日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要

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【18】衆議院から回付された「帝国憲法改正案」に若干の修正を加えた「貴族院回付案(憲法改正案)」が貴族院において圧倒的多数をもって可決される

(昭和21年10月6日)

衆議院で圧倒的多数をもって可決された「帝国憲法改正案」は、明治憲法(大日本帝国憲法)の手続き上、貴族院に回付されます。

そして、貴族院において若干の修正が加えられた後、貴族院においても10月6日の決議において圧倒的多数をもって可決されます。

【19】衆議院が「貴族院回付案」に同意し「憲法改正案」に関する帝国議会の審議が終了

(昭和21年10月7日)

貴族院で修正可決された「貴族院回付案(憲法改正案)」は再度衆議院に回付され、10月7日に衆議院の同意が与えられることによって憲法改正案に関する帝国議会の審議一切は終了します。

なお、後述の【21】で説明するように、この憲法改正案は後に枢密院の審議を経て、10月29日に天皇の裁可が与えられ、明治憲法(大日本帝国憲法)上の憲法改正手続きがすべて終了することになります。

≪第3段階≫
憲法制定後、極東委員会から新憲法の再審査要求がなされるまで(日本政府が新憲法の再検討を行わなかった事実)

【20】極東委員会が「日本国民に対して新憲法を再検討する機会を与えるべきである」とする決定(日本の新憲法の再検討に関する規定)を行う

(昭和21年10月17日)

【14】で述べたように、日本政府と総司令部(GHQ)の間で修正協議を重ねて合意した「憲法改正草案(内閣草案)」が4月17日に国民に向けて公表されたわけですが、その公表された「憲法改正草案(内閣草案)」は当然、極東委員会でも審議の対象とされています。

極東委員会の分科委員会や全体会議の場では連合国を代表する各国の委員において文民条項の挿入など様々な修正項目が議論され、その修正要求が総司令部(GHQ)のマッカーサーを介して(マッカーサーが承諾した修正要求だけが)日本政府にも伝えられました。

ただし、極東委員会の修正要求があまりにも細目的な項目にわたっていたため、マッカーサーは極東委員会に対して以下のような反対意見を述べています。

【憲法改正についてマッカーサー元帥の極東委員会に対する意見】

「…現に行われている憲法上の全手続きは、日本の政府と国民により行われているものであることで、これに介入するのは、ただその措置が望まれている民主化を指向するものであることを確かめることにあるのだが、民主的方法の若干について、日本人に選択の余地を与えることなく、あまりに細目にわたって完全を期し、その意思に反して、これを強制しようと企てることは、かえって同盟国の目的そのものを無益に化するおそれがある。」

(※出典:衆議院憲法調査会作成|憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院|第5編第6章74頁より引用)

このようなマッカーサー(総司令部)の態度もあって、極東委員会は当初、憲法改正案を審査し意見を表明する機会を確保するため、新憲法の成立過程においては極東委員会の決議による正式な承認が必要であると考えていました(※注16)。

しかし、極東委員会の決議に拒否権を有していたアメリカ政府が「憲法改正は日本側の改正手続きが終了すれば足り、極東委員会が改めて承認するという手続きを必要とすべきではない(※注15)」と反対意見を表明したことでその考えは頓挫してしまいます(※注16)。

結局、明確な反対意見を示したソ連以外の連合国の委員は、アメリカ政府の立場を承認ないし黙認する形で憲法草案を承認する見解を表明するに止まり、【19】で述べたように憲法改正案は帝国議会を通過することになりました(※注16)。

このような経緯があったことから、極東委員会では「日本のこの手続きが、日本国民の自由な意思の表明に当たるかどうか(※注15)」という点を疑う声が上がり、次第に「新憲法が真に日本国民が自由に表明した意思によってなされたものであることを確認するため、日本国民に対してその再検討の機会を与えるべきである(※注15)」という見解が極東委員会の内部で支配的になっていきます(※注16)。

アメリカ政府は当初この意見に消極的でしたが、最終的にその意見に同調することになり、昭和21年10月1日に「憲法施行後、1年以上2年以内の期間に、新憲法に関する事情が国会によって再検討されなければならない」ことを内容とする「日本の新憲法の再審査のための規定」と題する政策決定が極東委員会において決議されます(※注16)。

極東委員会を組織する連合国の代表者のうちアメリカ以外の委員は、日本における憲法改正作業がアメリカ政府の息のかかった総司令部(GHQ)の主導で進められていることを苦々しく感じていたのですが、だからといって極東委員会が日本政府の憲法改正作業に細かく口を出してしまうと、その極東委員会の行為自体が「日本国民の自由に表明せる意思に従い…」と宣言したポツダム宣言(第12項)に違反してしまうことになり極東委員会(連合国側)が非難されてしまう恐れがありました(※注17、※注18)。

そのため、極東委員会は「とりあえずこのまま改正作業を続けてもいいけど、新憲法施行後1~2年以内に日本政府と日本国民の間でもう一度本当にこの憲法でいいのか自由に議論させて嫌なら日本国民が再度新憲法を作り直すことを認めてあげましょう」と決議(政策決定)して、それを日本政府に通知することにしたわけです(※注17、※注18)。

この極東委員会の意見に対して、マッカーサー(アメリカ政府)は「新憲法が施行されてすぐに改憲の議論を認めてしまうと新憲法の信頼性が揺らいでしまう」と考えていたため(※注16)当初はこの極東委員会の政策決定に批判的でしたが、結局はマッカーサー(アメリカ政府)もそれを受け入れて日本政府に憲法を1~2年以内に再度改正することを勧めることにしたのです。

