憲法の改正を積極的に推し進めている人の中に、日本国憲法がアメリカや連合国に「押し付けられた」ものだと主張して憲法改正を正当化する、いわゆる「押しつけ憲法論者」がいます。
このような人たちが主張する押し付け憲法論が必然的に論理的な矛盾をはらむものであり、憲法改正の議論として有害無益なことについては『「押しつけ憲法論」を明らかに嘘だと批判し反論できる15の理由』のページで詳しく解説していますが、そもそもなぜ彼らが「押し付け憲法論」を信奉したがるかというと、それは現行憲法の制定過程で当時のGHQ(連合国軍総司令部)やマッカーサーが一定の関与をしている事実があるからです。
現行憲法の日本国憲法は形式的には明治憲法(大日本帝国憲法)の改正手続を経て制定されていますが、その際に帝国議会の衆議院に提出された憲法草案の作成にはGHQ民生局が一定の範囲で関与しています(※参考→日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要)。
そのため、いわゆる押しつけ憲法論者の人たちは、この「GHQ民生局が憲法草案の作成に関与した」という事実を取り上げて、現行憲法がアメリカや連合国、あるいはマッカーサーやGHQから「押し付けられた」ものだなどと主張するわけです。
では、このような押しつけ憲法論が無意味・無価値な主張であるとしても、そもそもGHQ民生局はなぜ憲法草案の元になるGHQ草案を作成して日本側に提示することになり、また当時の日本政府もそのGHQ草案をたたき台にして憲法草案を作成し現行憲法の制定手続きを進めていくことになったのでしょうか。
日本国憲法の制定にGHQやマッカーサーがなぜ関与できたのか
現行憲法の制定過程にGHQ民生局が関与した理由を考える前提として、そもそもなぜ日本の憲法制定作業(明治憲法の改正作業)にGHQやマッカーサーが関与することができたのか、言い換えれば、そもそも日本の憲法制定作業にGHQやマッカーサーが関与することに法的な問題はなかったのかという点について疑問を持つ人もいるかもしれませんので、その点を少し解説しておきましょう。
(1)ポツダム宣言を受諾した日本において憲法改正が不可避だったこと
先の戦争(太平洋戦争)が終結したのは1945年8月15日と一般的には理解されていますが、その際に日本はポツダム宣言を受諾する形で無条件降伏を承諾しています(※ただしポツダム宣言の受諾は1945年8月14日、降伏文書の調印は同年9月2日です)。
この点、ポツダム宣言は旧日本軍に対して無条件降伏を求めるものでしたが、そのポツダム宣言には日本軍の武装解除だけでなく、以下に挙げるように「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去」すべきことや「基本的人権の保障を確立」させること、また「平和的傾向を有し責任ある政府を樹立」することなどが明記されていました。
【ポツダム宣言(抄)】
10 (中略)日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし 言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし
12 前記諸目的が達成せられ且つ日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立せらるるにおいては連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収せらるべし
つまり当時の日本は、「民主主義の徹底」「人権保障の確立」「平和国家の樹立」という3つを基軸に据えた国家に国政を転換することを受け入れたうえでポツダム宣言を受諾していたわけです。
しかし、当時の明治憲法(大日本帝国憲法)は、天皇を主権者(統治権の総覧者)としていて国民に主権はありませんでしたから「民主主義の徹底」としては不十分でした。民主主義は国民に主権が与えられてこそ民主主義として機能しうるものであって、国民主権無くして民主主義の徹底はあり得ないからです。
また、明治憲法でも基本的人権の保障はありましたが、それは「法律ノ定ムル所ニ従ヒ…」「法律ノ範囲内ニ於テ…」「法律ニ依ルニ非スシテ…」などと法律の留保が付いていて国家権力が法律で認めた範囲でだけ保障される不十分なもの(国家権力が法律でいくらでも人権を制限することができるもの)でしたので「基本的人権の保障」という点でも十分ではありませんでした。
「平和国家の樹立」の点も同様で、明治憲法では神格化された天皇に軍の統帥権が与えられていましたから、一部の軍人が傀儡的に統帥権を操作できる余地を残した明治憲法をそのまま存続させることはできない状況にありました。
つまり、ポツダム宣言自体には「憲法を改正しろ」と直接的に明記されてはいませんでしたが、当時の明治憲法(大日本帝国憲法)がポツダム宣言の要求にこたえるものでなかった以上、ポツダム宣言を受諾した当時の日本は明治憲法(大日本帝国憲法)の改正が不可避な状況に置かれていたということになるのです
(2)連合国はポツダム宣言の法的拘束力に基づいて日本側に憲法改正を求める権利を有していたこと
このように、ポツダム宣言を受諾して敗戦が確定した当時の日本は明治憲法(大日本帝国憲法)の改正が不可避な状況に置かれていたわけですが、その一方で、連合国側も日本政府に対して明治憲法(大日本帝国憲法)の改正を迫ることができる権利を有していました。
ポツダム宣言は日本側に無条件降伏を迫るだけのものではなく、連合国と日本を相互に拘束する休戦条約的な性質も併せ持っていたからです(※芦部信喜著、高橋和之補訂「憲法(第6版)」27頁参照)。
