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自民党憲法改正案の問題点:第20条3項|国の宗教活動が無制約に

憲法改正を執拗にアナウンスし続ける自民党が公開している憲法改正草案の問題点を一条ずつチェックするこのシリーズ。

今回は、国家による宗教的活動について規定した自民党憲法改正案第20条3項の問題点を考えてみることにいたしましょう。

なお、自民党憲法改正案の第20条1項の問題点については『自民党憲法改正案の問題点:第20条1項|政教分離の無効化』のページで詳しく解説しています。第20条の2項については現行憲法から変更がないので解説は省略しています。

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憲法第20条3項は政教分離の原則の要請から「国家の宗教的中立性」を明示した規定

自民党の憲法改正案第20条3項の問題点を考える前提として、そもそも憲法20条が何を規定しているのかを理解しないといけませんので、その点を簡単に解説しておきましょう。

この点、現行憲法の第20条は「信教の自由」を保障した規定です。

人間が自由を求める生き物であることを否定する人はいないと思いますが、その「自由」を具現化させるためには個人が権力から精神的な側面で圧迫を受けないように精神的自由が最大限に保障されなければなりません。

そのため日本国憲法は第20条に「信教の自由」を保障する規定を置いているわけですが、国民の信教の自由を保障するためには国家が宗教的に中立であることが求められることになります。

そうした理由から、宗教的中立性を担保させるためにいかなる宗教活動も「してはならない」と制度的な側面から「国及びその機関」に歯止めを掛けたのが第20条3項の規定です。

日本国憲法第20条3項

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

ではなぜ、第20条が「信教の自由」だけでなく3項にわざわざ宗教活動の禁止規定を置いたのかというと、それは戦前の明治憲法(大日本帝国憲法)の下で、国家権力による宗教的中立性が損なわれ国全体が戦争へと突き進んでいった反省があるからです。

明治憲法(大日本帝国憲法)でも第28条でいちおうは「信教の自由」が保障されてはいましたが、それは「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」と法律の留保がつけられたもので、国家権力が法律を制定し、または天皇大権を利用すればいくらでも制限できるものでした。

大日本帝国憲法第28条

日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

そのため、戦前から敗戦に至るまでの過程では、国家神道に事実上国教的な地位が与えられてしまうことで国家の宗教的中立性が損なわれ、その結果国民の精神的自由権が保障されず、国家権力が神道の宗教的権威や影響力を行使して国民の自由や権利を思うがままに制限する方向に作用していったのです。

その結果、国全体が全体主義的な方向へと誘導され戦争へと突き進んで敗戦を招いたのが先の戦争です。

そうした反省があったことから、現行憲法の第20条は第3項に国家に宗教的中立性を担保させる規定をおいたわけです。

自民党憲法改正案の第20条3項は現行憲法から何を変え、何が問題なのか

このように、現行憲法の第20条は「信教の自由」を制度的な側面から保障するために「国及びその機関」に一切の宗教教育や宗教活動を禁止する規定を置いています。

では、それが自民党の憲法改正案第20条3項ではどのように規定されたのでしょうか。

この点、自民党の憲法改正案第20条3項は現行憲法の第20条3項の規定がそのまま移動した形になっていますが、その条文の文章に大きな変更が加えられていることから必然的に解釈にも変更が及ぶものと解されます。

具体的にどのような変更がなされているのか。まず現行憲法と改正案の双方の条文を確認してみましょう。

日本国憲法第20条3項

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

自民党憲法改正案第20条3項

国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

※出典:自由民主党日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)|自由民主党 を基に作成

”但し書き”の部分が付け足されているところが印象的ですが、大きく変えられている点は3つ挙げられると思います。

まず一つ目が、自民党改正案では「及びその機関」の文言が取り除かれている点。

二つ目が、自民党改正案では「特定の宗教のための」の文章が追加されたことで、国や自治体等に禁止される宗教教育や宗教活動が「特定の宗教のための」ものに限られることになる点。

三つ目が、自民党改正案では「社会的儀礼的又は習俗的行為の範囲を超えない」宗教教育や宗教活動について国や自治体等が関与することが許されることになっている点です。

では、この3つの変更は具体的にどのような問題を生じさせるのでしょうか。それぞれ順に検討してみることにいたしましょう。

(1)「及びその機関」が除かれたことで「国の機関」が宗教教育や宗教活動に関与できるようになった

まず、自民党改正案では「及びその機関」の文言が取り除かれていますので、これが具体的にどのような問題を生じさせるのか検討します。

この点、現行憲法では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定されていますので、宗教教育や宗教活動が禁じられるのは「国」だけでなく、国の機関である行政官庁やその大臣、あるいは地方自治体や地方公共団体など、行政上の監督権を持つ様々な機関がその対象になると理解することが可能です。

