このサイトでは憲法を真摯に学んだことのない人のことを「憲法道程」と呼ぶことにしていますが、「憲法道程」が「憲法道程」のままで居続けることの問題点は『「憲法道程」の何が問題なのか?』のページで指摘しました。
しかし、「憲法道程」の問題はそれだけではありません。
なぜなら、一番の問題はその「憲法道程」が「憲法道程」であり続ける点にあるのではなく、その「憲法道程」が「憲法道程」であるがままの状態に甘んじて「不確かな憲法知識」を基礎にした無駄な「憲法道程の憲法論議」を延々と続けてしまうところにあるからです。
「憲法道程の憲法論議」はなぜ無駄なのか?
では、「憲法道程の憲法論議」はどのような点で「無駄」といえるのでしょうか?
具体的には、次の3つの点に「憲法道程の憲法論議」が無駄といえる理由が顕在化されるものと考えられます。
(1)専門家が議論し尽くした論点を蒸し返してしまう
「憲法道程の憲法論議」が無駄といえる一つ目の理由は、すでに専門家が議論しつくした論点を蒸し返して「憲法道程」が浅い知識で議論し続けてしまう点に最も顕著に現れます。
たとえばいわゆる「押しつけ憲法論」が議論されるような場合です。
「押しつけ憲法論」とは、日本国憲法が連合国の占領下においてGHQ(連合国軍総司令部およびマッカーサー)の草案に基づいて制定されたものであることを理由に「日本国憲法はアメリカ(連合国)に押し付けられたものだ」と解釈する理論で、主に憲法改正を肯定する立場の人が「日本国民が自主的に起草した憲法に改めるべきだ」という自らの主張を正当化させるための論拠として使われる理屈のことをいいます。
この点、たしかに現在の日本国憲法は連合国の占領下によって制定作業が行われGHQ(総司令部※マッカーサー)から提示された憲法草案を基に形作られた経緯があることから「押しつけ」の側面があったことは否めないわけですが、憲法制定後の70年間の間に多くの憲法の専門家(憲法学者・法学者・法律実務家)によってさまざまな角度から検証・論証され尽くされており、「強制的要素はあったとしても、憲法自立性の原則は法的に損なわれていない」という解釈(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店27頁参照)が確定的な通説ないし多数説的見解として導かれています。
すなわち「押しつけ憲法論」の論点は、憲法学的に考えればすでにその議論が終了し「押しつけ憲法論」にそれを正当化する理由はないと解釈されているわけですから、そういった「押しつけ憲法論」は「改憲」を肯定する主張の論拠としてはもはや成り立たたないのが現実なのです。
しかし、そういった「押しつけ憲法論」が憲法改正を肯定する論拠としてもはや成り立たないことなど「憲法道程」の皆さんは認識すらしていませんから、一部の政治家や憲法学者や弁護士や元裁判官や作家やタレントなどがテレビの討論番組などで「憲法はアメリカに押し付けられたものだから改正すべきだ!」と主張しているのを見てしまうと、そこで語られる「押しつけ憲法論」を知識に刷り込まれてしまい「押しつけ憲法論」を基礎にした改憲論議に終始して改憲か非改憲かを議論していくことになります。
そうすると「押し付けられた憲法は改正すべきだ」とか「いや、押し付けられた事実はないから改正すべきではない」という議論ばかりを重ねることになるわけですが、先ほど述べたように、その議論は憲法の専門家の間ですでに議論し尽されて結論は出ているわけです。
「押しつけ憲法論」の是非は法学のプロである憲法学者が長い間様々な角度から検証し議論を重ねていて、その結論は憲法学の基本書に記載されているわけですから、そういった専門書を読めば足りるのであって、何も「憲法道程」が乏しい知識で「押しつけ憲法論」の是非をゼロから議論する必要性はないわけです。
これは、はっきり言って「無駄」です。そのような「憲法道程の憲法論議」をいくら重ねても、憲法の基本書にすでに記述されている結論以上の結論が導き出されることはないから時間の無駄なのです。
この場合に本来なされるべきは、「改憲派」の人も「護憲派」の人も「日本国憲法は押し付けられた憲法ではない」という同じ土俵に上がったうえで「憲法は押し付けられたものではないけれども憲法を改正する方がいいの?それとも改正しない方がいいの?」という議論であって、「押しつけ憲法論が正しいか正しくないか」ではないのです。
このように「憲法道程」が「憲法道程」のまま憲法論議を重ねることは、憲法学者が長年にわたって検証してきた議論を一切無視して既に結論の出ている同じ議論を蒸し返し、不毛な議論を延々と繰り広げてしまう点で「無駄」といえます。
しかし、先ほども述べたように、そのような「憲法道程の憲法論議」で導き出される結論はすでに憲法の基本書に書いてあるわけですから、「憲法道程」が自ら進んで基本書等で憲法を勉強することでそのような「議論の蒸し返し」は簡単に防ぐことが可能です。
その「正しい憲法知識」を基礎にしたうえで「じゃあ憲法を改正するの?それとも改正しないの?」という議論を重ねる必要があることに、なぜ誰も気づかないのでしょうか。
