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渡航制限国でのジャーナリスト拉致・人質事件は自己責任なのか

内戦やテロなど、渡航した場合に生命・財産の危機が生じる国や地域については、外務省が渡航に制限を設けて渡航予定者に注意惹起しています。

制限の程度は、渡航者に注意惹起するだけの「レベル1」が一番弱く、不要不急の渡航自粛を促す「レベル2」、渡航の自粛を要請する「レベル3(渡航中止勧告)」、渡航を禁止する「レベル4(退避勧告)」と順に危険度が高くなりますが、「レベル1」の渡航制限であっても危険であることに変わりありませんので外務省から渡航制限が出ている限り普通の旅行者であれば渡航を見直すべきでしょう。

参考→外務省海外安全|https://www.anzen.mofa.go.jp/

ところで、このような渡航制限の出されている国や地域においてジャーナリストが武装勢力(又は当該国政府軍や反政府勢力等)に拘束され人質にされてしまうという事件がニュースなどで報道されることがあります。

現地に取材に赴いたジャーナリストが、武装組織に拉致され身代金を要求されるというような、あの類の事件です。

このような事件が起きると、ヤフーニュースのコメント欄やツイッターなどに決まって「渡航禁止区域に指定されている国に入るのが悪い!」「国に迷惑をかけるな!」「自業自得だ!」と厳しい意見が並びますが、私はその意見には同意できません。

なぜなら、そのような自己責任論は、ジャーナリストの取材に限って言えば全く当てはまるものではないと考えるからです。

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危険なところで取材するのがジャーナリズム

なぜ、ジャーナリストが渡航制限国や地域で拉致・人質とされた事件を自己責任論で片づけるのが間違いかというと、そもそも渡航制限となるような危険地帯で取材するところにジャーナリズムの本質があるからです。

ジャーナリストがジャーナリストとして存在できるその所以は、そのジャーナリストが我々一般市民が取材できないような危険地帯に自ら身を投じ、自らの危険を顧みず取材してくれるところにあります。

一般市民が容易に取材して知ることができる内容であれば、何もジャーナリストに高いお金を払ってまで取材してもらう必要はないからです(※一般市民が個々のジャーナリストにお金を払っているわけではありませんが、”雑誌を買う””広告の入ったテレビ番組やネット記事を閲覧する”という意味で一般市民もジャーナリストに間接的に金銭を支払っていることになります)。

ジャーナリストは一般市民が取材できない危険なところまで、自己の知恵や人脈を頼りに取材しに行くのが仕事なわけですから、その使命を誠実に果たしただけのジャーナリストを責めるような言動は認められません。

ジャーナリストの拘束事件を自己責任論で糾弾すると何が起こるか

先ほども指摘したように、ネット上には渡航制限国・地域で拘束されたジャーナリストを自己責任論で糾弾し、その救出について否定的な意見を主張する人が多くいるわけですが、では仮にそのような意見に従って人質となったジャーナリストを自己責任論で見殺しにしてしまうと、どのようにな問題が生じ得るでしょうか?

(1)国家権力のやりたい放題を許容する社会になってしまう

もし仮に渡航制限国・地域で人質にされたジャーナリストを自己責任論で糾弾し救出に向けた努力を何もしなかった場合、待っているのは国家権力のやりたい放題な社会です。

このような形で拘束されてしまったジャーナリストを見殺しにすることは、すなわち「政府が渡航禁止に指定した国や地域には取材に行くな!」という意見を肯定するものになりますが、そうなってしまえば政府がいったん「渡航禁止」と指定した地域には誰も取材に行くことができなくなってしまうでしょう。

しかし、それでは政府が海外において何か国民に知られたくない行動を取りたいと考える場合には、その地域を「渡航禁止」に指定することで国民に知られることなく好き勝手できるようになってしまいます(※参考→ジャーナリストの出国を禁止する旅券返納命令が違憲となる理由)。