ポツダム宣言は連合国と日本政府との間で結ばれていますから、その国際法的な拘束力は当然、連合国にも及ぶことになるので、連合国側も日本に対して「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去しろ!」とか「基本的人権の保障を確立させろ!」とか「平和的傾向を有し責任ある政府を樹立しろ!」ということを求める正当な国際法上の権利を持っていました。
しかし、先ほど説明したように、明治憲法(大日本帝国憲法)はそれを満たすものではなく憲法の改正は不可避でしたから、連合国側は日本に対して憲法の改正を求めないとポツダム宣言で述べられた日本における国政の転換は図れません。
ですから、当時の連合国側も、日本に対して「明治憲法を改正して”民主主義の徹底”と”人権保障の確立”と”平和国家の樹立”を実現しろ!」ということを求めることができる国際法的に正当な権利を有していたということになるのです。
(3)極東委員会が発足するまではマッカーサーとGHQに日本の占領政策に関する実質的な権限があったこと
このように、当時の連合国はポツダム宣言に基づいて明治憲法の改正を求めることのできる国際法的な権利を有していましたが、ポツダム宣言受諾後の日本における占領政策は、日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日の当日に連合国最高司令官(SCAP)に就任したマッカーサー元帥と、同年8月24日に横浜に設置された連合国総司令部(GHQ)に委ねられていました。
連合国の占領政策は、極東委員会(日本の占領政策に関する最終意思決定機関)が設置された以降は極東委員会の出す政策決定によって主導されることになりましたが、極東委員会の第1回会合が開かれた1946年2月26日までは、SCAPにその権限があるとアメリカ政府やマッカーサーは理解していましたので、極東委員会が発足するまではマッカーサーとGHQが中心的に日本の占領政策を主導していたのです(※憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院28~29頁参照)。
つまり、ポツダム宣言に直接的に憲法改正が明記されていたわけではなかったものの、ポツダム宣言が求める国政の転換には明治憲法の改正は不可避であり、連合国はその改正を求める国際法上の権利を有していて、その連合国の占領政策を実行する権限がSCAPとGHQに事実上存在していた事実があったわけです。
そしてこのような事情の下で、当時の日本は新憲法の制定作業(明治憲法の改正作業)に着手することを迫られている状況にありました。
ですから、そのポツダム宣言で述べられた範囲でマッカーサーやGHQが、当時の日本政府に対して明治憲法(大日本帝国憲法)の改正を迫ったこと自体は、国際法上の当然の権利を行使したものであってそこに法的な違法性はなかったと言えるのです(※なお、ハーグ陸戦法規違反だという意見については→日本国憲法はハーグ陸戦条約に違反している…が嘘と言える理由)。
日本国憲法の制定にGHQやマッカーサーが関与した理由
では、当時のマッカーサーやGHQが日本政府に対して憲法の改正を求めることのできる法的な権利と権限を有していたとしても、具体的にどのような経緯でマッカーサーやGHQは日本の憲法改正作業に関与することになったのでしょうか。
(1)マッカーサーやGHQ民生局が当初から憲法草案の作成を予定していたわけではない
この点、当時のマッカーサーやGHQがそのポツダム宣言によって発生した法的権利と権限を強権的に行使して日本側に憲法改正を迫ったのだろうと思う人もいるかもしれませんが、実際はそうではありません。
先ほど挙げたポツダム宣言を見てもわかるように、ポツダム宣言では「日本国国民の自由に表明せる意思に従い…」と明記されており、日本国民の自由な意思の表明として憲法改正を行うことを制限してまで連合国側(マッカーサー・GHQ)が憲法の改正とその新憲法の内容を強要してしまえば、ポツダム宣言の法的拘束力を超えてしまうことになり連合国側が国際社会から非難されてしまうからです。
この点は当時のアメリカ政府の方針も同じで、アメリカ政府がマッカーサーに対して1945年8月29日に通達した「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」においても、下の引用で挙げるように、日本の占領政策の実施については「天皇ヲ含ム日本政府機構及諸機關ヲ通ジテ其ノ權限ヲ行使スベシ」として間接的な管理を行うべきことを指示していました。
日本社會ノ現在ノ性格竝ニ最小ノ兵力及資源ニ依リ目的ヲ達成セントスル米國ノ希望ニ鑑ミ最高司令官ハ米國ノ目的達成ヲ滿足ニ促進スル限リニ於テハ天皇ヲ含ム日本政府機構及諸機關ヲ通ジテ其ノ權限ヲ行使スベシ日本國政府ハ最高司令官ノ指示ノ下ニ國内行政事項ニ關シ通常ノ政治機能ヲ行使スルコトヲ許容セラルベシ
※出典: 憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院 9頁より引用(※赤色着色は当サイト管理人)