(2)論点のズレた議論を延々と続けてしまう
また「憲法道程」が「憲法道程」のまま憲法を議論しても「正しい憲法知識」を有していないがために論点のズレた議論が延々と続けられてしまうという点も「憲法道程の憲法論議」が無駄といえる理由として挙げられます。
この点、一番わかりやすいのは、憲法9条の改憲の議論の際において「改憲論者」から「護憲論者」に対して「じゃあ外国が攻めてきたらどうするんだ?」という質問がなされるシチュエーションでしょう。
憲法9条の改正が議論される際には、9条に密接に関係する「自衛隊の存在」が必ずと言っていいほど議論に上ることになりますが、常識的に考えると自衛隊の戦力は9条2項の「陸海空軍その他の戦力…」における「戦力」にあたると解釈されるため(※ただし「自衛隊は”必要最小限度の実力”であって9条2項の戦力にはあたらない」というのが政府の見解です)、「護憲論者」に立つ人は必然的に「自衛隊は憲法上保有できない」と言わざるを得なくなります。
そうすると、「改憲論者」は「自衛隊が保有できなのであれば国はどうやって守るんだ?」と考えてしまうので、9条の改正に反対する「護憲論者」に対して「(自衛隊や軍隊を持たないで)外国が攻めてきたらどうするんだ?」という質問をしてしまうことが多いのです。
しかし、憲法論的に考えれば、憲法の9条(1項)が謳う「平和主義」は、一般にいわれるような非武装中立を理由に何もしないでただ漫然と平和を希求するだけの「消極的な平和主義」を基礎とするものではありません。
憲法9条の平和主義は、外国が攻めてこないように外交等武力を用いない方法で国際社会に積極的に働きかけて自国の安全を確保することを要請する憲法の「前文」を基礎としていますから(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店56頁参照)、そのような「平和を実現するために武力(軍事力)以外の積極的な行動をとるべきことを要請している平和主義(以下、便宜上「積極的な平和主義」といいます)」と解釈されているからです(→憲法9条が「単なる非武装中立・無抵抗主義」ではない理由)。
このような平和主義(積極的な平和主義)の下では、国の安全保障施策は「武力(軍事力)を用いない外交努力や国際援助などを通じて世界の平和を構築することによって自国の安全を確保する」ことを目指すことになりますから、そもそも「外国が攻めてきた場合」の対処法を考えることはありません。
すなわち、憲法9条は「外国が攻めてきた場合にどうやって国を守るか」を考えるのではなく、「外国が攻めてこないようにするにはどうすればよいか」を考えてその「外国が攻めてこない国」を構築することで国家の安全を確保しようと考えますので、そもそも「外国が攻めてきたらどうするか」という質問自体が成り立たないのです。
それでももし、憲法改正に賛成する人が「外国が攻めてきたらどうするんだ?」と質問するのであれば、憲法改正に賛成人自身も「外国が攻めてきたらどうするか」という質問に答えなければなりません。
なぜなら、「外国が攻めてきたらどうするんだ?」という質問は、「国の安全保障施策が破綻した場合にはどうやって対処するのか?」という質問になるからです。
先ほども述べたように、憲法9条の正しい解釈では、国家の安全保障は「外交や国際援助、紛争解決に向けた国際的な提言等を積極的に国際社会に働きかけることで自国の安全保障を確保する」ものとなりますから、この立場の人に対して「外国が攻めてきたらどうするんだ?」と質問するということは、「国の安全保障施策が失敗したときの対処法」を尋ねるものとなるでしょう。
そうであれば、憲法改正に賛成する立場の人に対しても同じ質問をすることができます。
なぜなら、「国の安全保障施策が失敗する可能性」は憲法9条に自衛隊や国防軍を明記した場合であっても同じように生じ得るからです。
憲法9条の改正に賛成する立場では、憲法9条に自衛隊や国防軍を明記し、その軍事力の行使(又は抑止力)によって国の安全保障を確保しようと考えますが、その立場に対して「国の安全保障施策が失敗したときの対処法」を尋ねる場合には、自衛隊や国防軍が「戦争で負けた場合」の対処法を質問することになります。
つまり、憲法改正に賛成する側の人から憲法改正に反対する人に対して「戦争を放棄した憲法9条をそのままにして外国が攻めてきたらどうするんだ?」という質問が許されるというのであれば、その逆に憲法改正に賛成する立場の人に対しても「自衛隊や国防軍が戦争に負けて外国が攻めてきたらどうするんだ?」という質問も成り立つことになるわけです。
しかし、そのような質問には憲法改正に賛成する立場の人であっても答えることはできません。戦争に負ければ国が亡びるだけでからです。