たとえば、太平洋戦争や日中戦争の遠因の一つとなった満州における柳条湖事件は、関東軍が南満州鉄道の線路を自ら爆破しておきながら中国軍の犯行とでっちあげることで関東軍の軍事侵攻を正当化したものですが、もし仮に政府が特定の国や地域を「渡航禁止」とすることでジャーナリストの取材を排除できるというのであれば、この現在においても柳条湖事件のような紛争を”でっちあげ”ることで容易に他国の侵略が可能になってしまうでしょう。

今の時代に政府が好き勝手出来ないのは、政府が「渡航禁止」に指定した国や地域にも果敢に命を懸けて取材に赴いてくれるジャーナリストが存在し、そのジャーナリストの取材と報道によって国家権力の暴走に歯止めをかけることができていることも一つの理由なわけですから、そのようなジャーナリストを見殺しにするような意見に同意できないのは当然です。

(2)世界から孤立してしまう

政府が渡航制限した国や地域にジャーナリストが取材に行く行為を否定する風潮が日本という国全体に蔓延してしまうとなれば、日本人は誰も危険な国や地域に取材に行かないということになりかねません。

地球の反対側でどれだけ悲惨な紛争や差別が行われていても、日本人は誰も取材に行かないわけですから、日本国内のテレビや新聞、雑誌やネット記事で報道される海外の情報は、海外の平和なゴシップ記事とスポーツ報道に限られることになるでしょう。

しかし、それでよいのでしょうか?

今現在、世界の紛争地域の悲惨な情景をテレビやネットの映像として見ることができるのは、政府が渡航制限するような危険な国や地域に命懸けで取材に赴いてくれるジャーナリストがいてくれるおかげです。

そのようなジャーナリストがもし「渡航禁止に指定されてるから取材を止めておこう」と考えるような社会が出来上がってしまえば、日本人は地球の裏側でどのような凄惨な蛮行が行われていようとその事実を知ることができなくなってしまうでしょう。

もちろん、ジャーナリストは日本人だけではありませんから、他国のジャーナリストが取材した映像等を買い取って日本で報道すれば事足りるかもしれません。

しかし、それでは他国のジャーナリストが命を落とすのは構わないが日本人ジャーナリストの命を危険にさらすのは許容できないと言っているのと同じです。

また、「今はスマホやデジカメが普及してるんだから現地の人が報道してもらいたいと思うのなら現地の人自身が撮影してユーチューブにアップロードしておけばいいじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、仮にそのような撮影が可能であったとしても、その映像は当事者が撮影した主観的映像であり、ジャーナリズムが求めるような客観的事実の報道とは異なります。

たとえば、シリアの内戦で現地の住民が撮影した映像があったとしても、それを撮影した住民が反政府勢力の人であれば反政府勢力の視点から、政府軍管轄下の住民が撮影した映像であれば政府側の視点から撮影した映像にすぎません。

そのような映像だけを報道で目にするようなことになれば、その映像を撮影した勢力の主張だけを無意識的に刷り込まれてしまうことになり、客観的立場から事実を理解することができなくなってしまいます。

そのような報道しかできないような国家が、果たして国際社会において名誉ある地位を確保することができるでしょうか?

地球の裏側で今現実に起きていることに、「危険だから」という理由だけで目を伏せて事実を知ることを放棄した国民が、果たして世界から尊敬を受けることができるでしょうか?

そのような国家になれば、日本は世界から孤立してしまうだけです。

(3)「自国のことのみに専念」することは憲法に違反する

そもそも我々日本人は、憲法において、世界平和を実現し世界中全ての人々が恐怖と貧困から逃れるため努力しているこの国際社会において「名誉ある地位」を占めること、またその世界平和という崇高な理念の実現のため、国家の総力を挙げて全力で取り組むことを決意し、それを全世界に向けて誓っています。

日本国憲法(前文)から抜粋
(中略)……われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

つまり、日本人は「自国のことのみに専念してはならない」ことを宣誓し、世界から争いを無くすことに全力をかけて取り組むことを全世界の人々に誓約しているわけです。

そのためには当然、世界各地で具体的にどのような紛争や貧困、抑圧や専制が行われ、具体的にどのように生命・身体の危険にさらされている人々がいるのか、第三者的立場から客観的に知っておく必要があります。

