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「押し付け憲法論」を明らかに嘘だと批判し反論できる15の理由

この点に関しては昭和電工疑獄事件が起きたことから政局が混乱したことを理由に「国民投票をしたくてもできなかった」などという屁理屈をこねる人がいますが、2年間も無視し続けて当時の国民から国民投票を要求するような世論が一切生じなかったことを考えれば、当時の国民が国民投票を望んでいなかったのは明らかでしょう(※参考→国民投票を経ていない現行憲法は制定手続に不備があるといえるか)。

このように、当時の日本政府と国民が極東委員会やマッカーサーから憲法の再検討や国民投票を実施してその賛否を確認することを強く求められていたにもかかわらず、それを2年間も無視し続けたことを考えれば、当時の国民が新憲法(現行憲法)を粛々と受け入れ、むしろ歓迎していたことは明らかなのですから、現行憲法は決して「押し付け」などではなかったと言えるです。

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(11)現行憲法が「押し付け」なら婦人参政権も「押し付け」となり女性から参政権を奪わなければならなくなること

現行憲法がアメリカや連合国の「押し付けだ」と言う人は、現行憲法が制定された当時の日本が連合国の占領下にあったことやその影響力があったことなどを理由に現行憲法の効力に疑義を呈し「だから日本人の手で日本人による憲法をもう一度作り直すべきだ」と主張しますが、このような主張は必然的に論理的な矛盾をはらむことは避けられません。

なぜなら、仮に現行憲法が「押し付け」られたものであるとしてその効力を否定するのなら、女性の参政権も同じように否定しなければならなくなってしまうからです。

日本では、一部の地方選挙で特例的に女性に参政権が与えられた事例はありましたが、そうした特殊な事例を除いて戦争終結までは女性に参政権は与えられておらず、戦争終結後の1945年(昭和20年)12月15日に改正衆議院議員選挙法が成立してはじめて女性に参政権が解放されています(※参考→日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要)。

ではなぜ、戦後になって女性に参政権が解放されたかというと、それは当時の幣原首相がマッカーサーにそうするように示唆されたからです。

東久邇宮内閣の総辞職後に総理の座に就いた幣原首相は1945年(昭和20年)10月11日に総司令部(GHQ)を訪問した際にマッカーサーから「明治憲法を改正する必要性がある旨の示唆」を受けましたが、その憲法改正の示唆とは別にいわゆる「マッカーサーの五大改革要求」の提示を受け、その五大改革要求の中の一つに「婦人参政権の解放」があったため、幣原首相は帝国議会の衆議院で改正衆議院議員選挙法を成立させて衆議院を解散し戦後初の衆院選を翌年4月10日に実施しています(※参考→日本国憲法が制定されるまでの過程とその概要)。

つまり幣原首相は「マッカーサーに言われたから」婦人参政権の解放を実現させたわけですが、この日本における婦人参政権の解放は決してマッカーサーに「押し付けられた」ものではありません。

幣原首相は帝国議会の衆議院に法案を提示して議会の議決を経て改正衆議院議員選挙法を成立させていますので、その改正衆議院議員選挙法の成立自体は帝国議会における議論と採決という民主主義の手順が踏まれており国民の自由な意思表示によって制定されたと言えるからです。

しかし、現行憲法である日本国憲法がアメリカや連合国から「押し付けられたものだ」と主張する人は、この婦人参政権の解放もアメリカから「押し付けられたものだ」と主張しなければ論理的に矛盾してしまいます。

先ほども説明したように幣原首相は1945年10月11日にマッカーサーを訪問した際に「マッカーサーに言われた」からこそ憲法改正の手続きに入りその後に松本委員会を設置して憲法草案の作成作業を開始させていますので、その憲法の改正が「マッカーサー(アメリカや連合国)の押し付け」になるのなら、同じように「マッカーサーに言われた」ことを契機に婦人参政権の解放を行った改正衆議院議員選挙法の成立も「押し付け」と言わなければ論理的な一貫性が保たれなくなってしまうからです。

現行憲法がアメリカや連合国(またはマッカーサーやGHQ)に「押し付けられたものだ」と主張してその有効性に疑義を唱える人たちは、「女性に参政権を解放したことも押付けだ」と主張して「女性から選挙権と被選挙権を取り上げろ」と主張し、「新憲法は男性だけで議論して制定しなければならない」とまず宣言しなければならない(※ただし後述の(12)で述べるように主権も行使できないので本来はそれすら主張できません)のですが、もちろん「押し付け憲法論者」はそんなことは言いません。

