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日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要

【9】「GHQ草案(総司令部案)」が日本政府に提示される

(昭和21年2月13日)

【8】で述べたように、毎日新聞にスクープされた「松本案」の保守的な内容に驚いた総司令部(GHQ)は独自の憲法草案の起草に着手したわけですが、その際、最高司令官であるマッカーサーはホイットニー民政局長に対して起草する憲法草案の中に三つの原則を入れるように命じました。

その三つの原則がいわゆる「マッカーサー三原則(マッカーサーノート)」と呼ばれるものになります。

【いわゆる「マッカーサー三原則(マッカーサーノート)」】

  1. 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。天皇の義務及び機能は、憲法に基づき行使され、憲法の定めるところにより、人民の基本的意思に対し責任を負う。
  2. 国家の主観的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本の陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦権も日本軍には決して与えられない。
  3. 日本の封建制度は、廃止される。皇族を除いて華族の権利は、現在生存するもの一代以上に及ばない。華族の授与は、爾後どのような国民的または公民的な政治的権力を含むものではない。予算の型は、英国制度に倣うこと。

※以上、芦部信喜「憲法(第六版)」岩波書店24~25頁より引用


※なお、マッカーサー三原則については国会図書館のサイトでも確認することができます。

マッカーサーから「マッカーサー三原則(マッカーサーノート)」を受け取ったホイットニー民政局長はケーディス民政局次長と民生局員を招集し、この「マッカーサー三原則」に沿った憲法改正草案を起草するよう指示します。

【※戦争放棄条項はマッカーサーノートが起源ではない?】

「マッカーサー三原則(マッカーサーノート)」ではその原則の2項において「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つが謳われていますので、一見すると現行憲法の9条はマッカーサーが最初に起案したようにも見受けられます。

しかし、このマッカーサーノートをホイットニーが受け取った日(2月3日)から10日前にあたる1月24日に、当時の幣原首相がペニシリンを手配してくれたお礼を述べるためにマッカーサーを訪れた際、同様の趣旨(戦争の放棄等)をGHQ草案(いわゆる総司令部案)に盛り込むようマッカーサーに対して提案した経緯が見受けられることから、その幣原首相の提案がマッカーサー三原則のヒントになったという指摘もなされています(※注19)。

▶ 憲法9条の戦争放棄と戦力不保持が日本人のオリジナルである理由

そうして起草されたのが「GHQ草案(総司令部案)」です。

【GHQ草案(総司令部案)の主な内容】

  1. 国民主権と天皇について
    主権をはっきり国民に置く。天皇は「象徴」として、その役割は社交的な君主とする。
  2. 戦争放棄について
    マッカーサー三原則における「自己の安全を保持するための手段としての戦争」をも放棄する旨の規定が削除された(※GHQ民生局がマッカーサーの指示に従わず「自衛戦争を放棄」する部分を削除した理由については→憲法9条の「自衛戦争の放棄」がアメリカの押し付けではない理由)。
  3. 国民の権利及び義務について
    (1)現行憲法の基本的人権がほぼ網羅されていた。
    (2)社会権について詳細な規定を設ける考えもあったが、一般的な規定が置かれた。
  4. 国会について
    (1)貴族院は廃止し、一院制とする。
    (2)憲法解釈上の問題に関しては最高裁判所に絶対的な審査権を与える。
  5. 内閣について
    内閣総理大臣は国務大臣の任免権が与えられるが、内閣は全体として議会に責任を負い、不信任がなされた時は、総辞職するか、議会を解散する。
  6. 裁判所について
    (1)議会に三分の二の議決で憲法上の問題の判決を再審査する権限を認める。
    (2)執行府からの独立を保持するため、最高裁判所に完全な規則制定権を与える。
  7. 財政について
    (1)歳出は収納しうる歳入を超過してはならない。
    (2)予測しない臨時支出をまかなう予備金を認める。
    (3)宗教的活動、公の支配に属さない教育及び慈善事業に対する補助金を禁止する。
  8. 地方自治について
    首長、地方議員の直接選挙制は認めるが、日本は小さすぎるので、州権というようなものはどんな形のものも認められないとされた。
  9. 憲法改正手続きについて
    反動勢力による改悪を阻止するため、10年間改正を認めないとすることが検討されたが、できる限り日本人は自己の政治制度を発展させる権利を与えられるべきものとされ、そのような規定は見送られた。

(※出典:「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院|31~32頁を基に作成)

この総司令部(GHQ)が作成した「GHQ草案(総司令部案)」は、2月13日にマッカーサーと吉田茂外務大臣や松本丞治国務大臣ら出席のもと行われた会談(いわゆる「2月13日会談」)の際、総司令部(GHQ)から日本政府に提示されました。

会談の際、総司令部から日本政府に対して、「松本委員会の提案は全面的に承認すべからざるもの」であり「GHQ草案(総司令部案)を最大限に考慮して憲法改正に努力してほしい」という趣旨の説明がなされたようです(※注8)。

「憲法草案はGHQが1週間で作った」は事実か?