「外国が攻めてきたらどうするんだ?」という質問は、憲法9条を「消極的な平和主義を基礎とするもの」と間違って解釈し「非武装中立を理由に何もしないでただ漫然と平和を希求するだけ」の論者(テレビの討論番組などに出演する多くの「護憲論者」や「自衛隊違憲論者」はこれにあたります)に対しては質問として成り立ちますが、「平和を実現するために武力(軍事力)以外の積極的な行動をとるべきことを要請している積極的な平和主義を基礎とする日本国憲法の9条」に対しては、その質問自体が成立しないのです。
にもかかわらず、「改憲論者」にしても「護憲論者」にしても、「攻めてきたらどうするんだ?」「攻めてきたら黙って領土を明け渡すんだ」と延々と不毛な議論が繰り返されているわけです。
なぜこのような論点のズレた議論が繰り返されてしまうかというと、日本国民のほとんどが「憲法道程」だからです。
「憲法道程」は、政治家や専門家がテレビの討論番組などで「外国が攻めてきたらどうするんだ」という質問を見聞きしても、それが憲法9条の解釈として成立しない質問であることに気付きません。
だから、バカな政治家や専門家はいつまでたっても「外国が攻めてきたらどうするんだ」という議論を続けますし、狡猾な政治家や専門家も改憲論を正当化するために「外国が攻めてきたらどうするんだ」という質問として成立しない質問を延々と続けるわけです。
しかし、憲法9条の改憲論議で本来議論されるべきは、このような無意味不毛な議論ではなく、
「積極的な平和主義を基礎とする憲法9条」の名の下に「武力(軍事力)以外」の方法で積極的に国際社会に働きかけを行うことによって世界から貧困と紛争がなくなるよう死力を尽くして世界の平和を実現し国際社会において名誉ある地位を占める努力を行うことで国の安全保障を確保する
国を選ぶのか、それとも
「自衛隊(もしくは国防軍)を明確に明記した改正憲法9条」の名の下に「武力(軍事力)」を用いて国の安全保障を確保する
国を選ぶのか、といった議論です。
「外国が攻めてきたらどうするんだ?」というような的外れな議論をしている暇はないのです。
このように、「憲法道程」が「憲法道程」のままで「憲法道程の憲法論議」を続ける場合には、正確な憲法知識がないばかりに、本来しなければならない議論から論点のズレた議論に終始してしまい、徒に時間を費やす結果となってしまうのが現実です。
だからこそ「憲法道程の憲法論議」は時間の無駄といえるのです。
(3)「改憲派」と「護憲派」の間で必要性のない対立を生じさせてしまう
「憲法道程の憲法論議」が無駄な理由の3つ目は、以上のような「議論の蒸し返し(上記の(1))」や「論点のズレた議論(上記の(2))」によって、本来は必要のない対立を「改憲派」と「護憲派」の間で生み出してしまうという点です。
先ほども述べたように、「改憲論者」が「憲法はアメリカに押し付けられたものだ!」と主張する場合には「押しつけか否か」が、また「改憲論者」が「外国が攻めてきたらどうするんだ?」と詰め寄る場合には「非武装中立でどうやって守れるか」がそれぞれ議論され、両陣営の間で対立が生まれますが、これまで説明したように、そのような議論は本来必要のない無駄な議論であって「改憲論者」と「護憲論者」の間で対立はそもそも不要です。
本来対立すべきは「憲法は日本国民が自律的に制定したものだけど、そのうえでやっぱり改正すべきか改正しないべきか」という点であり「9条は積極的な平和主義を基礎とするものだけど、それでもここで改正すべきか改正しないべきか」という点であって、そこでこそ両者が対立し互いに意見をぶつけ合うべきでしょう。
現状のように、「憲法道程」が無駄な「憲法道程の憲法論議」によって無駄な対立を生じさせ無益な論争を続けることは、時間の無駄であって建設的な議論の妨げになるだけなのです。
「憲法道程は憲法論議をするな」という意味ではない
以上のように「憲法道程の憲法論議」は、はっきり言って「無駄」です。
ただ、誤解してもらいたくないのは「憲法道程の憲法論議」が「意味がない」と言っているのではないという点です。
(※タイトルにはある程度センセーショナルな文言を含めておかないと私のように影響力のない人間の書いた記事など誰も読んでくれないのであえて「無駄」と言い切っただけです。)
憲法の知識がない「憲法道程」であっても改憲議論に参加して「改憲するかしないか」を議論することはもちろん必要ですし有意義であって喜ばしいことですから、「憲法道程」の人も積極的に憲法について議論すべきでしょう。
しかし、このページで説明したように「憲法道程」が「憲法道程の憲法論議」をいくら続けても議論の進展は望めませんし、悪くすると誤った憲法知識に基づいて論点のズレた議論に終始してしまい、その結果誤った判断を下してしまう危険性が生じてしまうことは留意すべきです。
憲法改正の議論で誤った判断を下すということは、その結果が「改正する」ものであれ「改正しない」ものであれ、必ず将来の日本国民に本来意図しない災いを生じさせます。
前述したような「無駄」は、専門書を読むなどして憲法を学ぶ努力をしさえすれば回避できるわけですから、自分が「憲法道程」であると認める限り、積極的に専門書を読むなどして真摯に憲法を学ぶ努力が必要になるといえるのです。