そんなことを言いだせば、誰も賛成しないことは彼らも分かっているからです。

ですから、現行憲法が「押付けだ」と主張すること自体が、そもそも論理的に矛盾するものであることに彼らも国民も気付かなければならないのです。

(12)現行憲法が「押し付け」なら国民主権も「押し付け」となり国民から主権を奪わなければならなくなること

現行憲法がアメリカや連合国の「押し付けだ」と主張するのであれば、必然的に現行憲法によって実現した「国民主権原理」も「押し付け」ということになるので国民から主権を取り上げなければなりません。

明治憲法では天皇に主権(統治権の総覧者たる地位)があり、国民に主権はありませんでしたので(※参考→天皇制を守るため仕方なく押し付け憲法を受け入れた…が嘘の理由)、現行憲法を「押し付けだ」としてその効力に疑義を唱えるのであれば、「現行憲法によって国民に認められるようになった国民主権原理」自体の効力にも疑義を呈さなければならないことになり、その帰結として天皇に主権を返上しなければならなくなるからです。

しかし、憲法を生み出しているのは主権者の持つ「憲法制定権力(制憲権)」に他なりませんから(※参考→憲法の三原則(基本原理)はなぜ改正できないのか)、現行憲法を「押し付けだ」と主張してその主権を捨てると言うのなら国民は「憲法制定権力(制憲権)」自体も失うことになる結果、そもそも「憲法を改正しろ」ということも言えなくなってしまいます。「憲法を改正しろ」という主張は「主権の行使(憲法制定権力の行使)」そのものだからです。

つまり、現行憲法が「押し付けだ」という立場に立てば、主権自体を天皇に返上しなければならなくなるので、憲法改正の議論自体ができなくなるという矛盾を必然的にはらむことになるのです。

現行憲法が「押し付けだ」と言う人は、その「主権(憲法制定権力)」を「天皇に返上しろ」と主張していることになるので、そう主張する人は主権(憲法制定権力)の行使に他ならない憲法改正を論じてはならず、ただ天皇陛下が憲法を起草するのを無言で待つしかないのですが、にもかかわらず押し付け憲法論者は現行憲法が「押し付けだ」と主張して憲法改正を声高に叫んでいるのですから、それ自体が論理的に矛盾し破綻しています。

”押し付け憲法論”に立って現行憲法の成立に疑義を唱える人は、そもそも国民主権自体を否定しているにもかかわらず、何を根拠に「憲法を改正しろ」と「主権(憲法制定権力)を行使」しているのか、まず説明すべきでしょう。

それとも、彼らが「押し付けられた」と主張する日本国憲法のうち、自分たちに都合の良い国民主権原理はその”押し付け”を受け入れて、自分たちが気に入らない憲法9条だけを「押し付けられたんだ!」として除外するとでも言うのでしょうか。

なお、一部に憲法の「民定性(正当性)」を説明する八月革命説や憲法の基本原理は改正できないと考える「憲法改正限界説」を持ち出して”押しつけ憲法論”を正当化する意見がありますが、その意見が成り立たない点については『押しつけ憲法論者が八月革命説を批判したがるのはなぜなのか』のページで詳しく解説しています。

(13)現行憲法が「押し付け」なら明治憲法も「天皇の押し付け」となり江戸幕藩体制に戻さなければならなくなるがそれも「徳川の押し付け」となるので結局は戦国時代まで戻さなければならなくなること

現行憲法がアメリカや連合国の「押し付けだ」と主張する人は現行憲法の成立そのものに疑義を唱えていることになりますから、その主張に立脚するのであれば現行憲法を破棄して明治憲法に戻さなければなりません。

しかし、明治憲法(大日本帝国憲法)は民定憲法ではなく欽定憲法であって天皇によって制定されたもの(実質的には薩長の志士によって制定されたもの)に他なりませんので、明治憲法も「天皇に押し付けられた」と主張しなければ論理的な一貫性が保たれなくなってしまいます。

そうなると明治憲法も破棄しなければならなくなるので江戸幕藩体制に戻さなければなりませんが、その論理に立てば江戸幕府も「徳川に押し付けられた」ということになりますので、結局は国家の体(てい)が崩壊していた戦国時代まで巻き戻して下克上の戦乱からやり直さなければならなくなってしまいます。ですがもちろん、そんな頓珍漢なことはできません。