世界で起きている現実を客観的第三者的立場から正確に把握し理解できなければ、国際紛争の解決や貧困解消に向けた国際的な提言などできようはずがありませんから、この憲法の理念を実現するためには、政府が「渡航制限」するような危険な国や地域に命を懸けて取材に赴いてくれるジャーナリストは不可欠なのです。

にもかかわらず「政府が渡航制限を決定したから」という理由で一般市民(特にネット民)がジャーナリストの渡航を否定してしまっては、日本人は自国の力で世界中で生じている現実を直視することができなくなってしまうでしょう。

そうなってしまえば、日本は世界の紛争や貧困から目を背け、ただひたすらに自国の経済成長と自国民の安全だけを追い求める「自国のことのみに専念するだけ」の利己的な国家に成り下がってしまいます。

それは当然、「自国のことのみに専念してはならない」と高らかに宣言し、「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と誓約した日本国憲法に違反する態度となるのではないでしょうか。

命懸けで取材してくれているジャーナリストを救済するのは当然

このように、政府が「渡航制限」を決めた国や地域に取材に赴くジャーナリストの渡航を否定する現在の風潮(特にネット民の意見)は、日本を自国の利益だけを追求する利己的な国家に蹴落とす愚行につながるだけであり、日本の将来に何ら利益をもたらすことはありません。

もちろん、国家は自国民の生命と財産を守るためにあるわけですから、政府が危険な国や地域について渡航制限を設け国民の渡航を一定の範囲で制限することは「公共の福祉」の制約として認められるべき余地はあります(日本国憲法第12条)。

そして、ジャーナリストも日本国民である以上、その制約を最大限尊重するべきでしょうから、ジャーナリストであっても安易な考えで取材と称して渡航制限の設けられている国や地域には足を踏み入れるべきではないと思います。

しかし、ジャーナリストが自己の知識と人脈を総動員し十分な準備をしたうえで渡航制限地域に赴くというのであれば、それは私たち国民を代理して、私たちの代わりに命を懸けて取材をしてくれているわけですから、そのようなジャーナリストの意思と行動を尊重してしかるべきでしょう。

そうであれば、仮にそのジャーナリストが何らかの事件に巻き込まれ、人質になってしまった場合には、それがたとえそのジャーナリストのミスによるものであったとしても、国民が全力を挙げて救出に力を尽くすのが当然ではないでしょうか。

これは何も、そのジャーナリストを拘束している武装勢力やテロリストグループの要求する身代金を支払うことを無条件に肯定しているわけではありません。

支払った身代金はその勢力の活動資金になるだけではなく、次の人質拘束への積極的な動機となり得ますから、身代金の支払いには十分な検討が必要でしょう。

しかし、それとジャーナリストの救出を否定し自己責任論で片づけてしまうのとはわけが違います。

拘束されているジャーナリストを救出する手段は、身代金の支払いだけではなく、武装勢力とパイプのある有力者や宗教組織等と連携し交渉の場を設けることで解決を図る手段など、ケースに応じて様々な方法があるでしょうから、そのような努力は最大限に尽くすべきです。

そのような努力すら否定し、テレビで流されるニュース映像を目の端に置きながら「行くなと言われてるところに行く奴が悪い」「命懸けで行ってるんだったら自己責任でしょ」などと突き放してしまうのは、あまりにも自己の安全、自国の利益だけを求める利己的なものと感じます。

ニュースやネットで流される紛争や貧困地域の映像や記事は、国家が渡航制限するような危険な国や地域に、自己の命の危険を顧みず果敢に足を踏み入れてくれる勇敢なジャーナリストがあってこそ、存在しているものです。

そのようなジャーナリストの救出を怠り、貴重な人材を失うようであれば、日本はただ漫然と自国民の利益だけを追求する利己的な愚民国家に成り下がってしまう危険性があります。

だからこそ、人質となってしまったジャーナリストについては、自己責任論で突き放してしまうのではなく、国の総力を挙げて救出すべきと言えるのです。

憲法前文
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