たとえば、小泉純一郎首相が内閣総理大臣という国の機関としての在任中に靖国神社を参拝したことの違憲性が争われた裁判ではその参拝行為を20条3項の「宗教活動」に当たると判断されたものがありますし(※小泉首相の靖国参拝が「職務を行うについて」なされたものであり憲法20条3項に違反する行為であることを認めたものの原告(控訴人)側の権利侵害がなかったとして訴えが退けられた判例→内閣総理大臣公式参拝違憲訴訟:大阪高裁平成17年9月30日|裁判所判例検索 ※最高裁は訴えの利益がないとして憲法判断まで立ち入らないまま上告を棄却→内閣総理大臣公式参拝違憲訴訟:最高裁平成18年6月23日|裁判所判例検索)、地方自治体が地鎮祭に公金を支出した件が争われた事件でも結論では政教分離原則に違反しないとされた一方で20条3項の「宗教的活動」にあたり違憲との反対意見が出された判例などもありますから(※津地鎮祭事件:最高裁昭和52年7月13日|裁判所判例検索 ※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法」155~163頁参照)、現行憲法の下では「政府(国)」が宗教教育や宗教活動をした場合だけでなく、「内閣総理大臣」などの国務大臣という「国の機関」が宗教活動等した場合にも、この20条3項の規定からその違憲性を指摘することは可能です。

しかし、自民党改正案では20条3項から「及びその機関」の文言が取り除かれており、その代わりに「及び地方自治体その他の公共団体は」との文章が入れられましたから、この文章では宗教教育や宗教活動が禁じられるのは「国」と「地方自治体」「その他の公共団体」だけで、それ以外の「国の機関」はそこから除かれるという解釈も文理的には成り立つようになってしまいます。

たとえば、今の菅政権や安倍政権では閣僚が私人としてではなく閣僚として靖国神社に参拝するケースが目立ちますが、そうしたケースは「国の機関」である大臣が参拝したことになりますので、現行の20条3項のままであれば「大臣という国の機関として参拝したのは違憲だ」という理屈で批判できるのに、自民党改正案20条3項の下では「”及びその機関”の文言は削除されたので大臣が大臣として参拝しても違憲じゃない」という理屈が成り立つ結果、その参拝を「違憲だ」と批判できなくなってしまう余地が文理的には生じてしまうのです。

もちろん、自民党改正案が「及びその機関」の文言を削除しても、「国の機関」である大臣の宗教的活動が禁止されると解釈することも文理的に不可能ではないですが、「”及びその機関”の文言を削除したから国の機関である大臣が宗教活動することは憲法上禁じられないのだ」という理屈が成り立つようになる分、靖国参拝を恒常化したい議員にとっては好都合でしょう。

つまり、自民党の憲法改正案第20条3項が「及びその機関」を削除したのは、大臣等の国家機関による特定の宗教への積極的な活動を憲法上明確に合憲と位置付けたいとの思惑が見えるわけです。

ですが、そうした大臣などの「国の機関」が特定の宗教に参拝したり玉串料を奉納したりすることが常態化するようになれば、国民に対してことさらにその宗教団体への関心を呼び起こすことになりかねず、その宗教団体の宗教活動を援助することにもつながりかねません。

また、靖国神社は昭和53年(1978年)にA級戦犯を合祀した経緯がありますから、靖国神社と過去の戦争犯罪が不可分な存在にされている以上、靖国神社と国の機関を結びつけるのは歴史認識の観点からも問題を惹起させてしまいます。

そしてこうした問題は、先ほど説明したように国家の宗教的中立性を損ない、国家権力が特定の宗教と一体化して国民の信教の自由を制限し精神的自由権を損なうことにつながりますが、信教の自由が民主主義の実現に不可欠な人権である以上、それは国民の政治的意思決定を歪ませる作用を持ちますので、民主主義の具現化という面で考えれば到底是認できるものではありません。

このように、自民党の憲法改正案第20条3項が現行憲法から「及びその機関」の文言を取り除いたことは、国家の宗教的中立性を損ない、政教分離の原則を破壊して国民の信教の自由を制限する方向に作用します。