ですから、現行憲法を「押し付けだ」と主張する人は、論理的に無意味・無価値な頓珍漢な理屈をこねていることに気付く必要があるのです。

(14)現行憲法を「押し付け」として否定すれば明治憲法における「天皇大権・抑圧体制・法定手続を無視する司法官憲・家制度に基づく女性差別」等の国家制度を肯定することになること

現行憲法を「押し付けだ」とする主張は現行憲法が制定された事実そのものに疑義を呈する主張に他なりませんので、現行憲法によって実現された「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という憲法の基本原理自体も否定することになります。

そうなれば当然、明治憲法で許容されていた「天皇大権」「抑圧体制」「法定手続を無視する司法官憲」「家制度に基づく女性の抑圧」等も肯定しなければならなくなりますので、現行憲法が「押し付けだ」と主張する人は、なぜそのような明治憲法の国家制度が現行憲法の「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の基本原理より優れているのか、なぜ明治憲法の国家制度の方が国民を幸せにできるのか説明しなければなりません(※参考→衆議院憲法審査会作成「日本国憲法の制定過程」に関する資料(衆憲資90号)の17頁~23頁参照)(※なお「家制度」については自民党憲法改正案の問題点:第24条1項|家族制度と忠孝の復活のページで少し触れています)。

では、はたして押し付け憲法論者はそれを理論的に説明できるのでしょうか。説明できるのであれば説明してもらいたいものですが、それが説明できないのなら、現行憲法が「押し付けだ」などと戯言をほざくのはやめるべきでしょう。

(15)戦後70年間にわたって現行憲法が国民に定着していること

現行憲法が「押し付けだ」と主張する人は現行憲法の効力自体に疑義を呈していますが、その彼らが疑義を呈している現行憲法を我々日本国民は戦後70年にわたって使用していますから、すでに日本国民に定着していることは明らかな事実です。

もちろん、現行憲法が「押し付けだ」と主張する人は「現行憲法など定着していない」と主張するのでしょうが、そう主張すること自体が「政治的な意見」であって現行憲法によって認められるようになった「国民主権」から導かれる「主権の行使」に他なりませんから、現行憲法が「押し付けだ」と主張する人にとっても現行憲法は既に定着していると言えます。

そもそも、先ほどの(12)で説明したように憲法を生み出している根源は主権の存する国民が持つ「憲法制定権力(制憲権)」に求められますから、「憲法を改正しろ」と主張していること自体が「主権(憲法制定権力)の行使」であって「国民主権」を肯定しているということになり、「現行憲法はアメリカや連合国の押付けだから改正しろ」と主張しているその事実自体が、そのアメリカや連合国によって「押し付けられた」と彼らが主張する「国民主権」原理が彼らに定着している証左と言えるのです。

それに気づかず、「現行憲法は押し付けだ」とバカの一つ覚えのように唱え続けているのですから押し付け憲法論者は滑稽この上ありません。

仮に現行憲法の制定過程にアメリカや連合国からの「押し付け的な要素」があったとしても、戦後70年が経過したことによって現行憲法は確実に日本国民に定着しており、その定着している事実は押し付け憲法論者においても明らかな事実なわけですから、現行憲法が「押し付け」られたものでなかったばかりか、その「押し付け的な要素」すらもすでに治癒されていると理解しなければならないのです。

「押し付け憲法論を提唱すること」それ自体が真っ当な憲法改正のための議論を阻害する

以上のように、現行憲法がアメリカや連合国、マッカーサーやGHQに「押し付けられたものだ」という、いわゆる「押し付け憲法論」は根拠がなく、論理的な矛盾を必然的にはらむものです。

憲法改正を積極的に求めている人たちは、「護憲派は憲法改正に反対して憲法改正の議論の席にすら着こうとしないから卑怯だ」などと言いますが、論理的な一貫性が保たれない「押し付け憲法論」を声高に主張して憲法改正を正当化しても、その議論に価値はないので議論さえできないことに気付くべきではないでしょうか。

「押し付け憲法論」に立脚して憲法改正の議論をする限り、まともな改憲議論はできないのですから、憲法改正が必要であると考えるのなら、「押し付け憲法論」など無意味で論理破綻した主張はやめて、なぜその改正が必要なのか、その改正でなぜ国民の権利や自由や平和が実現できるのか理論的かつ実践的に説明し憲法改正に反対する国民を納得させればよいだけです。

その努力を怠り、いつまでも「押し付け憲法論」を念仏のように唱え続ける限り、良識のある国民はだれ一人憲法改正に賛成しないことに、押し付け憲法論に洗脳された信奉者たちが一日も早く気付くことが望まれます。