また、アメリカ政府は戦争終結前の早い段階から日本における軍国主義的統治体制の根本的な原因が明治憲法の欠陥にあることに気付き、憲法改正に関する研究を重ねてその研究成果を「日本統治制度の改革」という文書でまとめ、1946年1月11日にマッカーサーへの実質的な指令(SWNCC-228)として送付していますが、そのSWNCC-228においても、その結論部分において「日本国民の自由意思を表明するごとき方法で、憲法の改正または憲法の起草をなし、採択をすること」と明記して、日本の憲法改正が日本国民の自由意思によって行われるよう細心の配慮をするように指示しています(※憲法制定の経過に関する小委員会報告書の概要(衆憲資第2号)|衆議院24頁参照)。
こうしたポツダム宣言の趣旨やアメリカ政府の対日方針もあったことから、マッカーサーも当初はGHQの側で憲法草案の作成を行うことまでは考えていませんでした。
実際、マッカーサーは1945年10月11日に当時の幣原首相の訪問を受けた際、憲法改正の必要がある旨の示唆を行いましたが、その際は「マッカーサーの五大改革要求」を提示したにとどまり、新憲法の具体的な内容にまで踏み込むことはしていません(※参考→日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要)。
ですから、連合国もアメリカ政府もマッカーサーも、当初は日本の憲法草案作成に口を出そうとは全く考えていなかったことは明らかと言えます。
(2)日本政府の松本委員会はポツダム宣言の趣旨と民主主義の本質を理解できなかった
このように、マッカーサーやGHQはポツダム宣言の趣旨やアメリカ政府の対日方針等もあったことから、当初は新憲法の草案作成は全て日本政府側に丸投げしていました。
そのため当時の幣原首相は、マッカーサーから憲法改正の示唆を受けた後の1945年10月25日に政府内に国務大臣の松本丞治を委員長に据えた憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置して憲法草案の作成にあたらせています(※参考→日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要)。
しかし、ここで一つの問題が生じてしまいました。松本委員会を組織した委員たちが、ポツダム宣言の趣旨を十分に理解することができず、天皇主権主義をそのまま温存した憲法草案を作成してしまったからです。
松本委員会には憲法学者の清水澄や美濃部達吉、野村淳治など帝大の教授や法制局の職員など当時の憲法学の専門家が多数招聘されて議論が交わされましたが、松本委員会では天皇主権主義を温存してもポツダム宣言が述べた「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍」にはならないと考えていました。
当時の松本委員会を組織した憲法学者や憲法の専門家たちは、民主主義の徹底に国民主権原理の採用が不可欠だということに気付かなかったのです。
現在に生きる我々は戦後70年が経過する長い期間、議会制民主主義が徹底された社会で過ごしてきましたので、国民主権原理は既に国民に定着しており、国民に主権がなければ民主主義の実現はなく、主権が国民にあるからこそ民主主義の徹底が実現できることはもはや常識ですが、当時の国民の認識は、憲法学者でさえもそうではなかったわけです。
この点、なぜ当時の憲法学者等までもがポツダム宣言が述べた「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍」の趣旨(天皇主権を廃して国民主権原理を採用すること)を理解できなかったのか不思議だったのですが、東京裁判で荒木貞夫元陸軍大将の弁護人を務めた菅原裕弁護士の著書『東京裁判の正体』(国書刊行会)を読んだところ次のような記述がありました。
なお、日本においては、古来天皇の仁徳と国民の忠誠とが結びついて、国体の精華を発揚している。ゆえに天皇国日本の民主々義は天皇を持たないアメリカの民主々義とは同一ではない。天皇を知らぬ国民だけの国家は、はじめから組合国家であり信託国家である。しかるに日本人は天皇が先ず生まれ、次で国民との二本建となっている。ゆえに日本における民主々義の表現は、天皇の統治権を奪って、天皇と国民を平等にすることではなく、国民の輔弼方法を個人的より国民的に切り換えることである。すばわち三権分立で言えば、立法府も行政府も裁判所も、国民の直接間接の選挙によって選ばれた者が天皇の統治権を輔弼すればよいのである。すばわち輔弼機関の国民化が我が国の民主化であることを識らなければならぬ。
※出典:菅原裕著『東京裁判の正体』国書刊行会 221頁
これを読むと、当時の保守的思想を持つ人たちが、明治憲法では「国務大臣」が天皇を輔弼していた部分を「国民」が輔弼すると変えれば主権者(統治権の総覧者)が天皇であっても「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍」にはならないと考えていたことがわかります。
もちろん、これでは主権者はあくまでも天皇なので「統治権(立法権・行政権・司法権のいわゆる三権)の根源が国民にある」と考える国民主権原理とは相いれず、現代ではすでに普遍的な思想と理解されている国民主権原理に基づく民主主義は具現化できませんし、そもそも「輔弼機関の国民化」とはいっても「国民」が直接的に天皇を「輔弼」することなどできるわけがなく、結局は内閣総理大臣が任命する「国務大臣」が国民を代理して「輔弼」することになるわけですから実態上は明治憲法の焼き直しであって、この論は詭弁でしかありませんので全く同意できません。
もっとも、当時の保守的思想を持つ人たち(もしかしたら現在の極右思想を持つ人たちも)が、憲法を改正し、天皇主権の下でどのような政治を行おうと考えていたのか(あるいは考えているのか)、という点は何となく推測できそうな気がします。