それは当然、民主主義を機能不全に陥らせる危険を招くことになり、明治憲法(大日本帝国憲法)で生じた失敗を繰り返すことにつながりますから、この自民党の憲法改正案第20条3項が現行憲法から「及びその機関」を取り除いた部分は問題があると言えるのです。

(2)「特定の宗教のための」が挿入されたことで「特定の宗教ではない」宗教教育や宗教活動が認められる余地が生じる

二つ目問題としては、自民党の憲法改正案第20条3項が「特定の宗教のための」という文章を挿入したことで、国や自治体等に禁止される宗教教育や宗教活動が、「特定の宗教のためのもの」だけに限られてしまう点です。

現行憲法の第20条3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定されていますので、国及びその機関が宗教教育や宗教活動をすることは、いかなるものであっても許されません。

たとえば昨年(2019年)、大嘗祭が執り行われましたが、その際は祭殿の建設費を公的な皇室行事として扱い皇室の公的活動として「宮廷費」から支出すべきか、それとも天皇家の私的な行事として扱い天皇家の私的生活費である「内廷費」で賄うべきかで若干議論になりました。

これはもちろん、天皇家の活動が宗教的な意味合いを含むからです。

天皇家の行事として建設する祭殿を公費で賄えば、国が特定の宗教的活動に経済的な便宜を図ったということになり、憲法第20条3項の違憲性の問題を惹起させるので、こうした議論が生じたわけです(※もっとも最終的には公的活動として「宮廷費」から支出されています)。

このように、現行憲法では20条3項に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定されているので、天皇に関連した活動は、そのすべてが宗教活動として厳しくその違憲性がチェックされます。

そのため、現行憲法の下では、国家が天皇の活動に介入したり天皇を教育や政治活動に利用することを防ぐことが可能なのです。

一方、先ほど引用したように、自民党の憲法改正案第20条3項は「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない」と規定していますから、この改正案の下では、国や自治体等に禁止される宗教教育や宗教活動は「特定の宗教のための」ものに限られてしまいます。

つまり、この条文では文理的に「特定の宗教のためのものではない」宗教教育や宗教活動は、国や自治体等が制限を受けないという解釈が成り立ってしまうのです。

しかし、先ほど述べたように天皇という存在は神道という宗教と密接不可分な部分があるわけですが、その天皇という存在自体が神道の「教祖」だったり、天皇自体が神道の「神」だったりするわけではありませんので、天皇を中心とした教育をしたり、天皇を中心とした活動をすることは、必ずしも「特定の宗教(神道)のため」ということにはならないとも言えます。

そうなると、自民党改正案の下では、国や自治体等が天皇を中心とした教育をしたり、天皇を中心とした活動をしたとしても、「特定の宗教(神道)のためのものではない」という理屈でその教育や活動は肯定されるかもしれません。

現行憲法では「いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定されているので、国や自治体等が天皇を中心とした教育や活動を行えば「宗教的活動」として憲法違反となり得ますが、自民党改正案の下では、そうした天皇を中心とした教育や活動が「特定の宗教(神道)のためのものではない」との理由で合憲とされてしまう余地がでてくるのです。

仮にそうなれば、自民党改正案の下では、国は戦前・戦中と同じように、天皇を中心とした教育や活動が無制限に許されるようになってしまうでしょう。

つまり自民党改正案の下では、戦前・戦中と同じように、天皇を中心とした国家に変えられてしまう可能性も否定できなくなってしまうのです。

しかも、自民党改正案では第1条で天皇を「元首」にしたり、第三条では国旗を「日の丸」とし国歌を「君が代」と規定してそれを「尊重」することを国民に義務付けたり、第5条や第6条で天皇の公的行為を強化したりしていますから、そうした条文が新設されていることから考えても、この改正案20条3項が天皇を中心とした国家に変えることを目的としたものであることは十分に推測できるでしょう。

このように、自民党憲法改正案の第20条3項は「特定の宗教のための」との文章を挿入していますが、その文章を挿入したがゆえに「特定の宗教のためではない」教育や活動が無制限に許容されることになる結果、戦前・戦中と同じような天皇を中心とした教育が行われたり、天皇の政治利用なども憲法上合憲とされてしまう危険があります。

そうした教育や活動が無制限に許された80年前の日本がどのような結末を迎えたか、冷静に考える必要があるでしょう。