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自民党憲法改正案の問題点:第24条1項|家族制度と忠孝の復活

①「家族」を”基礎的な単位”にしたことで「個人」の尊重が損なわれる

この点、まず指摘できるのが「家族」を憲法で「社会の自然かつ基礎的な単位」とすることで、相対的に「個人」の尊重が軽視されてしまう点です。

現行憲法はその第13条に「国民は、個人として尊重される」と規定されていることからも明らかなように、「個人主義」に最大の価値を置いていることがわかります。

日本国憲法第13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

この点「個人主義」と聞くと「利己主義」を連想して”自分勝手”や”自己中心的”な概念だと思う人もいるかもしれませんがそれは間違いです。「利己主義」は自己だけに価値を見出すところに最大の価値を求めますが、「個人主義」は他の個人を尊重して他者との実質的平等を確保した中に自己の価値を見出そうとするからです。

人間は一人では生きていけないので、自分の安全と財産を守るために他者といわゆる”社会契約”を結んで共同体を形成し(例えば国家を形成し)そこに所属して生きていきますが、その共同体の中でも他の個人を尊重して自己の自由や人権を実現できるのだと考える思想が「人は生まれながらにして自由であり平等である」と考えるいわゆる自然権思想につながります。

つまり、基本的人権を尊重する”人権尊重主義”や人はみな平等という”平等原則”も全て「個人主義」を源にしているわけです。そして基本的人権の尊重や平等原則は民主主義の実現にとって不可欠なものですから、民主主義自体も個人主義と不可分な関係にあると言えるのです。

このように、「個人主義」は民主主義と密接不可分な思想ですから、それは当然、国の最高法規である憲法においても最大限の尊重がなされなければなりません。そのため現行憲法も第13条などで「個人として尊重される」と規定して国家権力の介入を防いでいるわけです。

そうであるにもかかわらず、自民党はこの記事の冒頭で引用したように第24条1項に「家族」の規定を置いただけでなく、その家族を「社会の自然かつ基礎的な単位」としたうえ「尊重される」と規定しています。

つまり自民党改正案は、社会の自然かつ基礎的な単位を「個人」ではなく「家族」に変えたうえ、その「家族」を「個人」よりも”尊重”することを最高法規である憲法で明示したわけです。

この点について自民党は改正草案と並行して公開しているQ&Aの中で以下に引用するように「個人と家族を対比して考えようとするものでは、全くありません」と説明していますから、この説明からすれば改正案第24条1項に「家族」を「尊重」する規定を置いても「個人」の尊重を相対的に劣後させる意図はないようにも思えます。

家族は、社会の極めて重要な存在であるにもかかわらず、昨今、家族の絆が薄くなっていると言われていることに鑑みて、24条1項に家族の規定を置いたものです。個人と家族を対比して考えようとするものではありません。

※出典:日本国憲法改正草案Q&A|自民党 17頁を基に作成

しかし、自民党憲法改正案の第13条は「すべて国民は、個人として尊重される」の部分を「全て国民は、人として尊重される」に変えていますから、そもそも自民党憲法改正案では第13条で「個人の尊重」自体が否定されているのでこのQ&Aの理屈は成り立たないでしょう(※詳細は→自民党憲法改正案の問題点:第13条|個人を「人」にして支配)。

つまり自民党憲法改正案は第13条の規定からも明らかなように、そもそも「個人の尊重」を保障していないので、憲法第24条1項に「家族の尊重」の規定が置かれれば、必然的に現行憲法で「個人の尊重」に最大の価値が置かれていた憲法の基本思想が、「家族の尊重」に置き換えられることになるわけです。

しかしそうなれば、共同体の価値は「個人」よりも「家族」が優先されることになってしまいますから、「個人主義」よりも「家族主義」により傾斜していくことになってしまいます。

ですが「個人主義」は先ほど述べたように人権尊重主義や平等主義の源でもありますから、それが「家族主義」に傾斜してしまうと、その人権保障や平等原則が制限されることにつながり、結果的に民主主義が機能不全に陥ってしまう懸念が生じます。先ほど述べたように「個人主義」は民主主義と不可分だからです。

「個人主義」は民主主義の実現に不可欠な人権尊重主義や平等原則の源でもありますから、その「個人」よりも「家族」を尊重させるということは、民主主義からも遠ざかるということになるのです。