なお、この「GHQ草案(総司令部案)」はわずか1週間程度の短期間で作成されたことになりますが、総司令部では前年の昭和20年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められていたようですので(※注9)、GHQ草案(総司令部案)の骨子となる憲法草案は昭和21年2月の段階で既にある程度形作られていたものと解されます。ですから「GHQ草案(総司令部案)は短期間に”やっつけ仕事”で作成された中途半端な代物だ…」などという批判は妥当な意見とは言えないでしょう(※詳しくは『「憲法草案はGHQが1週間で作った」が明らかに嘘である理由』のページで解説しています)。

なお、この点については憲法学の必読書とされる芦部先生の書籍でも以下のように指摘されています。

「総司令部が草案作成を急いだ最大の理由は、二月二六日に活動を開始することが予定されていた極東委員会(連合国11か国の代表者からなる日本占領統治の最高機関)の一部に天皇制廃止論が強かったので、それに批判的な総司令部の意向を盛り込んだ改正案を既成事実化しておくことが必要かつ望ましい、と考えたからだと言われる。もっとも、草案の起草は一週間という短期間に行われたが、総司令部では、昭和二十年の段階から憲法改正の研究と準備がある程度進められており、アメリカ政府との間で意見の交換も行われていた。一九四六年一月一一日に総司令部に送付された「日本統治制度の改革」と題するSWNCC-二二八(国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書二二八号)は、総司令部案作成の際の指針となった重要な文書である(以上、芦部信喜・高橋和之補訂「憲法(第六版)」岩波書店25~26頁より引用)」

そして、このGHQ草案(総司令部案)を提示された政府はその後、昭和21年の2月26日の閣議において正式にGHQ草案に沿った新憲法の草案を起草することを決定しています(※注20)。

天皇制を守るためGHQ草案を受け入れた?

なお、当時の日本政府がGHQ草案を受け入れたことに関して「当時の日本政府は天皇制の廃止を迫られていたから天皇制を守るために仕方なくGHQ草案を受け入れたんだ」というような主張をする人がいますが、当時のアメリカ政府の文書には天皇制の存続は日本国民の自由な選択に委ねる方針が記述されていますし、当時のマッカーサーもむしろ天皇の戦争責任を回避して天皇制を存続させることに躍起になっていたことが当時の資料から明らかになっていますので、当時の日本政府がマッカーサーやアメリカ政府から天皇制の廃止を求められていたというような事実はなかったものと思われます(※詳細は→天皇制を守るため仕方なく押し付け憲法を受け入れた…が嘘の理由)。

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≪第2段階≫
日本政府が総司令部(GHQ)との折衝で憲法草案を作成し、帝国議会の審査を経て新憲法が制定されるまで

【10】日本政府が総司令部案に基づく「憲法草案(三月二日案)」を作成し総司令部に再提出する

(昭和21年3月4日)

(GHQ)から提示された「GHQ草案(総司令部案)」を受け取った日本政府はいったんは総司令部に対して再考を求めますが、総司令部から一蹴されたため(※注10)やむなく「GHQ草案(総司令部案)」に基づいた憲法草案を再度検討することになります。

そうして起草されたのがいわゆる「三月二日案」と呼ばれる憲法草案になります。

※この「三月二日案」の具体的な内容も衆議院の憲法審査会が編纂した『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院』の33~38頁に「資料6」として挙げられていますので興味がある人は一読しておいた方がよいでしょう。

この「三月二日案」は「GHQ草案(総司令部案)」の内容を基軸に据えながら日本側の主張(松本委員会作成の憲法改正要綱)を可能な限り織り込むことを意図して作成された点に特徴がありますので、「三月二日案」には「GHQ草案(総司令部案)」と相当程度の点で相違点が見られます。

【「三月二日案」と「GHQ草案(総司令部案)」の主な相違点】

  1. 前文
    「総司令部案」では「前文」が記載されていましたが「三月二日案」ではそのすべてが削除されました。
  2. 天皇
    「総司令部案」で天皇に関する部分は「sovereign will of the people(人民の主権的意思)」とされていましたが、「三月二日案」では「日本国民至高の総意」と修正されました。
    これは当時の日本政府としては「天皇主権」の国体護持が主命題としてあったため、「国民主権」を明確に規定する「総司令部案」は望ましくないと考えられたためと思われます。
  3. 戦争の廃止
    戦争の廃止に関する条文は「三月二日案」と「総司令部案」で特段の違いはないようです。なお、参考として双方の草案を挙げておきましょう。
    ≪総司令部案≫
    国民の一主権としての戦争はこれを廃止す他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す
    陸軍、海軍、空軍又はその他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるべし
    ≪三月二日案≫
    戦争を国権の発動と認め武力の威嚇又は行使を他国との間の争議の解決の具とすることは永久に之を廃止す。
    陸海空軍その他の戦力の保持及国の交戦権は之を認めず。

