」を卒業できるように真摯に憲法を勉強することが必要になるのではないかと思います。