なお、この点の詳細については『憲法の再検討を勧めたマッカーサー、それを拒否した日本人』のページで詳しく解説しています。

ただし、その決定の日本側への伝達時期と方法についてはその後の決定に委ねられていました(※【23】で後述するように翌昭和22年の1月3日に日本側に伝達されます)。

【21】枢密院における審議を経て「憲法改正案」に天皇が裁可

(昭和21年10月29日)

このような極東委員会と総司令部(GHQないしアメリカ政府)の対立をよそに、帝国議会の審議を通過した憲法改正案は枢密院の審議を経て、10月29日に天皇の裁可が与えられ、明治憲法(大日本帝国憲法)上の憲法改正手続きがすべて終了します。

【22】「日本国憲法」として交付される

(昭和21年11月3日)

明治憲法(大日本帝国憲法)が改正され、日本国憲法(現行憲法)が交付されます。

【23】マッカーサーが吉田首相に「憲法施行後1~2年以内の憲法改正の検討」を提案し「憲法改正の国民投票」を容認する旨も伝える

(昭和22年1月3日)

【20】で述べたように、極東委員会では昭和21年10月1日、日本政府と日本国民に対して新憲法の再検討を促す「日本の新憲法の再検討の規定」の政策決定が決議されていましたが、その決定は翌年の1月3日に総司令部(GHQ)から日本側に初めて伝達されます。

この際、マッカーサーも吉田首相に対し書簡で、憲法施行後1,2年以内の憲法改正の検討を提案し、合わせて憲法改正のための国民投票も容認する旨を伝えています(※注17)。

ただし、後述するように、憲法改正の世論は盛り上がらず、政府も憲法改正に関する積極的な措置を取らなかったことから、日本側において憲法の再検討に関する具体的な行動が取られることはありませんでした。

【24】極東委員会が決定した「日本の新憲法の再検討に関する規定」が新聞紙上で日本国民に向けて公表される

(昭和22年3月27日)

極東委員会が日本政府と日本国民に対して新憲法の再検討を促す「日本の新憲法の再検討の規定」は3月27日付けの新聞に掲載される形で日本国民に対しても公表されましたが、国民の間で憲法改正の議論が盛り上がることはありませんでした。

【25】日本国憲法が施行される

(昭和22年5月3日)

5月3日に日本国憲法が施行されます。

【26】マッカーサーが再度、憲法の再検討を促す申入れを行う

(昭和23年)

前年(昭和22年)1月の日本政府への憲法の再検討に関する申し入れ以降、日本政府が憲法改正に関する検討を進めなかったことから、マッカーサーは再度、日本政府に対して憲法改正を検討するよう申入れを行いましたが、その申し入れに対しても日本政府は積極的な措置を取りませんでした(※注16)。

憲法改正に関する世論の積極的な支持がなかったことから、日本政府内における憲法改正の議論は立ち消えとなったようです(※注17)。

なお、この点の詳細については『国民投票を経ていない現行憲法は制定手続に不備があるといえるか』のページで詳しく解説しています。

【27】吉田首相が衆議院外務委員会で「政府において憲法改正の意思はない」旨の答弁を行う

(昭和24年4月20日)

昭和24年4月20日の衆議院外務委員会において、吉田首相が「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁しました。

【注釈】

  • ※注1:戦後日本の占領管理と占領軍(GHQ)の指揮等を行うために設けられた連合国11か国の代表者から成る日本占領統治の最高政策決定機関
  • ※注2:連合国軍最高司令官総司令部。極東委員会の下部組織で日本の占領政策を実施した連合国軍の機関。マッカーサーが最高司令官。
  • ※注3:芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店 23頁参照
  • ※注4:芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店 24頁より引用
  • ※注5:佐藤達夫「日本国憲法成立史第1巻」有斐閣 394頁(※衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』6頁参照)
  • ※注6:衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』6頁参照
  • ※注7:ポツダム宣言は連合国が日本政府に行った無条件降伏の一方的命令ではなく連合国と日本の双方を拘束する一種の休戦協定であると解されており、またその内容には「国民主権の採用」「基本的人権の確立」など明治憲法の改正の要求を含むものと考えられていることから、日本政府がポツダム宣言を受け入れている以上、連合国側が日本側から提示される憲法改正案がポツダム宣言の趣旨に合致しないと判断した場合には、ポツダム宣言を遵守することを日本側に求める条約上の権利を有していたものと考えられています(芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店27~28頁参照)。
  • ※注8:芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店25頁、衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』3頁参照
  • ※注9:衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』4頁参照
  • ※注10:この際の出来事を松本丞治が後に「押し付けられた」と語ったことがいわゆる「押しつけ憲法論」が議論される端緒になります。
  • ※注11:衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』5頁参照
  • ※注12:新選挙法で初の総選挙(第22回総選挙)|昭和毎日(http://showa.mainichi.jp/news/1946/04/22-114e.html)
  • ※注13:衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』45頁資料9参照
  • ※注14:高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材 306頁参照
  • ※注15:衆議院憲法調査会「憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)第5編第6章75頁より引用
  • ※注16:衆議院憲法調査会「憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)第5編第6章75頁参照
  • ※注17:衆議院憲法審査会事務局『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)』9頁参照
  • ※注18:西修「日本国憲法の誕生」川出書房新社 85頁参照
  • ※注19:高橋和之「立憲主義と日本国憲法」放送大学教材 305~306頁、伊藤真「憲法問題 なぜいま改憲なのか」PHP新書155~157頁参照
  • ※注20:GHQ草案 1946年2月13日|国会図書館(www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/076shoshi.html)参照