②「個人」より「家族」を尊重することで全体主義に親和性を持つ

また、自民党改正案が「個人」よりも「家族」を尊重する方向に変えることで、全体主義により傾斜してしまう点でも問題です。

なぜなら、個人主義は全体主義と対比される概念だからです。

先ほど述べたように、人は社会契約で共同体を組織しその共同体に所属して生きていきますが、その共同体に所属する各個人の多様な発展に究極の価値を認め、全体の価値を各個人の自由と財産を守ために献身させるのが「個人主義」です。

一方、その共同体全体の発展に価値を認め、個人の価値を全体への献身に求めるのが「全体主義」です(※法律学小辞典〔第3版〕有斐閣390頁参照)。

  • 個人主義→共同体各個人の発展に価値を認め、全体の価値を各個人への献身に求める
  • 全体主義→共同体全体の発展に価値を認め、個人の価値を全体への献身に求める

この点、先ほど説明したように、自民党憲法改正案は第13条で「個人の尊重」を「人の尊重」に変えて「個人主義」を否定し、第24条1項で「家族の尊重」を規定していますから、自民党改正案が「個人」より「家族」を尊重することを求めていて、「個人」の価値を「家族」という集団への献身に求めていることがわかります。

つまり自民党改正案第24条1項は、「個人」の自由や財産を守るために「家族」があるわけではなく、「家族」という共同体(全体)の発展に最大の価値を認め、その「家族」という全体への献身を「個人」に求めている点で、全体主義に親和性を持つわけです。

もちろん、「家族」を尊重する規定を憲法に置いたからと言って、それが全体主義に直結するわけではありません。

しかし、先ほど説明したように、明治憲法(大日本帝国憲法)の下では「家」や「家父長制」を要素とした『家族制度』の下で国民(明治憲法では臣民)はピラミッドの頂点に位置付けられた天皇に従属させられ、その自由や権利や財産は全て国家のために献身することを求められたのですから、そうした過去を考えれば、この自民党憲法改正案第24条1項は、戦前の日本で実現されたような全体主義に親和性を持つ点で大きな危険があると言えるのです。

③ 家族を「尊重しない」ことが違法性を帯びてしまう

自民党改正案第24条1項の問題点の3つ目は、憲法に家族について「尊重される」と規定してしまうことで、家族を「尊重しないこと」が違法性を帯びてしまうという点です。

先ほど説明したように、自民党憲法改正案第24条1項は「家族は…尊重される」と規定していますが、憲法は国の最高法規でもありますので、自民党改正案が国民投票を通過すれば、法律や行政による措置の全ては「家族」を尊重しなければならなくなってしまいます。

そうなると当然、国民側もすべての行為について「家族」を尊重することを求められるようになりますから、国民に対しても「家族を尊重すること」が事実上義務付けられてしまうでしょう。

憲法は国家権力の権力行使に歯止めを掛けるためのものに他なりませんが、憲法に「家族は…尊重される」と規定してしまえば、「家族を尊重すること」が国家に義務付けられるだけでなく、結果的に国民にもそれが義務付けられてしまうことになるのです。

しかし家族を「尊重」するかしないかは本来、国民が自分の良心に従って自由に判断すべきものです。

現行憲法では第13条で個人の幸福追求権を保障しているだけでなく、第19条で思想良心の自由も保障していますから、家族を尊重することが幸せにつながるか否か、また自分の家族を尊重するかしないかは、本来的に一人一人の国民が自由な判断で決定すべきものなのです。

日本国憲法第13条

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第19条

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

これは何も論理的な問題を指摘しているだけではありません。

たとえば社会には家族に問題を抱えた人も多くいます。親や兄弟から虐待を受けた人もいるでしょうし、その逆に子から虐待を受けた親がいるかもしれません。夫や妻からのDVで家族から身を隠している人もいるのが現実でしょう。

そうした人に対しても、家族を「尊重」することが法的に強制される国家が果たして国民を幸せにするでしょうか。

このように、最高法規である憲法に「家族は…尊重される」と規定することは、国民の思想良心に国家が介入し、家族を尊重することを法的にも強制してしまう点で大きな問題があると言えるのです。