(※読みやすくするため「カタカナ文語体」を「ひらがな表記」に変更しています。)

※その他の相違点については衆議院の憲法審査会が作成した『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院』の33~38頁「資料6」を参照してください。

松本委員会が作成したこの「三月二日案」は、3月4日に総司令部に提出されることになります。

【11】日本政府と総司令部の間で徹夜の折衝が行われる

(昭和21年3月4日~5日)

日本政府から「三月二日案」の提出を受けた総司令部(GHQ)は、早急に確定案を策定したい旨日本政府に打診し、日本政府と総司令部の間で4日から5日にかけて徹夜での折衝(※ただし日本側はこの作業の大部分を佐藤達夫法制局第一部長一人で対応したとされています(※注11)が行われることになります。

【12】日本政府と総司令部の合意に基づく「憲法改正草案要綱」が国民に公表される

(昭和21年3月6日)

日本政府と総司令部(GHQ)の徹夜での折衝が行われた後の3月6日、日本政府と総司令部の双方が合意した「憲法改正草案要綱」が国民に向けて公表されます。

なお、この「憲法改正草案要綱」では、「総司令部案」で記載されていた前文がほぼそのままの形で完全に復活したほか、国民の権利義務や、国会、内閣、司法、会計等の項目でいくつかの修正がなされていますが、戦争放棄に関する項目については日本側が提示した「三月二日案」のものに対して総司令部から別段の異議は出なかったようです。

※この「憲法改正草案要綱」の具体的な内容も衆議院の憲法審査会が作成した『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院』の39~42頁に「資料7」として挙げられていますので興味がある人は一読しておいた方がよいでしょう。

【13】衆議院総選挙実施

(昭和21年4月10日)

【5】で述べたように幣原内閣は昭和20年12月18日に衆議院を解散していましたので、その解散総選挙(第22回衆議院議員総選挙)が翌21年の4月10日に実施されることになりました。

この4月10日の衆院選の争点は【5】でも述べたように、戦争中の軍部の地位を支えた翼賛議員(旧大政翼賛会出身議員)によって構成される衆議院を刷新する点にありましたが、3月6日に国民に向けて公表された「憲法改正草案要綱」に基づく憲法改正に関する国民の意識を問うという意味合いもあったようです。

もっとも、当時の日本は一面の焼け野原で国民はその日の糧を得るために汲々としており「憲法よりメシだ」と揶揄される状況にあったため、「総選挙の題目として憲法改正問題は大きく取り上げられてはなかった(※注6)」のが実情であったものと理解されています。

ただし、この衆院選挙の投票率は男性79%、女性67%にも上った(※注12)そうですから国民の関心は相当程度高かったものと推測されます。

【14】「憲法改正草案要綱」から更に修正を加えた「憲法改正草案(内閣草案)」が国民に公表される

(昭和21年4月17日)

【12】で述べたように日本政府と総司令部(GHQ)が合意した「憲法改正草案要綱」は3月6日に国民に向けて公表されていましたが、それは未だ「要綱」にすぎず成文化されていませんでしたので、その後も引き続いて成文化の作業と細部の修正が日本政府と総司令部(GHQ)の間で継続されていました。

そうして、ひらがな口語体の条文で作成された「憲法改正草案(内閣草案)」が完成し、衆院選の総選挙の投票が行われた1週間後の4月17日に国民に向けて公表されることになります。

※この「憲法改正草案(内閣草案)」の具体的な内容の一部も衆議院の憲法審査会が作成した『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院』の43~44頁に「資料8」として挙げられていますので興味がある人は一読しておいた方がよいでしょう。

当時の国民は憲法草案をどう評価していたか?

1946年(昭和21年)の4月17日に国民に公表された憲法改正草案(内閣草案)について当時の国民がどのような評価を持っていたかは、当時毎日新聞が行った世論調査(新聞掲載は同年5月27日)が参考になります。

2000人から回答を聴取した当時の世論調査では、現行憲法の象徴天皇制については「支持する:1702人(85%)」「支持しない:263人(13%)」「不明:35人(1.7%)」、憲法9条の戦争放棄条項の必要性については「必要がある:1395人(70%)」「必要ない:568人(28%)(※自衛権まで放棄する必要がない:101人、前文のみで足りる:13人)」、憲法9条に修正を加えるべきかについては「修正の必要なし:1117人(56%)」「自衛権を保留するよう修正すべき:278人(14%)」という回答が得られたようです(※憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院46~47頁参照)。