④ 家族を「尊重」させることで『家族制度』で生じた差別が起きる危険性

問題点の4つ目は、「家族」を「尊重」させる規定を憲法に置くことで、戦前の『家族制度』の下で許容された差別が再び容認されるようになってしまう危険性がある点です。

先ほどの(1)の部分で説明したように、戦前の『家族制度』は「家」と「家父長制」の2つの要素から構成されていましたが、「家」という概念は”血統の連続”や”多産の尊重”、”伝統の尊重”、”家格(毛なみ)の尊重”、”家長による財産の独占”などを包含していますので、その反射的効果として必然的に”女性の蔑視”や”子を産まない女性の蔑視”、”子を産ませられない男性(無精子)の蔑視”や”結婚できない(家族を持てない)男性の蔑視”、”異なる伝統(他民族)の蔑視”や”家格(毛なみ)による蔑視”、”家長以外の相続からの排除”などの差別を惹起させてしまいます。

具体的に例示するなら、たとえば明治から戦前までに横行していた娘の身売りや子を産めない妻の離縁などもそうですし、いわゆるナンキンコゾウ(※山形県などの一部地域で人手不足を補うため他家の次男三男を養子に貰い成人するまで奴隷労働を強制させた慣習)などの奴隷労働の強制(次男三男の差別)や植民地の他民族への差別(伝統や家格(毛なみ)による差別)、家父長(戸主)による単独相続と家父長以外の無財産などもそれに含まれるでしょう。

こうした差別が許容されたのも、それは明治憲法(大日本帝国憲法)の下で『家族制度』が採用され、その『家族制度』にこうした差別が内在されていたからに他なりません。

この点、仮に戦前の『家族制度』がそうした差別を包含していたとしても、自民党改正案第24条1項の「家族の尊重」が必ずしもそうした戦前の『家族制度』を目指しているわけではないと思う人もいるかもしれません。

しかし、自民党の議員によるこうした差別との親和性をうかがわせる言動は、最近に限っても枚挙にいとまがないのは周知の事実です(※2019年については→https://kenpoudoutei.com/hatsugen-2019/)(※2020年については→https://ourakon.com/hatsugen-2020)。

  • 「LGBTばかりになったら国はつぶれる」平沢勝栄(2019年1月3日)
  • 「子供を産まない方が問題だ」麻生太郎(2019年2月3日)
  • 「子どもを3人ぐらい生んでもらいたい」桜田義孝(2019年5月29日)
  • 「功績は子どもをつくったこと」三ツ矢憲生(2019年7月12日)
  • 「日本は天皇の国」武部勤(2019年7月14日)
  • 「アイヌ差別は価値観の違い」萩生田光一(2020年7月10日)
  • 「女性はいくらでも嘘をつける」杉田水脈(2020年9月25日)

また、自民党が一部の議員を除いて選択的夫婦別姓に頑なに反対し続けるのも、夫婦別姓が”血統の連続”や”家格(毛なみ)の尊重”と整合しないところにその理由があるようにも思えます。

新型コロナウイルスの感染拡大で国民一人ずつ10万円の特別給付金が支給された際には世帯主を受取人とすることにDVや虐待の被害者にとって不利益があると大きな批判が上がりましたが、政府はかたくなに世帯主への交付を曲げませんでした。こうしたことも自民党内部で「家」や「家父長制」と親和性を持つ思想が普遍化されているからではないでしょうか。

さらに言えば、先日、歴代自民党政権の政策に深くかかわってきた人材派遣会社の会長でもある竹中平蔵氏が「首を切れない社員なんて雇えない(2020年10月30日)」とテレビの討論番組で述べ、ネット上で炎上する騒ぎがありましたが、これなども労働者を都合の良い消耗品と考えている点で先ほど例示したナンキンコゾウと親和性があるように思えます。

こうした過去の自民党議員の言動を振り返れば、彼等の思想の根底には戦前の『家族制度』で生じた差別が脈々と受け継がれていて、そうした差別を許容してでも「家族」を尊重させる統治体制を実現したいという思惑が十分にうかがえるのです。

そうであれば、自民党憲法改正案第24条1項は、そうした差別を内在する『家族制度』を参考にして、「家族を尊重」させることでその家族の世帯主(家父長)を小さなピラミッドの頂点に位置付け、その小さなピラミッドを集めたさらに大きなピラミッド構造の頂点に自民党を位置付けて、国民全体を支配しようとする狙いがあると考える方が自然でしょう。

このように、自民党憲法改正案第24条1項は「家族を尊重」することを明示していますが、そうした憲法規定は、明治憲法(大日本帝国憲法)の下で実現された『家族制度』と同様に、「家」や「家父長制」の概念に内在される様々な差別を惹起させる危険がある点でも大きな問題があると言えるのです。