この世論調査を見る限り、現行憲法の天皇制については当時の国民の7割以上が、自衛戦争をも放棄する現行憲法の9条については当時の国民の5割~6割近い人たちが賛成し歓迎していたということが推測できます。

【15】第一次吉田内閣成立

(昭和21年5月22日)

【13】で述べた衆院選の結果、昭和21年の5月22日に吉田茂を首相に据える第一次吉田内閣が成立します。

【16】「憲法改正草案(内閣草案)」が「帝国憲法改正案」として衆議院に提出される

(昭和21年6月20日)

4月17日に国民に向けて公表された「憲法改正草案(内閣草案)」は、明治憲法(大日本帝国憲法)の手続きに従って枢密院での可決を経た後に帝国議会の衆議院に「帝国憲法改正案」として提出されます。

【17】若干の修正を加えた「帝国憲法改正案」が衆議院において圧倒的多数をもって可決される

(昭和21年8月24日)

帝国議会の衆議院に提出された「帝国憲法改正案」は、衆議院で若干の修正が加えられることになりますが、主な修正箇所は第1条の「国民主権」の部分と第9条の「平和主義(戦争放棄)」の部分でしょう。

第1条の「国民主権」の部分については「帝国憲法改正案」においては「天皇」を「日本国民至高の総意に基づく」ものとして明確に「国民主権」が明記されていませんでしたが、衆議院修正では「天皇」を「主権の存する日本国民の総意に基づく」として明確に「国民主権」を明文化しています。

また、第9条の「平和主義(戦争放棄)」の部分については「日本がやむを得ず戦争を放棄するような感じを与え、自主性に乏しい」という意見が強かったため(※注13)1項の文頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文章を、第9条2項の文頭に「前項の目的を達するため」の文言を、挿入したようです(※いわゆる「芦田修正」)。

なお、第9条2項の文頭に「前項の目的を達するため」という文を加筆した趣旨については、この文の試案を作成した芦田均小委員長は10年後の1957年(昭和32年)12月5日に開催された内閣の憲法調査会において「…原案では無条件に戦力を保有しないとあったものが、一定の条件の下に武力を持たないことになる。日本は無条件に武力を捨てるものではない。…」と発言し憲法9条2項の文頭に「前項の目的を達するため」と挿入したのは「日本が自衛戦争をすることができるようにするため、自衛のための武力を保有することができるようにするため」だったと回答している事実があります(※注13)(※この事実があるため、憲法9条を「9条の下でも自衛のための戦力は持つことができるんだ」とか「9条の下でも自衛戦争はできるんだ」と解釈する人が出てきました)。

しかし、この帝国議会における衆議院の修正審議で芦田均当人は「原案の意味の修正を意図するものではない」との説明(つまり、憲法9条は自衛戦争を放棄していて自衛のための戦力も保持することができないと解釈されるもので、自衛戦争ができるとか自衛のための戦力の保持が認められるなどという解釈はなりたたないということ)が了解されて修正が受け入れられた経緯がありますので(※注14)、政府からは衆議院と貴族院の審議を通じて原案と趣旨において差はないと説明がなされています(※注13)。

(※そのため、芦田修正を基にした「9条の下でも自衛戦争はできる」「9条の下でも自衛のための戦力を持つことはできる」という解釈は学説の世界だけでなく歴代の政府も採用していません。この点の詳細は→芦田修正に基づく憲法9条の解釈はなぜ採用されないのか

【国民主権の修正部分】

  • 帝国憲法改正案
    天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、日本国民至高の総意に基づく。
  • 衆議院修正後
    天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

【平和主義(9条)の修正部分】

  • 帝国憲法改正案
    国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
    陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。
  • 衆議院修正後
    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
    前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

※その他の修正点については衆議院の憲法審査会が作成した『「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院』の45~47頁「資料9」を参照してください。

このような若干の修正協議を経た昭和21年8月24日、「帝国憲法改正案」は衆議院で賛成421、反対8の圧倒的多数で可決され、貴族院に回付されることになります。

ちなみに、この衆議院議決における「賛成421、反対8」の内訳は下記のとおりです。

【昭和21年8月24日衆議院採決(帝国憲法改正案修正可決)の内訳】

  • 賛成
    日本自由党(131名)
    日本進歩党(99名)
    日本社会党(89名)
    協同民主党(40名)
    新政会(36名)
    無所属倶楽部(24名)
    無所属(2名)
  • 反対
    新政会(1名)
    無所属倶楽部(1名)
    日本共産党(6名)

(※出典:「日本国憲法制定過程」に関する資料(衆憲資第90号)|衆議院|7頁を基に作成)

憲法の制定過程
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